面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
ハイゼンベルク帝国の最後通牒がグランツェルへ届いたのは、午後四時十二分だった。
回答期限は、受領から二十四時間。
それから一時間半ほど、バルク宰相の執務室には人が絶えなかった。
外務省の官吏が最後通牒の写しを十一部作り、連邦評議会の書記官が各邦政府への電報を起こした。
統帥府と連邦鉄道局には国境警戒の通報が送られ、エルツ公国政府へは、帝国から課された条件の全文が回された。
机の上では、三つの綴りが開かれていた。
エルツ公国に対する謝罪、賠償及び帝国調査官の立入り要求。
ノルトマルクに対する、エルツ方面への軍事移動停止要求。
アーレン王国との取決めを、ハイゼンベルクの仲介による再協議へ戻す要求。
バルク宰相は最後の一頁まで読み終えると、回答案を担当する外務官へ返した。
「エルツに課された条件は、エルツ政府が答える。我々が代わりに謝罪も受諾もするな」
「承知いたしました」
「連邦政府として答えるのは、軍事移動の停止とアーレン問題だ。理由は一頁に収めろ。向こうが都合のよい箇所だけを一部受諾と読めぬよう、末尾には受諾か拒絶かを一行で書け」
「本日中にお持ちいたします」
「九時だ」
「……承知いたしました」
外務官と秘書官が退室した。
彼らに同情する余裕はなかった。
扉が閉じても、最後通牒の一頁から目を離せなかったからだ。
『ノルトマルク連邦政府は、アーレン王国との諸取決めが、同国の王命、領域及び鉄道について、ノルトマルク政府にいかなる監督権、審査権又は執行権も与えるものではないと明文で確認する』
その下には、帝国の仲介による再協議を受け入れること。
全項目の履行が確認できない場合、ハイゼンベルク帝国は、アーレン王国及び南マルク諸邦の主権回復のため、必要な軍事措置を講ずること。
その文言は帝国側が書いたものだった。
しかし、向けられている先には見覚えがある。
帝国諸邦会議で採択された、登録民間貨物の六か月試行。
誰が何を決め、どこから先を相手の権限として残すか。その境目を作るため、自分が何度も書き直したものだった。
それはいま、帝国軍を国境の向こうへ出す理由として、一つの頁に並べられている。
「どうした」
バルク宰相が訊いた。
机の隅には、昼から手をつけられなかった皿が残っていた。
冷えた肉の脂が白く固まり、黒パンの切れ端には赤鉛筆の粉が付いている。
「いえ」
一度はそう答えた。
それで済ませるつもりだったが、最後通牒から目を離せなかった。
だから、たぶん言うつもりのなかった言葉までが口をついて出た。
「……私が起草した鉄道条約が、戦争を引き起こしたのでしょうか」
バルク宰相の顔は動かなかった。
しばらくこちらを見てから、机の前にある椅子を顎で示した。
「そうとも言える。座りたまえ」
「ですが」
「立ったまま考えれば、君の感じる責任が少しは軽くなるのかね」
椅子へ腰を下ろした。
否定されると思っていたわけではない。
それでも、君の条約とは関係がないと一言だけ言われれば、最後通牒に並んだ語を、もう少し遠くから眺められた気がする。
バルク宰相は最初の返答で、その距離をなくした。
「国境で兵が死んだ。あの事件だけでも、エルツへ謝罪と調査を求める理由にはなる」
バルク宰相は最後通牒の前半を指した。
「しかしそれだけでエルツへ軍を入れれば、帝国は国境で死んだ兵一人への報復として戦争を始めることになる。発砲の順序や、警告射撃がどこへ向けられていたかを調べられるたび、戦争の理由まで揺らぐ」
指が、アーレン王国に関する項目へ移った。
「だからハイゼンベルクは、こちらを前へ置いた。ノルトマルクが条約を使い、南マルクの王権へ介入した。オトフリート二世陛下はその最初の被害者であり、最高保護者たる皇帝が救う。随分と都合のよい話だ」
「ですが、何もないところから作られた話でもありません」
「その通りだ」
バルク宰相は即座に認めた。
「我々はアーレンへ期限付きの要求を送り、王命によって生じた損害を負担させた。次の王室貨物には、事前の手続を置かせた。言い換えるまでもなく、王権への制限ではある」
「オトフリート陛下は同意なさいました」
「そう。だから取決めは有効だ」
バルク宰相は認証写しの署名欄を指で押さえた。そこにはオトフリート二世の署名がある。
「王が自ら署名した一件を、後から帝国が無効にできるものではない。だが帝国は、その一度の同意から、将来の王命までノルトマルクが裁く権利は生じないと言う。そこも間違ってはいない。しかしオトフリートは、おそらく双方へ怒鳴るだろう」
容易に想像できた。
帝国へ守ってくれと頼んだ覚えはない。
だがノルトマルクへ、今後の王命を裁く権利を渡した覚えもない。
おそらく、その二つを同じ声量で主張する。
バルク宰相は、暫定試行の綴りを開いた。
「帝国側の軍事案を止めて帰るだけでは、次に問題が起きた時もシェーンハルトの卓へ戻される。南北の貨物を、日々の運行ごと帝国の裁定へ戻さずに通せる仕組みを置け。私が君へ命じたのは、そこまでだ」
「はい」
軍事と商務の境目にあるものへ商務の名札を付けた。
形式を南北で通じるように整えた。
それは間違いなく、自分の仕事だった。
「軍事協定なら南は警戒する。関税同盟なら帝国も各邦議会も騒ぐ。だから六か月間の民間貨物試行という形にした。国内の列車順と鉄道監督権は各邦へ残し、国境を越える部分だけを揃えた」
バルク宰相の指が、紙面の欄を順に辿った。
「北側の書式から連邦法の条番号を消した。北側官署の名も一般化した。南側の税関が封印を開いた後も同じ運送状を使えるよう、再記録欄を足した。何を共通にし、何を各邦の権限として残すか。私の構想を会議で通る条約の仕組みにしたのは君だ、ライフェンベルク」
「あの条約は予定どおり働いた。だからハイゼンベルクは、南へノルトマルクの制度が伸びたと読んだ」
「私がこの条約を考えなければ、今日の最後通牒はなかったのでしょうか」
「少なくとも、アーレン王国の王権回復という名目はなかった。そこは否定せん。だが関係があることと、すべてが君の責任であることは別だ」
高い声が、普段より低く聞こえた。
バルク宰相は暫定試行の綴りを閉じ、その上へ手を置いた。
「南北の貨物を帝国の裁定へ戻さず動かす制度を作れと命じたのは私だ」
「閣下は、当初よりハイゼンベルクが武力で介入することも考えておられたのですか」
「可能性には入れていた」
返答には、ほとんど間がなかった。
「帝国が南の諸邦へ圧力をかける。ノルトマルクとの取決めを、帝国の仲介へ戻そうとする。国境へ兵を残し、武力を背景にそれを呑ませようとする。その程度は考えていた」
冷えた皿が、さらに机の端へ押された。
「とはいえここまで早く動くとは予想していなかった。そこは私の見込み違いだ」
「戦争に繋がるかもしれないと知っていて、進められたのですね」
バルク宰相は、しばらく三枚の書類を見ていた。
「何もしなければ、今年は戦争にならなかったかもしれん」
予想していたより、素直な答えだった。
「あるいはオトフリートの件を帝国へ持ち込み、最高保護者に裁定を求めていれば、少なくとも今日の最後通牒はなかっただろう。その代わり、南との貨車一本を動かすにも、問題が起きるたびシェーンハルトの判断を待つことになる」
赤鉛筆の先が、机の上を転がった。
バルク宰相はそれを指で止めた。
「つまり、何もしない方が正しいとは考えなかったのだ。連邦評議会宰相としてな」
その言葉に、黙るほかなかった。
自分とてあの鉄道条約がハイゼンベルクとの衝突を招く可能性を、まったく考えなかったわけではない。
危険の欄の隅には置いていた。
ただ、それが今日の日付で埋まり、自分の作った運送状と登録番号が帝国の最後通牒へ移されるとは思っていなかった。
執務室の外で、廊下を歩く靴音が扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。
「君は、自分が悪かったと言ってもらいたいのか。それとも、悪くなかったと言ってもらいたいのか」
「……分かりません」
「ならば、どちらも要らん」
バルク宰相は暫定試行の綴りを開き直した。
「君は、あの条約が何をするものか理解して書いた。帝国の裁定を介さず、南北の貨物を同じ手続で動かす。各邦の国内権限を残したまま、国境を越える運用だけを繋ぐ。その意味は分かっていたな」
「はい」
「ならば、そこまでは君の仕事であり、君の責任だ。その案を政策にしたのは私だ。署名したのはオトフリートであり、それを開戦事由にしたのはハイゼンベルクだ」
バルク宰相は一枚ずつ紙を指した。
暫定試行の起草記録には、自分の名がある。
認証写しにはオトフリート二世の署名があり、最後通牒にはハイゼンベルク皇帝の大印があった。
「結果が一つだからといって、責任まで一人分にまとめる必要はない」
「ですが、結果として人が死ぬことになります」
「死ぬだろう」
否定はなかった。
膝の上で、指が一度動いた。
「私が選んだ政策でも死ぬ。ハイゼンベルクが選ぶ戦争でも死ぬ。君の書いた時刻表に従って兵が動き、その先で死ぬ者もいる」
バルク宰相は机の引き出しを開けた。
「君は参謀将校だ。いずれ自分の案を、軍団長や司令官の机へ置くことになる。採用された後で人が死んだ時、私はただ計画を書いただけですとは言うな」
薄い封書が一通取り出された。
まだ、こちらへは渡されなかった。
「だが、決裁した者と実行した者の責任まで、自分一人で持っていくな。君が全部自分のせいだと言い出せば、私の決裁も、オトフリート王の署名も、帝国の選択も、勝手に君のものにすることになる」
自分が悪いのなら、何か一つ罰を受けて終わりにできれば楽なのだが。
叱責でも、降格でも、辞表でもよい。
それを受け取った後に、ここから先は自分の仕事ではないと思えるなら。
だが、それをしたところで鉄道条約は消えない。
最後通牒も消えず、国境の兵も帰らない。
「……私はどうすればよいのでしょうか」
「仕事を続けろ」
返答はそれだけだった。
「君が今夜辞表を書いてもこの条約は消えん。私が明日宰相を辞めても、国境の兵は一人も減らん。席を空ければ責任を取ったことになるというのは、随分と簡単な考え方だ。少なくとも今は、今日の結果を知った上で明日も仕事をしたまえ」
卓上の書類を見ながら、しばらく黙ってその言葉の意味を考えていた。
責任を取るという言葉には、どこか終わりの形があるように思っていた。
辞表なら日付を書けば終わる。
処分なら、命令を受ければ終わる。
だが、明日の仕事には終わりがない。
黙っているうちに、バルク宰相は手元の封書を投げてよこした。
机の上を滑り、目の前で止まる。
「私はここで次の仕事をする。君は別の机で、兵をどこへ動かし、どこで止めるかを考えろ」
封筒には、統帥府の印が押されていて、中には短い辞令が一枚入っている。
『クラウス・フォン・ライフェンベルク参謀中佐。連邦評議会宰相府付軍務官の任を解き、原所属たる統帥府へ復帰せしむ』
日付は今日だった。
「本日をもって、君の宰相府付軍務官としての任は終わりだ」
辞令から顔を上げた。
「責任を取れと仰った直後に、任を解かれるのですか」
「職を辞めろとは言っておらん。宰相府付を解くと言っただけだ。出頭時刻は明朝八時だ。向こうは宰相府ほど朝が早くない」
「少なくとも、朝にいきなり起こされることはなさそうです」
「ふん。そんな冗談を言う余裕があるなら大丈夫だろう」
辞令を二つ折りにした。
統帥府の印を見た瞬間、以前なら安堵したはずだった。
宰相府付軍務官を辞めたいと、何度考えたか分からない。
朝七時前に呼び出され、遅いと言われた時。
届いたばかりの紙束を昼までに読めと命じられた時。
シェーンハルトへ剣を置いていき、首相随員の名札を付けた時。
列車で九時間半、バルク宰相と向かい合った時。
何度も待ち望んだはずの辞令なのに、指先は少しも軽くならなかった。
「君を宰相府へ置いたのは、軍の時間を政治へ持ち込むためだった」
バルク宰相は言った。
「今度は、政治が軍をどこへ動かすか知っている人間を、統帥府へ戻す」
机上の最後通牒へ目をやった。
自分たちが作った制度は、ハイゼンベルクの文書の中で別の意味を与えられた。
オトフリート二世の怒りは、本人の知らないところで戦争の理由へ変えられた。
帰るはずだった兵は、国境の駅へ残ったまま、その場所から前進しようとしている。
「ここへ来る前と同じつもりで、統帥府の机へ座るな」
バルク宰相は新しい書類へ手を伸ばした。
「全部、この数か月で見たのだろう。耳だけで十分だと言ったが、目も使ったらしいからな」
「覚えております」
「覚えているだけでは困る。使わなければ意味がない」
辞令を上衣の内側へ収めた。
封筒の角が、軍服越しに胸へ当たる。
それから宰相府の通行証を取り出し、机の上へ置いた。
これで、明日からこの府には今までのように入れない。
「これまで、御指導ありがとうございました」
「礼を言われるほど親切にした覚えはない」
「その点については、同意いたします」
いつもの叱責が来るかと思ったが、何も言わず、机上の返書を一枚開いただけだった。
一礼して扉へ向かい、取っ手へ手を掛けたところで、背後から高い声が飛んだ。
「ライフェンベルク参謀中佐」
振り返った。
バルク宰相は、返書から顔を上げてはいなかった。
「君の仕事へ戻りたまえ」
踵を揃え、敬礼した。
「拝命いたします、宰相閣下」