面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
南マルクから戻って二日目の夕刻、クラウスはバルク家の小客間で用意された椅子に浅く腰を下ろしていた。
机の上には紅茶と焼き菓子が置かれている。
向かいには、アンナ嬢が座っていた。
深い緑の室内着に、薄い白の襟飾り。長い赤い髪は後ろでまとめられている。
少し離れた窓際には、以前にも付き添っていた年嵩の婦人が刺繍を手に控えていた。
「それでは」
アンナ嬢が紅茶の杯を置いた。
「お約束のお話を、伺ってもよろしいでしょうか」
クラウスは少し姿勢を正した。
「土産話と呼んでよいのかは分かりませんが」
「それでは報告を読み上げる姿勢ですわ」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
正直な所、報告書を読み上げる方がいくらかやりやすいのは事実だった。
「ええと……そうですね、南マルクでは、月が列車に乗るのです」
アンナ嬢は一度、瞬きをした。
その光景を想像したのかもしれない。
「月、ですか」
「はい。舞台用の月です」
言ってから、自分でも奇妙な説明だと思った。だが事実なので仕方がない。
続いてクラウスは、国境駅でアーレン国王オトフリート二世陛下の命令のもと、王室急送貨物として月が先に通されたことを話した。
アンナ嬢は途中から口元を押さえていた。
「まあ、列車を遅らせてまで月を?」
「はい。時刻表の上では、月が私より優先されました」
「それは大変な出来事でしたね、こちらでは考えられないことです。そんなことをしたらどれだけ腹を立てる方がいらっしゃるか」
「ええ、想像するだけで恐ろしいです」
そう言って、紅茶を傾けた。
確かに時刻表が舞台装置に負けるという経験は、精神的にはかなりの衝撃だった。
「それで、その月はどうなったのですか」
「私が乗っていた列車が途中で追い抜きました。王命は列車の出発順を変えられても、月そのものを軽くすることまではできないようです」
「あら」
今度ははっきりと笑った。
「月が列車で運ばれて、先に出たのに途中で追い抜かれる。たしかに、南マルクらしいお土産話かもしれません」
「南マルクらしい、というものが私にはまだ分かりませんが」
「少なくとも、父の執務室では起きなさそうですから」
「違いありません」
あの人には月も太陽も関係ないだろう。
せいぜい、手元を照らす明るさの違いくらいとしてしか認識していなそうだった。
「オトフリート二世陛下には、王立新歌劇場でお目にかかりました」
「王宮ではなく?」
「はい。到着時点では王宮での謁見予定だったのですが」
「わかりました。月が届いたからですね?」
「ご明察です」
また喉を鳴らした。正解したのが嬉しかったらしい。
「陛下は、劇場に対して非常に真剣でいらっしゃいました」
「ご評判通りでしたのね」
「ただ、真剣であることと、周囲が助かることは別なのだと思います」
「まあ、父にも少し似てらっしゃいますね?」
「……否定は難しいです」
言われてみると、自分の中に明確な優先順位を持ち、それ以外の人間が困惑してもあまり気にしないという点ではそうなのかもしれない。
あの宰相と放蕩王閣下が似ているというのは奇妙だが、それでいて変な納得を得た。
「それで、ライフェンベルクさまはどのようなお話を?」
「芸術の御指導をしていただきました」
「まあ! それは貴重な経験ですわね。随分と芸術の造詣が深い方と有名ですもの」
「とはいえ、私にはあまりそれを飲み込めませんでしたが」
アンナ嬢が、少しからかうような目でこちらを見た。
「では、わたしとも芸術を学んでいただけませんか?」
クラウスは一瞬、返事に詰まった。
「と、言いますと」
「以前おっしゃってくださったでしょう? 幕が上がる前の一瞬を見てくださると」
アンナ嬢は、傍らに置いていた小さな紙片を取り上げた。
「王都大劇場の貴賓席です。明後日の夕刻」
クラウスは紙片へ目を落とした。
そこには、劇場印と演目名が記されていた。
『愛国史劇 コルヴィエールの葦毛』
「……これは?」
「御存じありませんか?」
「コルヴィエールを扱った芝居なら、一度だけ見たことがありますが。四年前、西部総監府の置かれたシュタインフェルトで。戦傷者および遺族扶助の興行でした」
というより、芝居などこれだけしか見たことがない。
自ら参加した会戦を扱ったもの、そして自分が出てくる芝居だということで、半ば強制的に初演を見せられたのだ。
「その時の題名は、『コルヴィエール高地』だったはずです。なぜ馬が題名になっているのでしょうか」
「人気が出たからではないでしょうか」
「馬が?」
「馬と、それに乗っていた方が」
クラウスは沈黙した。
アンナ嬢は、何でもないことのように続けた。
「父のところへ招待席が回ってきたのです。本来なら父が行くべきなのでしょうけれど、上演時間を聞いて『二時間あれば法案を一本潰せる』と言って断りました」
とてもありそうな話だった。
というよりも、付き合いですらあの人がおとなしく芝居を見ている姿など想像できない。
「お嫌でしょうか?」
「嫌というわけでは……ありませんが」
「では、ご一緒していただけますでしょうか?」
「……もちろん、楽しみにしております」
「まあ、ライフェンベルクさまもそういった心遣いができるのですね」
アンナ嬢は満足そうに頷いた。
「では、明後日の夕刻。王都大劇場の正面で。くれぐれも参謀の装いのままいらっしゃらないでくださいね?」
「……はい」
たぶん、言われなければ半々でその格好だったかもしれない。
◆
二日後の夕刻、王都大劇場前でクラウスは頭を抱えていた。
原因は目の前にある大きな看板だった。
『愛国史劇 コルヴィエールの葦毛』
――敵砲火を衝き、王女を救いし若き参謀、クラウス・フォン・ライフェンベルクの勇気と献身。
何度読み直しても、別人の名前にはならなかった。
左右には軍刀を掲げる騎兵将校と、白い花を胸元へ抱いた黒衣の王女が描かれている。
将校の輪郭は本人より二回りほど大きく、顎は角張り、肩幅は扉を通れるか心配になるほど広い。
唯一似ているのは、髪の色くらいだった。
このライフェンベルクさんというのは一体どなたなのだろうか。自分は寡聞にして存じ上げない。
「本当にご存じなかったのですね、どういった劇なのか」
その時、横から声がした。
アンナ嬢は、劇場前に停まった馬車から降りたところだった。
深い青の外套の下に、淡い灰色の衣裳が見える。
巻かれた赤髪が良く映えていた。
「知っていたものとは、随分違いますね」
クラウスは広告から目を離さずに答えた。
顔は引きつっていると思う。
「確かに以前、わたしが観た時もここまでではありませんでした」
正面玄関の上にある横幕の端には、赤い文字で「新稿第六版、王都特別公演」とあった。
この話は、六度も書き直すほどの題材だったのだろうか。
少なくとも当事者である自分には覚えがなかったし、何の相談も無かった。
「引き返すことはできませんからね?」
「まだ何も言っていませんが」
「顔に書いてありました」
「参謀は常に退路を確保するものですから」
「本日は軍務ではありません」
「宰相閣下の代わりに観覧するのであれば、半ば職務では」
「では、職務としてわたしを劇場へ案内してくださいませ」
そう言って、少しだけ首を傾げた。
クラウスは観念して一礼し、劇場の階段へ向かった。
◆
劇場内は、平日の夕刻とは思えぬほど混んでいた。
軍服姿の士官。胸に従軍章をつけた退役兵。家族連れ。学校の制服を着た少年たち。
その間を、番付売りが大きな束を抱えて歩いている。
「コルヴィエール新稿版! 史実考証欄つきでございます!」
嫌な呼び声だった。何をどう考証したら自分があの男になるのだろうか。
バルク宰相が用意させた席は、舞台右手の二階貴賓席だった。
正面からは少し外れているが、舞台全体が見える良い場所だった。
席に着くと、アンナ嬢が番付を一部差し出した。
役者の肖像画も載っている。
クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉役、ゲオルク・ハインツ。
立派な髭があった。随分と自分の知っているライフェンベルクとやらに似ていない役者である。
「一体このライフェンベルクというのは誰の事なのでしょうか」
「以前申し上げたでしょう。熊と狼を足して割ったような方が演じていると」
「今のところ、かなり正確な説明だったと認めざるを得ません」
アンナ嬢は楽しそうに番付を開いた。
「ライフェンベルクさまは、あまり御自分の評判をお読みにならないのですね」
「読まないようにしています」
「なぜですか」
「だいたい私ではない人間の話になっているので」
「では今夜は、その方を二時間ほど拝見するわけですね」
「そう言われると、ますます帰りたくなります」
「帰ってはいけません。わたしは、この芝居をあなたの隣で観るために来たのですから」
返答に困った。
アンナ嬢は何でもない顔で番付に目を落としている。
その時、下の平土間で少年の声がした。
「ライフェンベルクって、どういう人なの?」
すぐに父親らしい男の声が続く。
「大昔から、ブランデンでいちばん勇ましい騎兵の家だ。王様の旗が倒れかけると、いつでも馬で駆けてくる」
「じゃあ、今夜出る人も強いんだ」
「強いとも。当代は特に傑物って話だからな」
少年は納得したらしく、木で作った小さな軍刀を膝の上へ置いた。
クラウスは番付を閉じた。
「家名を貸した覚えもないのですが」
「家名というものは、本人が貸さなくても他人が使いますから」
「閣下が好みそうな理屈ですね」
「はい、父の受け売りです」
そう言って舞台へ目を向けた。
客席の灯りが一つずつ落ちていく。先ほどまで方々から聞こえていた話し声が、暗くなるにつれて少なくなった。
ふとアンナ嬢に目をやると、舞台ではなくこちらを見ていた。
「まあ、どうされました?」
「……今は皆が舞台を待っている瞬間ではなかったのですか?」
「ふふ、今日はライフェンベルクさまを見ておきたかったので」
そう言って、アンナ嬢は声を立てずに笑った。
◆
最初の一幕は、思っていたより悪くなかった。
ベルヴァーニュ軍の越境にはかなり露骨な悪役の音楽がついていたが、少なくとも出来事の順番を大きく外してはいない。
ヴァルテンベルク上級大将役は、本人より髭が長かった。
メルテンス大佐役は本人より十歳ほど年上に見えたが、皮肉の言い方は妙に似ていた。
ハルトゥング少佐役は、地図の前で一度も瞬きをしなかった。
二幕目の終わりで、ベルヴァーニュ軍が姿を現した。
舞台装置の石橋は記憶の倍ほど広い。あれだけ幅があれば、ベルヴァーニュ軍ももう少し楽に前進できただろう。
そうして両軍の兵士役が戦い、倒れた後に幕が下がり、短い転換の後に軍団司令部らしき舞台装置が現れた。
伝令が駆け込み、電信線の断絶を告げた。
ヴァルテンベルク上級大将役が、重い声で言う。
「命令が届かぬ。誰か、第一師団へ行ける者はおらんか」
そこで舞台奥から、黒髪の大男が一歩前へ出た。
「閣下」
客席がざわついた。
大男は胸へ手を当て、顔を上げた。
クラウスは、もうすでに顔を半分以上舞台から逸らしていた。
「クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉であります! 私が参ります!」
拍手が起きた。一階席だけではない。二階、三階の桟敷からも手袋を叩く音が重なる。
自分の膝へ視線を落とした。もはや直視する勇気は無くなっていた。
「人気者ですね」
アンナ嬢が小声で言った。
「役者の方が、でしょう」
「今はまだ、どちらとも分かりませんね」
舞台上のヴァルテンベルク上級大将が大音声を張り上げた。
「ならぬ! 道には敵砲が降っておる!」
自分の知らないライフェンベルクさんは、大きく首を横へ振った。
「言葉が届かぬのなら、私が言葉となりましょう!」
再び拍手。
クラウスは眉間を押さえた。
「申しておりません。誰も他に行く人間がいなかったので、消去法で決まったのです」
「あら、勇猛なるライフェンベルクさまらしくもありませんね?」
「ですから僕は――ああ、ええと」
「訂正しなくてよろしいですよ。そちらの言い方の方が好きです」
クラウスは返事に困り、舞台を見た。
舞台袖から葦毛の馬が引き出された。もちろん本物ではない。馬体の前半分だけを作った舞台装置で、その下に車輪がついている。
その葦毛に跨った舞台上のクラウスは一度も伏せず、砲弾が足元へ落ちるたびに馬をさらに速く走らせた。
実際には、速く走りすぎれば馬が脚を折る。あの道は泥濘んでいた。砲煙で前も見えなかった。
「……あなたは、砲火の中を走ったのですよね」
アンナ嬢が静かに訊いた。
音楽に紛れるくらいの声だった。
クラウスは舞台を見たまま、少しだけ答えに迷った。
「ええ。なんというか当時は怖いというより、考える余裕無かったことだけを覚えています。覚えていたのは命令書を濡らさないことと、馬を転ばせないことと、戻り道を忘れないことだけで」
「……そう、ですか。たぶん、あの俳優よりも本物のあなたの方が勇敢だったのでしょうね」
なんとも返せなかったが、アンナ嬢はそれ以上訊かなかった。
舞台のクラウスが第一師団司令部へ着くと、ヴォルクマン少将役が両腕を広げた。
「おお、勇猛なるライフェンベルク! 騎兵の誉よ!」
以前アンナ嬢が口にした台詞だった。
観客の何人かは、一緒になって唱えていた。どうにも人気の台詞らしい。
頼むからやめてほしい。
舞台上のクラウスは馬を降り、命令書を少将へ差し出した。
「正面へ増援を! されど南浅瀬方面の主予備は動かしてはなりません!」
その命令を伝えるだけでいいのであれば、この時自分が向かう必要は無かったのだが。
どうやら舞台ではその辺りの区別は無くなったらしい。
そして次の瞬間、第一師団司令部へ伝令が飛び込んだ。
「敵、果樹園を突破! 我が騎兵、指揮官を失いました!」
もちろんそのような出来事はなかった。
勝手に殺されたクルーゲ殿が見たら憤慨しそうな展開である。
ヴォルクマン少将役が苦悩の顔で客席を見た。
「騎兵を導く者がおらぬ!」
舞台上のクラウスが、軍旗を取った。
もう嫌な予感しかしなかった。
「命令は届いた」
低い弦の音が鳴る。やたらと荘厳な雰囲気だった。
「ならば次は、命令を現実にする番である!」
客席が大きく沸いた。
葦毛の馬がもう一度舞台中央へ出され、歩兵役の俳優たちが左右へ道を開ける。
「この後、本当に突撃へ?」
「行くわけないでしょう!……失礼。司令部へ戻りました」
「すぐに、ですか?」
「ええ、可能な限り。復命をしてから初めて伝令の役目は成り立ちますので」
舞台では、俳優が軍刀を抜いていた。
騎兵軍刀など佩いて伝令に向かった覚えは無かった。
「では、あれは」
「職務を放棄した愚か者です」
アンナ嬢は少しだけ笑った。
「あなたは随分と、御自分の英雄譚には厳しいのですね」
「英雄譚ではなく命令違反です」
「その区別がつく方は、たぶん客席には少ないと思います」
勇ましい軍楽が鳴った。役者たちが馬の頭を模した大道具を抱えて舞台を横切り、ベルヴァーニュ兵が次々に倒れていく。
ライフェンベルク大尉らしき将校は軍旗を掲げたまま敵陣の奥へ進み、最後には敵砲兵の指揮官を一騎打ちで斬り伏せた。
一体、自分は何を見せられているのだろうか。
幕が下りる。
拍手の中で、先ほどの少年が木の軍刀を頭上へ掲げていた。
◆
休憩に入ると、クラウスは用意されていた水を一息に半分ほど飲んだ。
「大丈夫ですか?」
「砲火の中を馬で走った時より、少し頭が痛みますね」
「まあ、そこまでですか」
「少なくとも、あの時は僕が騎兵突撃へ参加するところを見ずに済みましたので」
アンナ嬢は笑って番付の続きを見た。
「次は王宮のシーンとのことですね。芝居では、戦場からそのまま王都へ向かわれるようですよ」
「コルヴィエールからサン・ルネまでは、鉄道でもかなり掛かりますが」
「幕間は十五分でした」
「舞台というものは、時程を無視しすぎではありませんか」
「それは野暮というものです」
番付を膝の上へ置いた。
第四幕の説明欄には、王宮北翼の逸話について記されている。
ベルヴァーニュ使節団に囲われたエレオノーラ第一王女。
王女殿下が密かに書いた書面。
それを一身に託された若きライフェンベルク大尉。
やがて明らかとなった、国家と身分を越えた二人の心の交流。
「以前の版には、これがなかったのですね」
「ええ。王女殿下は最後の場面で即位なさるだけでした」
「なぜ足したのでしょう」
「当時、かなり噂になったそうです」
「何がですか」
アンナ嬢は答える前に、番付の上で指を止めた。
「王女殿下がノルトマルクの若い将校へ密書を託されたこと。それから御帰任の前に、個人的な御面会を求められたこと」
クラウスは水の杯を置いた。
「よく広まっていますね」
「本当にあったのですか?」
「真実だと言いたくはありませんが、嘘だというほど逸脱してもいません。腹立たしいことに」
アンナ嬢はそれ以上訊かなかった。
少しの間だけ、客席のざわめきが二人の間に落ちた。
客席の灯りが、また少しずつ落ち始めた。
◆
第四幕は、王宮の一室から始まった。
窓辺には黒い喪服の王女が立っている。扉の外には、ベルヴァーニュ兵が二人。
ベルヴァーニュ側の悪役が部屋へ入り、王女へ書面への署名を迫る。
たぶんあれの元は首席使節の方だろう。元気にしているのだろうか。
などと考えている内に舞台は進んでいく。
王女は拒む。悪役が兵を呼ぶ。廊下で剣の触れ合う音がした。
そして扉が開き、軍刀を下げたライフェンベルクさんが現れた。
なぜか先ほどまでコルヴィエールで騎兵突撃をしていた軍服のままである。
肩には泥と血糊がつき、軍刀の切先から赤い布が垂れていた。まさか彼はこの格好で戦場から歩いてきたのだろうか。
「殿下。お迎えに参りました」
「ノルトマルクの命ですか! わたくしはあなた方にも与するつもりはございません!」
「誰の命でもありません!」
舞台上のライフェンベルクさんは、王女とベルヴァーニュ兵の間へ立った。
「あなたがまだ、ご自身の言葉を失っておられないと信じた者の判断です」
観客席のどこかで、婦人が小さく息を呑んだ。
クラウスも別の意味で息を呑んだ。
「剣も抜いていません」
「さすがに、それは分かっています」
「王女殿下をお迎えにも行っておりません」
「少しお静かに」
集中して見ているらしい。
できることなら自分とて静かにしていたかった。
舞台の王女は机から一通の紙を取り、ライフェンベルクさんへ差し出した。
「この書面を、ロガリアの仲介者へ」
「必ず」
「お読みにならないのですか?」
「私へ宛てられたものではありません」
王女役は、そこで少し笑った。
「では、あなたへ宛てて書けば、お読みくださるのですか」
「公的な書面へ私的な言葉を混ぜるべきではありません」
「でしたら、私信としてお受け取りください」
王女がもう一枚、小さな紙を差し出した。
大尉は受け取らない。
王女は紙を胸元へ置いた。
「クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉」
初めて、王女役が名前で呼んだ。
音楽が細くなった。
クラウスは恥ずかしくて早くこの場を離れたかった。
隣のアンナ嬢は黙っていた。
王女が顔を近づける。接吻まではしなかった。
ただ、額が触れそうな距離で止まり、舞台の照明が落ちた。
幕が下りる直前、王女役が囁いた。
「戦が終わっても、わたくしを忘れないでください」
舞台上のクラウスは答えなかった。
その沈黙まで、客席には美しいものとして受け取られたらしい。
幕が下りると、今夜いちばん大きな拍手が起きた。
なんだこれは。
エレオノーラ殿下、いや女王陛下が知ったら公開停止になるんじゃないだろうか。というかなってほしい。
◆
最終幕では、ルサント王国の独立と中立が保障され、エレオノーラ王女は新たな女王として即位した。
舞台上のクラウスは、王都駅のホームで女王と別れた。
女王は白い手袋の片方を外し、大尉へ差し出す。
大尉はその手を取るが、口づけはしない。
「また、お会いできますか」
「陛下の望みとあれば」
もはや訂正する気にもなれなかった。
最後の曲は連邦軍の行進曲だった。
舞台奥に十一邦の旗が並び、ライフェンベルク大尉役が葦毛の馬を従えて中央へ立つ。
女王役の女優が、その隣へ並んだ。
二人は手を取り合って一礼した。
花束が舞台へ投げ込まれた。
三度目の呼び戻しで、客席の誰かが叫んだ。
「ライフェンベルク!」
役者は胸へ手を当てた。
別の席からも同じ声が上がる。やがて二階、三階から名前が重なった。
クラウスも叫び出したかった。
◆
芝居が終わっても、観客はまだ舞台の話をしていた。
「あの王女の場面は、やはり本当なのだろうか」
「密書があったのは事実だそうだ」
「ルサント女王陛下が、今も御成婚なさらないのは――」
アンナ嬢は隣を歩いていた。
来た時より少しだけ歩く速度が遅い。番付を半分に折り、さらにもう一度折ろうとして、紙が厚かったため途中でやめた。
正面玄関は馬車を待つ客で混雑している。
クラウスは脇の回廊へ目をやった。
「こちらから出られます」
「やはり出口は確認していらしたのですね」
二人は脇階段を下りた。付き添いの婦人は馬車を回すよう従者へ伝え、少し先の庇の下で待っていた。
外では細い雨が降り始めている。
石畳に劇場の灯りが伸び、馬車の車輪がその上を切っていった。
アンナ嬢は折った番付を両手で持ったまま、しばらく通りを見ていた。
「本日は、申し訳ありませんでした」
「なぜ謝るのですか」
「私は隣で訂正ばかりしておりました。というより、芝居を全く楽しめませんでした」
「いいえ」
アンナ嬢は首を横に振った。
「とても贅沢な観劇でした。本物のライフェンベルクさまによる注釈付きですから」
「注釈としては、かなり不愉快だったかと」
「そうでもありません。舞台がどこで嘘をつき、どこで本当を残しているのか、何を想像で補ったのかが少し分かりました」
「ほとんど嘘だったと思いますが」
「でも、全部ではなかったのでしょう?」
雨の音が庇を細かく叩いた。
たしかに全部が嘘なら、まだ楽だった。
馬で砲火の中を抜けたことも、密書を託されたことも、王女殿下に呼ばれたことも、完全な作り話だと言えたなら、どれほど簡単だっただろう。
だがそうではない。
嘘は、事実の輪郭に布を被せる。だから厄介なのだ。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「もちろんです」
すぐには続かなかった。
クラウスが横を見ると、アンナ嬢はまだ通りを見ていた。
「……本当に、エレオノーラ女王陛下とは何もなかったのですか?」
「ありません」
返事はすぐに出た。
「ずいぶん早いのですね」
「考える必要のないことですので」
「王女殿下から密書を託されて、御帰任前には個人的に呼ばれたのですよね」
「それは事実ですが」
「それでも?」
「それでもです」
アンナ嬢は番付の折り目へ親指の爪を押し込んだ。
紙の上で、舞台のクラウスと王女の顔が少しずれた。
「舞台では、王女殿下がなかなか私的なお話を仰っていましたが」
「そのようなことは仰っておりませんでした」
「では何を?」
「ええと……その、まあ、感謝を。いえ、別に剣を抜いて切り込んだりはしておりませんが、色々とあったので」
アンナ嬢はゆっくりこちらへ顔を向けた。
「色々、とは」
「まあ、色々と……としか」
「ライフェンベルクさま」
「はい」
「弁明というものは、もう少し御自分に有利な事実だけで組み立てるものだと思います」
「弁明が必要なことではありませんので」
「……そうなのでしょうね」
また通りへ目を戻した。声は穏やかだった。
その分だけ、次の言葉が見つからなかった。
「殿下は、大変賢明な方でした」
言ってから、これはちょっと違うのではないかと思った。
「あの状況で、御自分の言葉がどのように記録されるかを正確に理解しておられて――」
「そういう意味で伺ったのではありません」
「では、どういう意味でしょう」
「もう結構です」
「しかし」
「結構です」
アンナ嬢は一度だけ息を吐き、番付を持ち直した。
「その後、女王陛下とは一度もお会いしておりません」
アンナ嬢は答えなかった。
「書簡をいただいたこともありません」
今度は少し間があった。
「あなたからは?」
「出しておりません」
「……そうですか」
番付の折り目から爪が離れた。
クラウスは少しだけ迷い、それから付け加えた。
「そもそも、私信を書くような関係ではありませんでした」
「王女殿下から私信を受け取られたのに?」
「受け取っていません」
「舞台では」
「あれは舞台では、です」
「御帰任前の面会は?」
「それは……感謝のお言葉をいただきました」
「それだけですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
アンナ嬢はしばらくこちらを見ていた。
雨音だけが間を埋める。
「では、少しは安心しました」
馬車が到着した。
御者が扉を開け、踏み台を下ろす。
アンナ嬢は馬車へ向かう前に、もう一度だけ足を止めた。
「クラウスさま、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「え?」
「そういう関係なのでしょう、私たちは」
「え、ええ……まあ、はい」
「では、クラウスさま。次は御自分に関係する女性の話を、最後まで省かずにお願いします」
「……努力します」
「努力ではなく、約束です」
「はい。約束します」
「では、この後はお茶とともに感想を伺います。もちろん、付き合ってくださいますよね?」
「……もちろん」
「よろしい」
そこでようやく、少し笑った。
その笑みは、なぜだかバルク宰相を少しだけ思い出させた。
クラウスも彼女と一緒に馬車へ乗り、番付を二人の間の座席へ置いた。
最初の角を曲がったところで、紙が滑ったので、クラウスは手袋をした手で押さえた。
表紙の王女と大尉は、折り目のところで少し離れていた。