面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
ヘッツェンドルフがシェーンハルト宮へ呼び出されたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
今回待たされた時間は、十分にも満たない。
会議の間には、外務卿と財務卿が座っていた。
そして陛下も上座で待ち構えていた。
侍従長の口上はなく、御前会議と呼ぶには、始まる前から儀礼が少なすぎた。
卓上に置かれていたのは三枚の紙である。
帝国諸邦会議の軍事附属表。
二本の帰営列車を取り消した陸軍省命令。
エルツ公国政府から帝国外務省へ届いた照会書。
陛下は、二枚目を持ち上げた。
「附属表では、この兵は昨日までに国境地区を離れ、今朝の二本で内地へ戻ることになっていた。ところが帝都へ戻ったのは客車だけで、鉄道保安大隊、架橋中隊、野戦電信分遣隊は三つの駅に残っておる」
紙面から顔を上げ、こちらを見た。
「これは卿の署名か。卿のものであれば、帰営列車を取り消した理由を説明せよ」
「臣の命令にございます」
隠すほどのことではない。
帰営列車を取り消したのは自分だ。
兵を降ろし、客車だけを所定の運用へ戻させた。命令書には陸軍省の印も、自分の署名もある。
「まず、これは新たな部隊を国境地区へ前進させたものではございません。附属表に記載された演習参加部隊の帰営を延期し、同一指定地区内において鉄道保安任務を継続させたものでございます。兵数は増やしておらず、新たな軍用列車も設定しておりません。そして外国領への越境は、一名たりとも命じておりません」
すべて事実である。兵は一歩も国境側へ進んでいない。
附属表にない部隊を入れたわけでもなく、指定地区内の総兵数も変えていない。
陸軍が行ったのは移動ではない。
「以上か」
「は、陛下」
「外務卿。この処置は会議の決議に反するか」
外務卿が、エルツ政府の照会書を開いた。
「陸軍卿の説明は、条文の字面だけを取れば成り立ちます。指定地区へ新しい兵を入れたわけではなく、附属表記載の兵数も超えておりません。その範囲内での配置変更は、新たな兵力移動とみなさない旨も記されております」
そこまでは想定した通りだった。
条約は字面で読むものである。
互いの胸中を推し量って軍を動かすのなら、そもそも条約官など要らない。
「ただし、附属表には帰営日も記載されております。エルツ政府が問題としているのは、帝国軍が増えたかどうかではありません。帰ると公示された兵が、帰らなかったことでございます」
「鉄道保安任務の継続のためです。事実をそのまま回答すればよろしい」
「では、その回答を書いた後、我々はアーレンへ何と伝えるのですか」
外務卿は、封蝋を切られた別の書状を取り出した。
山上宮から帝国外務省へ送られてきた認証写しだった。
オトフリート二世は、王室優先貨物をめぐる一件について北側への怒りを一つも隠していない。
それでも試行からは離脱しなかった。
王命によって現実に生じた損害を負担し、次に王室優先貨物を走らせる場合の手続を、北側との間で定めようとしている。
怒りながら制度を使い続けることを選んだのだ。それが、なお悪かった。
「アーレン王は、北側の制度へ強い異議を示しておられます。帝国が双方から事情を聞く余地はまだ残っている。ところが陸軍卿はその事情を聞く前に、エルツ正面へ兵を残しました」
「裁定が必要となった時、その裁定を支える手段を失っていては、帝国の言葉は空文になります」
「公は、我々がその程度のことも考えずに諸邦会議を開いたとお考えですか」
外務卿の声は、むしろいつもより穏やかに聞こえた。
この男は、怒る時ほど語調を整える。外交官らしい話し方だった。
「北がいずれ南の鉄道と市場へ手を伸ばすことなど、会議を召集した時から承知しておりました。だからこそ彼らを陛下の召集へ応じさせ、帝国の宮廷で協定を結ばせ、その正本を我が外務省へ預けさせたのです。争いが起きた時、再び帝国の卓へ戻る道を残すために」
「正本だけが帝都にあり、貨車も帳簿も工場も北へ従う。それでも外務卿は成果と呼ばれるか」
「呼びます。少なくとも、北の伸長が帝国への敵対として始まるよりは、はるかによい」
外務卿は、こちらから目を外さなかった。
「大陸中央に、大きな市場と強い工業力を持つ勢力が生まれること自体を私は災厄とは考えておりません。その勢力が帝国と友好的であり、諸邦の王家が陛下をなお最高保護者として遇し、争いが起きた時に我々へ書状を送るのであれば、帝国にとっても力となります」
北と南が大きな市場へまとまり、その勢力が帝国の友邦として西と東へ向き合う。
南マルクの安定にかかる費用まで北側が引き受けるなら、帝国にも利益はある。
だが、その構想には一つだけ欠けている。
出来上がった巨大国が、いつまでも良き隣人であるという保証だ。
「彼らが今回送ったのは、すべてを自分たちで処理した後の認証写しです。裁定を求める書状ではない」
「それでも送ったのです」
外務卿は、山上宮からの書状を卓へ戻した。
「最初の一件を当事者間で処理したからといって、帝国へ通じる窓口が消えたわけではない。アーレン王は北側への不信を残しながらも、損害の負担と次回の手続には折り合われた。それだけのことです。本当に当事者だけで処理できぬ問題が起これば、その時には帝国へ書状が届きます」
「最初に出来たことは、次にも出来る。その次には、帝国へ書状を送ること自体を余計な手続と呼ぶでしょう」
「ならば、余計な手続と思われぬ隣人であり続けるのが外交です」
「外務卿は、隣人の好意へ帝国を預けると?」
「いいえ。利益です」
返答は早かった。
「ノルトマルクが成長するならば、帝国と争うより帝国と結ぶ方が得だと思わせる。そのために会議を開き、古い称号と新しい協定を同じ卓へ置いたのです」
「形だけの称号を」
「形だけでも残ります」
外務卿は言い切った。
「召集する名目が残る。書状を受け取る窓口が残る。条約を預かる権利が残る。次の危機に諸邦を同じ卓へ呼ぶ理由が残る。外交とは、残った形へ、必要な時に中身を戻す仕事でもございます」
「その卓へ誰も来なくなれば、家具が残るだけです」
南北鉄路運行の試行が失敗していればよかった。
国境で貨車が詰まり、封印が食い違い、南北の鉄道官が互いの規則を罵り合っていれば、帝国は裁定者として呼び戻された。
だが現実には王の怒りさえ、制度を壊すのではなく、新しい手続を一つ足す結果にしかならなかった。
「駅員は陛下の称号ではなく、北の登録番号で貨車を動かす。工場は帝国の大印ではなく、北から来る石炭を待つ。アーレン王は北側に騙されたと怒りながら、それでも北の制度から離れなかった。次に同じことが起きた時にも、自分たちの手続を一つ増やして終わるでしょう」
「だから兵を残したのですか。帝国に裁定を求めぬなら、国境の兵を見ることになる。そう示すために」
「帰営を延期しただけです。必要な措置として」
挑発めいた答えだとは分かっていた。
しかし、ここまで来て言葉を丸めても意味はない。
「私は、ノルトマルクとの友好を否定しているのではございません。友好が続くのであれば、それに越したことはない。しかし外務卿は、友好的な巨大国が生まれる可能性を語っておられる。私が備えているのは、巨大国が生まれ、友好の方が失われた場合です」
外務卿の方策が成功するなら異論はなかった。
北の市場が大きくなろうと、鉄道が伸びようと、それが帝国と敵対しないのであれば構わない。
だが陸軍卿の机へ届くのは、成功しなかった時、何個軍団を何日で集められるかという表である。
敵でないかもしれない。しかし敵にならない保証もない。
そして敵になった後では、今日より強い。
「その場合に備えることと、その場合が来る前から兵を置くことは別です」
「一度帰営させれば、同じ位置へ戻すまで時を要します。その間にも政治は動きます」
「ならば政治が動く前に軍を動かすことも、あくまで備えであると?」
「動かしてはおりません。兵を現在位置へ留めたのです。陛下が御決断なさる時、帝国軍がその御決断を実行できぬ位置にあってはなりません」
「では陸軍は、帝国外交の方策が失敗するものと、独断で決めたのですか」
「成功する保証がないと申しております」
「なるほど、軍事行動の成功には保証があるのですか」
「五年後より、今日の方が条件はよい」
「それは以前にも伺いました」
外務卿は、ここまで来ても声を荒らげなかった。
「私とて、北が将来に帝国の敵となる可能性は否定いたしません。その時には戦うこともありましょう。私は戦争を政策から捨てた覚えはございません。しかし今ここで戦えば、友邦となる可能性を我々自身が潰し、敵国となる結果だけを確実に得る」
「その戦う時に、ノルトマルクが今日より強くなっていてもですか」
「今日戦えば、敵でなかった諸邦まで敵になります」
「諸邦は、勝った側に従います」
外務卿は、そこで初めて大きく息を吐いた。
「公が国境へ兵を残したことで、ノルトマルクが南へ何と説明できるか、お分かりですか。ハイゼンベルクの保護とは、帝国の裁定を求めなければ軍が来ることである、と申し上げるのです。公は北側が南へ語りたかった話を、帝国軍の配置図で証明してやったのです」
「力の裏付けのない裁定は、勧告にすぎません」
「裏付けは、必要な時に示せばよろしい。最初から卓上へ剣を置けば、話し合いで得た答えまで、剣で得たものと見なされます」
「それが必要になった時には遅いと申し上げている!」
声が大きくなった。
それでも外務卿の顔は変わらない。
「早ければ正しいわけでもございません」
しばらく沈黙が流れた。
財務卿は、その間に帳簿を一枚めくった。
「よろしいですかな」
誰も返事をしなかったが、財務卿は構わず話し始めた。
「帰営列車二本は、兵を乗せずに帝都へ戻っております。空車で走らせた費用はすでに生じた。演習は終わり、戦争は始まっていないと陸軍卿は仰る。では、三駅へ残った兵が昨日食べたパンは、何の予算でありますかな。今朝も食べたでしょうし、おそらく明朝も食べる」
「演習関連の鉄道保安費へ計上すればよろしい」
「いいえ。演習は終わっております」
「任務が継続しております」
「卿が継続させたのです」
財務卿は眼鏡を外した。
「軍事上必要という語は、実に便利ですな。陸軍の紙では、それを一行書けば兵が残り、石炭を焚き、パンを食べる。しかし財務の帳簿では、必要というだけでは金になりません」
「帝国の安全に必要な支出でございます」
「そうでしょうとも。安全と危機ほど、使う側にとって便利な予算名はございません」
「もうよい」
それまで議論を聞いていた陛下が言った。
声は大きくなかった。
それでも、この場の全員が同時に口を閉じた。
陛下は配置表を手元へ引き寄せ、短い鉛筆が、三つの駅を順に叩く。
「外務卿は、成長するマルクを帝国と結びついた友邦として残せると言う。陸軍卿は、その友好が失われた時に備え、いま力を見せるべきだと言う」
鉛筆の先が、最も東の駅で止まった。
「しかし、どちらを帝国の策とするか、余はまだ命じておらん」
思わず口を開きかけたが、陛下はその前に続けた。
「だが卿は、余が決める前に兵を残した」
「陛下が御決断なさる時、兵がすでに内地へ戻っていては、その御決断は紙の上に留まります」
「紙の上に留めるか、兵を動かすかを決めるのも余だ!」
陛下の声が、会議の間の端まで届いた。
書記官の羽根ペンが初めて止まった。
「卿は、どちらを選んでも、帝国が兵を置いたという事実を残したのだ」
違う。
陛下が外交を選ぶなら、兵は動かない。
国境を越えさせもしない。兵が駅にいることと戦争を始めることは同じではない。
ただ、もし兵を帰してしまえば、戦争という選択を採った際に動ける範囲が少なくなるのだ。
「私心ではございません。臣はあくまで陛下と帝国のために、必要な措置を実行したのみでございます」
「私心でなければ、余の意思を勝手に代弁することも忠義になるのか」
「帝国の行動能力を保つことは、陸軍卿としての責務にございます」
「その帝国は、誰が統べる」
「陛下にございます」
「ならば卿の責務には、余の命令を待つことも含まれておろう!」
陛下の怒りは理解できた。
しかし、統帥権を奪ったつもりはない。
将来行使される統帥権が、現実に作用できる状態を保存しただけである。
少なくとも、自分の中では二つは異なる。
「御処分は、いかようにも」
「ならば卿が残した兵を、卿が帰せ」
陛下は椅子の背から身体を起こした。
「まず全軍の前進を、今この時刻で止めよ。余の親署なく、兵一人、機関車一両たりとも国境を越えさせるな」
短い鉛筆が、卓へ置かれた。
「御意にございます」
「帰営を延期した部隊は、附属表どおり元の営舎へ戻せ。帰営列車の時程を、本日中に提出せよ」
「陛下。少なくとも鉄道保安大隊と架橋中隊につきましては、交代要員が到着するまで、現在地へ残す必要がございます」
「戻せと言ったぞ」
「現在地から撤収すれば、同じ位置へ兵力を整えるまで、さらに時を要します」
「その上で余が決めた。戻せ」
「……御意にございます」
陛下は外務卿へ顔を向けた。
「アーレンからの認証写しには、正本の寄託者として回答せよ。北側にも同じ文面を回し、帝国外務省が双方から事情を聞く用意があると伝えよ」
「帝国による裁定を、お申し出になりますか」
「まずは聴取だ。裁定を求めるかどうかまで、こちらで勝手に決める必要はない。求められた時にだけ振る舞えばよい」
陛下は卓上の書類を重ねた。
「ましてや、兵を見せて名乗るのではない」
◆
ヘッツェンドルフが執務室へ戻ると、副官はすでに三駅の配置図と運輸表を机へ広げていた。
御前会議へ呼び出された理由は、こちらにも分かっていたらしい。
「御処分は」
「まだだ。皇帝陛下の御命令を二通起こせ」
副官は筆記台の前へ座った。
「第一。エルツ正面の全軍は、現在位置において直ちに前進を停止する。皇帝陛下の親署命令なく、外国領への兵員、車両及び武装要員の入境を禁ずる」
第一の命令は簡単だった。
兵をいまいる場所へ止める。一通の電報で済む。
「第二。帰営を延期した鉄道保安大隊、架橋中隊及び野戦電信分遣隊は、附属表記載の原駐屯地へ復帰する。帰営列車の時程は本日中に提出する」
そこで副官のペンが止まった。
「帰営開始の期限は、いかがいたしますか」
「陛下は、部隊を原駐屯地へ戻せと命じられた。帰営列車の時程を本日中に提出せよとも仰せになった」
「本日中に帰営を開始せよ、との意味でございましょうか」
陛下が望まれているものは明白だった。即時の撤収である。
だが口にされた命令は二つだった。
部隊を帰せ。時程は本日中に提出せよ。
帰営開始の期限までは、仰せになっていない。
「陛下がそのように仰せであれば、そのように書く」
だからこそ、そう答えた。
「御言葉にない期限を、陸軍省が加えることはできぬ。趣旨を足すな。そのまま起こせ」
「……承知しました」
「停止命令を最優先で打て。帰営命令も続けて全隊へ流せ。どちらも陛下の御命令だ。一字も落とすな」
副官は二通の紙を持って電信室へ向かった。
午後一時前、停止命令の受領確認が三駅から相次いで届いた。
全隊、現在位置において前進停止。
陛下の第一の命令は、四十分ほどで実行された。
帰営命令への返答は、それより遅かった。
最初に第三軍団運輸部から届いた。
帰営に使用する予定だった客車は、前夜の命令によって帝都へ返却され、すでに別の輸送へ割り当てられている。
新たな客車の調達には、最短でも二日を要する。
続いて鉄道保安大隊から返電が来た。
三駅の転轍所と軍用電信は、演習終了後も帝国軍用線の運行を支えている。
交代要員なしに撤収すれば、附属表記載の軍用鉄道枠を維持できない。
架橋中隊は、橋梁資材の一部を貨車から降ろし、駅構内の保管所へ移していた。
積み直すための起重機と平貨車を手配するまで、移動開始は困難であるという。
野戦電信分遣隊は、軍用線と民間線の接続試験を継続中であり、引継ぎなしに回線を解けば、国境方面の列車運行へ支障が出ると上申した。
副官が四通の電報を並べた。
「第三軍団司令部からは、現状での撤収は鉄道線を無警備にするため、皇帝命令の再確認を乞うとのことであります」
「再確認は要らん。皇帝陛下の御命令は有効である。撤収可能な最短時程を上申せよ」
副官は、その一文を見た。
「……しかし、その回答では」
「ならば、実施に必要な条件を一つずつ確かめさせろ。車両が必要なら車両の数を、交代要員が必要なら人数と到着時刻を出させる。資材の積載に起重機が要るなら、どの駅から何時に回せるかを書かせろ」
「その間、部隊は現在地へ残ります」
「陛下の仰せである」
副官は返事をしなかった。
その沈黙に、不服はなかった。
◆
午後が過ぎるほど、帰営に必要な条件は増えた。
客車を国境へ戻すには、すでに割り当てられた別の輸送を削らなければならない。
鉄道保安大隊を帰すには、信号所へ代わりの警備員を置かなければならない。
その交代要員を送り込めば、それ自体が指定地区への新たな兵力移動になる。
民間鉄道員へ任せる案も出たが、軍用電信と橋梁資材の保全まで負わせる法的根拠がないと帝国鉄道総局が答えた。
架橋中隊だけを先に戻せば平貨車が不足する。
平貨車を回せば、演習資材を載せた別の列車が動かなくなる。
兵を徒歩で指定地区の外まで下げる案には、第三軍団司令部が反対した。
武器と資材を置いて兵だけを戻せば、撤収ではなく装備の放棄になる。
装備を持たせれば、一日で歩ける距離ではない。
命令を拒んだ者はいなかった。
どの返電にも、冒頭には御意と記されている。
その後へ、車両、警備、橋梁、資材、電信、給養の事情が続く。
実施する意思はある。そして実施できる時刻がない。
午後六時を過ぎても、提出できる帰営時程は一本も完成しなかった。
しかし、帰営命令を受領したという返電だけは届いていた。