面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
それから五日間、クラウスは一度しか下宿へ戻らなかった。
宰相府の小会議室には、厚紙を二つ折りにした十一枚の名札が並べられていた。
各邦から返書が届くたび名札の前に新しい綴りが置かれ、共通の声明は最後まで作られなかった。
北マルク十一邦は、それぞれ異なる資格で自らの利害に基づいてハイゼンベルク側の議案を止めればよい。
故に揃えたのは文言ではない。
受け入れてはならない線と、結論を継続協議へ送るための手順だけだった。
最後まで残ったのは、ブリュック自由市の返書である。
通商権に関する留保をどの段階で出すかについて外務省と二度やり取りし、文案を二度往復させた末、最終稿へ封をした時には、宰相府の時計が午後二時を回っていた。
これでようやく十一枚が揃った。
バルク宰相は封書の宛名を確かめると、机の端へ放った。
「よろしい。出発は明朝六時五十五分だ。遅れるな」
「武装随員は禁止されているのでは」
当然のように自分が会議へ随行する勘定で話が進められている口ぶりだった。
招請条件に武装随員を認めないとあったため、自分が同行することはまずないと思っていた。
正直な所、会期中は久しぶりに少しのんびりできるのではないかと、ほんのわずかに期待すらしていた。
しかしバルク宰相は、何を分かりきったことを訊くのかという顔をした。
「剣を置いていけばよかろう」
「ですが、私は軍人です」
「そうだ。そして、この書類は君が作った」
クラウスは、そこでほぼ悟った。
これは何を言っても通じない時の宰相閣下であると。
「……承知しました」
「よろしい。ならば今日は帰るといい」
書類を鞄へ収め、宰相府を出た。
本来であれば、下宿へ戻って荷造りをするべきだった。
明朝までに六日分、余裕を見るなら八日分の衣類を揃えなければならない。
会議用の文書ももう一度確かめる必要があるし、剣を置いていくなら軍装の細部も少し変わる。
それでも、馬車へ乗り込んだクラウスが御者に告げた行き先は、下宿ではなかった。
◆
バルク邸へ着いたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
玄関で名を告げると、執事はわずかに目を見開いた。
それも当然だろう。
訪問の約束は明後日である。しかも、クラウスは連絡も入れずそのままやってきた。
取り次ぎを頼んでから待たされた時間は短かったが、クラウスには、その間に帰るべき理由を三つほど思いつく余裕があった。
しかしそのどれも口へ出す前に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
アンナ嬢は、いつもより簡素に髪を纏めていた。外出用の装いではない。
その姿を見て、クラウスは来てしまったことを急に申し訳なく思った。
「クラウスさま。今日は、いらっしゃらないと思っていました」
「僕も昼まではそのつもりでした」
「では、父に命じられたのですか?」
「いえ、閣下からは帰れと命じられました」
アンナ嬢の手が、スカートの脇で一度止まった。
「ただ、今週は茶会に伺うと約束しておりましたので」
「でしたら、明後日のはずですが」
「明朝から、シェーンハルトへ同行することになりました。宰相閣下と」
「まあ、クラウスさまが?」
「まことに光栄なことに」
アンナ嬢はクラウスの顔を少し見て、それから小さく息を吐いた。
「では、明後日の埋め合わせをということでしょうか?」
「はい」
「……そうですか」
アンナ嬢は踵を返し、クラウスを小客間へ案内した。
窓際のテーブルには、読みかけらしい本が伏せて置かれていた。
「何を読んでおられたのですか」
「旅行記です。シェーンハルトを訪れたベルヴァーニュ人が、帝都の食事と宿屋について文句を書いています」
「ベルヴァーニュの方は、自国以外の食事にはいつも文句をつけておられますからね」
「ええ、その通りです。ハイゼンベルクの料理は、繊細な味付けに対する敬意が足りないそうで」
「なるほど。……南マルクでいただいた料理を食べた時にはそうは思いませんでしたが」
「この方によれば、煮込み料理にはソースの工夫がなく、肉の味ばかりがするそうです」
肉料理が肉の味がするのは自然だと思うのだけれども、この旅行記の作者はそれが気に入らないらしい。
そんなことを話しているうち、茶が運ばれてきた。
クラウスが取っ手を持つと、白磁に黒い指の跡が残った。
洗ったはずの手を見れば、親指と人差し指の間にインクが染み込んでいて、爪の際にも細い黒線がある。
アンナ嬢は何も言わず、折り畳んだナプキンを差し出した。
「申し訳ありません」
「どうして謝るのですか?」
「ああ、いえ……その、清潔とは言い難い恰好だな、と」
「いいえ」
アンナ嬢は、クラウスの手元へ視線を落とした。
「そうまでして会いに来てくださったことは、嬉しいです。本当に」
そこでカップを持ち上げたが、少し逡巡した後、結局口をつけずに戻した。
「ですが、別のことでは言わせていただきたいことがございます」
「はっ」
思ったよりも低い声だったため、反射的に上官への返答が出た。
アンナ嬢は、少しだけ眉尻を下げた。
「クラウスさま。それでは父の前にいるようです」
「率直に言わせてもらえれば、同じ気分でした」
「まあ! さすがにそれは聞き捨てなりませんね」
そう言いながらも、声には笑いが混じっていた。
だが、次の質問は笑っていなかった。
「最後に下宿へ戻ったのは、いつですか?」
「一昨日です」
「その前は?」
「……よく覚えておりません」
「では、その間はずっとお仕事を?」
「はい」
正直に答えると、アンナ嬢は目に見えて機嫌を悪くした。
「いえ、本来は会議に同席する予定はないだろうと思っておりまして。まあ、その、下宿へ帰ったところで大して休めませんし、宰相府の仮眠室も、あれはあれで結構――」
「クラウスさま」
「は、はい」
「うるさいことを仰るとお思いになるかもしれませんが、休むべき時には、どうか休んでください」
「……はい」
たしなめているというより、その言葉には心配の色しかなかったので、かえってはっきりと居心地が悪くなった。
怒られるのであれば、何か理由を述べればよいし、それが命令であれば従えばよい。
だが、ただ心配されることには何を返せばよいのか分からなかった。
「昼食は召し上がりましたか」
同じ声音で続ける。
昼前に何かを口へ入れた記憶はあった。
外務省の官吏が書類と一緒に置いていったもので、紙に包まれていた。
サンドイッチだったはずだが、中に何が挟まれていたかまではもう覚えていなかった。
「パンです。たぶんハムが挟まっていました」
「うっすらとしか覚えていないのですね」
「食べたことは覚えています」
「では、軽い食事を用意させます」
「そこまでしていただかなくとも」
アンナ嬢は卓上の鈴を鳴らした。
ほどなく入ってきた女中へ、鶏肉と胡瓜を挟んだパンをいくつか包むことと、薄い掛布を一枚持ってくるよう頼んだ。
「掛布?」
「重ねて言いますが、会いに来てくださったことは、本当に嬉しいのです。ですから、せめて少し休んでいってください」
「しかし、明朝の支度が」
「三十分です。三十分休んだことで間に合わなくなる荷造りでしたら、いまから下宿へ人を向かわせます」
「それは、もっと困ります」
「では、お休みください」
反論の余地を塞がれた。
女中が、小さな枕と薄い掛布を長椅子へ置いた。
付き添いの婦人は、何事もなかったように窓際で刺繍を続けている。
客間の扉も、半ば開けられたままだった。
形式上の問題はない。そして形式以外の問題については、クラウスにもよく分からなかった。
「そこまでしていただかなくとも」
「父のために五日も働いた方を休ませるのですから、この程度はさせてください」
「閣下のためというより、ノルトマルクのためですが」
「そう違いはないでしょう?」
「まあ、確かにそうかもしれません」
クラウスは長椅子へ腰を下ろした。
襟元へ指を入れ、ほんの少しだけ緩める。
横になるのはなお気が引けたが、目を閉じるだけなら客間の礼を大きく損なうこともないだろう。
アンナ嬢は、先ほど伏せていた旅行記を手に取った。
「わたしは本を読んでおりますから、お気になさらず」
「僕が眠るまでですか?」
「目が覚めるまでです」
「そこまで見守っていただく必要は」
「わたしが、そうしたいので」
それ以上は言えなかった。
クラウスは長椅子へ背を預け、目を閉じた。
「眠れないかもしれません」
「でしたら、眠らなくても構いません。目を閉じているだけでも、少しは違うそうです」
「どなたからお聞きになったのですか」
「いま、わたしが決めました」
思わず口元が緩んだ。
目を閉じると、紙をめくる音が聞こえた。
宰相府の仮眠室では、目を閉じても廊下を行き交う足音と、いつ呼ばれるか分からない緊張が残る。
下宿へ帰った時には、翌朝までに済ませるべき仕事を考えてしまう。
だが今は、近くで本の頁が一枚ずつめくられているだけだった。
一度だけ薄く目を開けると、アンナ嬢は本を開いたままこちらを見ていた。
クラウスと目が合うと、アンナ嬢は旅行記を少し高く持ち上げて顔の半分を隠した。
「アンナ嬢」
「はい」
「来てよかったと思います」
頁をめくる音が、少しだけ遅れた。
「ええ。わたしも、来てくださってよかったです」
その返事を最後まで聞いたところまでは、覚えていた。
◆
目を開けると、客間には灯りがともされていた。
窓の外はすでに薄暗く、身体の上には掛布が掛けられている。
アンナ嬢は、ベルヴァーニュの旅行記を開いて同じ椅子に座っていた。
窓際の婦人も、変わらず刺繍を続けている。ただし刺繍枠の模様は、こちらよりずっと進んでいた。
「お目覚めですか」
「……どれほど眠っていましたか」
「三時間ほどです」
「三十分で起こしてくださると」
「よく眠っておられましたので」
アンナ嬢は、何でもないことのように答えた。
「本当に三十分きっかりで起こすほど、わたしは父に似ておりません」
身体を起こすと、思っていたより頭が軽かった。
ほんの数時間の仮眠で五日分の疲れが取れるはずはない。
それでも、少なくとも自分が疲れているということくらいは分かるようになった。
「ずっと、ここにいらしたのですか」
「ここで休んでくださいと申し上げたのは、ひとりにしておくためではありません」
「申し訳ありません」
「いいえ。そう言われると、休ませたわたしが悪いことをしたように聞こえます」
「では……ありがとうございます」
「はい。そちらの方が嬉しいです」
女中が、布に包んだ小さな包みを持ってきた。
アンナ嬢はそれを受け取り、クラウスへ差し出した。
「夕食です。鶏肉と胡瓜を挟んだパンを入れてあります」
「ここでいただかなくてよろしいのですか」
「荷造りがおありなのでしょう」
「はい」
「でしたら、下宿へ戻ったら先に召し上がってください。荷造りより先です」
「承知しました」
アンナ嬢は、わずかに眉を寄せた。
「また父の前にいるようです」
「……帰ったら、先に食べると約束します」
「はい」
今度は満足したらしく、表情が和らいだ。
「それと、シェーンハルトへ着いたら一度はお便りをください」
「会議の経過をですか」
「会議のことは父へいくらでも。食事をしたか、眠ったか、それだけでも結構です。土産話は帰ってからまた伺いますので」
「それだけでよろしいのですか」
「いまのクラウスさまには、それがいちばん重要です」
返事をするまでに、少し時間がかかった。
意図はわかったが、それに素直に応じるのが難しかったからだ。
「書きます」
「約束ですね」
「はい。約束します」
クラウスは掛布を畳み、長椅子の端へ置いた。
立ち上がったところで、客間を出る前にアンナ嬢がこちらを見て小さく笑った。
「どうかなさいましたか」
「いいえ。お休みになっている間は、いつもより穏やかな顔をしておられたので。今日はありがとうございました。会いに来てくださって、本当に嬉しかったです」
「僕も、来てよかったです」
先ほどは眠りに落ちる直前だった。
今度は、はっきりと口にできた。
◆
下宿へ戻ったのは、空が暗くなってからだった。
玄関を開けると、一昨日の深夜に一度だけ戻った時の空気がそのまま閉じ込められていた。
窓は閉まり、机の上には未開封の郵便が三通置かれている。
壁の時計は二時十七分を指して止まっていた。
毎晩ねじを巻いていたが、一度怠れば翌日の途中で止まり、二度怠れば、いつ止まったのかも分からなくなる。
クラウスは時計を合わせず、旅行鞄を寝台の上へ置いた。
公式の日程は六日だったが、シャツは八日分入れた。靴は履いていくものとは別に一足。
会議場では軍服でよいが、皇帝主催の晩餐へ出席を求められる可能性があるため、勲章と飾緒も布に包んで鞄の底へ入れる。
剣は、壁際へ立て掛けたままにした。
軍服を着て帝都へ向かいながら、剣だけを置いていくのはどうにも奇妙な気がした。だが、命令は命令である。
用意した書類は旅行鞄よりも重かった。
クラウスが持つ木箱には、北マルク十一邦の発言予定と想定される共同宣言への対応表、その控えが入っていた。
帰ったら荷造りより先に食べる、という約束を思い出した時には、軍服二着と八日分のシャツがすでに鞄へ収まっていた。
クラウスは一度手を止めて、アンナ嬢に渡された包みを開くと、鶏肉と胡瓜のパンが三つ入っていた。
今回は何を挟んだパンなのかは、きちんと分かった。
食べ終えてから、寝台へ入る前に机の引き出しを開けた。
便箋を三枚と、封筒を二枚取り出す。
会議の報告を書くには足りないが、食事をしたか、眠ったかを書くには十分だろう。
少し迷った末、それを旅行鞄の上着と上着の間へ挟んで、灯りを消した。
◆
明朝のグランツェル中央駅では、腰が妙に軽かった。
何度か、存在しない剣の柄へ手を置こうとした自分に気づき、そのたびに手をポケットへ戻した。
ホームには石炭の煙が垂れ込めている。
機関車の下で蒸気が白く流れ、荷車の鉄輪が石床の継ぎ目を越えるたびに音を立てた。
扉の脇に掲げられた札にも、ノルトマルク連邦の名はなかった。
荷物を確認していた外務省の官吏が、クラウスを見つけて駆け寄ってきた。
「ライフェンベルク中佐、随行資料はこれですべてでしょうか」
「木箱が一つ、革鞄が二つです。革鞄のうち、赤い札の方は宰相閣下の客室へ。もう一つは会議用の机から動かさないでください」
「承知しました」
「封印を確認してから積んでください。木箱はこのまま私が持ちます」
官吏は頷き、荷役人の方へ走っていった。
車内の会議室へ入ると、バルク宰相はすでに窓際のテーブルに新聞と書類を広げ、その隙間で朝食を取っている。
籠には丸パン、牛肉、腸詰め、茹で卵が詰められていた。
「遅いぞ、ライフェンベルク」
「出発まではまだ時間があります」
「列車の話ではない。外務省の最終報告がまだ来ん。会議の前日に席次も出せん国が、諸邦の秩序を決めると言っている。大したものだ」
バルク宰相は腸詰めを切り、半分ほどを一度に口へ入れた。
クラウスは外務省から預かっていた日程表を開いた。
出発後、国境まで三時間。
国境駅で機関車を交換し、そこからシェーンハルトまで六時間あまり。
途中の停車駅は二つあるが、電報を確実に使えるのは国境駅だけだった。
「北マルク各邦の代表団は、予定どおり到着しています。ハルツは昨夜、ルーデンとメーレンは今朝。自由市二邦の代表も、正午までにはシェーンハルトへ入ります」
「到着してから酒を飲みすぎるなとは伝えたか」
「外務省から、前夜の非公式会合を控えるよう通知しています」
「控えろでは飲むぞ。禁止しろ」
「禁止すれば、隠れて飲みます」
「なら、見えるところで薄い酒を出せ。あの連中は会議より晩餐の席順を気にする」
「外務省の儀典官へ伝えておきます」
バルク宰相は、向かいの皿を指した。
「それは君の朝食だ。食べながら読め」
「ありがとうございます」
昨日、目の前の人の娘に休むべき時には休み、食事をするべき時には食事をするよう言われたばかりである。
だが結局、ここでは食べながら仕事をすることになるらしい。
客車の外で笛が鳴った。
出発を知らせるものではなく、別の列車を動かす合図だった。
ホームを横切る足音が増え、扉の向こうから何かを制止する声が聞こえた。
ほどなく、外務省の官吏が息を切らして入ってきた。
先ほど荷物を運んでいた者ではない。帽子は手に持ち、髪が額へ貼りついている。
「閣下、公使館からの最終電報です。儀典局で席次表に起こしました」
「今さらか」
「ハイゼンベルク外務省から公使館へ届いたのが、昨夜十一時を回っておりまして」
官吏が差し出した紙を、バルク宰相は片手で受け取った。
定規で引いた会議場の見取り図に、各邦の名が書き込まれている。
急いで作られたらしく、インクが濃い箇所と薄い箇所があり、余白には電報の原文が細かな字で転記されていた。
「見事な席次だな。ここまで説明のつく悪意は、もはや芸術的だ」
クラウスも席次表を受け取って、宰相府で使っていた十一枚の名札を取り出し、その上へ置いた。
会議場は、三方を机で囲む形になっている。
正面中央にハイゼンベルク皇帝と帝国外務卿。
その左右に北マルク十一邦と南マルク五邦が、旧帝国台帳に記された格と席次に従って配置されていた。
それ自体の並びに説明はつく。
王国は王国の列。
大公国は大公国の列。
その中でも、旧帝国における席次と家門の古さに従う。
だが、ブランデン王国の左右には、南マルクのアーレン王国と、ハイゼンベルクとの関係が深いヴァイルが置かれている。
ハルツ王国は反対側の端へ寄せられた。
ルーデンとメーレンの間には、南マルクの二邦が入っている。
ヴェルデンとブリュックは会議場の対角にあり、互いの顔を見るにも身を乗り出さなければならない。
「格付けと旧台帳を使っていますので、抗議は難しいでしょう」
「説明がつくように散らしたのだ。相談はさせないということらしい」
バルク宰相は外務省の官吏へ目を向けた。
「席次を受領したとだけ返しておけ。余計な感想は書くな」
「承知しました」
官吏は一礼し退出した。
バルク宰相は二つ目の茹で卵を手に取り、卓の縁で殻を割った。
「困るか、ライフェンベルク」
困る。
クラウスは席次表を見たまま、そう思った。
五日間かけて十一邦それぞれの文案を整え、外務省と各邦政府の間を何度も往復させ、ようやく昨日すべての封を閉じたのである。
それを、出発の前になって組み直すのは嫌だった。席次表へ合わせるなら、十一冊をもう一度開かなければならない。
前後の発言を確かめ、必要な説明を足し、削り、文面を公使館へ送り、各邦代表へ渡し直す。
国境駅まで三時間あるとはいえ、列車の中でやる仕事ではない。
仮に間に合ったとしても、議長が指名順を変えれば、また組み直しである。
どうにか、このまま使えないだろうか。
クラウスは席次表の上で、北マルク十一邦の名をもう一度追った。
ブランデンの左右には南マルクの二邦。
ハルツは反対側の端。
ルーデンとメーレンの間にも南マルクの席があり、二つの自由市は対角へ置かれている。
相談をさせないための席次であることは明らかだった。
だが、そもそも会議中に相談できないこと自体は、最初から想定している。
各邦へ渡したのは、前の邦の発言を受けて次の邦が言葉を重ねるための文書ではない。
ハイゼンベルク側の提案に対し、自邦の利害から反対するか、留保するか、条件をつけて本国へ持ち帰るか。
それぞれが、自分の紙だけを見て答えられるようにしてある。
ハルツが何を言ったか知らなくても、ブリュックは通商上の不利益を理由に留保できる。
ブリュックが何を言ったか知らなくても、メーレンは条約上の疑義を理由に結論を先送りできる。
前の邦の答えを知らなければ使えないものにはしていなかった。
どうにか組み直さずに済まないかという願望から始めた確認だったが、本当にそのまま使えそうだった。
「……いえ。席を離されたこと自体は、問題になりません」
バルク宰相は殻を剥きながら、目だけを上げた。
「ほう、相談はできんぞ」
「相談しなければ答えられないものは、渡していません」
「では、書き直すとは言わんのか」
「言いません」
「席次が変わったのにか?」
「変わったのは、席次だけです」
クラウスは、席次表をテーブルへ置いた。
「各邦へ渡した文書は、発言順を前提にしていません。席次へ合わせて組み直せば、今度は議長が指名順を一つ変えるたび、こちらも書き換えなければならなくなります」
「よろしい。そこで十一邦すべてを動かすと言い出したなら、君は五日間かけて何を作ったのか理解していないことになる」
やはり試されていたらしい。
すでに視線はクラウスの顔から外されて朝食へ移っていた。
「その場合、私はグランツェルに残されたのでしょうか」
「ホームへ置いていく。まだ間に合うぞ」
「……そうだったのですね」
そういうことであれば、間違えればよかったなとかなり本気で思った。
そんなクラウスの内心など知るはずもなく、バルク宰相は十一枚の名札を指の背で軽く叩いた。
「席を離した次に、向こうは何をする」
「会議の外で、一邦ずつ呼びます」
「最初は」
クラウスは、宰相の指先にある名札を見た。
エルツ公国。
北マルクの南東端にあり、ハイゼンベルクと直接国境を接している。
国境危機が戦争へ変われば、最初に兵を見る邦だった。
他邦にとって、国境軍備は政策である。
エルツにとっては、自国の村と畑と街道の話だった。
「エルツでしょう。一番怖いからです」
バルク宰相の眉が、ほんのわずかに上がった。
「続けろ」
「ブランデンや自由市は、国境の兵力を地図と報告書で見られます。エルツは違います。動員が始まれば、自国の領内で軍が戦い、国境の村から避難民が出ます。ハイゼンベルクが、エルツ正面の兵力をこれ以上動かさないと約束すれば、話を聞かないわけにはいきません」
「では、正面からお前の国を戦場にはしない代わりに、ノルトマルクに与するなと言うのか?」
「言わないでしょう。国境での偶発的な衝突を避けるための、二国間協議と呼ぶはずです。双方が国境正面の兵力を増やさない。表向きは、前線邦の安全を守るための相互自制です」
「実際には違うということだな」
「エルツへ援軍を送るたび、ハイゼンベルクとの事前協議が必要になります。エルツが断らなくても、回答を待つだけで連邦軍の動きは遅れます」
「よろしい。では、断らせるか」
「いいえ。話を聞くなと命じれば、エルツから見ればブランデンが自国の安全を軽視しているように見えます」
バルク宰相は、しばらくクラウスの顔を見ていた。
それから、離していたエルツの名札を元の位置へ戻した。
やはり、答えを知らずに尋ねていたわけではないらしい。
「席を離すのは前座だ」
バルク宰相は、席次表の上に並べた十一枚の名札を指の背で軽く叩いた。
「本当に崩しに来るのは、休憩に入ってからだ。国境の安全、鉄道、通商、儀礼、爵位。各邦が欲しがっているものへ、一つずつ値をつける」
「では、会議中より休憩時間を見ろと」
「会議中も見ろ。だが、誰が何を言ったかだけでは足りん」
バルク宰相は三つ目の丸パンを割った。
「誰が帝国側の控室へ呼ばれたか。誰が晩餐で皇帝の近くへ移されたか。誰の宿舎へ書状が届いたか。そこまで覚えておけ」
「承知しました」
「よろしい。それが分かっているなら、君を連れていく意味も多少はある」
多少、である。
まあその手の評価には随分慣れたから、そう気にしてもいなかった。
ホームから、長い笛が聞こえた。今度こそ出発の合図だった。
客車の扉が閉められる。
連結器が引かれる鈍い音が、前方から順に伝わってきた。
クラウスは十一冊の綴りを木箱へ戻し、名札だけを席次表の上へ残した。
列車がゆっくりと動き始める。
窓の外を、駅員と荷役人、それから見送りに来た外務省の官吏たちが後ろへ流れていく。
ホームの大時計の長針が、十一の数字を指していた。
午前六時五十五分。定刻だった。
バルク宰相は向かいで新聞を開き、空になったカップへ新しいコーヒーを注いでいる。
市街を抜けた列車が鉄橋へ入ると、車輪が継ぎ目を踏むたびに、テーブルの紙が小さく跳ねた。
席次表の上の十一枚の名札は、互いに離れたままだった。