面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第九話 全会一致

結局、あれから芸術の講義は夜十一時近くまで及んだ。

クラウスは翌朝、眠い目を擦りながらアーレン王国の庁舎へと歩いていた。

馬車を用意すると宿泊先の主人は言ったが、眠気覚ましを兼ねて街の様子を見たかったので断った。

宰相府で働く中で、今日より睡眠時間が少なかったことなど何度もある。

それでも鉄道での移動と劇場での出来事は、思っていたより体力を奪っていたらしい。

 

ヴァイスブルンの街並みは、グランツェルよりも雑然としていて街路が狭かった。

まだ九時にもなっていないというのに、人が多く行き交っている。

 

だが軍服姿の人間を見れば、誰もが無意識に半歩ほど道を譲った。

往来は混んでいるのに、自分の周囲だけがぽっかりと空いているようで、かえって居心地が悪い。

これなら、素直に馬車へ乗るべきだったかもしれない。

 

庁舎への道が半ばまで来たところに、ヴァイスブルンの大聖堂があった。

朝の礼拝を終えた人々が、入口から絶えず吐き出されている。

尖った塔ではなかった。北方の大聖堂にありがちな、天へ針を突き立てるようなものではない。太い煉瓦の塔の先に、銅の丸屋根が二つ載っている。

荘厳さでは北の大聖堂が上だろう。

だが祈る場所としては、こちらの方がいくらか肩が凝らずに済みそうだった。

 

 

 

 

庁舎に着くと、ザイラー参事官が出迎えた。

彼は驚いたというより、よく分からないものを見る目をしていた。

 

「馬車をお使いにならなかったのですか」

「ええ。街の様子を見たかったので」

「では今度から、せめて事前に御連絡を。他国の軍人がお一人で王都を歩かれますと、こちらとしても少々扱いに困ります」

「……はい。留意します」

 

言われてみればその通りだった。

まるで観光客のように歩いてきたが、普通に考えれば先方へ余計な気を遣わせる行動である。

 

「そのあたりは、評判どおり剛胆というか……何と申しますか。陛下に感化されましたかな?」

「そうかもしれません。せっかくこちらまで来たので、色々と目に入れておきたくて」

「ほう。何か気になるものはございましたか?」

「大聖堂でしょうか。北とはずいぶん違うのだなと思いました」

「ブランデンの教会は、背筋が伸びすぎておりますからな」

「ああ、そうかもしれません。あそこへ行くと、まるで神に遅刻の弁明をしているような気分になります」

「ほっほ……いえ、失礼。なかなかよい表現だと思いまして」

「昨日のうちに、オトフリート陛下へ申し上げるべきでしたかね」

 

「まさしく。そのお話であれば、陛下はよく笑ったでしょう」

ザイラー参事官はそこで、声を少し落とした。

「もっとも、本日の会議では、そのお話はなさらぬ方がよろしいでしょう」

「承知しております」

「それは何よりです。皆様、陛下ほどよく笑ってはくださいませんので」

 

参事官はそう言って、庁舎の奥へ歩き出した。

クラウスもその後へ続いた。

 

 

 

 

通された会議室の壁には、南マルク諸邦同盟を構成する五邦の紋章が並んでいた。

 

ダールベルク大公国。

アーレン王国。

ロート侯国。

ゾンネン大公国。

ヴァイル王国。

すべて同じ高さ、同じ大きさ、同じ額縁である。

 

「この並び順は揉めなかったのですか」

クラウスは思わず訊いた。

ノルトマルクでは、邦ごとの紋章の並べ方にも本気で協議するからだ。

 

「六十年前、同盟成立の際に決まりまして」

「まとまったのですか」

「いえ。全くまとまらなかったので、こうした場所の紋章は五年おきに順番を一つずつ入れ替えることに決定しました」

「……なるほど」

 

どの国であろうと、平等というものは実現するまでに意外と手間が掛かるらしい。

 

長卓には、すでに三人の出席者が着いていた。

三人とも名前だけは聞いている。

正面に座るのは、南マルク諸邦同盟書記長ケルナー氏。

六十に近い痩せた文官で、目の前に議事次第と同盟規約、それから削った鉛筆を三本並べている。

その右手には、ダールベルク大公国鉄道院参事官フォン・シュターデン氏。

肩幅が広く、指も太い。その太い指で持つには細すぎる鉛筆を使い、時程表の余白へ小さな印を付けていた。

左手には、南マルク軍務連絡会議長フォン・エッケルト少将。

短く刈った灰色の髪に、日に焼けた顔をしていた。今日の出席者で軍服を着ているのは、クラウスとこの少将だけだった。

 

ザイラー参事官が、クラウスを紹介した。

「ノルトマルク連邦評議会宰相府付軍務官、クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐殿です」

 

エッケルト少将が、わずかに顔を上げた。

「ベルヴァーニュ第一帝政との戦争の折、アーレン街道の後退を指揮したライフェンベルク将軍の御一族ですな」

「曾祖父にあたります」

 

少将の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

「我が軍では今でも士官学校で扱います。三邦軍を一つの街道から退かせ、最後まで騎兵を殿軍に残した。……またライフェンベルクが南へ来たわけですか」

 

冗談にしては、少しだけ声が硬かった。

クラウスは一拍置いて答えた。

 

「今回は、決定を運びに参っただけです」

「御先祖も初めはその程度のおつもりだったかもしれませんな」

 

少将はそれ以上言わなかった。

ケルナー書記長が口を開いた。

 

「本日の会合は、ノルトマルク連邦政府による決定について説明を受け、南マルク諸邦及び関係各局への影響を確認するための連絡会です。交渉ではありません。したがってライフェンベルク中佐殿にも、我々にも、何かを最終的に約束する権限はございません」

 

シュターデン参事官が鉛筆を置いた。

「では、誰も約束できぬ者だけを集めた会議ということになりますな」

 

声は穏やかだった。

皮肉には聞こえなかった。

 

「誰が何を持ち帰るべきかを確認する会議、と御理解ください」

ケルナー書記長が答えて、視線がこちらへ向いた。

「では、中佐殿。御説明を」

 

クラウスは革鞄から書類綴りを取り出した。

出発前、バルク宰相から言い渡された言葉を思い出す。

今日は書いてあることを説明し、その後は黙って聞けばよい。

 

「連邦評議会政府が決定した措置は、三点です」

全員の視線が集まった。

「第一。南東方面における夏季演習補助のため、関係軍団の補給段列を演習時編成へ移行させます。現時点で予備兵の召集及び部隊の集結は行いません。車輌、馬匹、倉庫、積込所及び輸送担当者の割当を、平時登録から演習時の配置へ改めるものです」

 

エッケルト少将が、書面ではなくクラウスの顔を見た。

「第二。連邦域内の南東線について、軍用列車枠を段階的に拡大します。初週は通常の臨時増便枠を使用し、翌週以降は演習物資輸送として別途時程を設定します」

 

シュターデン参事官の指が、机を一度だけ叩いた。

「第三。右の措置によって南マルク諸邦へ生じる通商上の不利益については、各邦及び関係鉄道局より資料を受領した後、別途協議します」

 

クラウスは書面を閉じた。

最初に口を開いたのは、ケルナー書記長だった。

 

「では、最も重要なことから確認いたします。ノルトマルク連邦政府は、ハイゼンベルク帝国との戦争を決定されたのですか」

「現時点で、開戦を決定したとは聞いておりません」

「戦争をしないと決定したのではなく、まだ開戦を決定していない」

「はい」

「では、可能性は残っているということですかな」

「否定はできません」

 

会議室が静まった。

少将は腕を組んだ。

 

「段列の再編成とは動員準備ですな。演習終了後に平時編成へ戻すこともできるが、予備兵召集と部隊集結の命令が出れば、そのまま前へ出すこともできる」

「その理解で相違ございません。動員へ移行した場合、今回の準備を利用できます」

「戦争でも使用する」

「はい」

「では、演習と戦争の準備の違いはどこにあるのか」

「……現時点で、予備兵召集及び部隊集結の命令が出ていないことです」

「その命令が出れば、何日で移行できるのでしょうか」

「作戦上の時程については、申し上げる権限がございません」

「……正直なのか不親切なのか、判断に困りますな」

 

少将の口元が、ほんの少しだけ動いた。たぶん笑ったわけではなかった。

ケルナー書記長が、同盟規約の上へ指を置いた。

 

「中佐殿。仮にノルトマルクとハイゼンベルクが開戦した場合、連邦政府は南マルク五邦へ何を求めるつもりでしょう。中立ですか。軍事通行ですか。鉄道使用ですか。それとも参戦ですか」

「そのような決定はこの場では答えかねます」

「同盟全体へ求めるのか、各邦へ個別に求めるのかも?」

「同じく、答えかねます」

 

ケルナー書記長は、一度だけ目を閉じた。

「念のため確認いたしますが、南マルク諸邦同盟は一つの国家ではありません」

「承知しております」

 

「同盟書記局には、五邦を代表して宣戦、参戦、中立、軍事通行を決定する権限はございません。同盟書記局は五邦の名を並べることはできます。ですが、五邦の意思を一つにすることはできません」

静かな声だった。

「仮にダールベルクが一方の軍へ鉄道使用を認め、ロートが拒否し、アーレンが回答を留保したとしても、法的にはそれぞれ別の決定です」

 

ザイラー参事官が続けた。

「我々は貴国の敵ではありません。ですが、貴国の味方であることを先に求められる立場にもありません」

「その御懸念は、持ち帰ります」

 

「懸念ではありません」

ザイラー参事官は静かに言った。

「独立国の権利です。我々は、巻き込まれるために独立しているのではありませんし、どちらかの側に立つ役を先に割り振られるために同盟しているわけでもありません」

 

クラウスは黙って頷いた。

 

「一邦がハイゼンベルク軍の通行を認め、別の一邦が拒否した場合、ノルトマルクは前者を敵国と見なしますか」

「その判断をする権限はございません」

「では拒否した邦に対して、ノルトマルクは軍事的保護を保証しますか」

「そのお約束をする権限もございません」

「つまり我々は、拒否すれば守られるか分からず、認めれば敵とされるか分からない」

「私からお答えできる範囲では、そうなります」

 

誰も声を荒らげなかった。

それでも、会議室の空気は明らかに硬くなっていた。

とはいえ本当に何の権限もないのだから、そう睨まれても困る。

 

ケルナー書記長が、三枚の照会書を取り上げた。

「本日出席していない三邦からも、事前に質問が届いております」

 

ロート侯国は、開戦当初に中立を表明した後、軍事情勢の変化に応じて立場を変える余地を問うていた。

ゾンネン大公国は、ハイゼンベルク軍の通行要求を拒否した場合、ノルトマルクの軍事援助が保証されるかを問うていた。

ヴァイル王国は、ハイゼンベルク帝国との既存軍務協定に基づく使節、警備兵、補給列車の通過を継続した場合、それが敵対行為と見なされるかを問うていた。

同盟国であるはずの三邦は、同じ方向を向いていなかった。

 

シュターデン参事官が、クラウスではなく卓上の地図を見ながら言った。

「言葉を飾らずに申せば、五邦はいずれも、敗者の側に先に立たされることを恐れております」

会議室の誰も、その言葉を否定しなかった。

「不快に思われますかな、中佐殿」

「いえ」

 

自分が数日前に書いた要点紙の一行目を思い出した。

――いずれの邦も、勝つ側が決まってから態度を決めたい。

 

「国家の政府は、決闘へ臨む騎士ではありません」

シュターデン参事官は続けた。

「敗れた側へ付けば、忠義を称えられる前に国を失うこともある。我々は自国を残すために判断します。北の新しい連邦へ組み込まれることも、南の古い庇護へ戻り保護の名で命令を受けることも望んでいない」

「どちらにも付かないということでしょうか」

「どちらにも従わない、と申し上げました」

 

クラウスは返事をしなかった。

返事をするべき箇所ではなかった。

 

シュターデン参事官が、卓上の時程表を静かに滑らせた。

「では、戦争が最初に姿を現す場所について伺いましょう。列車です」

 

クラウスは表へ目を落とした。

南マルク北部の鉄道線と、ノルトマルク南東線の接続表だった。

 

「連邦域内のみの増枠と仰いましたが、貨物列車は国境で消えません。連邦側で民間枠を削れば、遅れはダールベルク北部線、ヴァイル東線、アーレン北線へ流れ込みます」

「承知しております。予定では食糧、郵便、都市燃料、病院向け物資、生体輸送を優先します。それ以外は各鉄道局との調整になります」

「軍用枠が一段増えるたび、商人は戦争が一段近づいたと判断します。保険料は上がり、信用取引は止まり、注文は消える。宣戦布告が出る頃には、我々の側ではすでに戦争が始まっているのです」

 

その言葉の後、会議室は少し静かになった。

 

「我々はそこまで求めているわけではありません」

「今のところは、でしょう」

 

返事に困った。

ザイラー参事官が、そこで低く言った。

 

「庇護と保障は、受ける側から見ればほとんど同じだということだけはご理解いただきたい」

 

クラウスはその言葉を書き留めた。

鉛筆の先が、紙の同じところで少し止まった。

 

 

 

 

その後の確認は早かった。

ケルナー書記長は、議事録の末尾に近い箇所を指で押さえながら読み上げた。

 

「第一。南マルク五邦は、ハイゼンベルク帝国およびノルトマルク連邦の軍事的緊張拡大を望まない」

異論はなかった。

 

「第二。五邦は、ノルトマルク連邦による段列再編成および南東線軍用枠拡大について、夏季演習補助と説明されていることを確認する。ただし、それが戦時利用可能な準備であるとの認識を共有する」

これにも異論はなかった。

 

「第三。開戦時における中立、参戦、軍事通行、鉄道使用および安全保障については、各邦が独立国として判断する。ただし、一邦の判断が他邦へ影響することを踏まえ、共同方針の策定を継続する」

ケルナー書記長は、一度だけ紙から目を上げた。

誰も反対しなかった。

 

「第四。通商上の不利益については、各邦および関係鉄道局が資料を提出し、別途協議する」

シュターデン参事官が頷いた。

 

「第五。南マルク五邦が連邦政府に対して最も強く求める確認事項は、ハイゼンベルク帝国との戦争を行う意思の有無、および開戦時に南マルク諸邦へ何を求めるのかである」

そこで、全員の視線がこちらへ向いた。

クラウスは答えなかった。

答えられないことは、すでに何度も確認されている。

 

ケルナー書記長は、議事録を閉じた。

「以上を、本日の基本的認識としてよろしいでしょうか」

 

何も決まっていない。

だが、何が決まっていないのかだけは、全会一致で確認された。

 

 

 

 

宿へ戻ると、クラウスはすぐに報告書を書き始めた。

宰相が読みたいのは、会議の経過ではない。

 

最初に、結論を一行で書いた。

"南マルク五邦共通の第一の懸念は、連邦がハイゼンベルクとの戦争へ踏み切る意思および時期を明示しないまま、戦時利用可能な準備を進めていることにある。"

その下へ、もう一行を加える。

"各邦は、敗者側に立たされることを避けるため、勝敗の見込みが立つまで陣営選択を留保したい。ただし、その留保を維持できる期間が短いことも理解している。"

 

そこまで書いて、クラウスはペンを置いた。

五邦とも平和を望んでいる。

それは、報告書で読んだ時よりも事実に近いものとして感じられた。

 

机の上には、会議室から写してきた時程表が広げたままになっていた。

南東線、ダールベルク北部線、ヴァイル東線、アーレン北線。

鉛筆で引いた細い線は、どれもまだ貨物列車の線だった。

クラウスはその写しを報告書の下へ差し込んだ。

封筒の口には、まだ糊を塗らなかった。

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