面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
その日の朝の一杯は、いつも通りに淹れられた。
食事も予定通りで、何の問題もなかった。
けれど味がいつも通りだったかどうかは、よく分からなかった。
統帥府本館の前へ着いたのは、七時四十分である。
統帥府の朝は、宰相府ほど早くないはずだった。
だが本館の窓には三階まで灯りが並んでいて、どれも夜から点きっぱなしの色をしていた。
正面玄関の歩哨は、顔を見て敬礼し、それから通行証を確かめて、もう一度敬礼した。
「宰相府より、ライフェンベルク中佐が――」
受付の若い書記官は内線管を取り、言いかけて止まった。
手元の綴りを一枚めくり、言い直す。
「――失礼。出頭であります。ライフェンベルク参謀中佐、作戦室長室へ」
階段では、書類箱を抱えた下士官が二人、壁際へ寄って道を空けた。
廊下には冷めた煙草と燈油の匂いが残り、壁際の長椅子では伝令兵がひとり、座ったまま眠っていた。
彼を誰も起こそうとはしなかった。
◆
作戦室長室の扉は、開いたままだった。
机の書類は半分が床の木箱へ移され、空いた場所に南東方面の要図が広げられている。
エッゲン准将は襟の鉤を一つ外したまま、その上へ屈んでいた。
卓の隅には珈琲の杯が二つ。どちらにも湯気は立っていない。
中には、先に入っていたらしいザルヴィッツ少佐が立っていた。
規則どおりに先へ敬礼され、返した。
「揃ったな。掛けたまえ」
准将の顔は要図から上がらなかった。
二人が腰を下ろすと、鉛筆が置かれ、ようやくこちらを見た。
「昨夜は眠れたか」
「定例報告の様式に、その項目がございましたか」
「ない。ないが、今日からしばらくは重要になる」
ザルヴィッツ少佐は、何も言わなかった。
准将は要図の端を指先で揃えた。
「状況から言う。政府の回答は昨夜のうちに送られた。中身は政務の仕事だ。期限は本日十六時十二分」
「回答については」
「私も知らん。しかし想像はできる。通告事項のうち、絶対に呑めないものがある」
「エルツ国内での帝国官憲による調査、でしょうか」
「そうだ。あれは連邦の一員である以前に、独立国家として呑める条件ではない」
エッゲン准将は疲れた声音のまま続けた。
「現状だけ伝える。ブランデン国境は王国軍が塞ぐ。ここからは一兵も抜けん。後はヴィルマー大将麾下の西部軍を動員する。あちらには動員をやったことのある司令部と、実際に走らせたことのある時刻表がある。南からエルツへ入る」
「中央からのエルツの救援は、どうなります」
「二個軍を編成する。ただし今日の時点では、片方は名称と動員計画しかないがな」
鉛筆が、ヘルデンフェルトへ移った。
「いま動かせる塊は一つしかない。演習参加部隊だ。兵も、馬も、砲も、段列も、演習のためにもう集まっている」
「弾薬段列は、演習定数のままであります」
ザルヴィッツ少佐が言った。
「知っている。不足分は追送する。少佐には輸送表の照合もやってもらう」
「は」
「演習参加部隊は今日から軍になる。呼称は集成第一軍。司令官はグラーフェン大公弟、ホーエンエック公爵元帥」
「中央の将帥ではないのですね」
「演習場にいるのが北部諸邦軍でなければ、そうなる予定だったがね。西部軍が帰るのが一か月早かった」
准将は要図の脇から編制表を抜いた。
第一軍司令部。
その下に、グラーフェン、メーレン、ノルデックの三個師団が並んでいる。
対象の部隊には、まだ旧所属の名が残っていた。
ザルヴィッツ少佐は編制表を読み下ろし、最上段へ目を戻した。
「北部の人員ばかりが並んでおります。せめて、統帥府から軍監を派遣なさる必要があるのではありませんか」
「その案は昨夜、先方へ送った」
エッゲン准将は別の綴りを開いた。
一枚目には将官の名があり、その上へ太い斜線が引かれている。
二枚目も同じだった。
三枚目は、ホーエンエック元帥からの返電である。
『第一軍の指揮は司令官たる余が負う。監察を名目とする中央よりの派遣将官は不要』
「とのことだ、筋金入りだな」
准将はその紙を指で押さえた。
「連邦軍規則においては、この場合、第一軍は統帥府の作戦統制下にあるはずです」
「良く規則を勉強しているな、少佐。それは元帥閣下へ奏上したまえ」
ザルヴィッツ少佐の目が、もう一度編制表へ戻った。
「では、北部軍のみに任せるのですか」
「それは流石にこちらとしても認められん」
エッゲン准将は、机の端に用意していた二通の辞令を引き寄せた。
「ザルヴィッツ少佐。君は第一軍司令部付統帥府派遣幕僚。第一軍参謀部と統帥府作戦室の間に入れ」
「承知しました」
一通目の辞令が、少佐の前へ置かれた。
「第一軍には固有の参謀長と幕僚団がある。君が代わりに第一軍の作戦を作るわけではない。だが演習統監部から軍司令部へ移る以上、直すべきところは出る。見つけたら書面にしろ」
「は」
二通目が、こちらへ滑ってきた。
「ライフェンベルク中佐。君は派遣幕僚班主任だ。統帥府、政府、連邦鉄道局、エルツ政府との連絡を担当する。派遣中、ザルヴィッツ少佐は君の指揮下へ入る」
紙を取るより先に、ザルヴィッツ少佐が口を開いた。
「確認を願います」
声は平静だった。
「小官は、ライフェンベルク中佐殿の直属となるのでしょうか」
「そう言ったはずだが、聞こえなかったのかね」
返事までに、ほんのわずかな間があった。
何を考えているかは想像に難くない。
「……承知いたしました」
だいぶ不満そうだったが、それ以上の質問もなさそうだったので、自分も口を開いた。
「准将。私からも一つよろしいでしょうか」
「言え」
「統帥府より派遣される幕僚の最上位が、中佐でよろしいのですか。より軍務に通じた高級将官を、連絡幕僚として送ることもできたのでは」
「その提案を先方が受け入れなかったと言っている」
同じ疑問でも、ザルヴィッツ少佐が言えば不満に聞こえ、自分が言えば逃げ口上にしか聞こえない気がした。
実際、かなり逃げたかった。
北部諸邦軍を急に一つへまとめた軍。
中央から派遣される将官を拒む元帥。
補給は演習分のまま。
昨夜まで宰相府にいた人間が、戻った翌朝に入る司令部としては、随分と問題が揃っている。
仕事を続けるにしても、職場くらいは選ばせてほしい。
「どうしても君が嫌だというなら、ホーエンエック元帥へ直接申し上げたまえ」
エッゲン准将は答えた。
「誰でもよいわけではないらしいからな」
先ほどの返電が裏返された。
下半分に、別の筆跡で一行だけ書き足されている。
『レオポルト伯の孫であれば異存なし。以前に顔を見知っている。少なくとも話は通じよう』
見事なまでに参謀としての評価は一つもなかった。
ちなみに、自分はまったく顔を覚えていない。何なら会ったことも覚えていない。
「面識があることが、派遣資格になるのでしょうか」
「今回についてはな」
准将の返答には、少しの慰めもなかった。
「君は元帥を監督する階級には見えず、元帥も君をどこの馬の骨かと疑う必要がない。それで先方は受け入れた。こちらとしてはついでに仕事もしてくれれば助かるがね」
「では、ザルヴィッツ少佐を班主任にして、私は元帥閣下との連絡だけを」
ザルヴィッツ少佐が、こちらへ顔を向けた。
その案へ賛成しているようには見えなかった。自分の提案で譲られるのも、また別の侮辱になるのだろう。
エッゲン准将は、二杯の冷めた珈琲のうち一つを手に取ったが、口に含んだ瞬間に顔を顰めて、そのまま戻した。
「君なら聞くと返事があった。だから君が主任だ。ザルヴィッツ少佐は作戦の仕事をする。君は、少佐と第一軍参謀部の仕事を元帥と中央の間へ通す。好き嫌いの問題ではない」
少なくともザルヴィッツ少佐にとっては、かなり好き嫌いの問題も含まれていると思うのだが。
ともかく、これ以上論議する意味はないらしい。
「……承知しました」
とはいえ抵抗としては、かなり粘った方だと思う。
結果として辞令が一寸も動かなかったという点では、いつも通りでもあった。
「出発は十時二十分。ヘルデンフェルトの演習統監部へ入れ。第一軍司令部への改編は正午までに終える」
エッゲン准将は回答期限の横へ、鉛筆で線を引いた。
「十六時十二分までは、第一軍も西部軍もエルツに入れない。ただし帝国軍が先に動けば、その時点で別命令に切り替える。両方の命令書を持っていけ」
エッゲン准将は、すでに次の書類を開いていた。
「以上だ。二人とも準備をしろ。九時四十分に出れば列車には間に合う」
「は」
退出する前にもう一度、机上の要図を見た。
エルツ北部へ向かう第一軍の矢印は、まだ鉛筆で薄く引かれている。
南の西部軍には列車の時刻が入り、ブランデン=ハイゼンベルク国境には黒い部隊札が並んでいた。
第二軍と書かれた箇所には、矢印どころか部隊札さえ一つもなかった。
◆
廊下へ出てから、ザルヴィッツ少佐はしばらく何も言わなかった。
こちらから何か言わなければならないだろうかと思案していたところで、ようやく口を開く。
「元帥閣下が御祖父君を御存じだったことは、何よりでございましたな」
「私も、今朝まで知りませんでしたが」
「中佐殿の御家ほどになれば、御本人の知らぬ縁まで先に働くのでしょう。羨ましい限りです」
口調だけを取れば、感心しているようにも聞こえる。
そうではないことは、さすがに分かった。
それならぜひ立場を代わって欲しいと言いかけたが、辛うじて自制した。
「ええ。今回は、そうだったようです」
「否定なさらないのですね」
「否定しても、辞令は変わりませんから」
ザルヴィッツ少佐は足を止めなかった。
軍靴の音が、磨かれた廊下へ一定に続く。
「軍学院では、家系譜をもう少し学んでおくべきでした。作戦より先に役立つとは思っておりませんでしたので」
「少佐は第一軍で作戦を担当なさいます。私より、軍学院で学ばれたことを使う機会は多いでしょう」
「そして小官が作ったものを、中佐殿が大公の弟君である公爵元帥閣下へ御説明になる」
「そういう場合もあると思います」
「実に整った分担ですな」
どう返しても話はよくならないらしい。
そもそも、自分が作戦においてザルヴィッツ少佐より優れていると主張する気はなかったし、家名が今回の人事に関係していないと嘘をつく気もない。
とはいえここまで突っかかられると、少々どころではなく気が滅入る。
「少佐の案であることは、そう申し上げます」
「出所を明示していただけると」
「もちろんです」
ザルヴィッツ少佐はそこで初めて、わずかに眉を寄せた。
もっと抵抗されると考えていたのかもしれない。
あるいは、その素直な返事まで気に入らなかったのかもしれない。
「さすがはライフェンベルク家ですな。下々の働きまでお忘れにならない」
「少佐の案であれば、少佐の名が残るべきです」
「それを決めるのも、中佐殿というわけですか」
「まあ、軍ですから」
「……ええ、軍ですから。それでよろしいのでしょう」
納得したようには聞こえなかった。
ただ、勤務上の条件だけは確認できたらしい。
クラウスとしても、それで十分だった。
ザルヴィッツ少佐に好かれることまで、辞令には書かれていない。
そもそも、好かれたいともあまり思わなかった。
◆
第三課の部屋は、第二軍の動員室に化けていた。
ザルヴィッツ少佐は、ヘルデンフェルトへの移動を手配すると言って離れていた。
第二軍動員計画という表題の下には、師団名より空欄の方が多い。
机の半分を予備兵召集の綴りが占め、残る半分には鉄道局から届いた電報が重なっていた。
ハルトゥング中佐は、その隣で軍馬徴発数の欄へ数字を入れている。
「会議は終わりましたか」
顔を上げずにそう訊いた。
「終わりました。第一軍へ行くことになりました」
「存じています。辞令の写しが先ほど来ました」
「私より先にですか」
「仕事を振る側が先に知るのは、よくあることです」
軍帽を机へ置こうとしたが、場所がない。
仕方なく椅子の背へ掛けた。
「これは、私の机だったと思うのですが」
「いまは第二軍の机です」
ハルトゥング中佐は、そこまで言ってようやく鉛筆を置いた。
「中佐も第一軍へ来られるものと思っていました。以前のように」
「行きません」
即答だった。
「第二軍を作る者が必要です。それに、第一軍には参謀長も幕僚団もある。そこへ私まで置いても、仕事の種類は増えません」
以前にも似たようなことを聞いた覚えがある。
「ですが、ザルヴィッツ少佐とは……その」
「少佐は優秀です」
「知っています」
「ならば、使ってください」
「私に使われることを、望んでいないようですが」
「望む必要はありません。命令です」
それは正しい。
正しすぎて、何の慰めにもならなかった。
とはいえ、それが命令で軍なのだ。
それも知っているが、本当にこの人は今欲しい言葉をくれるという機能がない。
「少佐の案が正しい時は、通してください」
ハルトゥング中佐が言った。
「私が判断する必要は」
「最後にはあるでしょう。ですが、少佐より優れた作戦案を作ろうとはしないでください。できることを増やしに行くのであって、同じ仕事の劣った代用品になりに行くのではありません」
ひどく率直だった。
ザルヴィッツ少佐に聞かせれば、最初の半分だけを喜び、後半でまた何かを言いそうである。
本人に言えば怒るかもしれないが、戦争が近づくほど、この中佐はどうにも生気と率直さに満ちてくる気がする。
「ホーエンエック元帥については何か御存じですか」
「報告書だけです。統帥府から送った候補を二人断ったことは知っています」
ハルトゥング中佐は、第二軍動員表へ視線を戻した。
「中佐とは相性が随分と悪そうですね」
「そうでなければ、私が派遣されております」
「ええ、そうですね。私とは相性がよいそうですので」
「相性がよいのは、あなたではなくライフェンベルク家でしょう」
「ええ」
「ならばまずはそれを使えばよろしい。使える資格を使わず、使えない能力を使おうとする方が不合理です」
ザルヴィッツ少佐へ言われた時より、同じ事実が少しだけ聞きやすかった。
言い方は大差ない気がするのだが、不思議なものだ。
「少佐には、そう説明しても通じない気がします」
「説明する必要はありません。直属の部下だからこそ、説明より命令で足ります」
ハルトゥング中佐は紙面の一箇所を消し、別の数字を書き入れた。
「もっとも、敵意を持たれたまま働くのが嫌だというなら私には助言できません。その種のことを気にした経験がほとんどありませんので」
それはよく知っている。
また仕事へ戻ろうとしたところで、クラウスは自分の机の引き出しへ手を掛けた。
第二軍の書類をずらさないよう、半分だけ開ける。
出向前から使っていた短い赤鉛筆が一本、奥に残っていた。
それを取り出し、上衣の内側へ入れた。
「それだけですか」
ハルトゥング中佐が訊いた。
「他のものは、戻ってきた時に使います」
「戻る場所が残っていればよいですな」
「不吉なことを仰らないでください」
そのとき、扉の方から声がした。
「中佐殿。列車まで四十分です」
ザルヴィッツ少佐が、二人分の乗車証を手に立っていた。
クラウスは軍帽を椅子の背から取り、ハルトゥング中佐へ一礼した。
「行ってまいります」
「お気をつけて」
返事はそれだけだった。