面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
十分ほどで済むはずの挨拶は、十五分を過ぎた。
クラウスが四度目に懐中時計へ指を掛けたところで、廊下の角から二人分の足音が聞こえてきた。
先に姿を見せたのは、ヘッツェンドルフ公の副官だった。
一歩遅れて、エルツ公国代表が戻ってくる。
「陸軍卿からのお話は、以上でございます」
「承知いたしました」
エルツ公国代表は、眼鏡の蔓を耳へ押し戻した。
「明日の会議に関わることでございましたら、議場で改めて伺います」
「陸軍卿にも、そのように申し伝えます」
副官は一礼し、来た時とは別の廊下へ消えていった。
エルツ公国代表はその背中を見送ってから、退出を待っていた従者へ馬車札を渡した。
最初に声を掛けたのはバルク宰相だった。
「随分と長い挨拶だったようで」
「陸軍卿は、我が国の国境を案じておられました。詳しいお話は明日の議場で述べることになるかと」
何を提案されたのかまでは尋ねなかった。
十五分の間に何が話されたのかは分からない。
書類を持ち帰らなかったからといって、口頭でも何も約束しなかったとまでは言えなかった。
ただ、明日の会議に関わる話であれば議場で聞く、と本人の口から確認できた。
「何か気になった点はあるか」
バルク宰相がこちらも見ずに尋ねた。
「書面の受け渡しはありませんでした。少なくとも、見える範囲では」
「今日は牽制というところだろうな。帰るぞ」
クラウスは木箱を抱え直し、宰相の後ろから正面玄関へ向かった。
公使館へ戻った後は、便箋を一枚だけ使った。
シェーンハルトへ無事に着いたこと。夕食を済ませたこと。ハイゼンベルクの肉料理は思ったよりも好みだったこと。翌朝まではゆっくり眠れそうなこと。
会議の報告には使えないが、アンナ嬢と交わした約束には、たぶんそれで足りるはずだった。
◆
帝国諸邦会議の議場には、前夜の小広間とは違い椅子が余るほど置かれていた。
三方を囲む机には十六邦の名札があり、壁には十六本の旗が掛けられている。北マルク十一邦の席は、南マルク五邦の間へ散らされていた。
バルク宰相の右にはオトフリート二世陛下が座り、クラウスの席は宰相の二歩後ろにある。
午前十時、皇帝フランツ・カール二世が上座へ現れた。
側仕えが読み上げたやたらと長い肩書きの中で、帝国諸邦の最高保護者という部分だけが妙に大きく聞こえた。
そののち、外務卿ヴァルデンフェルス伯が出席邦を読み上げた。
北の十一邦も一つずつ、離れた席から代表が立ち、それぞれ自邦の名で参列を答える。
旧き帝国の序列に従って読み上げる、ということでブランデン王国が一番最後に読み上げられた。
その意図は明確だったが、バルク宰相は何一つ気にする素振りもなかった。
まあ、自分としてもこういう挨拶は最後の方がいいと思う。たぶんバルク宰相はそういう気持ちではないだろうが。
そして一通りの挨拶が終わった後、皇帝陛下が立ち上がった。
「諸君。かつて一つの帝国を構成し、今なお歴史と秩序を分かち合う諸邦が、本日再びこの場へ集ったことを喜ばしく思う」
声は、広間の端までよく通った。
「帝国諸邦の最高保護者として、私は諸君の権利と安寧がともに守られ、マルクの地における平和が確かなものとなるよう願っている。ここで交わされる言葉が、諸邦を隔てるものではなく、再び結ぶものとなることを期待する」
その挨拶にまばらな拍手が起きる中、外務卿が帝国の大印を押した綴りを配らせた。
題は、国境軍備の抑制に関する共同原則。
会議閉会後三十日、指定国境地区における新たな兵力移動と軍事上の現状変更を停止する。
予定済みの演習は規模を拡大せず、その履行は帝国監視官が確認する。
適用に疑義が生じた場合は、帝国諸邦の最高保護者が裁定する。
招請条件にあった「慎む」という語は「停止する」に替わり、基準日と監視官と裁定者が加わっていた。
附図の斜線は、エルツ東部国境から北へ長く伸びている。
その線の帝国側には、すでに幾つもの部隊名が記されていた。
今日を現状と呼ぶのであれば、先に兵を集めた側は一人も戻さずに済む。
諸邦の平和のためと書かれていたが、随分と都合のよい条件だった。
とはいえこの会議に参加させてくれと頼んだのは北の十一邦で、自国の都合を押し付けるためである。
自分で作った会議用の資料も、突き詰めて言えばノルトマルクの利益のためだ。
その会議を平和にするため、という名目には確かに反論しづらい。
外務卿が読み終えると、エルツ公国代表は眼鏡を外して布で拭き、掛け直してから手を上げた。
「議長閣下。基準について確認をお願い申し上げます」
発言を許されると、代表は附図を開いた。
「こちらは閉会時とのことですが、それ以前に発令され、いまだ指定地区へ到着していない部隊は現状の兵力に含まれますか」
「すでに発令済みの移動につきましては、実施状況を確認した上で附属表へ記載することになりましょう」
「では、現に指定地区へ到着している部隊は留まり、我が邦が明日、連邦軍の増派を要請すれば、それは新たな移動として停止され得る。そのように理解してよろしいですか」
議場の反対側で、誰かが附図を開き直した。
外務卿は手元の案を閉じなかった。
「本案の目的は、相互の現状変更を防ぐことにございます。個別の配置につきましては、分科協議において――」
「エルツにとっては、個別の配置こそが国境でございます。」
代表の声は大きくなかったが、言葉の終わりまで崩れなかった。
その問いは、グランツェルで用意した綴りの順番どおりではなかった。
エルツ代表は、自国が明日連邦軍の増派を必要とした場合の話へ組み替え、そのまま監視官の頁を開いた。
「監視官についても伺います」
エルツ公国代表は、最後の頁へ指を置いた。
「監視官は、我が邦の駅や軍施設へ、どの法に基づいて立ち入るのでしょう。監視官の認定に不服がある場合、その任命者と最終裁定者が同じ御方であっても、別の審理を求めることはできますか」
「権限と不服手続につきましては、各邦の法を尊重しつつ、附属書に定めることとなります」
エルツ公国代表は、そこで質問を終えた。
納得した様子ではなかった。
この条件を呑めば、監視官の名目でハイゼンベルクの軍人が、エルツの駅や軍施設へ入ってくることになる。
おそらく、昨日の陸軍卿との話ではそこまでの条件は聞かされていなかったのだろうと思った。
次にハルツ王国代表が、すでに確保した夏季演習の鉄道枠を現状へ含めるのかと尋ねた。
他の席からも、民間貨物への補償や監視官への不服手続について質問が続いた。
誰も前の邦と同じ言葉を使わなかった。
離れた席で別々の綴りが開かれるたび、帝国案の異なる箇所へ疑問が置かれていく。
五日かけて作った十一冊は、クラウスの言葉から各邦の言葉へとすっかり変わっていた。
昼を少し回ったところで、外務卿が質問を打ち切った。
「各邦の御懸念は、十分に示されたものと存じます」
議長席の書記官へ、用意されていた総括案が渡される。
「偶発的な衝突を避け、国境の平穏を維持する必要そのものについては、各邦に異議はなかったものと存じます。従って、国境における相互自制の原則を本会議の意思として確認し、基準時、指定地区、履行確認その他の適用方法を起草委員会へ付託する。そのように総括いたしたく存じます」
聞いている限り、完全な嘘ではなかった。
誰も、国境の平穏を乱したいとは言っていない。
しかし国境を平穏に保つ必要へ異議がないことと、帝国監視官を受け入れ、最高保護者へ裁定を預けることは同じではない。
それでも、反対する声は上がらなかった。
最初に手を上げた一邦は、議事録の上では国境の平穏に反対した邦になる。
書記官は総括案を横へ置き、その一行目を議事録へ写し始めた。
クラウスの席には発言札がない。
バルク宰相が止められるのもブランデン王国の名の分だけで、残る十邦は、それぞれの席から異議を出すほかなかった。
そして、北でこの決議に直接かかわりがあるのはハイゼンベルクと直接国境を接するブランデンとエルツだけだった。
「待て、ヴァルデンフェルス」
そのとき、バルク宰相の隣から声が上がった。
オトフリート陛下は肘掛けから手を離し、机の上へ置いた。
「いま誰も反対せぬのは、平和という語そのものに反対することが難しいからだ。だが、監視官を入れることにも、裁定を預けることにも、私はまだ一言も賛成しておらん!」
「アーレン王陛下。原則への御賛意と、適用上の留保は分けて記載いたします」
「分けるのは君の紙の上だけだ!」
王の声が議場の壁から返った。
「私の名の横へ何と書くつもりだ。アーレン王は内容は決まっておらぬが原則には賛成した、とでも書くのか! 平和に異議がないことと、この案に同意することを一緒にするな!」
書記官のペン先が紙の上で止まった。
オトフリート陛下は、そのペンを指した。
「まさか私がここまで黙っていたことを、この案への『同意』として議事録に残すつもりかね?」
外務卿はすぐには答えず、総括案を手元へ戻し上座を仰いだ。
皇帝陛下はややあって、オトフリート陛下ではなく、書記官の前にある議事録を見た。
「外務卿。その記録は、後の議定書における各邦の同意として用いられるのか」
「原則についての本会議の意思を示す記録とはなります。最終議定書には、改めて各邦の御署名を――」
「ならば、発言せぬ者を賛成に数えるな」
皇帝の声は、開会の時と変わらなかった。
「余は十六邦を一つずつ招いた。同意も一つずつ取れ。自邦の名で明示して同意した事項だけを、その邦の返事として記せ」
「御意にございます」
外務卿が頭を下げた。
書記官は、書きかけていた「原則承認」の上へ二本の線を引いた。
オトフリート陛下はそれでもなお、やや不満そうなのを隠しもしなかった。
◆
午後に細則の起草室へ持ち込まれた案は、午前より三頁少なくなっていた。
午前の裁定を受け、外務卿は、基準日による現状固定、帝国監視官、最高保護者の裁定を本日の合意案から外していた。
十六邦の明示同意を得られる見込みがない三項目は、別の綴りへ移されている。
残ったのは、会議閉会後も国境の兵力移動を互いに知らせるための条文だった。
招請条件で認められた専門官の席として、クラウスにも椅子が一つ与えられた。
部屋へ入った外務卿が、クラウスを見てわずかに眉を上げた。
「昨日は、中佐殿に御説明いただく機会がないことを願ったのですが」
「私も、そのつもりでございました」
「どうやら、互いの願いは議事録へ載らなかったようですな」
外務卿は席へ着き、縮められた案を条約官に読ませた。
「会議開会後三十日、指定国境地区への兵力移動は事前に関係政府と協議し、その回答を待って実施する」
バルク宰相が、読み上げられた案を机へ戻した。
「回答を待つ余裕がない場合がある。兵の移動は侵攻以外でも発生する」
「通常の外交慣行に従い、合理的な協議の上でとすることができます」
「その合理を決めるのは誰かね。返事が来なければ三十日間、一個大隊も動かせんというのか」
外務卿は、回答期限を別項に置く案を出した。
「期限を置けば、その日まで帝国が連邦軍の増派を止めてよいと書くのと同じです」
エルツ公国代表が答える。
アーレン側書記官も、回答を待たせるのであれば事前協議ではなく許可に近いと指摘した。
外務卿は余白へ、回答期限、緊急時の例外、無回答時の扱いという三つの欄を作った。
期限まで定めれば、次に必要になるのは回答書の様式である。十六邦がどの言葉をもって協議終了とするのかも決めなければならない。
外務卿の筆が、四つ目の欄を作ろうとした。
空欄が増えるほど手続は整っていくが、どの欄を埋めても、相手の返事を待つという一行だけは消えない。
クラウスは自分の控えにある「協議」の下へ線を引いた。
「何か考えがあるのか」
「は……その」
「いいから言え。何のために君はここにいると思っている」
「……はい。協議し、その回答を待つという部分を削り、事前の通告という語へ替えるべきかと存じます」
「通告?」
「はい。通告を受けた邦は抗議できますが、返答しないことだけで移動を止めることはできません」
控えへ短い文を書き、机の中央へ出した。
「指定国境地区への新たな兵力移動は、事前に関係政府へ通告する。日時や経路は附属様式へ記載させれば、受領の有無と時刻も記録できます」
バルク宰相は、クラウスの控えを外務卿の方へ押したが、彼はすぐに首を振った。
「それでは相手の回答を待つ義務がなくなります。国境軍備を抑制する条文とは申せません」
「相手の返事を待たせたいのであれば、停止を命じる権利を与えると正面から書くべきだ。そこまでの同意は取れんのだろう」
「エルツとしては、列車が国境へ着く前に知ることができればよろしい」
エルツ公国代表が、日時という語の下へ指を置いた。
「通告を受けたことが、そのまま外国部隊の領域通過への同意になるわけではありません」
アーレン側書記官は二つの案を読み比べ、通告案を手元へ引き寄せた。
「この文面であれば、陛下へお諮りできます」
外務卿は、条約官が書いた三つの欄を見た。
それからクラウスの控えを取り上げた。
「……承知いたしました。二案とも本会議へ戻します」
◆
その日の夕刻、二本の条文が御前へ戻された。
一つは、関係政府と事前に協議し、その回答を待ってから兵を動かす案。
もう一つは、指定国境地区へ兵力が入る前に、日時、経路及び部隊の表示を関係政府へ通告する案である。
陛下は二本の条文を読み比べた。
「帝国軍の移動も、同じ条項に従うのだな」
「新たな移動につきましては、そのとおりにございます」
「ならば、通告案を各席へ回せ。期間は会議閉会後三十日までとする。帝国も同じ義務を負う」
期間を加えた案が十六邦へ回された。
自国軍の移動を外国政府の回答へ預けたくない南五邦は、いずれも通告案を選んだ。北十一邦の返事も同じだった。
会議閉会後三十日、指定国境地区への新たな兵力移動は、事前に関係政府へ通告する。通告に対する回答は、移動実施の条件としない。
予定済みの演習、警備交代及び軍用鉄道枠は、兵数、日時、経路とともに附属表へ記載する。
その範囲内の配置変更は新たな移動とみなさず、北側と帝国側の計画を同じ表へ載せる。
十六邦がそれぞれ自邦名で賛意を答え、陛下は帝国としてこれを受諾した。
会議が散った後も、ヘッツェンドルフは席を立たなかった。
帝国外務省の条約官が、回答期限、緊急時の例外、無回答時の取扱いのために作った三つの欄へ、順に二本線を引いている。
一つ消されるたび、帝国が相手の移動へ介入できる余地が狭くなった。
「通告案を最初に書いたのは誰だ」
ヴァルデンフェルス伯は、起草記録を確かめた。
「ブランデン王国代表団でございます。採用を求めたのはバルク宰相ですが、起草室で修正を口にしたのは、首相随員のライフェンベルク中佐です」
その名を見て、通告案を書いた者と、昨夜の中佐が繋がった。
ライフェンベルク家の参謀将校。
悪びれもせずに剣を置いてきたので武装していないと言い放った男である。
返書を待てば列車が止まる。
その程度のことは、鉄道動員を学んだ参謀将校なら読む。
奇妙なのは、参謀将校が条約官の隣で修正文を書ける椅子へ座っていたことだった。
軍人嫌いのバルクが会議へ軍人を送り込んだ。
そしてその軍人は、外交文書の中に隠れた待ち時間を、動員表の時間として読んだ。
一人の中佐の才覚だけを問題にしても意味はない。
北側は、軍事上の意味を読める者を、紙が書き換えられる場所へ置き始めているのだ。
「明日から軍事に関わる分科会の修正文は、本会議へ戻す前に一部こちらへ回せ」
副官が専門官名簿を開き、翌日の軍事通行の欄へ鉛筆で印を付けた。
そこにも、ライフェンベルクの名があった。