面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
九月十六日。
クラウスが第一軍司令部へ戻るために乗ったのは、クレムニッツから負傷兵を北へ後送する列車だった。
旅客用の座席は半分ほど取り外され、その跡へ担架を二段に載せる枠が組まれている。
通路にも腕を吊った兵や、頭へ包帯を巻いた兵が座っていた。
窓は閉められていたが、石炭の煙はどこからか入り込んでくる。消毒薬と濡れた外套の臭いが、その下に溜まっていた。
西部軍司令部が用意した席は最後尾の小さな区画にあった。
向かいには、左脚を木の副木で固定された少尉が横になっている。
眠っているように見えたが、列車が揺れるたび眉間へ皺が寄った。
クラウスは膝の上の書類筒を押さえた。
中には、西部軍司令官ヴィルマー大将の署名した貸与命令が入っている。
結果が一つだからといって、責任まで一人分にまとめる必要はない。
それは頭では分かっている。
けれど、向かいの少尉の外套には、クレムニッツ東郊と書かれた負傷者票が結びつけられていた。
そのことだけは、頭から離れなかった。
◆
第一軍司令部に最も近い駅へ着いた時、空はもう明るくなっていた。
自分が降りた後も、負傷兵列車は北へ向かう。
最後尾の赤い標識が朝靄の中へ消えるまで見送り、それから書類筒を抱え直した。
作戦室では、夜勤の通信兵がまだ残っていた。
壁の作戦図には出発の時にはなかった赤線が増え、机の端には冷えた珈琲の杯がいくつも並んでいる。
エストルフ少将は定規を使って師団間の距離を測っていたが、自分が入ると作戦図から顔を上げ、壁の時計を見た。
「御苦労様です、中佐。一日で追い返されるとは、余程、西部軍にも余裕がなかったようですな」
「追い返されたわけではありません」
「では、決裁の要る条件でも持ち帰られましたか」
「いえ。用件は、昨日のうちに済んでおります」
「……済んだ、とは」
「はい。借りてまいりました」
エストルフ少将の定規が、作戦図の上で止まった。
「……名目上は何かを出していただけた、ということですか?」
「いえ、要求書どおり、定数一個連隊です」
ザルヴィッツ少佐も、書きかけの数字の上で鉛筆を止めた。
エストルフ少将はしばらくこちらを見ていた。
「一個連隊」
「ええ、要求書にはそう書かれておりましたので」
また少し間が空いた。
エストルフ少将の表情は固まっていた。
クラウスは、何か報告の順序を間違えたかと思った。
通常であれば、まず会談の経過を説明してから結果を報告するべきだったのかもしれない。
だが結果だけを先に求められたように聞こえたので、その通りに答えただけである。
そもそも、なぜ要求されたものを持ってきたのにこんな顔をされるのだろうか。
もし本当に求めている条件が別にあるのであれば、最初から書いておいてほしい。
とはいえ、二個連隊と書かれていたところで、西部軍のあの様子では不可能だっただろうが。
「何か、追加の要求を呑んできたということはないでしょうか」
ザルヴィッツ少佐が横から口を挟んだ。
どうにも、自分の報告は信用されていないらしい。
「いいえ。借り受けた連隊を第一軍正面の反撃に用いる旨と、第一軍正面の安定後、次に転用可能となる一個歩兵連隊を西部軍へ優先するよう、元帥閣下から統帥府へ具申する旨。この二点のみをお伝えしました」
「口頭での約束も?」
「しておりません。私には、その権限がありませんので」
「……なるほど。どうやら中佐殿の御威光は、西部軍にまで届くようですな」
「そうかもしれませんね。まあ、それが連隊になるのなら、使った方がいいでしょう」
「……ええ。まさしく、その通りです」
それきり、次の言葉は続かなかった。
ザルヴィッツ少佐がエストルフ少将を見た。エストルフ少将も、そちらへ目を向けた。
示し合わせたように、二人の視線がこちらへ戻ってくる。
あまり居心地は良くなかった。
「貸与命令はこちらです」
命令書の控えを机へ置いた。
エストルフ少将は封蝋を確かめ、一頁目を開いた。
最初は普段と変わらない速さで読み進めていたが、途中で目が止まった。
「西部軍直轄七十六式装備試験歩兵連隊」
「はい」
「……あの高価な新式銃の連隊ですかな」
「そうです」
エストルフ少将はもう一度、部隊名を読んだ。
その横から、ザルヴィッツ少佐が命令書を覗き込んだ。
「到着は」
「先頭が明朝です。残りも、その後に続きます」
「輸送の手配まで済んでいるのですか」
「貸与命令が出た後、西部軍で手配していただきました。何か、不足がございましたか」
「いえ」
エストルフ少将はすぐに答えた。
「ありません。ええ、全く要求どおりです。第一軍としては大いに助かります」
そう言って椅子から立ち上がり、こちらへ手を差し出した。
「御苦労でした、中佐。よくやってくださいました」
ザルヴィッツ少佐は、貸与命令の部隊名を指先で押さえた。唇が少し動いた。
いつもなら、そこから祖父か家名か、あるいは中央の人事についてもう一つ何かが続く。
しかし今回は短い息が漏れただけで、そのまま命令書を机へ戻した。
◆
エストルフ少将は貸与命令を閉じ、作戦図の前へ移った。
机の端には、昨日まで検討していた反撃案が三枚重ねられている。
「来ると決まった以上、反撃案を引き直しましょう」
エストルフ少将は、作戦図へ指を置いた。
「ライフェンベルク中佐。この連隊について、何か腹案がおありですか」
「装備についてでしょうか」
「配置と用法です。わざわざこの連隊を借りてこられたのですから」
「それは、ザルヴィッツ少佐殿が決めるものと思っておりました」
「……小官が、ですか」
ザルヴィッツ少佐が顔を上げた。
「はい。第一軍の各師団については、少佐殿の方が詳しいでしょう」
「中佐殿は、この連隊を実際に御覧になっているのでは」
「ええ、規模は違いましたが、実際の演習を見ました」
「ならば、中佐殿が配置案を作られる方が自然ではありませんか」
「新式銃の性能や射撃については御説明できます。しかし、第一軍のどこへ置くかを決めるのであれば、少佐殿の方が適任です」
「小官は、その新式銃を見たことがありませんが」
「ですから、必要なことは私に訊いてください」
ザルヴィッツ少佐は、こちらと作戦図を順に見た。
「……小官が案を作り、中佐殿がそれを補うと」
「はい。その方が早いかと思います」
エストルフ少将が片手で顎を撫でた。
「では、そのようにしましょう。ザルヴィッツ少佐は、この連隊を加えた第一案を作ってください。到着後はひとまず軍予備へ置き、連隊長から話を聞いた上で最終配置を決めます」
「は」
「ライフェンベルク中佐は、演習時の所見を少佐へ」
「承知しました」
「中佐は夜行で戻られたのでしょう。先に食事を取ってください。元帥閣下への復命は、その後で結構です」
クラウスは書類筒を閉じた。
「中佐殿」
「はい」
「元帥閣下への復命後で結構です。装填の展示から大隊演習まで、御覧になった順に伺います。資料だけではわからないことばかりですので」
「承知しました」
ザルヴィッツ少佐は貸与命令を自分の前へ引き寄せ、昨日までの反撃案を三枚とも開いた。
敬礼して作戦室を出るまでに、第一軍予備の空欄へ、長い部隊名を書き始めていた。