面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第十六話 剣を置いた軍人

シェーンハルト中央駅へ列車が入った時、ホームの大時計は午後四時半過ぎを指していた。

グランツェルを出てから九時間半近く経っている。

 

この間何より辛かったのは、バルク宰相とほとんど二人きりだったことである。

正確には、二人きりでありながら話すことがほとんどなかったことだ。

 

沈黙そのものはそこまで気にはならない。沈黙していても苦にならない相手はいるからだ。

ハルトゥング中佐と鉄道で移動した時など、互いに新聞を読んでいるだけで何時間でも過ごせたように思う。

 

バルク宰相の場合は、常に次の問いが組み立てられている気がしてならない。

こちらを見やるたび何か言われるのではないかと顔を上げ、そのたびに何も起きなかった。

それが九時間半も続けば当然に疲れる。

 

国境駅では、帝国側の係官が荷物車の封印を一つずつ検めた。

出発時に外務省から渡された随員証も回収され、代わりに帝国外務省発行の入国証が交付されている。

新しい証書には、連邦評議会宰相府の名も統帥府所属の文字もなかった。

剣は下宿に残し、肩書きは国境で証書から消えた。

これで本当に消えてくれたら随分楽なのだが、たぶんそういうわけにはいかないのだろう。

列車が停まりきるより先に、バルク宰相は新聞を畳んだ。

 

「駅へ着いたら木箱は君が持て。革鞄は公使館員に任せる。帝国外務省の迎えの前で、こちらが荷物を数えて見せる必要はない」

「承知しました。十一冊と名札だけ箱へ戻します」

 

クラウスは席次表の上から十一枚の名札を拾い、十一冊の綴りと一緒に木箱へ収めた。席次表そのものは折らずに革鞄へ入れる。

蓋を閉じると、五日間かけて作ったものは両腕で抱えられる程度の重さになった。

 

車両の前では、帝国外務省の官吏が二人待っていた。

迎えの馬車に描かれているのも、ブランデン王国の紋章だけである。

ホームを歩いているうち、クラウスの右手がまた腰へ行きかけた。指先が上衣の裾に触れ、そのまま何もなかったように皺を直す。

 

「君はさっきから、剣のない腰を何度確かめるつもりだ」

前を歩くバルク宰相は振り向かなかった。

「今夜は抜く用事もない。置いてきたことを責められる場でもないだろう」

 

「いえ、使いたいわけではありません。ただ十年同じ場所にあった重さが急になくなると、どうにも手が行くようです」

「ならこの数日で身体に教えておけ。少なくとも今回は、剣が必要になった時点で我々の負けだ」

 

実際に剣を抜くかどうかの話をしたつもりはないのだが。

まあ、この人へ癖の話をしたところで、癖を直す方法以外の返事は出てこない。

それは、九時間半を同じ客車で過ごす前から分かっていたことであった。

 

 

 

 

ブランデン公使館へ着くと、馬車は正面玄関を通らずに裏手の車寄せへ回された。

北マルクの他の十邦は、帝国側がそれぞれに割り当てた宿舎へ入っている。

 

「各宿舎へは、今夜は個別に宮へ上がるよう伝えてあります。こちらへ集める予定は入れておりません」

 

書記官の報告を聞き、バルク宰相は外套を公使館員へ渡した。

「それでよい。集まるのは明日の議場だけで十分だ。向こうが我々を十一に分け、別々の馬車と宿舎まで用意したのだから、今夜はこちらもそのつもりで振る舞えばよい」

 

クラウスは木箱を開き、十一冊の綴りと名札を取り出した。

書記官が冊子と名札を数え、今夜は使わない内々の対応表とともに革袋へ移していく。

すべてを入れ終えると袋の口に封をし、そのまま地下の金庫へ運ばせた。

 

「内々の資料はすべて金庫へ入りました。箱に残っているのは帝国側へ渡した回答の控えと、見られても差し支えのない書類だけです。それでも宮殿へお持ちになりますか」

 

バルク宰相は、開いた木箱の中を一度見た。

 

「持っていけ。箱だけ公使館へ置けば、重要な資料をこちらへ残したと思われる。宮へ運べば、今度は中身を知りたがるだろう」

木箱の縁を指先で一度叩く。

「向こうが勝手に考える分には構わん。訊かれた時だけ首相の会議資料だと答えろ」

 

五日間かけて作った本物は地下へ消え、代わりに見られても困らない紙だけが箱に残った。

それでも帝国側が箱を気にするなら、気にさせておけばよいということらしい。

書類を運ぶ仕事のはずが、いつの間にか相手の目を運ぶ仕事まで含まれていた。

それならご自分でお持ちになってはいかがですかと口に出かけたが、流石にそれを止めるくらいの理性は残っていた。

 

バルク宰相は別室へ着替えに入り、クラウスも顔と手を洗って列車の煤を落とした。

軍服の襟を替え、勲章と飾緒を着ける。鏡の前で腰へ手をやりかけ、今度は上衣の裾に触れる前に止めた。

 

残った時間は三十分に満たなかった。

着替えを終えたバルク宰相は、卓上の到着一覧へもう一度目を通した。

 

「今夜は誰かを説得する場ではない。帝国側も、それぞれが明日どの立場を取るか、正面から尋ねるほど露骨な真似はせんだろう」

「木箱の傍におります。北マルクの代表同士で固まれば、それだけで事前協議を疑われますから」

「それでよい。ただし見張っていると分かる見方はするな」

 

バルク宰相は一覧から顔を上げた。

 

「今夜の君は参謀ではない」

「と、言われましても」

 

「見落としてよいものまで拾うから参謀なのだ。明日の会議に必要なものだけ持ち帰れ」

壁の時計を見上げ、卓上の手袋を取る。

「そろそろ出るぞ。会議の開会は明日でも、遅参したという記録は今夜作られる」

 

 

 

 

シェーンハルト宮へ入る門の前には、各邦の馬車が列を作っていた。

外套と帽子を預け、招請状と身分証をもう一度示す。

バルク宰相はブランデン王国首相として記帳し、クラウスもその随員として名を記した。

控えの間では、帝国外務卿のヴァルデンフェルス伯が、到着した代表を迎えている。

彼の顔と名前は知っていた。

その傍らに礼装姿の将官が一人おり、二歩ほど後ろには、副官らしい大佐が書類を抱えて控えていた。

 

主人の二歩後ろで書類を持つ軍人というのは、立ち位置まで含めて、自分を外から見せられているようで落ち着かない。

クラウスたちが近づくと、将官はバルク宰相を見た後にクラウスの襟章へ目を移し、そのまま剣のない腰まで視線を下ろした。

 

「軍人ではないか」

「クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐であります。名簿に記載されたとおり、バルク首相の随員として参りました」

「あのライフェンベルク家か」

「家のことでございましたら、はい」

 

初めて聞く家名を確かめる口調ではなかった。

知っている名と、目の前にいる人間が同じものであるかを確かめている。

所属は証書から消せても、家名までは国境で差し替えてもらえないらしい。

将官はバルク宰相へ向き直った。

 

「呼び名さえ替えれば、参謀将校でも政治会議へ入れられると考えたらしいな」

 

問われたのはバルク宰相だったが、クラウスは自分の腰へ向けられた視線の方に答えた。

 

「条件にある通り剣は置いてまいりましたので、武装はしておりません」

 

将官の口元が動かなくなった。

クラウスとしては、条件書に従った事実を述べただけである。

禁じられているのは武装した随員だったから、軍人である自分は剣を置いてきた。

もちろんそれについてもバルク宰相の発案であるので、文句を言うならそちらに言ってほしいものだ。

 

「剣一本の有無を訊いているのではない。軍服を着た参謀将校が武装していないから構わぬという話で済むものか」

 

「第四条が禁じておりますのは、武装した随員でございます」

答えたのはヴァルデンフェルス伯だった。

「軍籍を有する者の随行まで禁じるのであれば、条件書の起草段階で、その旨を一文加える機会はございました」

 

将官が外務卿へ顔を向ける。

同じ国の人間だというのに、不快さを一切隠していなかった。

 

「条件書を作った本人が、言葉の隙間を教えてやるのか」

「条件書に記載のない趣旨を後から加えてよいとなれば、他の条約を解釈する際にも同じことが許されます。それは陸軍卿もお望みではございますまい」

 

そこで初めて目の前の将官が誰なのかが繋がった。

陸軍卿ヘッツェンドルフ公。

帝国軍内の強硬派――爵位と官職に続けて、要人略歴にはそう記されていた。

そして顔と名前が結びついた時には、すでに何度かこの人物が嫌う種類の答えを返した後だった。

ヘッツェンドルフ公は外務卿へ返事をせず、クラウスの抱えている木箱へ視線を移した。

 

「では、その箱も純然たる会議資料だと言い張るつもりか」

 

クラウスが口を開くより先に、バルク宰相が答えた。

 

「邪推はおやめいただきたい。運んだ者によって文書の所属が決まるのであれば、帝国政府の文書は、ことごとく書記官の私物になるということかね」

「中身を確認させてもらおう」

「資料に異議がおありなら明日の議場でいくらでも伺う。今夜は招請状に従い、到着の挨拶へ来ただけだ」

声は平坦で、だからこそ口を挟みにくかった。

「それを陸軍卿がこの場で首相随員の荷物を開けるというなら、先にその権限を記した文書を見せていただきたい」

 

結局あなたが答えるのですね、と思った。

しかも、自分が用意していた返答よりも数倍喧嘩腰だった。

ヘッツェンドルフ公の目が細くなる。

ヴァルデンフェルス伯は、広間の奥に掛けられた時計へ視線をやった。

 

「陸軍卿、後ろで次の代表団がお待ちです。資料への御異議は、明日、議長を通じてお尋ねください」

 

ヴァルデンフェルス伯は何事もなかったようにバルク宰相へ一礼し、入室を促した。

それからクラウスへ向き直る。

 

「お待たせいたしました、ライフェンベルク中佐。明日、中佐殿に御説明いただく機会がないことを願っております」

「恐れ入ります。私もそのように願っております」

 

その返答に限っては、外交辞令として整える必要がなかった。

クラウスは一礼したが、ヘッツェンドルフ公はこちらの顔を見ず、最後まで木箱へ目を向けていた。

 

 

 

 

小広間には、椅子がほとんど置かれていなかった。

初めから長居をさせるつもりがないらしい。

 

式次に皇帝の臨席はなく、ヴァルデンフェルス伯が主催者として各邦の代表を迎えることになっている。

広間へ入ったクラウスが最初にしたのは、出入り口を数えることだった。

正面の大扉。側廊へ抜ける扉が左右に一つずつ。奥には給仕が使う小さな戸が一つある。

数え終えてから、これをオトフリート陛下に知られれば、また何か言われるだろうと思った。

 

名札として扱ってきた十一邦が、今はそれぞれ一人の人間として広間に立っていた。

返書の文面から想像した人物と、目の前の顔がうまく重ならない者も多い。

ハルツ王国代表は南マルクの大公と話していた。

ルーデンの代表は窓際で式次を読み、メーレンの代表は給仕から葡萄酒を受け取っている。

ブリュック自由市の参事とヴェルデンの代表は、広間の対角にいた。

 

その代表の中で、一人だけ先に顔を覚えておきたい相手がいる。

クラウスは、エルツ公国代表の位置を確かめた。

小柄な男だった。眼鏡の蔓を耳へ押し戻しながら、帝国外務省の官吏の説明を聞いている。

 

壁際には十六邦の紋章旗が並んでいた。

帝国側の閣僚や官吏も、壁際に散っていた。

ヘッツェンドルフ公は入口近くから代表たちを見ており、副官の大佐は、先ほどと同じ位置で二歩後ろへ控えている。

バルク宰相はブランデンの旗の前に立ち、差し出された葡萄酒へ口をつけた。

 

「これでは葡萄酒というより、色のついた水だな」

「私には助かります。あまり強くありませんので」

「……そうか」

 

バルク宰相は何か言いたげな顔を一度こちらへ向け、もう一口飲んだ。

おそらく酒が薄いことが気に入らないのだろう。

アンナ嬢から酒もかなり飲むと聞いていたが、何もこんな場でまで気にしなくてもいいだろうと思った。

 

やがてヴァルデンフェルス伯が扉の前へ立ち、諸邦の君主と名代を見渡してから一礼した。

話し声が一つずつ止まり、広間にいる者が上座へ身体を向ける。

 

「御臨席の諸君主、ならびに各邦代表の諸卿。本日は遠路シェーンハルトまでお越しいただき、皇帝陛下に代わって御礼を申し上げます。皇帝陛下は明日午前十時、帝国諸邦会議の開会に御出座になります。今宵はどうか旅の疲れを休め、明日、それぞれの邦の言葉をお聞かせください」

 

会議の目的にも、帝国諸邦の最高保護者という称号にも触れなかった。

その称号を口にする役目は、明日の皇帝陛下自身へ残したらしい。

ヴァルデンフェルス伯が杯を掲げると、広間の者もそれに倣った。

 

オトフリート二世もこの時だけは杯を胸の高さで止め、歌劇場で見た時とは別人のように静かに礼をした。

しかし広間の空気が緩んだ直後、反対側から声が飛んできた。

 

「寛げと言われても椅子は足りず、酒は薄い! ずいぶん慎ましい歓迎ではないか!」

 

何人かが同時に振り返った。

オトフリート二世が片手を上げ、こちらへ歩いてくる。

あの様子を保つのは、随分と難しいようだった。

 

「久しいな、バルク! 相変わらず愛想のない男だ。葬儀にでも来たのか?」

「陛下は相変わらず、会議が始まる前から声が大きい」

「劇場では後ろまで聞こえねばならんのでな!」

 

広間に残っていた話し声が、いくつか小さくなった。

これだけ声が通れば、周囲は聞き耳を立てる必要すらない。

王はバルク宰相の後ろに立つクラウスを見つけた。大きな目が、さらに見開かれる。

 

「おお、ライフェンベルク! 剣まで外すと、ますます軍人には見えんな!」

「お久しく存じます、陛下」

「こんなところまで連れてこられるとは、よほどバルクに気に入られていると見た! 可哀想に!」

 

クラウスの声は大きくない。

しかし、オトフリート二世が話しかけているというだけで、周囲の視線はこちらへ集まってくる。

歌劇場で、舞台の上にいる自分を客席から見せられた夜とよく似ていた。

違うのは、今夜は途中で席を立っても、逃げた先がすべて帝国の宮殿だということだった。

 

「明日は私と君が隣だそうだな、バルク。誰が決めたか知らんが、ずいぶん露骨な演出ではないか!」

「それを、この場でおっしゃるのですか」

「聞こえて困るようなことをするな、ということだ!」

 

クラウスなら、意図を読んでも口にはせず、席を離されたまま使える回答を用意する。

広間の中央で全員に聞こえるよう指摘するという方法は、考えもしなかった。

だが、オトフリート二世が席次を帝国側の意図として口にしたことで、明日の配列はただの儀礼として扱いにくくなった。

 

帝国側も、聞いていた各邦代表も、もう何も知らなかったことにはできない。

狙ってやったのであれば、王は見た目よりはるかに面倒な相手である。

 

オトフリート二世は杯を持ち上げた。

近くにいた何人かがこちらを見ている。ヴァイルの君主も、ヘッツェンドルフも例外ではない。

王は返答を待たず、ハルツ王国代表の方へ歩いていった。その背中が遠ざかる前に、もう別の大声が広間へ響く。

 

「以前から、あのような方なのですか」

 

クラウスは声を落として訊いた。

 

「慣れようとするな。無駄だ」

 

バルク宰相は、止めていた手を動かして肉料理を一つ取った。

その忠告については、疑う材料が見当たらなかった。

 

 

 

 

招待会は午後七時前に終わった。

各邦代表は、受け取った式次と翌朝の馬車札を従者へ渡し、決められた順に広間を出ていく。

明日の馬車の到着時刻は邦ごとに違っていた。玄関前で代表団が一度に重ならないためだと説明されている。

 

理由としては通っている。

この街へ入ってから帝国側に示された説明は、どれも手続きとしては通っていた。

十一邦を別々の宿舎へ入れたことも、馬車の時刻をずらしたことも、個別に見れば反対するほどのものではない。

一つずつなら正しい処理が、まとめて見ると北マルクの代表を分ける形になっている。

 

クラウスは木箱を抱え直し、退出する代表たちを見た。

ハルツ王国代表は、南マルクの大公とともに正面の廊下へ出た。

ブリュック自由市の参事には帝国側の商務官が名刺を渡している。ヴェルデンの代表は誰とも話さず、従者を一人連れて階段へ向かった。

 

エルツ公国代表が広間を出ようとしたところで、軍服姿の男が近づいた。

先ほどまで、ヘッツェンドルフ公の二歩後ろに立っていた副官である。

副官は型どおりに礼をしてから、声を落とした。

最初の数語は、クラウスの位置からは聞こえない。

 

「――が御帰館の前に、御挨拶を申し上げたいとのことです。十分ほどで済みますので、差し支えなければ奥の控室までお越しいただけますか」

 

エルツ公国代表は手元の式次を裏返して日程欄を見た。それから廊下の時計へ目をやる。

 

「明朝の予定がありますから、長くはお付き合いできません。それでも御挨拶だけということでしたら伺いましょう」

 

すぐに承諾せず、かといって断りもしない。

返書から受けた印象と、ようやく目の前の人物が重なった。

二人は並んで廊下を進み、正面階段とは別の角を曲がった。

クラウスは木箱を抱えたまま、二人の姿が消えた場所から目を離さなかった。

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