面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第六話 アンナ・フォン・バルク

統帥府から宰相府へ戻ったのは、昼前だった。

クラウスはその道中ずっと、昨夜メルテンス大佐から聞かされた話について考えていた。

 

宰相執務室では、バルク宰相が書類へ署名していた。

昼前だというのに、机の端には肉料理の皿がある。

クラウスは南マルク行きの書類を受け取り、一礼した。

それで退出できると思っていたのだが、宰相はクラウスを呼び止めた。

 

「ライフェンベルク」

「はい」

「午後は職務をしなくていい」

「……は?」

 

思わず素で聞き返してしまった。

上司に仕事をしなくていいと言われたのが初めてだったのが半分で、宰相がおおよそ口にすることのない言葉だったというのが半分だ。

 

「その代わり、娘と会うといい」

「……閣下。恐れながら、以前のあのお言葉についてですが、ご冗談ではなかったのでしょうか」

 

バルクは顔も上げなかった。

 

「私が言葉を飾らんことは、君がいちばんよく知っているはずだがね」

「しかし、私はあの折、その……社交の返答として」

 

「ほう」

ペンが止まった。

「私の執務室で、社交をしていたのかね、君は」

 

扉が叩かれた。

叩かれたのと開いたのが、ほとんど同時だった。

宰相執務室にこの遠慮の無さで立ち入る人間を、クラウスは初めて見た。

 

「来たか」

 

バルクは言って、視線を書類へ戻した。

入ってきた娘は、歩くのが速かった。

外見は父親にはほとんど似ていない。

光によく映える赤みの強い髪と、大きな目が特徴的だった。

一般的に言えば、かなり整った容姿をしていると思った。

 

しかし、声を聞く前から、よく通る声だろうと分かる立ち方をしていた。

クラウスは表情だけを決裁待ちの形に固定したまま、礼をした。

娘は礼を返した。それから父親を見て、おそらく困惑の表情をしているであろう自分を見た。

 

「父上。まさか、中佐殿にも何も説明なさらなかったのですか?」

 

「今しておる」

バルクは書類から顔を上げずに答えた。

「ライフェンベルク中佐。娘のアンナだ」

 

紹介は、それで終わった。

名詞が二つ。書類の受け渡しと同じ手順である。

 

「今しておる、ではありません!」

 

アンナの声は、父親より低かった。

そして、ここから速くなった。

 

「呼び出しの理由を先に言わない、時刻だけ変える、説明は省く、それでいて遅いとだけは仰る。今朝だって、わたしは理由も知らされず馬車に乗せられて、御者の方が気の毒そうな顔をなさるんですよ? 服装だけは指定されていたとはいえ、このような用件を当日の馬車の中でお伝えする方がおりますか! それから父上、昼に肉を召し上がったでしょう。皿が廊下に出ていました。医者の言いつけはどうなさったんです。だいたい父上は、人を呼びつけては――」

 

そこでアンナはこちらを見た。

どうやら、他人の視線があることを思い出したらしい。

こほん、と一つ咳払いをした。

 

「――とにかく、説明をなさってください。中佐殿がいちばんお困りです」

 

アンナは、そこで初めてクラウスへ向き直った。

そこからの言葉はこれまでに比べると大分ゆっくりだった。

 

「アンナ・フォン・バルクと申します。父がいつもご迷惑を……おかけしているのでしょうね、どうやら」

「クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐です。いえ、その、閣下にはいつもよくしていただいており――」

 

「まあ」

アンナは、ごく落ち着いた声で遮った。

「足が、扉を向いていますよ」

 

自分の足元を見た。

体重が、無意識に扉側の足に載っていた。

 

「……失礼しました」

「どうやら中佐殿も、評判とは違うようですね?」

 

宰相が書類を一枚めくった。

目の前のやり取りを一切気にしていないような様子だった。

「昼でも食べてきたらどうだ」

 

「父上……」

アンナは深く息を吐いた。

「はあ……もういいです。ライフェンベルク中佐、行きましょうか」

 

「……はい」

拒否はしなかった。

というより、どうにも拒否権があるようには思えなかった。

 

 

 

 

廊下には、アンナに付き添ってきたらしい年嵩の婦人が待っていた。

執務室から出ると、少し離れたところから礼をされた。

完全に二人きりで送り出すほど、宰相も形式を無視しているわけではないらしい。

その程度の常識が残っていたことに、クラウスはわずかに安堵した。

 

アンナはしばらく、閉じた執務室の扉を見ていた。

 

「先ほどは、お見苦しいところをお見せしました」

先ほどまでとは違う、柔らかい声だった。

 

「いえ。閣下との会話には、ある程度慣れておりますので」

 

「慣れてしまわれたのですね」

同情するような言い方だった。

「わたしは二十年ほど父の娘をしておりますけれど、いまだに慣れません」

 

どう答えるべきか迷った。

自分も慣れているとは言ったが、半分以上社交辞令だったからだ。

しかし今更訂正するのも、と思ったので結局何も言わなかった。

 

アンナは廊下を歩き始めた。

歩く速度は速かったが、クラウスが並ぶと少し緩めた。

 

「父に腹を立てると、どうしても言葉が多くなるのです」

「ああ、わかる気がします。黙っていると、承諾したことにされますからね」

 

アンナは横を向いて、小さく笑った。

 

「中佐殿も、同じ目に遭っていらっしゃるのですね」

「おそらく、アンナ嬢ほどではありませんが」

「では、今日は父の被害について競うのはやめましょう。たぶん、わたしが勝ってしまいますから」

「異論はありません」

 

階段を降りると、正面玄関にはバルク家の馬車が待っていた。

御者はアンナの姿を見ると、どこか安心したように姿勢を正した。

 

「食事をしてこいと言われましたけれど、父は店のことまで決めてはいなかったようです」

アンナは馬車へ乗る前に言った。

「近くに、わたしの好きな店があります。そちらでよろしいですか?」

 

「もちろんです」

「御安心なさってください。父の食卓を再現したりはしませんから」

 

その言葉に、先ほど執務机に置かれていた皿を思い出した。

 

 

 

 

馬車で向かったのは、宰相府からさほど遠くない通りにある、小さな料理店だった。

王宮や官庁へ出入りする人間が使う店らしく、外観は控えめだが、卓や食器はよく整えられていた。

アンナは以前から何度か来ているようで、店主が姿を見ると親しげに礼をした。

付き添いの婦人は、同じ部屋の少し離れた卓へ座った。

互いの姿は見えるが、普通の声で話す内容までは聞こえない距離である。

 

席に着いてからも、クラウスは何を話すべきか決められずにいた。

相手は宰相の一人娘である。

しかも、自分との結婚を父親から提案されたらしい。

 

宰相府や統帥府についてであれば、何時間でも話すことはある。

まあ、話したいかどうかは別として、資料も論点もある。

だが、それをここで話してよいとは思えなかった。

メルテンス大佐の時もそうだが、どうにも自分は私的な会話というのが半分以上軍務や執務になってしまう。

アンナは手袋を外しながら、そんなクラウスの様子を見ていた。

 

「そんなに困ったお顔をなさらなくても」

「顔に出ていましたか」

「父ほどではありませんけれど」

「ああ、閣下はかなり顔へ出されますな。不機嫌をあまり隠されない方です」

「ええ。ですから、それほど褒めてはいません。けれど安心もしております」

「安心?」

「ええ。『おお、勇猛なるライフェンベルク! 騎兵の誉よ!』という将校だったらどうしようかとは思っておりましたから」

「……その台詞は」

「ご存じないのですか? コルヴィエール会戦を扱った芝居の台詞ですよ。だいたいは、熊と狼を足して割ったような方が配役を務めております」

「……寡聞にして。できればこれからも知りたくはなかったですね」

 

アンナは微笑んだ。

給仕が水とパンを置いていった。

 

「先程も父に申し上げましたが、わたしも今朝まで何も聞いていませんでした」

アンナはパンへ手を伸ばしながら言った。

「昨夜、明日は薄い青の服を着るようにと言われただけです。理由を訊いたら、『人と会うのでその方がよい』と」

 

「それだけですか」

「それだけです。ですから今朝、馬車へ乗ってから秘書官の方に聞きました。ライフェンベルク中佐と会うことになっている、と」

 

アンナは、少し困ったように笑った。

 

「父は、必要なことだけ言えば人は動くと思っているのです」

「実際、動いてしまいますから」

「中佐殿まで父の側に付かないでください」

「そのつもりはありません、本当に」

 

「でしたら、安心しました」

その言い方は軽かったが、本当に少し安心したようにも聞こえた。

「……まあ、父が何を考えているかは分かっています」

 

アンナは水を一口飲んだ。

「けれど、父が誰かを気に入ったことと、わたしがその方を知っていることは別ですもの」

「はい」

「ですから今日は、父の考えた結論についてばかり話すのはやめませんか」

 

思わず彼女を見た。

アンナは穏やかに続けた。

 

「せっかく食事をするのですから。父の話ばかりでは、料理にも失礼です」

「……それは、ありがたいです」

「とはいえ、父についての文句はいくらでも話したいのですけれどね」

 

その一言で、肩のあたりに入っていた力が少し抜けた。

 

スープが運ばれてきた。

春野菜の入った淡い色のスープだった。

香草の匂いが軽く、胃に優しそうである。

宰相府で出される食事とは、同じ国の料理とも思えなかった。

 

 

 

 

しばらくは、料理の話をした。

アンナはこの店の白身魚が好きで、父親を連れてきたことは一度もないらしい。

 

「父は、魚料理を食べると、食べた気がしないと申しますので。信じられますか? 母が父の身体を考えた料理を作っても、一言目には薄いだの腹が膨れないだの……」

「閣下らしいですね」

「医師から肉を減らすよう言われる前からそうでしたから、あれはもうそういう病気なのでしょう」

「閣下の暴食については……まあ、有名ですからね。お酒も飲まれるのでしょうか?」

「ええ、かなり」

 

アンナは小さく眉を寄せた。

先ほどの怒りを思い出したようだったが、今度は言葉を速めなかった。

 

「父を怒ってばかりいる娘に見えますか?」

 

「いえ」

答えてから、少し考え直した。

「少なくとも、嫌っておられるようには見えません」

 

アンナは一度、瞬きをした。

「それは、よくお分かりになるのですね」

 

「仕事柄、人が本当に嫌っている時と、そうでない時くらいは」

そこまで言ってから、仕事の話に寄ってしまった気がした。

だがアンナは気にしなかった。

 

「ええ。嫌いではありません」

彼女は匙を皿へ置いた。

 

「とても大切に思っています。腹は立ちますけれど」

その二つは、どうやら同時に成り立つらしい。

頭では分かる。だが、自分の中に似た感情を探しても、うまく見つからなかった。

「父は、何かを大切にする時にも、仕事の形にしないとうまく扱えないのです」

 

アンナは少しだけ息を吐いてから、続けた。

 

「わたしの誕生日に、父が書類綴りを一つ持って帰ってきたことがあります」

「書類を、ですか」

「女子学校の新しい寄宿舎についての予算書でした。以前、食事の時に部屋が足りないらしいと話したことを、覚えていたのでしょうね。父はその予算を通して、わたしの名前で寄付を出していました」

「それは……」

 

立派な贈り物である。

だが、誕生日の贈り物として適切なのかは分からない。

アンナも同じことを思ったらしい。

 

「喜ぶべきなのです。けれど、父はわたしが何を欲しがっているのかを訊いたわけではありません。自分が正しいと思うものをいちばん父らしい形で差し出しただけです」

「今回も、同じだと」

 

「たぶん」

アンナは困ったように笑った。

「父なりに、わたしのことも中佐殿のことも大切に考えた結果なのでしょう。だからといって説明を省いてよい理由にはなりませんけれど」

 

クラウスは、バルク宰相の机を思い浮かべた。

人を評価すれば、仕事を増やす。

娘を気に掛ければ、結婚相手を選ぶ。

そして当人たちを同じ部屋へ入れれば、それで話は進むと思っている。

確かに一貫していた。宰相本人にしか理解できない感性で。

やはりあの人はどうにかしている。

 

「閣下は、私について何か話しておられたのですか」

 

訊いてから、少し自分もそこが気になっていたのだと自覚した。

 

「父が家で個人の名前を出すことは、あまりないのです。省庁か、職名か、『あの愚か者』で済ませますから」

「最後の分類が多そうですね」

 

「とても」

声を立てずに笑ってから、アンナは続けた。

「ですが、中佐殿のお名前は何度か聞きました。珍しいことに」

 

「どのようにでしょうか」

 

「『あれは余計なことを言わん』」

アンナは、酷く真面目な顔をして続けた。

そうやって見ると、どこかあの宰相の面影があるような気がした。

「『職務に対する熱意はともかく、使える』」

 

アンナは少し間を置いた。

 

「それから、『自分が役に立つと認めようとしないのが鬱陶しい』と」

 

クラウスは匙を止めた。

「最後は、評価なのでしょうか」

「父としては、かなり。ですからどのような方なのか、少し気にはなっていました」

「まあ、そういう意味では期待に応えられなかったような気がします」

「ええ。何もかも見通して、父と同じように人を動かす方かと思っていました」

「まったく違ったでしょう」

 

「はい」

即答された。だが、声に失望はなかった。

「まさか扉へ逃げようとなさる方だとは思っていませんでした。勇猛なるライフェンベルク中佐?」

 

「その件はできれば忘れていただきたいのですが。その台詞も」

 

「それは難しいです」

アンナは楽しそうに言った。

「最初に知った中佐殿が、それでしたから」

 

軍歴でも、家名でも、世間の評判でもない。

扉へ逃げようとしていた足が、彼女の知った最初の自分らしい。

複雑ではあった。だが、完全に嫌な気分でもなかった。

 

 

 

 

主菜が運ばれてきた。

白身魚の蒸し煮に、春の豆と細い人参が添えられている。

窓の外には、向かいの劇場の壁へ新しい歌劇の広告が貼られていた。

アンナは一度そちらを見た。

 

「来月から、新しい演目が始まるのです」

「歌劇がお好きなのですか」

「ええ。よく参ります」

 

その話になると、アンナの声に少しだけ弾みが出た。

父親へ怒っている時ほど速くはない。

だが、言葉が自然に先へ出てくる話し方だった。

 

「歌も好きですけれど、わたしは幕が上がる直前がいちばん好きです」

「幕が上がる前、ですか」

 

「ええ。さっきまで咳をしたり、扇を動かしたり、隣の席へ噂話をしていた方々が、灯りが落ちると一度に静かになるでしょう」

アンナは少し遠くを見るように言った。

「それから最初の音が鳴るまでの、ほんの短い時間です。あの時だけは、皆が同じものを待っているように思えるのです」

 

言い終えてから、少し恥ずかしくなったのか、水へ手を伸ばした。

クラウスは向かいの劇場を見た。自分が以前劇場へ行った時、何を見ていただろう。

 

「私は、帰りの馬車が混まないかを気にしていました」

 

アンナが水を飲みかけたまま止まった。

 

「劇場で、ですか」

「はい。終演後は正面玄関が混むと聞いていましたので、別の出口を確認していました」

 

少しの沈黙があった。

それからアンナは俯き、肩を震わせた。

父親のように大きな声で笑うのではない。

笑いを堪えようとして、結局堪えられなかったらしい。

 

「……申し訳ありません」

「おかしかったでしょうか」

「だって、中佐殿」

 

アンナは目元を少し押さえた。

 

「舞台が始まる前から、帰ることを考えていらしたのですか」

「馬車を待つのが苦手なので」

「では次に劇場へ行かれる時は幕が上がる前に扉を見ておいて、その後は舞台もご覧になってください」

「努力します」

「努力が必要なのですね」

「あいにく、あまり劇場というものに昔から馴染まなくて」

 

アンナはまだ笑っていた。

だが、それ以上からかおうとはしなかった。

 

「それでも、幕が上がる前の一瞬は見てみたいですね」

そう言うと、アンナの笑いが少し静かになった。

 

「舞台ではなく?」

「折角ですから、あなたが話されたほうを」

 

アンナはクラウスを見た。

大きな目が、先程よりも見開かれた。

それから、ゆっくりとした笑みを浮かべた。

 

「でしたら、いつかご覧になってください」

 

 

 

 

店を出る頃には、午後の日差しが通りの石畳へ落ちていた。

馬車はすでに入口へ回されている。

アンナは乗り込む前に、振り返った。

 

「南マルクへ行かれるそうですね」

「はい。明後日には」

「戻られたら、何か一つ、お話を聞かせてください」

 

クラウスは少し身構えた。

「南マルク情勢についてでしょうか」

 

「いいえ。そんな退屈なお話は父にでもなさってください」

アンナはすぐに首を横へ振った。

「街の色でも、召し上がったものでも、オトフリート陛下が本当に歌劇場の話ばかりなさったかでも」

 

「そのようなことでよろしいのですか」

「そのようなことが聞きたいのです」

 

仕事の報告ではない。

結論も、要点も、責任の所在も求められていない。

なんというか、自分にはかえって難しい注文だった。

 

「何か探しておきます」

「探さなくても、目に入ったものでよいのですよ。中佐殿は、そう言うと本当に探してしまいそうですから」

 

アンナは馬車の踏み台へ足を掛けた。

それから、もう一度クラウスを見た。

 

「では、お気をつけて」

「ありがとうございます」

「またお会いしましょう。ライフェンベルク中佐。今日は結局父の話ばかりになってしまいましたから、できたら次は別のお話を」

 

返事をするまで、ほんの少しだけ間があった。

社交としてなら、もっと早く答えられたと思う。

 

「はい。アンナ嬢」

 

アンナは微笑み、馬車へ乗り込んだ。

扉が閉まり、車輪が動き出す。

クラウスは馬車が通りの角を曲がるまで、その場に立っていた。

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