面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
クラウスが退室したあと、会議室にはしばらく紙をめくる音だけが残った。
最初にその沈黙を破ったのは、ケルナー書記長だった。
「平和を望むとは、言いませんでしたな」
シュターデン参事官が、鉛筆の先を見つめたまま続けた。
「南マルク諸邦の独立を尊重するとも」
「通商上の損害を必ず補うとも言わなかった」
エッケルト少将が言った。
「だが、脅しもしなかった」
その一言で、部屋はまた静まった。
脅しであれば、まだ扱いようがある。
諸邦の自由と独立を侵すものとして、同盟書記局の名で強い文言を用意すればよい。
各邦政府にも説明しやすい。新聞にも流しやすい。
だが、あの軍務官は脅していない。
こちらが踏み込みたい場所を、すべて空白にした。
「……嫌な沈黙ですな」
ザイラー参事官が言った。
その言い方に、シュターデン参事官はほんの少しだけ目を伏せた。
かなり正確な言葉だったからだ。
「普通は、何か言うものです」
ケルナー書記長が低く言った。
「平和を願っているだとか。諸邦の伝統を尊重しているだとか。せめて、現時点で戦争を望むものではない、くらいは」
「そう言えば、こちらはその言葉を記録できる」
エッケルト少将が続けた。
「後で押し返す材料にもできる。だが、あの若造はそれすら置いていかなかった」
ノルトマルクが南マルクをどう扱おうとしているのか。
ハイゼンベルクとの戦争を本当に考えているのか。
通商上の不利益をどこまで引き受けるつもりなのか。
諸邦の独立性を、どの程度まで尊重するつもりなのか。
そのどれにも答えなかった。
だが、答えないまま帰ったという事実だけは残った。
ケルナー書記長が、議事録の余白へ短く書き込んだ。
"ノルトマルク連邦政府は、本件を持ち帰り、追って返答するものとする"
何の変哲もない一文だった。
だがその一文の下には、誰も書かなかった別の問いが沈んでいる。
つまり、北はまだ答えをこちらへ渡していない。
南マルク諸邦同盟は、ノルトマルクにもハイゼンベルクにもすぐに組み伏せられるほど小さくはない。
だが二つの大きな力が動き出す時、完全に無関係でいられるほど大きくもない。
その曖昧な自立の上に、脅しでも約束でもない沈黙が置かれている。
◆
その夜、オトフリート二世は王立新歌劇場の小稽古場にいた。
床には白墨で立ち位置が引かれ、壁際には仮の椅子と譜面台が置かれている。
装置も衣装も未完成で、役者たちは普段着の上から布だけを羽織っていた。
それでも、役者に演技を指導する王は真剣だった。
というより、王にとって真剣でない劇場など存在しないらしかった。
「三歩目が遅い!」
王は舞台中央の若い役者へ言った。
「そこは恋で歩くのではない! 恐れで歩け! お前は相手に近づきたいのではなく、近づかなければならないと思っている! だから足先だけが先に出て、肩はまだ残るのだ! 貴族の娘が決意するときは、身体のどこか一つだけが先に裏切るものだ!」
若い役者は白墨の線まで戻ってもう一度歩いた。
王は眉間に皺を寄せたまま、今度は手の動きを止めた。
「手を上げるな! 台詞より手が早い役者は下品だ! 胸の前で一度止めて、そこで息を吸え! だが客に吸ったと分からせるな! 泣いてから声が崩れるのはよいが、泣く前から崩れる役者はただの未熟だ!」
役者は深く頭を下げた。
ザイラー参事官は、入口の近くでその様子を見ていた。
やがて一通りの指示が終わり、王がようやくこちらへ目を向けた。
「それで」
王は言った。
「北の若造は何を約束した」
「何もおっしゃってはくれませんでした」
ザイラーは答えた。
「では、何を否定した」
「それも、ほとんど何も」
王は鼻を鳴らした。
「つまらん使者だな! わざわざこちらは話してやったというのに!」
「はい」
ザイラーは一拍置いて続けた。
「ですが、つまらない使者ほど厄介な場合がございます」
王はそこで少しだけ目を細めた。
「こちらが欲しい言葉を一つも置いていきませんでした」
ザイラーは続けた。
「あの軍務官はただ持ち帰ると言いました。つまり、こちらはまだ北の返答を待つ立場にあります」
「なるほど」
王は低く笑った。
「こちらが待つのか」
「はい。それが最も不愉快な点です」
王は、椅子に深く腰を下ろした。
すでに舞台を見ていなかった。
「ライフェンベルクは、それほどまでに傑物か」
「分かりません」
ザイラーは正直に答えた。
「しかし、結果としてはそうなっております」
「暗転だな」
王は短く息を吐いた。
「役者が怒鳴るよりも、舞台が真っ暗になる方が客は息を呑む。何が起きるのか、誰が出るのか、もしくは誰かが死ぬのか、はたまた照明係の手違いか! 客は勝手に考えるからな!」
「では、我々は読まされていると」
「そうだ。読まされている」
王は、少し不愉快そうに笑った。
「しかも腹立たしいことに、読まねばならんのだ!」
稽古場の隅で、燭台の火が小さく揺れた。
「あの男、芸術の素養が無い割には役者ではないか! わざわざやってきたくせに、本当に挨拶をして話を聞いただけで帰りおったわ!」
「流石は、あの宰相に見込まれただけのことはあるということでしょうか」
「バルクが仕込んだか、それとも本物か! まあ、どちらにせよ客席がそこに意味を読んだのであれば、舞台は成立しているというものだ!」
◆
翌朝、クラウスはヴァイスブルン駅のホームに立っていた。
旅の荷物は来た時とほとんど変わらない。
革鞄が一つ。書類筒が一つ。着替えより紙の方が多い。
ただし、鞄の中身は少し増えていた。
会議で答えなかった質問を書き控えた紙である。
答えなかった質問を報告する。そう考えると、妙な仕事だった。
別の国からやってきて、何も答えられませんと言うだけで帰るのだ。
子どもの使いでももう少しまともな気がした。
列車がホームに入線した。
機関車は白い蒸気を吐き、黒い車体には前日の雨の跡が薄く残っている。
客車の窓には、早朝の光がぼんやり映っていた。
クラウスは指定された一等客車に乗り込み、鞄を網棚へ上げた。
座席に腰を下ろした瞬間、ようやく少し疲れていることに気づいた。
会議そのものは、さほど長かったわけではない。
だが、何も言わないというのは思っていたより体力を使うものらしい。
窓の外では、ヴァイスブルンの駅舎がゆっくり後ろへ流れ始めた。
街路の向こうに、王立新歌劇場の屋根が一瞬だけ見えた。
そこで、アンナ嬢に戻ったら何か一つ話すと約束していたことを思い出した。
その話の選択肢だけは、自分にしては珍しくたくさんあると考えていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
◆
王都グランツェルへ戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。
宰相府へ着くと、秘書官がすでに待っていた。
「ライフェンベルク軍務官。宰相閣下がお待ちです」
「到着予定は午後二時と伝えてあったはずですが」
「はい。ですので、午前中からお待ちです」
意味が分からなかった。
だが、こうした意味の分からないことに驚く能力は、この数か月でかなり摩耗していた。
クラウスは一礼し、そのまま執務室へ向かった。
扉の前に立つと、秘書官が声を入れるより先に中から高い声が飛んだ。
「入れ」
机上には書類の山があり、隙間に皿が二枚ある。
その奥で、バルク宰相は書類へ署名していた。
「ただいま帰着いたしました」
「それはご苦労。報告を」
挨拶はそれで終わった。
クラウスは用意していた報告書を差し出した。
宰相はそれを受け取り最初の一枚だけを読むと、すぐに顔を上げた。
「口頭で言え」
「はい」
姿勢を正した。
報告書とは一体何のためにあるのだろうかという気持ちは消えなかったが、口に出すことはなかった。
「南マルク諸邦同盟側は、演習補助名目の段列再編成について、明確な拒否はいたしませんでした。ただし南東線軍用枠の拡大が通商に及ぼす影響については、ダールベルク大公国鉄道院および同盟書記局が強い懸念を示しております」
「ハイゼンベルクとの戦争については」
「複数回、確認を求められました」
「何と答えた」
「この場にて回答は出来かねますので、持ち帰り慎重に協議の上ご返答いたします、と」
「南マルク諸邦の独立性については」
「尊重するのか、という趣旨の確認がございました」
「それで?」
「同じく、本府へ持ち帰ると」
「通商上の損害補填については」
「別途協議の用意があると伝えた範囲に留めました。必ず補うとは申しておりません」
「戦争を望まないとは」
「申しておりません」
「ハイゼンベルクを挑発する意図はないとは」
「申しておりません」
「今回の演習が南マルク諸邦の自立を侵すものではないとは」
「申しておりません」
宰相はそこでペンを置いた。
小さく、口元が笑みの形に動いていた。
それが本当に珍しいことだったので、少し身構えた。
「本当に黙っていたのかね、君は」
「まあ、そう言われましたので」
言ってから、少し言い方が軽かったかもしれないと思った。
けれども、そう言われていたから命令を実行しただけであることに変わりはない。
宰相はしばらくこちらを見ていた。
その目の感情は読み取れなかった。
「普通は、中々黙れんものだ」
宰相は椅子の背に少しだけ体を預けた。
「目の前で責められると人は説明したがる。自分には責任を取る権限もないくせに、何とか場を収めようとして、相手が欲しがる理屈を少しずつ出す」
クラウスは黙って聞いていた。
「相手の顔色が悪くなると保証したがる。場の空気が冷えると謝りたがる。後で国の手足を縛るような言葉でも、その場を軽くするためなら平気で置いてくる」
宰相は机上の報告書を指で叩いた。
「君はそれをしなかった」
「そういう命令でしたので」
「それを命令通りにやる人間が少ないと言っている」
宰相の声が少しだけ鋭くなったので、返事に困った。
まるで立派なことをしたような言い方だが、現実には本当に権限もなく知らなかったので、そのまま答えただけだからだ。
「私は、ただ判断を避けただけです」
「だから役に立った」
「それを狙っておられたのですか」
「半分はな。こちらが言葉を与えなければ向こうは読む。もっとも、君が本当に一つも余計な言葉を置いてこないとは思っていなかったがね」
また判断に困る言い方だった。
「閣下は、私をどういう人間だとお考えだったのでしょうか」
「一つくらいは恐縮して謝ってくるかと思っていた」
それは確かにそんなに間違っていない気もした。
ただ、あの場で責められるのと後でこの人に責められるのでは後者の方が嫌だっただけだ。
とても嫌な比較である。
「それで、向こうは何に一番反応したのかね」
「はい。戦争の有無についての質問には、どの出席者も反応しておりました。ただ、最も空気が変わったのは回答を持ち帰ると申し上げた時です」
「ふむ。なぜそう見たのか、理由を教えろ」
「彼らはそれまで私の顔を見ていました。しかしその時だけ、互いの顔を見ました」
宰相の目が、わずかに動いた。
「おそらく私が何を答えるかより、ノルトマルク政府がこの場で答えを出さないという事実の方を重く見たのだと思います」
「よろしい。耳だけで十分だと言ったが、目も使ったらしいな」
「目を閉じろとは言われておりませんでしたので」
流石に統帥府でそう言われたので、とは返さなかった。
「参謀らしい屁理屈だ」
「恐縮です」
「褒めてはいない」
このやり取りにも、もう少し慣れてしまっている自分がいた。
たぶん、それはあまり良いことではないのだろう。