面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
「奴さんら、やっと帰るそうです」
エルツ公国国境警備第二中隊の最先任下士官であるバウアー曹長がそう言って、電報を机へ置いた。
中隊長ローレンツ・アイヒナー大尉は、冷めかけていた珈琲の杯を脇へ退けた。
東部国境警備司令部からの電報は、曹長の説明より少しだけ長かった。
『ハイゼンベルク、国境地区残留部隊の帰営を命令。帝国軍は速やかに撤収するものと認む。現配置を維持し、相手を刺激する行動を慎むべし』
「このど田舎には珍しい数の観光客だったんで、いなくなるってんなら少し寂しいですな」
「一挙一動を監視しないでいい観光客なら、同意するがね」
この数日、駅舎の廊下には弾薬箱が積まれ、信号所には通常の倍の歩哨を置いていた。
兵は制服のまま仮眠し、駅長室の長椅子はアイヒナーと駅長が交代で使っている。
貨物口の脇には土嚢が積まれ、荷車を入れるたび駅員たちが半分ほど退かしていた。
駅長室の窓からは、境界標を挟んで向かい合う二つの駅が見えた。
エルツ側のホームから、ハイゼンベルク側の駅舎までは百五十歩ほどしかない。
間を走る二本の線路は、白く塗られた境界標を越えて、そのまま帝国領へ続いている。
向こうのホームでは、帝国兵が朝の点呼を受けていた。
命令が届いたからといって、その場で兵が消えるわけではない。
「二重歩哨は、今夜まででよろしいですか」
バウアーが窓辺から訊いた。
「明日の夕方までは置く。何があるか分からん」
「帰る連中を見送るためにですか」
「君が手を振りたいなら止めはしないがね。信号所の予備弾薬は駅舎へ戻していい。貨物口の土嚢も半分退けろ。駅長が昨日から私を見る目が怖い」
「小官は、あの方が怒鳴るところをまだ見たことがありませんが」
「怒鳴らない人間が怒っている時ほど怖いものはないよ」
「なるほど。それで大尉殿は、奥方を持たれぬわけですな」
アイヒナーは曹長の顔を見た。真面目な顔をしている。
「今の話と、私が独身であることに、何の関係がある」
「さあ。何となく繋がりそうな気がしただけで」
「君は後で貨物口の土嚢を全部一人で運べ」
「中隊最先任者への処遇として、いささか乱暴では」
「観光客を惜しむ余裕があるなら大丈夫だろう」
バウアーは口髭の下で笑い、電報を一度覗き込んだ。
「しかしまあ、よかったですな」
今度の声には冗談が混じっていなかった。
「ああ」
アイヒナーも短く答えた。
帝国側の三つの駅へ兵が入ってから、国境警備司令部は何度も警戒命令を書き換えた。
演習だと説明されても、境界標の向こうに見慣れない部隊が居座っていれば、安心して通常勤務へ戻れるものではない。
皇帝が帰営を命じたなら帰るのだろう。
少なくとも、一介の国境警備中隊長が疑うべきことではなかった。
「第一小隊も、今夜は少しまともに寝かせてやれそうだ」
「六日ぶりですな」
バウアーは笑って敬礼した。
廊下へ出ると、さっそく兵へ土嚢を運ぶよう怒鳴り始めた。
麻袋が床を擦り、貨物口の鉄扉が久しぶりに全幅まで開かれた。駅長は何も言わなかったが、箒を持って自分で土埃を掃き始めた。
アイヒナーは電報を折り、机の端へ置いた。
今日か明日には、向こうの駅から兵を乗せた列車が出る。
それを見届ければ、この場所も田舎の国境駅へ戻る。
◆
昼前、アイヒナーは境界標まで歩いた。
両国の駅の間には、境界標とは別に二本の白杭があった。
一本は帝国側の場内信号機の脇。
もう一本は、エルツ側の場内信号機の脇。
二本の杭に挟まれた短い線路を、双方の駅では境界駅間保安区と呼んでいる。
国境条約に記された区域ではなかったが、双方の駅が開かれた時から続く、現地の取り決めである。
列車の検査員、駅員、保線工だけが立ち入り、武装した部隊は入らない。
条文にしたわけでもないのに、この場所では誰もが律義にそれを守っていた。
ハイゼンベルク側からも、一人の将校が白杭を越えてこちらへ歩いてきた。
カール・ヴェーゼル大尉。
ハイゼンベルク帝国国境警備第三中隊長である。
向こう側の駅へ着任して四年になり、この一帯ではアイヒナーより一年だけ古かった。
二人が最初に顔を合わせたのは、国境線上で貨物列車の車軸が焼きついた時である。
次は、エルツ側の農家から逃げた牛が境界を越え、帝国側の転轍機の前へ座り込んだ時だった。
それからも信号故障、密輸酒、封印違い、酔った旅客の行方不明と、国家の威信とはあまり関係のない問題をいくつも一緒に処理してきた。
帝国軍の演習部隊が三駅へ入ってからは、ヴェーゼルは常駐の国境警備隊と軍団司令部、鉄道当局の間を取り持っていた。
気の毒な役目だとアイヒナーは思っている。
おそらくヴェーゼルも、こちらについて同じことを思っている。
二人は境界標を挟んで敬礼した。
「残っている演習部隊には、帰営の御命令が出たと伺いました」
アイヒナーが言った。
「そのように伝わっております」
「では、しばらく静かになりますな」
ヴェーゼルは帝国側の駅を振り返った。
ホームには鉄道保安大隊の兵が並び、倉庫の前では架橋中隊が材木へ覆いを掛け直している。
「そうなることを願っています」
「帰ってしまわれると、こちらの駅長は少し寂しがるかもしれません」
「帝国側の煙草が入らなくなることを惜しむのでしょう。人が増えると物資も増えていたようですから」
「違いありません」
ヴェーゼルは上衣の胸ポケットから銀の煙草入れを取り出した。
蓋を開きかけ、足元の境界標を見てから閉じる。
「帰営前に一本差し上げようと思ったのですが」
「次の正式な列車へ載せてください。封印を付けて」
ヴェーゼルは笑って、煙草入れを戻した。
「東境界駅の牛は、その後どうしています」
「今年も元気ですよ。飼い主が柵を直したので、しばらく帝国訪問の予定はないそうです」
「残念ですな。あの牛が、記憶にある限り最も礼儀正しい越境者でした」
「入国書類を出さなかったでしょう」
「確かに。しかし口数が少ない。そこは評価できます」
二人とも笑ってから、アイヒナーは帝国側のホームへ目をやった。
「彼らは、すぐ帰ると聞きましたが」
「ええ。こちらの司令部もそう申しております」
「では、またいつもの風景に戻るわけですな」
「ですな。この一週間ほどのおかげで、あの暇な日常も悪くなかったと思えましたよ」
「まったくです」
◆
翌朝になっても、帝国軍はいた。それ自体は別に不思議ではなかった。
一個大隊を移すにも、兵を人数分の客車へ詰めれば済む話ではない。
撤収に一日や二日かかることは珍しくない。
午前六時、向こうの駅で点呼が始まった。
七時には炊事の煙が上がった。
九時になると、野戦電信分遣隊の兵が、線路沿いの電柱へ梯子を掛けていた。
「帰る時まで仕事とは、御苦労なことですな」
バウアーが窓の外を見ながら言った。
「我々も人のことは言えんよ」
駅では通常貨物の受け入れ準備が再開されていた。
待合室へ置かれていた弾薬箱は倉庫へ戻され、兵が占領していた長椅子にも空きがでるようになった。
向こうの兵も、昨日までより動きが少なかった。
昼過ぎ、東部国境警備司令部から別の電報が届いた。
第二中隊第三小隊を東境界駅へ移し、第一小隊と交代させる命令である。
兵員四十八名。
到着は午後四時十分。
現地警備に当たっていた第一小隊の勤務状況を理由として、予定されていた交代を二日繰り上げるため。
同じ通告をハイゼンベルク側へ送付済み。
アイヒナーは最後まで読み、紙をバウアーへ渡した。
「第三小隊ですか」
「第一小隊は連勤続きだ。向こうが帰るなら、こちらも通常の勤務へ戻せということだろう」
「今夜だけ、二個小隊が重なりますな。寝る場所が足りませんぜ」
「なら駅長へ頭を下げてこい」
「小官が、でありますか。大尉殿からではなく?」
「駅長は私より君の方を好いているだろう」
「確かに、それは疑いありませんな」
「おいおい、そこは少し否定しろ」
バウアーは通告書を折り、上衣へ入れた。
「しかし、帝国側は増援だと騒ぎませんかね」
「明朝には半分戻すと、政府宛の通告書にも書いてあるらしい。向こうも帰るのだから、問題にはすまい」
「では、寝床を借りてきます」
バウアーは口髭を撫で、駅長室へ向かった。
ほどなく、壁越しに駅長の低い声と、曹長の妙に丁寧な返答が聞こえ始めた。
第三小隊四十八名は、予定より七分遅れて一つ手前の駅へ着いた。
そこから徒歩で、東境界駅までやってきた。
兵たちは駅舎裏へ入り、第一小隊から持ち場の説明を受けた。
信号所、貨物倉庫、東側鉄橋、駅前道路。
境界標へ近づくな。
線路敷へ出る場合は、駅長または当直将校の許可を受ける。
翌朝の交代完了まで、第三小隊は貨物倉庫で休ませることになった。
その配置が終わる前に、ヴェーゼルが境界標へ来た。
昨日とは違い、煙草入れを出さなかった。
「貴軍の兵力移動について、通告は受けました」
「それはよかった」
「よくはありません」
ヴェーゼルは、駅舎裏へ入っていく猟兵たちを見た。
「帰営命令を受けた帝国軍部隊の正面へ、なぜ兵を増やすのですか」
「ただの交代です。明朝には第一小隊が戻ります。通告書にも書かれていたでしょう」
アイヒナーは、少しだけ肩をすくめた。
「第一小隊の連中を休ませたいだけです。六日も駅舎で寝ています。昨日は向こうの部隊も帰ると伺いましたので、こちらも通常の交代へ戻しました」
「彼らが帰る前に、そちらの兵は一時的に倍になった」
「明朝までです。私が受けた命令には、そう書いてあります」
ヴェーゼルは帝国側の駅を振り返った。
ホームには、昨日と変わらない数の帝国兵がいる。
「彼らは、まだ帰らないのですか」
アイヒナーが訊いた。
「帰営命令は出ています」
「それは聞きました」
「私も、それ以上は聞いていないのです」
ヴェーゼルの声は昨日より乾いていた。
「部隊は境界へ出しません。第三小隊も、明朝までは貨物倉庫です。貴軍の帰営を妨げるものは何もない」
「……それは承知しております」
二人は少し黙った。
以前なら、その後に軽い調子で話が続いた。今日はどちらも、その続きを探さなかった。
敬礼だけを交わし、それぞれの側へ戻った。
◆
夕刻、駅長は貨物口の脇へ土嚢を積み直してほしいと言った。
「昨日は邪魔だと仰ったでしょう」
アイヒナーが言うと、駅長は窓の外を顎で示した。
帝国側のホームでは、兵が二列に並んでいる。
交代小隊が到着してから、向こうの歩哨も増えていた。
「貨物口の前だけ空けてください。それ以外は、あった方がよろしいかと」
駅長はそれだけ言った。
バウアーが兵を呼び、朝に片づけた土嚢を運ばせた。
麻袋が一つずつ、昨日まであった場所へ戻る。
「行ったり来たりで、土嚢も大変ですな」
一つを肩へ担ぎながら言った。
「君よりは文句が少ない」
「中身が砂ですからね。小官より詰まっております」
日が暮れる頃には、駅舎の窓の下へ二段の土嚢が並んだ。
◆
午後八時半を少し過ぎた頃、帝国側で銃声がした。
一発目は遠かった。
少し間を置いて、二発目が鳴った。
アイヒナーは駅長室の椅子から立った。
廊下では、兵たちが先に動き始めている。
「持ち場を離れるな!」
扉を開けて声を張ると、兵の足が止まった。
「こちらへの射撃ではない。命令があるまで銃を取るな」
帝国側のホームでは、灯りが増えていた。
兵が駅舎から線路へ降り、何人かは北側の保線道へ走っていく。倉庫の扉が開き、別の一団がその前へ集まった。
怒鳴り声が続いた。
短い命令らしい声が何度も飛び、そのたび兵の動く方向が変わる。
何を言っているのかまでは、こちらへ届かない。
バウアーが駆けてきた。
軍帽を被っておらず、灰色の髪が少し乱れている。
「向こうで何かありましたな」
「見れば分かる」
帝国側で、また声が上がった。
誰かの名を呼んでいるようにも聞こえたが、距離と風で言葉の形が崩れている。
手提げ灯が保線道へ入り、木々の間を一つずつ離れていった。
「こちらへの着弾はあったか」
「確認できません」
「第一小隊は」
「戦闘待機。第三小隊も装具を付け始めています」
「そのまま待機させろ。ただし外へ出すな」
「見に行きますか」
アイヒナーは、暗い線路の先を見た。
向こう側で何が起きたのかは分からない。
「五名出せ。エルツ側だけだ。人を見つけても絶対に撃つな」
「はっ」
バウアーは振り返り、兵を選んだ。
五人は手提げ灯を持ち、線路脇の暗がりへ入っていった。
その間も、帝国側の怒鳴り声は止まらなかった。
巡察は二十分ほどで戻った。
「異常ありません」
先頭の伍長が報告した。
「保線小屋にも人影なし。線路脇の草に踏まれた跡はありますが、誰のものかどうかまでは」
「御苦労。持ち場へ戻れ」
五人が去ると、バウアー曹長が帝国側を見た。
灯りはまだ保線道を動いている。
「騒ぎは続いてますな」
「ああ」
◆
午後九時半、ヴェーゼルが兵を一人伴って境界標へ来た。
先ほどまで保線道を走っていたらしく、軍靴には草の種と湿った土が付いている。
「野戦電信分遣隊の兵が一名戻らない」
ヴェーゼルは前置きなく言った。
「北側の電信線を調べに出た者です。銃声の後から所在が分からない」
「氏名は」
「ヨハン・フェルナー上等兵。二十三歳。灰色の作業外套。小銃一挺を携行しています」
アイヒナーは手帳へ書いた。
「こちら側は調べました。保線小屋と境界標の間にはいません」
「我々にも捜索させてもらいたい」
「エルツ側へ、武装した帝国兵を入れることはできません」
「兵が撃たれた可能性があります」
「その可能性があるからです。暗闇の中へ双方の武装兵を入れれば、次の銃声が誰のものか分からなくなる」
「我々は自国兵を捜すだけだ」
「……大尉一名であれば、武器を置いた上で同行を認めます。こちらからは駅員と保線員を出します」
後ろにいた兵が、大尉の耳元へ何か言った。
「我が軍の兵を探すのに、武器を置けと」
「こちらの者にも銃は持たせません」
「もし撃った者が、そちら側に残っていれば」
「だから双方の兵を入れないのです」
「銃声がした。その後、一人戻っていないのだ」
「……上級司令部へ照会します、なるべく急いで」
「頼む」
敬礼を交わし、ヴェーゼルは帝国側へ戻った。
◆
東部国境警備司令部からの返答は、午後十時を回って届いた。
『帝国兵捜索には協力すべし。ただし武装した帝国軍部隊のエルツ領内入境を認めず。国境付近へ部隊単位で進入した場合は停止を命じよ。停止命令に応じない場合、警告射撃を許可する』
アイヒナーは電文を読み終え、バウアーへ渡した。
曹長は黙って最後まで目を通した。
「撃ってでも観光客をこちらに入れるな、ということでありますか。難しいことを求めますな」
「……もし撃つとしても人へは撃つな。誰にも当たらない場所へ」
バウアーは小さく息を吐いた。
電文を折り、アイヒナーへ返す。
「使わずに済むとよいですがね」
アイヒナーは窓の外を見た。
帝国側の駅前に、兵が集まり始めていた。
帝国兵は三十名ほどだった。
派遣された兵と、ヴェーゼルの国境警備兵が混じっている。
銃を手に持っていた。
先頭にヴェーゼル大尉が立っていた。
アイヒナーはエルツ側の白杭まで出た。
後ろにはバウアーと、猟兵一個分隊。
信号所と駅舎の窓にも兵を伏せさせている。
貨物倉庫では、翌朝に帰るはずだった第一小隊が、外した装具を着け直していた。
「行方不明者の捜索を行う!」
ヴェーゼルの声が届いた。
「我々はエルツ領内へ入らない!」
「武装部隊の保安区への進入を認めない! 帝国側白杭の手前で停止せよ!」
帝国兵はそれでも歩き続けた。
「捜索である!」
「条件は先ほど示した! 兵を戻せ!」
帝国側の白杭まで三十歩。
兵の軍靴が砂利を踏んで、乾いた音が一つずつ近づいてくる。
「第一警告! 停止せよ!」
歩調が少し落ちた。
ヴェーゼルが振り返り、後ろの兵へ何か叫ぶ。
それでも兵は止まらなかった。
先頭の男が、帝国側の白杭を越えた。
「第二警告! 保安区から退け!」
ヴェーゼルは右手を上げた。それは停止の合図にも見えたし、後続へ前進を促しているようにも見えた。
先頭の兵は、エルツ側の境界標まで二十歩を切っている。
「第三警告! これ以上進めば発砲する!」
ヴェーゼルの声が返った。
「捜索をするだけだ!」
それが約束なのか、反論なのか分からなかった。
先頭の灯りが、エルツ側の境界標を照らした。
「警告射撃!」
アイヒナーは言った。
バウアーが、隣の猟兵へ繰り返す。
「線路右へ一発。人を狙うな」
猟兵が銃を構えた。
銃口は帝国兵から外れ、境界標の右側へ向いている。
火が走り、銃声が駅間へ響いた。
弾は線路脇の盛土へ入り、土を跳ね上げる。
帝国兵の列が止まった。
ヴェーゼルが右手を高く上げ、何かを叫んだ。
その次に、帝国側の左列から火が伸びた。
信号所の窓硝子が割れ、中にいた信号兵が肩から壁へぶつかり、机の下へ倒れた。
「待て!」
アイヒナーは叫んだ。
だが、信号所からエルツ兵が撃ち返した。
帝国側からも銃口の火が返る。
その後は、もはやどちらが何発撃ったのか分からなかった。
線路の左右で火が明滅する。
灯りの一つが落ち、帝国兵が砂利の上へ伏せた。
エルツ兵も駅舎と信号所の陰から撃つ。
「射撃中止! 撃つな!」
ヴェーゼルの声も聞こえた。
結局、撃ち合いは二分も続かなかった。
◆
「衛生兵!」
バウアーの声が、静かになった駅間へ響いた。
倒れた信号兵は、胸を撃たれていた。
制服の背中まで血が回っている。
衛生兵が首へ指を当てたが、すぐに手を離した。
「ハウザーです」
アイヒナーも知っている兵だった。二十歳になったばかりで、中隊でも若い方だった。
昨冬、帝国側から迷い込んだ犬を捕まえ、首輪の札を読んでヴェーゼルのところへ返したのも彼だった。
別の猟兵が左腕を撃たれ、駅舎の壁へ座り込んでいる。
帝国側でも数人が運ばれていた。
生きているかどうかは分からない。
アイヒナーは境界まで歩いた。
帝国側からは、頬に煤が付いたままのヴェーゼルが一人で出てきた。
「最初に撃ったのは、そちらだ」
「警告射撃だ。三度停止を命じた」
「我々は国境を越えていない」
「保安区へ入った」
「あの白杭は国境ではない!」
叩きつけるようにヴェーゼルは言って、それきり黙った。
「……なぜ、進んできたのだ」
「司令部から、必ず見つけ出せと返電があった」
「それで、部隊を出したのか」
「……国境は越えていない」
その先へ進む言葉は、どちらにもなかった。
二人がそれぞれの側へ戻ると、銃を置いた兵たちが担架を持って白杭の間へ入った。