面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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南北マルクの地域図です。
文中での位置関係の参考にしていただければ。

【挿絵表示】



第七話 月を運ぶ列車

二日後の朝、クラウスは王都南駅の三番線にいた。

 

旅の荷物は、革鞄が一つ。

着替えよりも書類の方が多い。

アーレン国王オトフリート二世陛下への宰相親書。

南マルク諸邦同盟書記局への照会書。

鉄道委員会および軍務連絡会の関係者名簿。

見送りに来た宰相府秘書官は、最後の封書を渡しながら言った。

 

「お気をつけて、軍務官」

「本当に、随員もいないのですね」

「連れ立って行けば使節になる。あくまで友好の訪問であると、閣下は仰せでした」

「……理解いたしました」

 

理解はしたが、納得はしていない。

決定事項の通達と国王陛下への表敬という名目だけならば、確かに単独でもおかしくはない。

だが、その役目に自分が選ばれたとなれば話は別である。

しかし秘書官も、命じられた通りに伝えているだけだ。

クラウスはそれ以上何も言わず、封書を革鞄へ収めた。

 

列車が入線した。

濃い煙を吐く機関車の後ろに、客車六両、郵便車一両、荷物車二両。

そのさらに後ろへ、南マルク方面へ送られる小口貨物車が三両ほど繋がれている。

時刻表どおりだった。

 

公務上の任務については、それでよかった。

問題は、もう一つの注文である。

アンナ嬢に、戻ったら何か一つ話してほしいと言われた。

 

仕事の報告ではない。結論も要点も要らない。目に入ったものでよい、と。

正直なところ、南マルクの本音を聞いて帰ることより、そちらの方が少し難しいように思えた。

 

 

 

 

列車が王都南駅を離れてから最初の一時間、窓の外はほとんど灰色だった。

 

煤けた煉瓦。黒い屋根。工場の煙突。

街の色としては、あまり面白くない。

そもそもアンナ嬢も、グランツェルの色くらいは知っているだろう。

 

クラウスは車窓を眺めながら、なるべく線路以外のものを見るように努めた。

しかし、目に入るのは側線の分岐数や貨車置場の長さばかりだった。

 

あの駅なら軍用列車を二本待避できる。

あちらの石炭庫は拡張されたばかりだ。

信号所の新しい腕木は、南東方面への列車増発を見越したものだろう。

気がつけば、いつも通りの見方をしている。

 

"南マルク方面の主要駅では、待避線の延長工事が三箇所確認されました。"

このままでは、これが戻ってからの土産話になる。

 

アンナ嬢が求めていたのは、たぶんそういう話ではない。

わかってはいる。

しかし自分にとって景色というものは、元来、気を紛らわすために眺めるものだった。

頼まれたからといって、見方がすぐに変わるわけでもない。

 

昼前、列車はブランデン王国南境を越え、エルツ公国へ入った。

土地の起伏が増え、黒い屋根に混じって赤茶色の瓦が見え始める。

駅舎の壁は、灰色の石から白や淡い黄色の漆喰へ変わった。

畑の縁には果樹が並び、小さな集落の教会には丸みのある緑青色の屋根が載っている。

 

色がある。

そう思ってから、クラウスは自分が本当に街の色を探していたことに少し驚いた。

ブランデン王国からエルツ公国を縦断し、南マルクとの国境にある大駅へ入ったのは午後二時前だった。

ここでノルトマルク連邦鉄道の機関車を外し、南マルク諸邦同盟鉄道の機関車へ付け替える。

 

予定停車時間は十八分。

食事を取るには短く、何もしないには少し長いという、扱いに困る時間だった。

 

クラウスは一度ホームへ降りた。

駅舎の売店では、結び目の形をしたプレッツェルが焼かれていた。

表面には粗い塩が振られ、その横では淡い色のソーセージが湯の中で温められている。

 

朝食からかなり時間が経っていたので、プレッツェルとソーセージを一つずつ買った。

プレッツェルの表面は固く、噛むと中は意外に柔らかい。

ソーセージは塩気が強く、添えられた辛子は鼻へ抜けた。

 

少なくとも、列車の食堂車で出る冷えた肉よりはかなりよかった。

これなら話せるかもしれない。

 

"国境駅で買ったプレッツェルとソーセージを車内で食べました。おいしかったです。"

どうにも面白くない気もする。

いや、正直に言えば初等学校の日記でももう少しマシだ。

 

クラウスがプレッツェルの二口目を齧ったところで、駅の発車鐘が鳴った。

しかし、列車は動かなかった。

機関車の付け替えはすでに終わっている。

深緑色の車体に真鍮の縁取りが入った、南方の諸邦らしい華やかな機関車だった。

蒸気も上がっている。

 

それでも、出発信号は下りない。

クラウスは懐中時計を見た。

すでに予定を六分過ぎていた。

 

時刻表に記された時刻というものは、多少ずれることもある。

だが、ここまで準備を整えた上で守られないのは、どうにも落ち着かない。

 

ちょうど通りがかった車掌へ訊いた。

「何かあったのですか」

 

車掌はクラウスの襟章を見て、姿勢を正した。

軍人の装いというのは、こういう時に便利である。

 

「王室急送貨物を先に通しますので」

「急送貨物?」

 

ちょうどその時、隣の側線から貨物列車が押し出されてきた。

平たい貨車が四両。

 

一両目には、布を掛けられた大きな枠組み。

二両目には、木と布で作られたらしい塔の上半分。

三両目には、木枠へ斜めに固定された銀色の巨大な円盤が載っていた。

 

直径は、人の背丈の三倍ほどある。

円盤の表面には陰影が描かれ、遠目には満月に見えた。

 

クラウスは、しばらくそれを見た。

「……あれは何ですか」

 

車掌は、答えにくさを隠さない顔をした。

「……月でございます」

「ええ、確かに月に見えますが……」

「はい。王立新歌劇場へ送る舞台用の月です。アーレン国王オトフリート二世陛下の御命令により、同盟鉄道局で王室急送貨物に指定されております」

 

人を運ぶ急行列車を止めて、月を先に通す。

自分が南マルクへ入ったことを、クラウスはその時ようやく実感した。

銀色の月を載せた貨物列車が、ゆっくりと南へ走り出す。

後ろには、木箱へ収められた雲や、枝葉を折り畳まれた森が続いていた。

 

それを見送ってから、クラウスの列車にも発車信号が下りた。

予定より十四分遅れ。

どうやら南マルクでは、アーレン王の月は急行列車より優先順位が高いらしい。

もしここで軍用列車を動かす時には、王室急送貨物の定義から確認しなければならないだろう。

そこまで考えてから、仕事の話になっていることに気づいた。

 

だが少なくとも、戻った時に話せるものは一つ見つかった。

南マルクでは、月が列車に乗る。

どうにも出来の悪いおとぎ話だった。

 

 

 

 

午後四時を過ぎた頃、列車はダールベルク大公国北部の中継駅で速度を落とした。

通過待ちかと思ったが、停車はしなかった。

代わりに、窓の向こうの待避線に見覚えのある貨車が並んでいた。

 

銀色の月。

先ほど先に通された王室急送貨物列車だった。

巨大な舞台装置を積んだ列車は、やはり急行ほどの速度を出せないらしい。

円盤は木枠へ厳重に固定されていたが、それでも貨車がわずかに軋むたび、表面へ張られた銀色の布がわずかに震えている。

 

王命は列車の出発順を変えられても、月そのものを軽くすることまではできないようだった。

クラウスの乗った列車が、その横をゆっくり追い越していく。

 

月は一度、客車の窓と同じ高さまで並んだ。

それから少しずつ後ろへ流れ、最後には駅舎の陰へ消えた。

 

 

 

 

列車がダールベルク大公国の首都エーレンフェルスへ入ったのは、午後七時を過ぎてからだった。

中央駅の大時計は七時十二分を示している。

国境で生じた十四分の遅れは、途中で五分ほど取り戻されていた。

 

そこで、その日の運行は終わった。

ヴァイスブルン方面へ向かう列車は、翌朝六時四十分発。

同じ客車に乗り続けることはできず、南へ向かう乗客も全員が一度降ろされた。

 

公務上の予定があるのはアーレン王国へ入ってからである。

ダールベルク大公国では、出迎えもなければ兵士ももいなかった。

それはクラウスにとって、たいへんありがたいことだった。

 

駅前には、宰相府の手配した宿があった。

革鞄一つの旅なので、荷物を運ばせるほどでもない。

クラウスは自分で鞄を持ち、三階の部屋へ上がった。

 

窓から駅の構内が見えた。

長い硝子屋根の向こうに側線が幾本も並び、貨車の入れ替えを知らせる汽笛が、夕暮れの街へ短く響いている。

煤煙の向こうには、坂の上へ重なる赤い屋根と、古い大公宮殿の塔が見えた。

 

窓を閉め、軍服の煤を払い、顔を洗う。

時刻は七時半を過ぎていた。

 

夕食は一階の食堂で取った。

最初に出たのは、澄んだ牛肉のスープだった。

細く切られた焼き生地と香草が浮いている。

続いて、茹でた牛肉にじゃがいもと根菜、それに白いホースラディッシュソースを添えた皿が運ばれてきた。

 

肉は柔らかく、味は思っていたより淡い。

代わりにホースラディッシュが強かった。

一口目は穏やかだったが、少し遅れて辛味が鼻へ抜け、二口目からは完全に目が覚めた。

 

これは国境駅のプレッツェルよりは、話になるかもしれない。

"ダールベルクでは茹でた牛肉を食べました。ただホースラディッシュがかなり辛く――

と、そこまで考えてやめた。

 

自分には、食事の感想一つにも修練が必要らしい。

食事を終えた頃には、八時を回っていた。

一日中列車へ座っていた身体を少し動かしたくなり、クラウスは外套だけを羽織って街へ出た。

 

 

 

 

外には、日没後の薄い青がまだ空の端に残っていた。

 

駅前広場では昼の市が開かれていたらしく、石畳には藁や潰れた葉が散っていた。

通り沿いの酒場からは人の声が漏れ、宿屋の給仕が店先の卓へ小さな灯りを運んでいる。

昼の街が眠るというより、別の街へ交代する時間らしい。

 

エーレンフェルスは、グランツェルとも、途中で見たエルツの町とも違っていた。

 

駅前から緩い坂が続き、その両側へ古い石造りの建物が並ぶ。

一階部分には奥行きの深い回廊があり、雨の日でも軒下を歩けるようになっている。

 

郵便局の正面には、ダールベルク大公家の紋章が掲げられていた。

そのさらに上には、百年ほど前のものらしいハイゼンベルク帝国冠の浮彫りが残っていた。

 

削り取られたわけでも、目立たぬよう覆われたわけでもない。

新しい紋章と古い冠が同じ壁にある。

南マルク諸邦の立場について書かれた意見書を何十枚読むより、この壁一枚の方が分かりやすい気がした。

 

ダールベルクは南マルク諸邦同盟の一邦である。

同時にハイゼンベルクの古い秩序を、街の石材にまで残している。

 

また仕事の見方をしている。

そう思い、視線を外した。

窓には灯りが入り、その下の広場では二人の楽師が小さな弦楽器を鳴らしている。

酒場の卓では、仕事を終えたらしい男たちが声を抑えず笑っていた。

店先では女主人が白い布を広げ、皿を一枚ずつ並べている。

 

それらには、報告すべき意味がなかった。

意味がないからこそ、少し長く見た。

 

宿へ戻ろうと駅前広場へ差しかかった時、構内の方角から低い汽笛が聞こえた。

見覚えのある音だった。

側線へ、一列の貨物車がゆっくり入ってくる。

昼間国境駅で先を譲り、その後に追い越した、銀色の月を載せた列車だった。

 

作業灯に照らされた円盤は、昼間よりも白く見えた。

貨車の上で斜めに傾き、駅舎の屋根より低いところに浮かんでいる。

 

ふと空を見上げると、本物の月も出ていた。

薄い雲の合間にあり、少しだけ欠けている。

貨車の上に載った月の方が、むしろ完全な円だった。

 

ダールベルクの夜には、月が二つあった。

これなら、話せるかもしれない。

 

 

 

 

翌朝、クラウスが駅へ向かった時には、月を運ぶ貨物列車はすでに出発していた。

昨夜まで銀色の円盤が置かれていた側線には、煤の跡と、固定具に使ったらしい木片が二つ残っているだけだった。

 

王室急送貨物は、旅客列車よりも早起きらしい。

六時四十分、列車はエーレンフェルスを発った。

ダールベルク大公国を南へ下り、昼前にはアーレン王国との境界を越える。

丘陵の間を抜けるにつれて、赤い屋根はさらに増えていった。

 

午後の遅く、王都ヴァイスブルンが見え始めた。

丘の間へ広がる街は、グランツェルとはまるで違っていた。

 

建物の壁は白、薄黄、淡い緑。

屋根は赤褐色。

教会や宮殿の銅屋根には青緑色の錆が浮かび、通りのところどころには青と白の旗が掛かっている。

 

建物の形も、どこか丸い。

グランツェルの官庁街は、すべての建物が正面から人を睨むようにできている。

ヴァイスブルンの建物は、窓枠や柱や屋根の縁を飾らずにはいられないらしい。

駅舎の時計にまで、金色の蔓草模様が彫られていた。

 

眺めている内に、列車が停まった。

 

ホームに降りると、王国外務府の紋章を付けた官吏が一人と、従者が二人。

その少し後ろに、青い上衣を着た王国軍の儀仗兵が四名立っていた。

 

思っていたより、出迎えが正式だった。

先頭の官吏は四十代半ばほどで、丸みのある顔に明るい茶色の口髭を蓄えていた。

制服ではなく、明るい灰色の礼装を着ている。

官僚というより、舞踏会の席を抜けてきた人間のように見えた。

 

「クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐殿でいらっしゃいますな」

「はい」

「アーレン王国外務府参事官、ユリウス・フォン・ザイラーです。王国政府を代表し、歓迎申し上げます」

 

差し出された手を握った。

 

「御丁重なお出迎え、恐縮であります」

「随員の方々は、どちらに?」

「随員はおりません」

 

ザイラー参事官は、一度だけクラウスの後ろを見た。

降りてくるのは老夫婦と、犬を抱えた婦人だけだった。

 

「……お一人で?」

「はい。私は使節団ではありませんので。宰相府付軍務官として、関係各所のお話を伺うために参りました」

 

参事官の顔に、ほんの少しだけ困惑が浮かんだ。

 

「バルク宰相閣下が、軍務官殿をお一人で」

「それでは何か問題が?」

「いいえ。むしろ、よほど大切な方を寄越されたのだと理解いたしました」

 

違う、と言いかけた。

しかし、ここで自分は大切ではないと説明しても、何の役にも立たない。

 

「ところで、中佐殿」

ザイラー参事官は、少し言いにくそうな顔になった。

「御到着早々、恐縮なのですが、御予定に若干の変更がございます」

 

「若干、ですか」

 

まあ、宰相府で予定変更には慣れている。

少なくとも、朝寝ている時に突然呼び出されるより悪いことはそう多くない。

 

「本日の御予定は宿舎への御案内のみ。明日午前、王宮にて国王陛下への謁見とお伝えしておりました」

「はい」

「謁見は、本日夕刻に変更となりました」

 

クラウスは懐中時計を見た。

五時を少し過ぎている。

 

「夕刻というのは」

「六時半でございます」

 

宿舎へ行き、着替え、書類を確認する時間はない。

もっとも、軍服はすでに正装に近いものを着ている。

列車の煤さえ落とせば、形だけは整うだろう。

 

「承知しました。王宮へ直行すればよろしいですか」

 

ザイラー参事官は、さらに言いにくそうな顔になった。

 

「いえ。王立新歌劇場へ。陛下は現在、そちらにおられます」

「本日は、何か上演が?」

「ございません」

「では、なぜ国王陛下は歌劇場に」

 

参事官は一度、ホームの端へ目をやった。

そこでは、前日の国境駅で見た銀色の円盤が、貨車から降ろされようとしていた。

十人ほどの作業員が綱を掛け、大きな荷車へ慎重に載せようとしている。

ザイラー参事官も、それを見た。

 

「月が届きましたので」

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