面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
三か月戦争におけるハイゼンベルク帝国軍の初動については、現在もなお評価が分かれている。
開戦第三十日までに、帝国軍はエルツ公国の過半を占領し、公都エルツェンの前面へ達した。
第三軍と第五軍は、陸軍省が開戦前に計画した予定線より西へ進み、エルツ軍は一度もまとまった反撃に成功しないまま後退を続けていた。
これを開戦当初における帝国軍の成功と見ることに疑義はない。
一方で最優先攻撃目標と定められたエルツ南部最大の鉄道集積地クレムニッツは、なおノルトマルク西部軍の手にあった。
原作戦は予定線にて停止の後、第八軍によるクレムニッツ占領を先とし、しかる後に三個軍の前進再開を予定していた。
その順序を改めたのが、ほかならぬヘッツェンドルフ陸軍卿である。
国境事件の後、皇帝フランツ・カール二世は、陸軍卿が発する命令をすべて書面とし、電報を陸軍省と宮中へ同時に送るよう命じていた。
そのため、開戦初日に陸軍卿が署名した修正命令も現在まで残っている。
『第三軍及び第五軍は第一予定線における停止を要せず、退却中の敵へ間断なき圧力を加うべし。第八軍は到着せる部隊をもって逐次前進すべし』
第三軍と第五軍が最初に遭遇した抵抗は開戦前の想定より弱かった。
ゆえに、陸軍卿は当初の計画線で攻勢を一時停止することを嫌った。
結果として、第三軍・第五軍の補給のため第八軍の輸送が割を食う形となり、クレムニッツにはノルトマルクの西部軍が先入した。
一方、ノルトマルク側の戦域集中も、開戦前の計画より遅れたとされる。
開戦第三十日になってやっと、集成第一軍の三個師団は、エルツェン東方で初めて一つの防御線へ並んだからだ。
現在の議論は、第三軍と第五軍の前進によって得たものと、そのために失われた時刻のどちらを重く見るかをめぐって続いている。
ただし当時、その交換を不利と見る者は帝国軍には少なかった。
開戦以来、帝国軍は勝利を続けていたからである。
◆
開戦第三十日後、九月二十三日。
エルツ北東部のアーベルニッツ市街にある第三軍司令部の作戦室には、エルツェン前面の戦況図と、同市入城後の宿営割が並べて掛けられていた。
一週間前から、宿営部と軍政部は公都へ入った後の仕事を始めている。
これまで第三軍は、町を占領してから必要な建物を探してきた。
そのたびに司令部と兵站部が同じ役所を取り合い、野戦病院が使う予定だった学校へ軍政官が先に入っていることもあった。
エルツェンで同じことを繰り返せば、混乱の規模も地方都市の比では済まない。だから先に決めておく。
幕僚たちはそう説明し、誰も異議を唱えなかった。
作戦室の窓は、煙草の煙を逃がすために半分開けられていた。
机上には焼菓子の皿が残り、その隣で新聞が大きく広げられている。
「一月前には、このまま兵を動かさぬなら、公を罷免し、親王殿下も軍団司令官から外せとまで書いていた新聞ですぞ」
新聞を読んでいた作戦参謀が、一面の見出しを指で叩いた。
『陸軍卿の先見、帝国を救う』
紙面には、第三軍の進路が国境からエルツェン東方まで太い線で描かれていた。
「新聞というものは、戦況へ追いつく時だけは足が速いらしい。自分が昨日どこにいたかまでは、書かずに済みますからな」
何人かが笑った。
参謀の一人が皮肉気に声を重ねた。
「たまには新聞も真実を書くことがあるのでしょう。陸軍卿が退却中の敵へ圧力を加えよと命じたから、我々は今日ここにいる」
「その代わり、クレムニッツは今日も敵の手にあります」
運輸参謀が、短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
「とはいえ、西部軍をクレムニッツ前面に張り付けることには成功しました。それも戦果でしょう」
「拘束したのと、入境そのものを阻止したのとでは違います。原作戦どおりなら、西部軍はクレムニッツへ入ることすらできなかった」
「時間の問題でありましょう」
「たとえそうだとしても、作戦表からクレムニッツの名を消してよい理由にもならないでしょう」
椅子の脚が床を擦った。
笑いの残った声と、もう笑っていない声が重なりかけたところで、作戦室の扉が開いた。
「親王殿下、御到着です」
全員が立った。
アルブレヒト親王は、前衛から戻ったばかりだった。
三十を越えて、まだ幾年も経っていない。淡い金髪と青い目は、煙草の煙と煤でくすんだ作戦室の中では不自然なほどよく目立った。
礼装を着て玉座の脇に立てば、若い皇族の肖像として申し分のない顔立ちだったが、野戦服の裾には乾いた草の種が付き、軍靴の爪先は白く埃を被っている。
「私が入った途端にそんな顔をされては困る。こちらは朝から馬に揺られていたのだ。椅子に座っていた君たちまで疲れた顔をする必要はないだろう」
親王が片手を振ると、椅子の脚が一斉に鳴った。
会議卓へ向かう途中で新聞へ目を留め、見出しを読むと声を立てて笑った。
「遅いな。第三軍は一月で国境からエルツェンまで来たというのに、この新聞記者は公の話を理解するまで同じ一月を使ったらしい」
「国民報は、一月前には公と殿下の罷免を求めておりました」
笑いが広がる中で、作戦参謀が言った。
「覚えているとも。私の肖像まで載せて、軍服を脱がせろと随分勇ましく書いていた」
親王は新聞を畳まず、見出しを表にしたまま卓へ置いた。
「公へ一部送ってやりたいところだ。本人は新聞など読まんと言うだろうが、机の一番上へ置いておけば二度くらいは横目で見る」
副官が、少し困った顔をした。
「陸軍卿との私信は、なお禁じられております」
「あまり真面目に受け取るな」
親王はなお笑顔を崩さず、新聞の見出しを指先で叩いた。
「正式報告の方へ公の名を残せばよい。公も読むし、陛下にも読んでいただける。一月前、陛下は第三軍団から出る電報を一行残らず御覧になりたいと仰せになったのだ。国境を越えてから我々が取った駅も、橋も、町も、一つずつ同じ紙で御覧いただこう。誰にも隠さぬのだから、私信よりよほど正直な便りではないか」
副官は返事をせず、手元の綴りへ視線を落とした。
親王は参謀長の勧めた椅子へ座らず、そのまま戦況図の前へ歩いた。
「それで、何を争っていた?」
「陸軍卿の修正命令についてであります」
作戦参謀が答えた。
「小官は、第一予定線で停止しなかったため、第三軍は今日ここまで進めたと申し上げました。運輸参謀は、同じ命令によって第八軍の集中が遅れ、クレムニッツを取れていないと」
「なるほど。私のいない間に、もう戦史を書き始めたわけか」
親王は楽しそうに運輸参謀を見た。
「そのままでよい。卿の話を聞こう。まだ敵の旗が上がっていることくらいは、私も報告で読んでいる」
「は。原作戦では、第八軍はとうに同地を占領し、南部鉄道を使用しているはずでした。第三軍と第五軍への追送を継続したため、重砲と架橋段列の到着が遅れ、結果として西部軍一個軍がクレムニッツへ入っております」
「そうだな、それは事実だろう」
親王は地図の南へ置かれた札を、手袋の端で軽く押した。
「だが、私は第一予定線で止まるべきだったとは思わん。敵へ与えた時間は、後から貨車へ積んで取り戻すことができないからな」
「その代価として得た地域が、クレムニッツより価値のあるものであったかは、明日の結果を見なければ判断できません」
運輸参謀が答えた。
親王は咎めるどころか、その返答を気に入ったらしく口元を緩めた。
「ならば明日判断できるようにしよう。エルツェンへ入れば、クレムニッツは第八軍の遅延として戦史の脚注へ収まる。入れなければ、その時は原作戦表と今日の運輸記録を私の机へ持ってこい。卿の赤鉛筆で好きなだけ線を引けばよい。私の名も、公の名も、同じ頁へ残してくれ」
運輸参謀が何か言おうとした時には、親王はもう参謀長へ顔を向けていた。
「陸軍省宛の報告案を聞かせろ」
参謀長が書類を開いた。
「『第三軍は、陸軍卿の修正命令に基づき、退却中の敵へ間断なき圧力を加えた。その結果、敵に東部地域における戦線整理の余裕を与えず、当初予定を超えてエルツェン前面へ進出することを得たり』」
親王は最後まで聞き、すぐに言った。
「よい。公の名は削るな。そのまま出せ」
「宮中へも同文が送られます」
「陛下が丁寧に御覧くださるのだから、こちらも丁寧に報告せねば不敬になる」
何人かが笑った。
参謀長は報告案へ目を落とし、陸軍卿の名の下に引かれていた薄い訂正線を指で擦って消した。
「戦況を」
作戦参謀が、前衛騎兵と気球隊から届いた報告を開いた。
「エルツ軍後衛は、昨日夕刻までにエルツェン東方の丘陵線へ退きました。本日朝以降、その線へ敵軍が集中しております」
「連邦軍か」
「は。推定三個師団。いずれも開戦当日にヘルデンフェルトを発した部隊と思われます。エルツ軍残存部隊も、同じ丘陵線へ収容されつつあります」
参謀長が、丘陵線の後ろへ三つの部隊札を置いた。
親王は三つの札を眺めた。
「つまり、やっと戦争というわけだ!」
その言葉に、部屋はむしろ熱を持った。
親王は、三枚の部隊札の間へ指を滑らせた。
机の周囲にいた幕僚の何人かも、地図へ身を寄せた。
「陣地はどうだ」
「現在の形は、昨日から構築を始めたものと見られます。北部では浅い壕を確認。中央正面では砲床の掘削が進んでおりますが、障害線はまだ連続しておりません」
「素晴らしい! 彼らはやっと留まる気になったわけだ。それなら、明朝もこれまでと同じように押せばよい」
砲兵参謀が、重砲到着表を開いた。
「我が重砲二個大隊も、本日夜に到着いたします。ただし測距、観測点の設定、各砲列への弾薬配分を終えるのは、早くとも明日正午前後となります」
「正午まで一門も撃てんわけではあるまい」
「既着砲兵のみであれば夜明けから射撃可能です。しかし全砲兵の準備を待たず歩兵を出せば、砲撃密度は予定を下回ります」
親王は到着表を受け取り、紙面をしばらく眺めた。
「卿の言うことは分かる。すべての砲を据え、観測点を定め、弾薬を配り終えた方が、砲撃は立派なものになるだろう。だがその頃には向こうの壕も立派になっている。私は完成した我が砲列と完成した敵陣地を比べたいのではない」
親王は表を砲兵参謀へ返した。
「既着砲兵は六時から撃て。今夜着いた砲は、準備のできた大隊からその後へ加えればよい。歩兵前進は七時半。第三軍は北部高地を取り、第五軍は中央街道を開ける」
参謀長の鉛筆が、命令案の余白へ時刻を書いた。
「第五軍の全主力が到着しない場合は」
「先頭が攻撃位置へ着けば始めろ。後続がまだ列車に乗っているからといって、先頭まで駅で待たせるな。敵も全員が揃ったから丘へ残ったのではない。もう下がる場所がないゆえに、そこにいるだけだ」
運輸参謀が、別の表を開いた。
「第三軍の前方集積は、アーベルニッツ駅まで回復しております。明日一日分の規定射撃量と糧秣は送れます。ただし攻撃が二日目へ延びる場合、現状の荷役能力では同じ規模を維持できません。エルツェン中央駅を確保し、その設備を使用できることが前提です」
親王は、運輸表とエルツェンの位置を交互に見た。
「卿は、この三十日、よく第三軍の後ろへ列車を通してくれた。橋が落ちた日も、前進が予定を越えた日も、毎朝同じように、これ以上は難しいと書いた表を持ってきた」
運輸参謀の手が、紙の上で止まった。
「攻撃を二日続けるつもりはない。明日中に中央駅を使えるようにしよう」
「兵は、かなり疲れております」
参謀長が言った。
「今朝、前衛で見た」
親王は、窓の外へ一度だけ目を向けた。
「兵が靴を脱ぎ、踵へ布を巻いていた。よく歩いてくれたと思う。だからこそ、あの丘の下で敵が壕を深くするのを眺めさせる気はない。明日の夕方には、市内の屋根の下で休ませる。その方が、野営を続けさせるよりはよい。エルツを落としてからが本番だからな」
作戦参謀が命令案へ身を寄せ、砲兵参謀は到着表の上で時刻を数え直した。
軍政部長が、折り畳まれていたエルツェン宿営割を持って進み出た。
「殿下。入城時の先導部隊について、三個師団からそれぞれ希望が出ております」
親王は宿営割を受け取り、書き込まれた建物名を追った。
「先導は、最初に丘陵線を破った師団へ与えろ。三師団へそう伝えれば、明朝の歩みも少しは速くなるだろう」
「司令部の宿営地につきましては」
「市庁舎を使う。通信隊は中央電信局。野戦病院は北部の学校二棟。軍政部は公国官庁へ入れ。ただし、たとえ空になっていても公宮には兵を入れるな。陛下から別命があるまで、封鎖だけに留めろ」
軍政部長が宿営割へ書き込んでいく。
「兵への特別配給は、肉の増配と煙草を予定しております。占領地で接収した葡萄酒についても上申が届いておりますが」
「葡萄酒は冷やしておけ」
親王はすぐに答えた。
「前衛で兵に訊かれたのだ。接収した酒を、いつになれば自分たちにも飲ませてもらえるのかとな。私は明日の夕食だと答えてしまった!」
作戦室に笑いが起きた。
親王自身も笑い、宿営割を軍政部長へ返した。
「明日、エルツェンへ入る。各部はそのつもりで準備しろ」