面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第六話 二枚綴り

五月に入ると、クラウスの机の上に積まれる書類の性質が、少しずつ変わり始めた。

 

以前は、石炭割当表や蹄鉄配分のような紙が中心だった。

間違っても数字は怒鳴らない。数字の間違いは、数字で直せる。

 

今の机にあるのは、間違えると誰かの面子が傷つき、しかも列車まで止まりかねない種類の紙だった。

 

各邦軍からの意見照会。

軍務省からの補足要請。

統合動員演習準備会議の議事要約。

報告様式の修正案。

 

つまり、数字だけでは済まず、人間を通さなければならない文書ばかりである。

 

嫌だな、とクラウスは思った。

だが嫌だというだけで仕事が消えるほど、官僚制は情緒に寛容ではない。

 

準備会議が二度、三度と重なるうちに、第三会議室ではいつの間にか一つの役割分担が定着していた。

 

ハルトゥング少佐が、実際に動く計画を組む。

クラウスがそれを、年長者の自尊心に触れにくい形へ言い換える。

 

少佐の案は、たいてい正しかった。

そして、たいていそのままでは通らなかった。

 

◆

 

夏季統合動員演習会議の初回は、五月第二週の火曜日に開かれた。

 

統帥府南棟の第一会議室は、第三会議室より一回り広く、空気が一段だけ古かった。

長机には、統帥府、軍務省、鉄路局、輜重監部、法務局、さらに各邦軍の連絡士官まで並んでいる。

将軍たちの肩章は眩しく、法務官僚の書類綴りは厚い。

鉄路局の文官だけが、階級章の代わりに寝不足で威厳を出していた。

 

クラウスは、疲れている人間の方が少し信用できると思っていた。

金モールより寝不足の目つきの方が正直だ。

少なくとも、寝不足の人間は面子のためだけに議論を一時間延ばす気力がない。

 

議題は、「統合動員演習に際する連邦動員告示の文面統一」

 

この題目を見た時点で、嫌な予感がしていた。

「文面統一」という語には、たいてい二種類の地雷が埋まっている。

法的権限と名誉だ。

そしてその両方が同時に出てくると、人間は驚くほど面倒になる。

 

ノルトマルク連邦の諸邦軍は、戦時統帥権において中央へ接続されるとはいえ、平時の動員発令そのものは、なお各邦の君侯または政府の名で行われる建前を残していた。

 

建前。

建前は実務の邪魔になる。

だが建前があるからこそ、人は実務の痛みを飲みやすくもなる。

「うちの殿様の名前で出してますから」と言えば、各邦は「まあ、それなら」となる。

建前とは、人間の自尊心に貼る絆創膏のようなものだ。かなり邪魔だが、剥がすと急に痛がる。

 

ハルトゥング少佐が統一案を説明した。

 

「動員通報は、全邦同一文面、同一電信略号、同一時刻起算でなければなりません」

 

「現行のままでは、ある邦では『第一鐘後ただちに』、別の邦では『王都時第六刻』、さらに別の邦では『勅命公布と同時』と記され、鉄路局側の換算に無駄が生じます」

 

正しい。まさしくその通りだ。

同じ「朝六時に出発しろ」を、三つの邦が三つの言い方で書いている。

 

「従って、連邦統帥府名義の標準動員告示を一本化し、各邦政府はこれをそのまま掲示・送達する形を提案します」

 

クラウスは心の中で目を閉じた。

内容は正しい。

正しいのだが、「統帥府名義で一本化」は、各邦にとって「うちの殿様の名前を消せ」と聞こえる。

 

案の定、法務局のフォークト参事官が口を開いた。

 

「“連邦統帥府名義”とはどういう意味です。各邦の動員命令は、少なくとも文面上は各邦政府または君侯の権限において発せられる。それを中央名義の告示へ一本化するとなれば、法的には権限構造そのものの先取りです」

 

「権限構造」。

この語が出ると、体感で会議は最低一時間延びる気がする。

 

「法的にどう見えるかではなく、列車がどう動くかの話をしております」

 

とハルトゥング少佐が言った。

 

正しい。

そして、こういう場で最も悪い種類の正しさだ。

法務官僚に「法的にどう見えるかは関係ない」と言うのは、料理人に「味は関係ない」と言うようなものだ。

相手の存在理由を切ってしまっている。

 

グラーフェン邦の連絡将校が、別の方向から食いついた。

「我が邦の公報文から君侯の御名を外せとおっしゃるのか」

 

「外せとは申していない。換算不能な修辞を外せと申し上げている」

少佐の声は冷静だった。

だが冷静さは、時に相手を見下した響きを持つ。

とくに、実際に少し見下している時はなおさらだ。

 

会議室の空気が固くなっていく。

軍務省の老少将が机を指で叩いた。

「各邦の動員は、君侯の御名とともに公示されてこそ兵の心も整う。そこを削って、ただの時刻表にせよと言うのは、いささか乱暴だ」

「私からすれば、その時刻表を飾り立てる効果がわかりませんが」

「…なんだと?だいたい中央は――」

 

ここでクラウスは、草案を見た。

いつもの現実逃避の一環である。

 

一枚目は動員告示本文だ。

各邦の君侯の御名、格式張った前文、動員命令の文面。

 

二枚目は付表。

列車番号、起算時刻、連隊符号。

 

……そもそも二種類の紙ではないか。

 

片方は、「殿様の名前で兵に読ませる紙」だ。

もう片方は、「列車を何時にどこへ動かすかの紙」だ。

 

別の紙なら、別にすればいい。

 

「……一枚で済ませようとなさるから、難しいのではないでしょうか」

 

会議室が少し静まった。

いつものように、この静まり方は少し怖い。

意味深に聞こえたのか、意味不明だったのか、判別がつかないからだ。

 

「動員の法的告示と、実動に必要な輸送指令を、別の紙に分けるのです」

 

まだ静かだ。

もう少し具体的に言った方がいい。

 

「前文にあたる部分は、各邦の現行格式に従えばよろしいかと。君侯の御名でも、政府公報の文体でも、そこは各邦の権限のままで。ですが、列車番号、起算時刻、符号、到着順、そうした実動に必要なものは共通附録として統一する」

 

そこで少し言葉を探した。

正確には、最も刺激の少ない言い回しを探した。

 

「……体面の紙と、動かす紙を、分けてしまうのです」

 

言ってから、少し露骨すぎたかもしれないと後悔した。

だが意外なことに、誰も怒らなかった。

 

むしろ、何人かが「ああ」という顔をした。

薄々そうだと分かっていたことを、誰かが言葉にした時の顔だった。

 

フォークト参事官が最初に反応した。

「ふむ。法的告示は各邦ごとに残しつつ、実動附録のみを連邦共通とする……」

 

続けて、グラーフェン邦の将校が確認した。

「君侯の御名は残るのだな」

「はい。告示本文は各邦の名において発せられます。附録だけが共通です」

「兵と駅が実際に見るべき部分は附録へ寄せる」

「はい。形式は各邦のもの、運用は連邦のものです」

 

ハルトゥング少佐が横から低く言った。

「附録のみ電信略号化し、告示本文は定型前文の差し込みに留める……」

 

少佐はもう計算していた。

この形なら鉄路局の換算は要らない。

列車は同じ指令で動く。

つまり中身は、少佐が最初に望んでいたものとほとんど変わらない。

違うのは、殿様の名前が消えないことだけだ。

 

「それなら、法務上の形式は守れる」

とフォークト参事官が言った。

 

「兵の前に掲げる告示から御名が消えぬのであれば、こちらも文句は少ない」

老少将も渋々頷いた。

 

ヴィルマー中将が椅子の背にもたれた。

「……ならば暫定でその案でいこう。本文は各邦、附録は連邦。二枚綴りの書面とする」

 

さっきまで、権限構造だの君侯の御名だのと半ば連邦の法議論に発展しかけていたものが、

「二枚にしましょう」で終わった。

 

人間というものは、抽象的な対立を紙の寸法に変換すると急に扱いやすくなるらしい。

というか、よく考えなくても書く枚数が増えて仕事は増えているのにな。

みんな勤勉であるとクラウスは変に感心していた。

紙は偉大だ。

 

◆

 

以後の議論は、不思議なほど事務的だった。

 

各邦告示文に差し込む定型前文をどうするか。

附録の標題を「統一輸送附録」にするか「実動附録」にするか。

君侯の御名を本文一行目に置くか二行目に置くか。

 

数分前まで権限構造をめぐって半ば法論争をしていた人たちが、今は紙の体裁の話をしている。

人間社会は、ときどきこのあたりがひどく滑稽だ。

 

散会後、フォークト参事官はわざわざ足を止めた。

「ライフェンベルク大尉。あれは良い。実に良い。権限を争わず、運用を進める。若いのに、妙なところで古い知恵を持っている」

 

「恐縮です」

とクラウスは言った。

他に言うべきことが見当たらなかったからである。

 

◆

 

廊下へ出ると、ハルトゥング少佐が壁際で資料を見直すふりをして立っていた。

 

「大尉殿」

「はい」

「あなたは、何でも二つに分ける」

 

少佐の口調は、責めるようでも褒めるようでもなかった。観察である。

 

「名誉と実務。観閲と輸送。告示と附録」

 

言われてみればその通りだ、とクラウスは思った。

最近の自分は、だいたい一つのものを二つに分けてばかりいる。芸がない。

 

「一つにすると、皆さまが嫌がるので」

「…つまり、彼らは仕事を拒んでいるのではなく、言葉を拒んでいたわけだ」

 

クラウスは、何と答えればこの人を怒らせないか考えてから、こう言った。

 

「仕事そのものが嫌なのではなく……自分が、あるいは邦が譲ったように見えるのが嫌なのではないでしょうか」

「なるほど。実に厄介だ」

「連邦ですから」

「…ふむ」

 

少佐は一瞬だけこちらを見て、それから珍しく少し笑った。

その笑いはたぶん、好意ではなかった。

だが、完全な敵意でもなかったような気がした。

……まあ、以前ほど嫌われてはいないらしい。

嫌われていないなら、それでいい。嫌われると面倒だから。

 

◆

 

その日の夕刻、書記官たちの間では、早くも新しい呼び名が生まれていた。

 

"ライフェンベルク式二枚綴り"

 

もちろん、当人はそれを知らなかった。

彼は自席で、動員告示の前文定型句を少しでも短くできないかと苦心していた。

 

「各邦の現行法制および慣例に従い」

この一句がどうしても長い。

削れば法務局が怒り、残せば鉄路局がうんざりする。

 

英雄譚には決して載らない種類の苦悩だった。

 

 

三日後、第一回会議の議事録と草案は、統帥府長官室にも上がった。

長官補佐官が余白に短く書いた。

「ライフェンベルク大尉案、法務・軍務・鉄路の折衝において有効。今後、邦間調整案件に優先的に同席させて差し支えなし」

 

優先的に同席させて差し支えなし。

要するに、「こいつは便利だから使い回せ」という意味である。

 

その週末、クラウスは珍しく少し遅くまで机に残っていた。

会議のない夕方というだけで、人類の偉大な発明に思えた。

 

そこへ、エッゲン大佐がふいに現れた。

 

「まだいたのか」

「前文の長さを詰めていました」

 

大佐は机上の紙に目を落とし、ふっと息をついた。

 

「君もつくづく、妙なところで働き者だな」

褒め言葉というより、半ば呆れだった。

だが彼はそのまま、もう一枚の紙を差し出した。

 

「人事課から内示だ。夏の統合動員演習期間中、君は軍務会議専従に近い扱いになる。第三課の通常配分表は一部外してやる」

「ついでに、統合動員演習用の共通文例集と報告様式集の原案も、君が起こせ」

 

石炭割当表が減る代わりに、もっと面倒なものが来た。

 

「…承知しました、しかし」

「大げさに考えるな。いままでやったことを、最初から紙にしておけというだけだ」

 

エッゲン大佐はそこで少し声を落とした。

「君は、自分では大したことをしていないと思っているだろう」

 

クラウスは答えなかった。

否定しても肯定しても、面倒な方向へ転びそうだったからだ。

 

「だがな」

と大佐は続けた。

「この国では、皆が同じ方向を見ていることより、同じ紙を見ていることの方が大事な場合がある」

 

そう言って、大佐は去っていった。

 

クラウスは、その言葉をしばらく考えた。

深いのか、疲れた上官の実感なのか。

たぶん両方だろう。深い言葉というものは、たいてい疲れた人間の口から出る。

元気な人間は深いことを言う前に怒鳴る。

 

ともかく、「同じ紙を見せる仕事」が自分の役割らしい、ということだけは分かった。

 

彼は新しい紙を引き寄せ、表題を書いた。

 

『夏季統合動員演習ニ関スル共通文例及附録様式案』

 

地味で、長く、後年の軍史家ならまず飛ばし読みしそうな題だった。

だが国家というものは、案外こういう題の文書の上で少しずつ形を変える。

 

もっとも、クラウス本人が実際に考えていたのは、おそらくこうだ。

 

今日は怒鳴られなかった。

明日も、怒鳴られませんように。

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