面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第四話 時間にならない勇気

朝食後、西部総監の執務室へ向かうあいだ、クラウスは廊下の窓から中庭を眺めていた。

 

必要以上に丁寧に眺めていた。

昨夜の雨がまだ薄く残り、石畳の継ぎ目に溜まった水が、歩哨の靴音のたびにわずかに震えている。

きれいだな、と一瞬だけ思った。

 

これから面倒が増えると分かっている時、人間は景色を見たくなる。景色は何も要求しない。会議室の老人たちとは、その点だけでも大きく違う。

 

 

西部総監ヴァルテンベルク上級大将の執務室は、威厳より先に仕事がある部屋だった。

壁には西部国境の大図、その横に各邦軍の軍旗。机は広く、書類は多く、装飾は少ない。

 

そこにいたのは、ヴァルテンベルク上級大将、ヴィルマー中将、メルテンス中佐の三人だった。

 

「来たか、ライフェンベルク大尉」

 

上級大将は、年齢のわりに声がよく通る人だった。

骨太で、いかにも西部で長く風雨に晒されてきた顔をしている。

こういう男は、美辞麗句より予定通り届いた糧秣を信じる。

クラウスとしては、嫌いではない種類だ。怒鳴りさえしなければ。

 

「昨日の件は見た」

 

喜ぶべきかどうかは微妙だった。

見られたということは、次の仕事が来るという意味でもある。

 

「工兵を怒らせず、ルーデンもハルツも面子を保ち、しかも予定時刻を守らせた。悪くない」

 

「恐縮です」

 

この語の使用頻度が、西部に来てから急速に増えている。

 

「もっとも、褒めるためだけに呼んだのではない」

 

だろうと思った。

ヴァルテンベルク上級大将は机上の紙を指先で叩いた。

 

「知っての通り、この演習の最終日には最終閲兵と総評会がある。そこへ軍務会議の委員が来る。さらに、例外的にベルヴァーニュ公使館付武官のド・サン=クレール少佐も視察を願い出ている」

 

ベルヴァーニュの武官。

つまり仮想敵国の軍人が見に来る、ということだ。

 

珍しいことではない。

平時の演習に他国武官が視察するのは、それ自体は慣行の範囲に入る。

問題は他国の武官が来ると聞いた瞬間に、人間が急に「見せ方」という概念へ取り憑かれることだった。

そしてそれは、かなりの確率で実務を腐らせる。

演習とは観客のためのものではない、という原則が忘れ去られるのだ。

 

「そこで問題だ」

 

ヴィルマー中将が、ややうんざりした口調で言った。

 

「各邦軍が、今度は閲兵の序列でも揉め始めておる。昨日まで右翼だった連中が、今朝になって中央正面も歴史的に自分たちのものだと言い出した。歴史というのは便利なものでな、必要なときだけ都合よく伸び縮みする」

 

その通りすぎて、少しも笑えない。

 

メルテンス中佐が一枚の紙を差し出した。

各邦から上がってきた要望が箇条書きされている。

 

ルーデン邦は、先鋒と閲兵右翼の維持を要求。

ハルツ邦は、主力砲兵の正面配置を要求。

グラーフェン邦は、騎兵旅団の観閲通過を中心へ寄せるよう希望。

ノルデック邦は、工兵縦列を後方扱いにすることへの不満。

 

クラウスは紙を見ながら、静かに嫌気が差した。

 

軍隊は銃と砲と橋と食糧で動くはずなのに、人間が集まると結局は並ぶ順番の話になる。

観客が揃うとなおさらである。

 

「君はどう見る」

 

と上級大将が問うた。

 

どう見るか。

正直に言えば、全員にくじ引きをさせたい。

だがそれを言えば、たぶん西部の経歴はここで終わる。

もう少し穏当な案を考えるべきだろう。

 

問題は何か。

閲兵の並び順と、演習で誰が何をしたかが、同じ「序列」という一語に混ざっているのだ。

ルーデンは「一番偉い位置に立ちたい」と言っていて、ハルツは「一番働いたと書いてほしい」と言っている。

よく考えれば、別の話である。

立つ場所の話と、書かれる内容の話。

 

「……閲兵の序列と、演習総評を、切り離すべきかと存じます」

 

上級大将の眉がわずかに上がった。

 

説明不足だ、とクラウスは思った。

もう少し言わないと、ただの気の利かない若手で終わる。

 

「閲兵は慣例に従い、各邦の体面を保つよう整理なされればよろしいかと。ですが総評まで同じ基準で書けば、実動上の評価が見えなくなります。ですから……総評は、邦ごとではなく機能ごとに記載した方が」

 

「機能ごと」

 

とメルテンス中佐が繰り返した。

 

「はい。橋頭確保、主力展開、砲兵配置、補給、通信、工兵支援。そうした項目ごとに、各隊の達成と遅滞を並べるんです。そうすれば、閲兵で誰が中央を歩くかと、誰が実務で何をしたかを、別個に扱えます」

 

そこまで言ってから、ほとんど本音が先に出た。

 

「名誉も実務も一つの列に載せるから、揉めるのかと」

 

数秒の沈黙。

 

ヴァルテンベルク上級大将が低く笑った。

 

「なるほど。見せる列と、働かせる列を分けるわけだ」

 

言いたかったことは、だいたいそれだった。

ただ、自分が言ったよりずっと格好がいい。

自分は「一つの列に載せるから揉める」と言っただけで、「見せる列と働かせる列を分ける」などという立派なことは、いま初めて聞いた。

 

ヴィルマー中将が満足そうに頷いた。

 

「連邦向きだ。まことに連邦向きだ」

 

また「連邦向き」が出た。

この種の評語は、一度貼りつくと剥がれない。

「連邦向き」と呼ばれた人間は、たぶん一生、諸邦間の面倒事を押しつけられる。

 

「よし」と上級大将が言った。「君がその様式を作れ。最終総評の原案もだ」

 

やはりそうなった。

 

面倒事を片づけると、その片づけ方そのものが次の仕事になる。

解決策を示した者は、その永久担当者にされる。

軍隊は厄介事の再生産について、本当に勤勉だ。

 

「加えて」

 

とヴィルマー中将が続けた。

 

「大尉には予定を少し延ばしてもらう。夏の統合動員演習の準備会合にも同席願いたい」

 

三週間のはずだったのに、とクラウスは思った。

三週間の出張というものは、たいてい現地で伸びる。軍はそういう時だけ、時間の概念に柔軟になる。

 

「光栄に存じます」

 

と彼は言った。

勿論、光栄ではなかった。

 

 

そこから一週間、クラウスは総監府の一室で、各邦軍から上がってきたばらばらの報告様式を、ひたすら同じ形に切り揃える作業に追われた。

 

ある報告書は「勇戦奮闘」という語を四度も使いながら、実際の到着時刻を書いていなかった。

勇戦奮闘は結構だが、何時に着いたのかは書いてほしい。

 

ある報告書は砲兵の士気について長々述べる一方で、発射準備完了時刻を曖昧にしていた。

士気が高いのは理解した。

だが、撃てるようになったのが何時かが書いていない以上、報告としては半分欠けている。

 

ある工兵報告は驚くほど正確だった。

だからこそ他邦の将校から「夢がない」と言われていた。

正確なことを夢がないと批判する感性は、クラウスにはあまりよく分からなかった。

 

彼はそれらを机の上に並べ、共通項目を立てた。

 

一、橋頭確保。

二、主力展開。

三、砲兵準備。

四、補給接続。

五、通信伝令。

六、工兵支援。

七、遅滞要因。

八、総合所見。

 

これは、陸軍高等軍学院の答案整理と大差なかった。

設問ごとに答えを分け、余計な修辞を削り、どこで何点が落ちたかを見えるようにする。

試験と同じだ。

人間が絡むと急に「構想」だの「哲学」だのと呼ばれ始めるが、やっていることは答案の採点表を作るのとあまり変わらない。

 

メルテンス中佐が原案を一読して、しばらく黙った。

 

「これでは、誰が何をしたかが一目で分かりますな」

 

「そうでなければ、総評になりませんから」

 

「いや」

 

と中佐は言った。

 

「多くの者は、総評とは誰も傷つけない文章のことだと思っております」

 

その声には、長年それに付き合わされてきた人間の疲労が滲んでいた。

この中佐は本当に好きだ、とクラウスは思った。世の中の面倒さを正確に認識していて、しかもまだ諦めきっていない。自分より、よほど立派な人だ。

 

 

原案が各邦軍へ回されると、案の定ざわついた。

 

ルーデン邦は「橋頭確保と閲兵序列が別欄なのは、先鋒の精神を理解していない」と言い、

ハルツ邦は「遅滞要因の欄に補給列再編と書かれるのは不名誉だ」と渋り、

グラーフェン邦は「騎兵の士気がどこにも単独項目として立っていない」と不満を述べ、

ノルデック邦は「工兵支援の欄が後ろにあるのは思想的に問題だ」とまで言い出した。

 

思想的に問題。

欄の順番で思想を問われるとは思わなかった。

 

人間は分類されると怒る。

だが分類されないまま放置されると、もっと怒る。

つまるところ、怒ることそれ自体がかなり好きなのではないか、とクラウスは時々思う。

 

だが今回は、その反対は長続きしなかった。

この様式は、全員に対して平等に都合が悪い。

そして全員の都合の悪さが、同じように見えるようになっている。

不公平とは、自分だけが測られる状態のことだ。

全員が同じ物差しに乗ると、人はしぶしぶでも静かになる。

 

 

最終閲兵の日、空は久しぶりに明るかった。

 

閲兵場には各邦軍の旗が風に鳴り、騎兵の馬具が陽に光り、砲列は磨かれた金具をこれ見よがしに並べていた。

軍隊は、見せるための準備に関してはちゃんと働く。

敵がいなくても、自分たちを見る目があれば動くのだ。

 

閲兵の序列そのものは、慣例と配慮と古い面子の等分配で決まった。

ルーデン邦は右翼を保ち、ハルツ邦は主力砲兵を正面へ寄せ、南方諸邦は騎兵の見栄えのよい位置を得た。

見せるための秩序としては、かなりよくできていた。

 

だがその裏で、総監府本館の二階会議室ではクラウスが作った総評様式に沿って、実際の演習成果が淡々と読み上げられていた。

 

「橋頭確保、ルーデン邦騎兵、予定より七分早し」

「主力展開、ハルツ邦砲兵、補強完了後十分以内に完了」

「補給接続、ノルデック邦輜重隊、第一日午後に遅滞二十三分」

「通信伝令、グラーフェン邦騎兵旅団、連絡一件逸失」

 

数字と項目の前では、名誉も伝統も少しだけ声が小さくなる。

愉快かどうかは別として、軍にとっては健全だった。

 

ベルヴァーニュ公使館付武官のド・サン=クレール少佐も、その会議室の末席にいた。

 

黒い口髭を整えた、いかにも帝政風の士官だった。

靴の艶だけで階級意識がにじむ種類の男で、こちらを見ても笑わず、だが無礼にもならぬ程度にきちんと会釈する。

クラウスも礼儀として会釈を返した。

それだけだ。

それ以上の意味はない――と、その時は思った。

 

ただ、クラウスは一つだけ気づいていた。

この武官は、閲兵場の華やかさよりも、こちらの乾いた会議の方に強い関心を持っている。時折通訳の耳元で何かを確認し、手帳へ短く書きつけている。

何を書いているのだろう、と少しだけ思った。

だが、まあ自分には関係ないだろう、とすぐに結論した。

 

そして総評会の終わり近く、事件は起きた。

 

グラーフェン邦の士官が、やや不満げに言った。

 

「しかし、騎兵の士気や進取性のようなものは、この様式では汲み取りきれますまい」

 

来た、と思った。

また「士気」だ。

 

数字で片が付く話を、再び美徳の領域へ引き戻したい者が必ず一人はいる。

 

ここで黙ると、議論が蒸し返される。

蒸し返されれば会議が延びる。

会議が延びれば夕食が遅くなる。

 

それは困る。

 

だから、つい口が滑った。

 

「士気が不要だとは存じません。ただ……時間にならない勇気は、報告書には載せにくいかと」

 

言ってから、しまった、とクラウスは思った。

少し直截すぎたかもしれない。グラーフェン邦の人間が怒る可能性は、十分にある。

 

だが会議室の反応は、予想と違った。

 

ヴァルテンベルク上級大将は口元を押さえた。笑いをこらえている。

ヴィルマー中将は目を細めた。

メルテンス中佐は視線だけで笑った。

 

そして、ド・サン=クレール少佐が、通訳に何かを確認してから、手帳へいつもより少し長く書いた。

 

え、何を書いたのだろう、とクラウスは思った。

いまの一言か。

「時間にならない勇気」を書いたのか。

それは少し嫌だな、と思った。

なぜ嫌なのかはよく分からないが、敵国の武官が自分の発言を熱心に記録しているのは、直感的に気味が悪い。

 

だが、そんなことを気にしている暇もなく会議は終わった。

 

 

散会後、ヴァルテンベルク上級大将は人払いをして、クラウスとメルテンスだけを残した。

 

「ライフェンベルク大尉。君の様式は使える。諸邦を一つの軍語に翻訳した」

 

翻訳した、というより項目ごとに並べ替えただけなのだが、とクラウスは思った。

だが訂正しても無駄だろう。

こういう場でいちいち正確に言い直すと、たいてい余計に意味が増える。

 

「夏の統合動員演習に先立ち、王都の統帥府へ進言する。西部に限らず、今後の合同演習総評はこの様式で統一すべきだとな」

 

……そう来たか、とクラウスは思った。

 

一時しのぎで作った整理法が、制度として残る。

そうなると今後ずっと「その件ならライフェンベルクに」と言われる。

人間は、一度「この人に頼めばいい」と覚えると、二度と忘れない。

便利な人材に対する記憶力は、人事簿よりしぶとい。

 

 

その日の夕刻。

ベルヴァーニュの武官ド・サン=クレール少佐は、公使館宛ての報告にこう書いた。

 

ノルトマルク連邦軍は、諸邦間の競合を奇妙なほど冷静に吸収している。

その背後には、若き参謀将校ライフェンベルク大尉のような人物がいる。

彼は多くを語らぬが、議論を機能別に裁断し、感情の問題を手続へ変えてしまう。

軽視すべからず。

 

議論を機能別に裁断し、感情の問題を手続へ変える。

もちろん、そんな大層なことをした覚えは本人にはない。

項目ごとに欄を作っただけである。

グラーフェン邦の人間にも、つい口が滑っただけだ。

 

だがド・サン=クレールはそう書いた。

そして有能な情報将校が書いた分析は、有能であるがゆえに組織の中で重く扱われる。

たとえその前提が、「夕食に間に合いたかったから口が滑った」であっても。

 

 

その夜、クラウスは宿舎の狭い机に向かって、王都宛の報告書の結びをどうするかで少し迷っていた。

 

「概ね成功」と書くべきか。

「大過なく終了」と書くべきか。

前者は前向きすぎる。後者は少し冷淡に見える。

 

結局、こう記した。

 

『諸邦間の所見差異はなお存するも、共通様式の適用により実務上の整理は可能と認む。』

 

逃げ道のある、素っ気ない一文だった。

書くことがそれ以上なかっただけの話である。

 

だが王都の第三課では、この乾いた報告さえ、こう読まれることになる。

 

感情を排し、要点だけを押さえた報告。

統帥府に久しく失われつつあった、新しい型の人材。

 

本人がその頃していたことといえば、宿舎の薄い毛布の肌触りに不満を覚え、早く王都へ戻って自分の机と、あの中途半端に暖かい暖房の前に帰りたいと考えていたくらいである。

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