面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第八話 放蕩王、歌劇王、狂王

王立新歌劇場の正面玄関は、まだ閉ざされていた。

一般向けへの正式な開場は秋の予定であるらしい。

そのためクラウスたちは、建物の側面にある資材搬入口から中へ入ることになった。

 

廊下には新しい木材と塗料、それに膠の匂いが満ちている。

大道具方が木の枝を抱えて走り、衣装係らしい女たちが銀糸の布を持って反対側へ急いでいく。

 

ザイラー参事官が先に立ち、何度か道を曲がった。

案内がなければ、どこが客席でどこが舞台裏なのかも分からない。

 

やがて舞台の重い扉が開いた。

客席には、まだ覆いの掛かった椅子が並んでいる。

天井から下がる大燭台には半分ほどしか硝子が嵌まっておらず、最上階の桟敷では職人が金色の飾りを取り付けていた。

 

舞台には夜の森が作られていた。

もちろん本物の森ではない。

木の幹は布と木枠で、葉は薄い板へ色を塗ったものだった。

だがこうして見る限り、暗い森にしか見えなかった。

 

その森の上で、国境駅から運ばれてきた銀色の月が吊り上げられていた。

四本の太い綱に支えられ、舞台の半ばまで上がっている。

しかし大きすぎるため、下端が木々の梢へ埋まっていた。

 

その月の真下に、一人の男が立っていた。

 

背が高く、細身だった。

髭は綺麗に剃られていて、黒い髪は男性としては長く、緩く後ろへ流されている。

身体に沿った濃紺の上着に白い手袋。胸には勲章も飾緒もなく、王冠もない。

まるで舞台へ出る直前の役者のように見えた。

だがその男が口を開くまで、周囲の誰一人として勝手には動かなかった。

 

「低い!」

 

声は、空の客席の最上段まで届いた。

舞台装置の責任者らしい男が青ざめた顔で答える。

 

「陛下。これ以上上げますと、上部の吊り梁が――」

「森に月が生えるものか!」

 

その男は、月を指差した。

 

「見よ! 枝へ刺さっておるではないか。あれでは満月ではない。銀の果実だ!」

「しかし、客席からであれば遠景として――」

「私は客席から見ておる!」

 

彼は舞台上に立っていたが、誰もそこを指摘しなかった。

ザイラー参事官が小さく息を吸った。

 

「陛下。ノルトマルク連邦より、宰相府軍務官ライフェンベルク中佐殿が到着なさいました」

 

振り返った。

大きな目だった。整いすぎた顔立ちの中で、そこだけが妙に落ち着かない。

何か一つを見ているというより、その周囲まで一度に見ようとしているような目だった。

数秒、クラウスを眺める。

それから王は、舞台の中央で両腕を広げた。

 

「バルクの代わりというから期待すれば、とんだ若造ではないか!」

 

声はクラウスへではなく、空の客席全体へ向かって投げられたように聞こえた。

クラウスは舞台前まで進み、礼をした。

 

「ノルトマルク連邦評議会宰相府付軍務官、クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐でございます。御期待に添えず、申し訳ございません」

 

「謝るな!」

王は即座に言った。

「若いことまでバルクに命じられたわけではあるまい!」

「……はい」

「それに、謝るべきは君ではなく、君を寄越したバルクだ!」

 

王は舞台袖の階段を一段飛ばしで降りた。

近くで見ると、やはり顔立ちは整っていた。

ただし、視線も動作も一つ一つが大きい。

黙って立っている時でさえ、次の台詞を待っている役者に見える。

王はこちらを品定めするように眺めながら、周囲を半周した。

 

「なるほど! ライフェンベルク! 聞いたことがある、君を扱った芝居も観たぞ!」

「…はあ」

「うむ! 実に退屈な作品だった! しかし、評判通りの軍人には見えんな!」

「よく言われます」

「つまらぬ返答だ!」

 

面白い返答をしてもいいのだろうか。

まあ、自分にそれができるとも思わなかったが。

王は正面へ戻ると、急に声を上げた。

 

「して、ライフェンベルクとやら! 君は演劇が好きかね?」

 

クラウスは舞台へ目をやった。

 

「……詳しくはございません」

「詳しいかどうかを訊いたのではない! 好きか、嫌いかだ!」

「それでしたら――」

 

少し考えた。

自分が演劇を好きなのか嫌いなのか、これまで真剣に分類したことがなかった。

 

「以前、一度だけ参りましたが」

「うむ」

「幕が上がる前から、帰りの馬車が混まないか考えておりました」

 

王は動かなかった。

舞台上の職人も、客席後方のザイラー参事官も動かなかった。

 

「……何だと?」

「終演後は正面玄関が混むと聞いておりましたので、別の出口を確認しておりました」

 

王はゆっくり顔を舞台へ向けた。

 

「聞いたか、諸君!」

大道具方たちの肩が小さく揺れた。

「北の参謀閣下は、芝居が始まる前から退路を確保するらしいぞ!」

 

舞台のどこかで、堪えきれなかったような笑い声が一つ漏れた。

それを合図にしたわけではないだろうが、周囲の空気が少しだけ緩んだ。

クラウスは黙っていた。

数日前にもほとんど同じ箇所で笑われた。

どうやらこの件については、自分の方に問題があるらしい。

王は笑いを収めると、白い手袋の指をクラウスへ突きつけた。

 

「よろしい! 今夜、君に芸術というものを教えてやろう!」

「陛下。私は本日、宰相閣下の親書を――」

 

「政治の話なら後だ!」

王は再び舞台へ向き直った。

「政治は明日も同じ顔で残っておる! だが、この月は今夜上がらねば初演に間に合わぬ!」

 

ザイラー参事官が、何とも言えない顔でクラウスを見た。

おそらく逆らっても無駄だという意味だった。

クラウスとしても、すでに同じ結論に達していた。

 

 

 

 

クラウスは、客席中央へ座らされた。

最前列でも王室桟敷でもない。

舞台全体が最もよく見えるという、前から十二列目の中央だった。

オトフリート二世は一つ隣の椅子へ腰を下ろした。

国王が自分の隣に座るという状況にどう対処すべきか分からず、クラウスは姿勢だけを正した。

王は気にした様子もなく、舞台を指差した。

 

「どう見える」

「月のことでしょうか」

「他に何がある!」

 

クラウスは改めて舞台を見た。

銀色の円盤は森の梢へ半分埋まっている。

舞台上ではさほど不自然に見えなかったが、客席から眺めるとたしかに枝へ引っ掛かっていた。

 

「今の位置ですと、木々に掛かっているように見えます」

「聞いたか!」

 

王は舞台へ向かって叫んだ。

 

「しかし陛下、二尺上げるには吊り梁そのものを補強しなければなりません。工事には少なくとも三日――」

「二日でやれ!」

「費用も、当初予算を超えます」

「山上宮の北塔を一月遅らせろ!」

 

ザイラー参事官が小さく目を閉じた。

 

「陛下。山上宮の工事も、すでに当初予定より――」

「塔は逃げぬ! 初演は待たぬ!」

 

それが理屈として正しいのかは分からなかった。

だが少なくとも国王の中では、明確な優先順位があるらしい。

 

「月は遠くになければならん」

王は少し声を落として言った。

「だが遠すぎてもいかん。手を伸ばせば届くかもしれぬと、人が一度だけ思う距離に置くのだ」

 

装置責任者は返事をしなかった。

おそらく、二尺という数字と今の説明をどう結びつければよいか考えているのだろう。

王は立ち上がった。

 

「綱を仮に掛け直せ! 本工事は明日からだ。今夜は試しにもう一尺上げる!」

 

舞台上の職人たちが、一斉に動き出した。

綱が引かれ、滑車が軋み、大きな月が少しずつ上昇していく。

王はその様子を見ながら、今度は照明係へ指示を出した。

 

「青を弱くしろ! この前の月は死人の顔だったぞ!」

「あの時よりも三割落としております、陛下」

「まだ青い!」

「では、さらに一割――」

「二割だ!」

 

王が指示を出すたび、舞台の夜空が少しずつ色を変えた。

クラウスには一割と二割の違いは分からなかった。

だが王には分かるらしい。

少なくとも、分かると本人は確信していたようだった。

 

 

 

 

仮の調整が終わると、第二幕の一場だけを通すことになった。

オーケストラは正規の編成ではない。

指揮者が一人、弦楽器奏者が数名、管楽器奏者が二人。

歌手も衣装を着けず、稽古着のままだった。

 

それでも王はすべて本番と同じようにするよう命じた。

客席の灯りが、一つずつ落とされた。

先ほどまで綱を引き、木材を運び、舞台袖で小声を交わしていた人々が動きを止める。

どこかで一つ咳が聞こえた。

 

それきり、劇場全体が静かになった。

その静けさの中で、アンナ嬢の言葉を思い出した。

 

――さっきまで咳をしたり、扇を動かしたり、隣の席へ噂話をしていた方々が、灯りが落ちると一度に静かになるでしょう。

 

舞台はまだ暗い。

 

――それから最初の音が鳴るまでの、ほんの短い時間です。

 

誰も動いていない。

客席にいるのは王とクラウスとザイラー参事官。それから、仕事の手を止めた職人たちだけだった。

それでもその一瞬だけは、確かに全員が同じものを待っているように思えた。

 

低い弦の音が鳴った。

続いて、細い管楽器の音が森の奥から聞こえるように重なる。

舞台の明かりが淡く上がり、木々の向こうから銀色の月が姿を見せた。

 

先ほどより一尺高い。

たったそれだけで月は森の一部ではなく、森の向こうにあるものへ変わっていた。

 

なるほど、とクラウスは思った。

違いは、分からないでもなかった。

 

歌手が舞台へ出た。

最初の一節を歌い始める。

二十秒ほどして、王が立ち上がった。

 

「止めろ!」

音楽が止まった。

「月の左が明るすぎる! あれでは太陽だ!」

 

照明係がまた走り始めた。

王は満足そうに腕を組み、それからクラウスを見た。

 

「どうだ!」

 

何についての感想を求められているのか迷った。

月なのか、音楽なのか、歌手なのか。

あるいは二十秒で稽古を止めたことなのか。

考えた末、正直に答えた。

 

「幕が上がる前というものは、思っていたよりよいものですね」

 

王は瞬きをした。

 

「舞台ではなく?」

「舞台については、まだ二十秒ほどしか拝見しておりませんので」

 

その大きな目が数秒、クラウスを見た。

それからさも愉快そうに笑った。

 

「よろしい! 少なくとも、見ていないものを見たとは言わん男らしい!」

 

褒められたのかどうかは分からないが、気分は良くしたようだった。

 

「その話は誰かに聞いたのだろう? 君が思いつくようには思えない!」

「はい。ある方から」

「その者は見どころがある! 君よりはな!」

 

否定はもちろんしなかった。

アンナ嬢の方が、自分よりよほど劇場の見方を知っているのは事実だった。

 

 

 

 

照明の調整には時間が掛かった。

その間、オトフリート二世は舞台へ上がった。

クラウスも呼ばれたので、その後へ続いた。

親書はザイラー参事官へ預け、国王の手元へ届けられた。

月の下へ立つと、客席から見た時よりもさらに大きい。

銀色に塗られた表面には、遠くからでは分からなかった筆の跡が残っている。

王は月を見上げたまま言った。

 

「さて、若造」

「はい」

「バルクは私に、何をさせたい?」

 

ようやく本来の用件になった。

 

「私は、陛下の御意向を伺うよう命じられております」

「自分では来ず、私に喋らせるのか。あの男らしい!」

「……はい」

 

王が振り返った。

 

「肯定するのか!」

「否定する材料がございませんので」

 

王は、喉の奥で短く笑った。

 

「君は評判より面白いな。もっと、石碑のような男かと思っていた」

「その評判については、私にも責任がございません」

「ますますよい!」

 

何がよいのか分からなかった。

王は舞台上を歩き始めた。

森の大道具の間を、白い手袋を背中で組んで進んでいく。

 

「ハイゼンベルクは諸邦会議を開く」

「はい」

「皇帝は、我々がまだ古い席順を覚えていると思っておる。南マルクの王も大公も、皇帝が座れと言えば昔の席へ戻るとな」

 

王は偽物の木の幹を軽く叩いた。

乾いた音がした。

 

「では、陛下は御出席なさらないのですか」

 

「する!」

即答だった。

「来なければ、私が怖じたと書かれる。行けば、私がハイゼンベルクへ戻ったと書かれる。どちらも気に入らん!」

 

「では、御出席なさるということはハイゼンベルクへ――」

「違う! 私が自分の口で、違うということを言うためだ!」

 

少なくとも、出席する理由は分かりやすかった。

 

「どのような御発言をなさるおつもりでしょうか」

「それを今決めれば、会議へ行く意味がないではないか!」

 

まあ、確かにそれもそうかもしれない。

王は足を止め、舞台正面の空席を見た。

 

「ハイゼンベルクは古い台本を読ませたがる。バルクは新しい台本を持ってくる。どちらも、自分が劇作家だと思っておる」

王は胸へ手を当てた。

「だが、私はどちらの役者でもない」

 

その姿勢だけを見れば、まるで良くできた歌劇の一場面のようだった。

 

「バルクへ伝えよ。私は諸邦会議へ出る。しかし、誰の台本も読むつもりはない、と」

「承知しました」

「それだけか?」

「正確にお伝えいたします」

 

王は少し不満そうだった。

もっと大仰な返答を求めていたのかもしれない。

クラウスは迷った末、もう一つだけ訊いた。

たぶん、バルク宰相からはそこまで求められていない部分だった。

 

「陛下は、戦争を望んでおられるのですか」

 

王の顔から、ほんの少しだけ役者の表情が抜けた。

「望まん」

短い返答だった。

「戦争が始まれば、この劇場は止まる。職人も馬も木材も、軍がすべて持っていく。楽師まで軍楽隊へ取られる!」

 

理由の順番がおかしい気がしたが、クラウスは黙っていた。

王は舞台上の偽物の森へ目をやった。

 

「……人も死ぬ」

 

今度の声は先ほどまでより小さかった。

白い手袋が、月を吊る綱を軽く掴んだ。

クラウスは何と返事をしたものかと考えて、結局何も言えなかった。

 

放蕩王。歌劇王。

芝居と城に国庫を注ぎ込む狂王。

王都へ来る前に聞いた話だけなら、その呼び名は間違っていないように思えた。

実際目の前の王は月を二尺上げるため、建設中の宮殿をさらに遅らせようとしている。

 

「私は戦争を望まん」

王は続けた。

「それは事実だ。だが、古い皇帝や新しい国家の家来になるつもりもない。誰にもアーレンの王冠を渡すことはできない」

 

その時、頭上で滑車が鳴った。

銀色の月が、さらにゆっくり上がり始める。

 

王の顔が一度に明るくなった。

「よし! そこで止めろ!」

 

政治の話は、それで終わった。

装置係が綱を固定する。

月は森の梢より高く、暗い舞台の奥へ浮かんでいた。

王は満足そうに眺め、それからクラウスを振り返った。

 

「ライフェンベルク!」

「はい」

「今日は、出口の場所を考えたか?」

「……まだ、見ておりません」

 

王は大きく頷いて、両手を広げた。

「進歩だ! 芸術とはかくもペストのごとしである! 君もこちらにいる間にもう少し感染していくとよい!」

 

舞台の上では銀色の月が森の向こうに浮かんでいた。

確かに今夜は、帰りの馬車について考えるにはまだ早いように思えた。

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