面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
ヘルデンフェルト駅の駅本屋側には、クラウスたちの列車が入る余地がなかった。
兵員車、馬匹車、砲を載せた平貨車が側線を埋め、入換機関車が短い汽笛を繰り返している。
グランツェルを出た列車は駅舎を通り過ぎ、演習場側の軍用線へ押し込まれた。
停まったのは、ホームもない砂利敷きの荷役場だった。
積み上げられた空包の箱と、今朝届いたらしい実包の箱は、蓋へ押された赤い印だけが違っていた。
「十一時三十七分です」
ザルヴィッツ少佐が懐中時計を閉じた。
「第一軍司令部への出頭期限には、どうにか間に合いそうですな」
「演習場へは先月、査閲で来ました。ここから統監部まではそれほどありません」
「なるほど。中佐殿には、行く先々に以前からの御縁がおありで」
演習場へ来たことまで家名へ結びつける必要はないと思ったが、言い返したところで歩く距離が短くなるわけでもない。
というか何か言い返すとむしろ返ってくる言葉が増えそうだ。
黙ってザルヴィッツ少佐と並び、貨車の間を抜けた。
演習場へ続く道では、昨日まで青軍と赤軍に分かれていた兵が、今日はそれぞれの邦軍旗の下へ集まっている。
観覧席にはまだ旗布が残り、人型標的も丘の下へ立ったままだった。
その前を、実包を積んだ荷車が何台も通り過ぎていく。
演習統監部の建物には、古い看板がまだ掛かっていた。
その下で兵が二人、新しい板へ穴を開けている。
『集成第一軍司令部』
墨は乾いていたが、板を留める金具が足りないらしい。
片側だけが壁へ付けられ、もう片側は兵の肩に載っていた。
クラウスたちが立ち止まると、板を支えていた兵が敬礼した。
「第一軍司令部はこちらでよろしいのでしょうか」
「は。正面玄関からお入りください。看板は、もう少しかかります」
建物の中では、演習統監部の片づけと第一軍司令部の設置が同時に進められていた。
「ライフェンベルク中佐とザルヴィッツ少佐ですな」
廊下の奥から、痩せた将官が歩いてきた。
五十を少し越えたほどに見えた。
「集成第一軍参謀長、ゲオルク・フォン・エストルフ少将です。御到着をお待ちしておりました」
敬礼を交わした後、エストルフ少将は廊下を見た。
「もっとも第一軍司令部そのものが、まだ完全には出来ておりませんが」
外で金槌の音がした。
新しい看板を取り付け始めたらしい。
「元帥閣下は、各師団の宿営地と積載状況を見て回っておられます。御紹介は戻られてからにしましょう。それまでに、最初の仕事を一つ片づけていただきたい」
◆
作戦室の机には、一枚の原案と三通の用紙が置かれていた。
「こちらが内容案です」
エストルフ少将は原案をザルヴィッツ少佐へ渡した。
「統帥府の一般命令書式へ起こしてください。加えて、三師団への送付と受領確認をお願いします」
ザルヴィッツ少佐は原案へ目を通した。
「到着してすぐに、ですか」
「不躾ではありますが、ぜひ集成第一軍の現状を実際にお確かめになってください」
少佐は反論せず、机へ着いた。
起草する内容そのものは短かった。
各師団は十五時までに演習編制を解き、戦時編制への移行を完了すること。
以後、第一軍司令官の命令を受けるものとし、出動準備完了後に直ちに報告すること。
ザルヴィッツ少佐は迷いなく数箇所の語順を入れ替え、報告先と発令時刻を加えた。
自分ならたぶんもう少し時間がかかる。流石にハルトゥング中佐が認めるだけあって仕事が早い。
正午の鐘が鳴る直前、エストルフ少将は三通へ署名した。
表題は、第一軍一般命令第一号。
文面に不自然なところはない。統帥府であれば、そのまま伝令へ渡して終わる紙だった。
まあ、仕事が楽に越したことはない。
そう思いながら最初に向かったのは、グラーフェン軍第一野戦師団の司令部である。
旧演習司令部として使われていた木造建物には、演習用の旗がまだ半分残っていた。
師団長ランツァウ少将は、地図から青軍の札を外しているところだった。
肩幅の広い男で、灰色の口髭を短く整えている。
命令書を読むと、その場で署名した。
「十五時までだな」
「はい」
「戦時編制への移行はすでに始めている。十四時半には報告を出す」
ランツァウ少将は副官へ命令書を渡した。
副官はグラーフェン軍の受領印を押し、控えをクラウスへ返す。
「元帥閣下は司令部へ戻られたか」
「まだと伺っております」
「なら、受領したと伝えてくれ。こちらから改めて報告を送る」
最初の一通は、五分もかからなかった。
次に向かったメーレン軍第二歩兵師団の司令部は、観覧席下の会食室を使っていた。
師団長ボートマー少将は、背が高く痩せた男だった。
命令書を一度読み、鼻眼鏡を押し上げてから、もう一度最初へ戻った。
「命令の内容に異議はありません」
そう言いながらも、署名欄へは手を伸ばさなかった。
「メーレン本邦の軍令局から、一時配属の予告電報は届いております。しかし、大印のある写しはまだ到着していません」
「戦時編制への移行は進めていただけますか」
クラウスが訊いた。
「もちろんです。兵を止めるつもりはありません。ただ、第一軍司令官の命令を受領したと署名すれば、本邦は何の軍令に基づいて指揮を受けたのかと必ず照会するでしょう」
「期限は十五時です」
ザルヴィッツ少佐の声が、少し硬くなった。
たぶん、確認というよりも催促に近い。
「ですから、すぐに確認します。軍令写しが届き次第、受領書をお返しすると申し上げております」
ボートマー少将は不快そうにはしなかった。
とはいえ、二通目は署名のないまま戻された。
ノルデック軍第一歩兵師団の司令部は、貨物駅の運転室へ置かれていた。
窓の外では、馬匹車へ板の渡し口が掛けられ、軍馬が一頭ずつ貨車へ入れられている。
師団長デア・デッケン少将は、三人の中では最も若かった。
命令書を読むと、机上の赤鉛筆を取り上げた。
『以後、第一軍司令官の命令を受けるものとし』
そのうち、命令を受けるという箇所へ線を引く。
『共同防衛に関する作戦上の命令を受けるものとし』
「この文言なら受けられます」
「実施する内容は変わらないように思われますが」
ザルヴィッツ少佐が言った。
「今日、兵を動かす点では変わりません」
デッケン少将は鉛筆を置いた。
「しかしノルデック公が第一軍司令官へ委ねたのは、共同防衛に関する作戦統制です。師団の軍法、人事、補給まで渡したわけではない。原文のまま署名すれば、私が預かった権限を、勝手に広く渡したことになります」
デッケン少将は書き直した箇所を指で叩いた。
「修正後の命令をお持ちください。準備は進めておきます」
三通目にも、受領印は押されなかった。
◆
作戦室へ戻った時、時計は十二時半を少し過ぎていた。
エストルフ少将は三通を机へ並べた。
一通にはグラーフェン軍の受領印。
一通は署名欄が空白。
一通には赤鉛筆で訂正が入っている。
「ランツァウ閣下は、すでに戦時編制への移行を開始しています。ボートマー閣下はメーレン軍令局への確認待ち。デッケン閣下は、元帥閣下の司令官としての権限を明記することを求めています」
クラウスは、報告しながら並んだ三通を見た。
ただ行って署名を貰ってくるだけの仕事が、ここではどうにも難しいらしいことはわかった。
しかし、ザルヴィッツ少佐はそこまで意外そうにはしていなかった。
もしかしたら、東部国境も似たようなものなのかもしれない。
その時、廊下で足音が止まった。
「元帥閣下、御帰着です」
作戦室にいた者が一斉に立った。
ホーエンエック公爵元帥は、元帥杖も儀礼用の飾緒も持っていなかった。
濃灰色の野戦服を着て、片手には泥の付いた手袋を握っている。
「最初の命令が、もう戻ってきたそうだな」
挨拶より先に、机の三通へ目を向けた。
「一通は受領されました」
エストルフ少将が答えた。
「残る二通も、命令内容そのものを拒否されたわけではございませんが――」
「師団長を呼べ」
それだけ命じると、ホーエンエック元帥は机の前へ立ったまま三通を読んだ。
ほどなく三人が並んだ。
クラウスたちが命令書を持って訪れた時には、それぞれ椅子へ座ったまま応対していた三人である。
ホーエンエック元帥が机の前に立つと、誰も腰を下ろさなかった。
「ランツァウ」
「は。すでに編制移行へ入っております。十四時半までには準備完了を御報告できます」
ランツァウ少将が一礼した。
ホーエンエック元帥は、署名のない二通目を取った。
「ボートマー。軍令局の軍令写しがまだ来ぬそうだな」
「は。命令の実施には異議ございませんが、正式な受領には確認が必要かと」
「照会は私の名でいい」
ホーエンエック元帥は、その場で副官へ顔を向けた。
「メーレンの軍令局へ、第一軍司令官として私が先行実施を命じたと打電しろ。大公殿下へ申し開きが要るなら、私がする」
ボートマー少将は鼻眼鏡へ手をやりかけ、途中で止めた。
「承知いたしました」
声に迷いは残っていなかった。
最後に、赤鉛筆の入った命令書が取られた。
ホーエンエック元帥は訂正箇所を一度見ると、机上のペンを使い、その文言を正式に書き直した。
『共同防衛に関する作戦上の命令を受けるものとし』
「デッケン」
「は」
「君の言う通りだ。ノルデック公が委ねたのは、作戦統制までである」
修正した命令書が、デッケン少将へ渡された。
デッケン少将は、その場で署名した。
「受領いたします。十五時までに御報告いたします」
「よろしい。三人とも戻れ。次に顔を合わせる時は、演習の総評ではなく作戦命令を渡す」
三人の師団長は敬礼し、来た順とは逆に作戦室を出ていった。
ボートマー少将もデッケン少将も、もう一度説明を求めることはなかった。
ホーエンエック元帥は、机に残った命令原稿へ目を落とした。
「これを書いたのは誰だ」
クラウスが答えた。
「統帥府派遣幕僚、ザルヴィッツ少佐です」
ザルヴィッツ少佐が一歩前へ出た。
「中央の命令としては、これでよい。次も同じように書け」
「は」
「邦ごとに受ける理由は、こちらで用意する」
元帥はそれだけ言って、今度はクラウスへ目を向けた。
「君がライフェンベルクか」
「は。クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐であります」
「以前に会った時より、大きくなったな」
返答に困った。
私の記憶にはありませんとはあまり言いたくないのだが、かといっていやあ久しぶりですとも返せない。
結局、少々迷った末に素直に答えることにした。
「申し訳ございません。私は――」
「覚えておらんのだろう。よい、十二、三の子供に、客をすべて覚えていろとは言わん」
適当に答えなくてよかった。
それにしても、そこそこ大きい時に会ったらしいというのに全く記憶にない。
記憶力には他のことよりは自信があるのだが、まあ、単純に興味が無かったのかもしれない。
ホーエンエック元帥は、受領された三通を指した。
「控えを取り、統帥府へ送れ。三通とも、十五時までに出動準備を完了する命令である。中央への報告には、そう書けばよい」
「承知しました」
元帥はもうクラウスを見ていなかった。
「エストルフ。駅の積載状況を見に行く。十五時の報告が揃うまでに戻る」
泥の付いた手袋を持ったまま、作戦室を出ていった。
机には三通の命令書が残った。
グラーフェン軍の受領印があるもの。
ホーエンエック元帥の名で先行実施すると書き加えられたもの。
作戦上の命令へ文言を狭めたもの。
命じている時刻も、準備させる内容も同じだった。
◆
午後四時、エルツ公国政府を経由した定時報告が入った。
発時は午後三時半。
ハイゼンベルク軍前衛、歩兵及び砲兵を確認。
現在まで国境標の越過なし。
同じ頃、統帥府からエルツ、ノルトマルク両政府の回答要旨が転電された。
エルツ領内への帝国官憲の立入りは拒絶。
その他の条件には、受諾または条件付き受諾と回答。
午後四時五分。
三個師団と第一軍司令部の時計が照合された。
午後四時十分。
作戦室にいた者は、誰も椅子へ座っていなかった。
ホーエンエック元帥は窓際に立ち、貨物駅の方を見ている。
エストルフ少将は、出動計画の控えを手にしていた。
ザルヴィッツ少佐は運輸表の最初の発車欄へ鉛筆を置いている。
クラウスは統帥府から持参した封書を、ホーエンエック元帥の前へ置いた。
回答期限を過ぎても政府から停止命令がない場合の命令書である。
壁の時計が十六時十二分を指した。
振子が一度動き、木箱の中で乾いた音を立てる。
ホーエンエック元帥は封書を取り、中の命令書を開いた。
一頁目へ目を通した後、エストルフ少将へ渡す。
「期限経過。第一軍は計画どおり、エルツ公国内の指定集結地へ前進する」
「は」
エストルフ少将が電信手へ向き直った。
「三師団へ命令発動を通報。ランツァウ師団は乗車開始、デッケン師団は行軍開始、ボートマー師団は先遣隊を駅へ――」
午後四時十九分。
作戦室の隅で、電信器が乾いた音を刻み始めた。
通信兵が符号を書き取り、受信紙を手に立ち上がった。
「エルツ軍司令部より至急電。カルテンブリュック駅北方、帝国軍前衛、国境標を越過。確認時刻、十六時十三分。詳細追送」
ホーエンエック元帥は驚きを示さなかった。
「ランツァウ師団は鉄道でエルツ北部へ前進し、エルツ軍を支援。ボートマー師団は後続し、第一軍予備。デッケン師団は街道を進み、第一軍左翼を作れ」
声は、昼に三人の師団長へ命じた時と変わらなかった。
エストルフ少将が命令を書き取る。
「第一軍作戦命令第一号を発せ」
伝令将校が作戦命令の控えを取る。
廊下を兵が走り、正面玄関の扉が続けて開いた。
窓の外で、ランツァウ師団の第一列車が長く汽笛を鳴らした。
「ライフェンベルク。統帥府へ第一報を送れ」
「は。文面はいかがなさいますか」
「集成第一軍、エルツ領内へ前進を開始す。――それだけでよい」