面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
九月二十八日の夕刻、アーベルニッツ市街にある第三軍司令部には、ケーゼル中将とフライターク中将、そして第五軍司令官カールハイム大将が卓を囲んでいた。
「ほう。追いかけてきたか」
アルブレヒト親王は、報告書を受け取って微笑んだ。
「西方の村々へ敵の前衛が入っており、我が後衛の正面では陣地を作り始めています」
「疲れているだろうに、よく走るものだ」
「……北へ偵察に出した騎兵からも報告が入りました」
参謀長は地図の北側を示した。
街道に沿って置かれた敵の部隊札には、前日の日付が添えてあった。
「歩兵と砲兵の大きな縦隊が南下しております。グランツェルに集結していた軍と思われます」
「これはこれは、よほど早く我々を国境の向こうへ送り返したいらしい! では、明日が決戦ということか」
「いえ、北の軍はまだそこまでは。最後に確認された位置と後続の長さから見まして、攻撃に加われるだけの兵が揃うには、あと二日はかかるかと」
親王は報告書を下ろした。
「二日?」
「早くても到着は明後日という見込みです。西の軍と攻撃を合わせるのであれば、攻勢開始はそれ以降になるでしょう」
「なんだ、随分と足並みが揃っていないな」
「我々がすぐには動けぬと見ているのでしょう」
「なるほど。それも間違ってはいない」
卓の上には、先程まで見ていた両軍の兵員表が残っていた。
エルツェンから戻った連隊には、兵だけでなく中隊長の補充を待っているところもある。
親王は西方の部隊札へ手を伸ばした。
「西は、エルツェンで交戦した軍か?」
「はい。先日に確認できた部隊とも一致しております。新たに大部隊が加わったという報告はありません」
「では、少なくとも現状の数はこちらが優るな」
親王はカールハイム大将を見た。
大将は頷いたが、返事をする前に参謀長が口を開いた。
「殿下。まさか、こちらから攻めるおつもりですか」
「明日なら、まだ西にいる軍だけを相手にできるのだろう?」
参謀長は、一度脇へ退けた兵員表を引き寄せた。
「両軍ともようやくここまで戻したところです。兵員表の数だけ揃っていても、将校が足りません。今のまま攻勢に出すのは危険です」
「その表は見た」
「では、せめてもう一日いただければ」
「だがその結果、今度は二方から攻められるのではな。お行儀よく両方の軍が来るのを待ってやるのは、どうも私の性に合わん」
親王は西の部隊札を指で押さえた。
「西の連中もエルツェンで戦った軍だ。それから毎日、我々の後を歩いてきた。この連中を先に動かしてやろう。彼らが下がるなら北の軍とは離れる。踏み止まるなら明日は我々の二個軍を相手にせねばならん。どちらにしても、敵の思惑は外してやれる」
参謀長も地図へ目を向けた。
「だとしても、危険です。確かに数の上だけ見るならばその通りですが――」
「動けます」
ケーゼル中将が椅子の背から身を起こした。
「欠員はございますが、後衛を務めた連隊を後ろへ回しても前衛は組めます。砲弾も受け取りました。殿下の御命令とあれば、明朝から攻撃いたします」
表に記した大隊を指し示してから、ケーゼルは参謀長へ顔を向けた。
「陸軍卿が前進の継続を命じられた折にも、各部から休養を求める声は上がりました。それでも殿下は我々をエルツェンまで進めてくださった。なに、この一か月間やってきたことです」
参謀長が口を開きかけたところで、隣のフライターク中将も身を乗り出した。
「殿下、街道沿いは私にやらせてください。うちの連中はまだ、殿下がエルツェンへ連れていってくださると思っておりますよ。もちろん私もそうです」
「しかし明朝に叩き起こせば、今度は寝かせておけと言うだろう」
「ええ、言いますとも。それは私が聞いてやります。殿下には顔を出発前に顔を見せていただければ、それだけで私が何を言うよりも奮い立つでしょう」
フライターク中将が笑いかけると、親王も口元を緩めた。
「よかろう! 先頭へ出す旅団は、今夜のうちに準備しておいてくれ!」
「承知しました。旅団長には明日、殿下をお行儀よく迎えろとよくよく申し付けておきます」
カールハイム大将はすぐには口を挟まず、第五軍の宿営地から西へ伸びる道を確かめていた。
「殿下。第五軍ももちろん動けます。ただし、両軍が並ぶ位置を先に決めていただきたい」
「もちろんだ。フライタークの前衛と揃えて出よう。こちらから連絡将校を送る」
「ノルトマルクの連中に、我々が一度退いたくらいでもう戦えぬと思われてはかないませんからな」
「感謝する、カールハイム。ケーゼル、フライターク、卿らも無理に全てを並べようとせず、明朝から使える部隊を先に揃えてくれ」
ケーゼル中将が手帳へ書き込む横で、フライターク中将は街道に沿って並ぶ村の記号を見ていた。
「あの新式銃の連中がどこにいるかは気を付けるべきですな」
「分かっている。見つけたら砲はそこへ集中させる。砲兵長には私の言葉だと伝えておいてくれ」
「ありがたく存じます。何度も同じ手段が通じると思われるのも癪ですからな」
参謀長はカールハイム大将と両軍の前衛を揃える位置を決め、二人の軍団長にも出発時刻を確かめた。
「両軍の前衛が揃うのは夜明けになります。そこから敵へ接近させるということでよろしいでしょうか」
「よい。命令を整えてくれ」
親王は頷いて、参謀長の差し出した命令用紙へと署名した。
◆
九月二十九日の朝、ハンネスは農家の戸口へ腰を下ろし、右の靴を脱いでいた。
踵へ巻いた布が傷に貼り付いている。
水筒の口を当てて少し濡らして端から剥がそうとしたところへ、ヘルマン曹長が来た。
「ハンネス、貴様は出発前になって何を始めているんだ! 昨日のうちに替えておけと言っただろう!」
「替えましたよ! 今朝起きたら、またくっついていたんです」
「なら剥がさずにその上から巻いておけ! 前の小隊が戻ったら、うちは東へ移るんだぞ!」
ハンネスの属する中隊は、ボートマー師団の前衛に加わっていた。この朝は村外れの農家へ進み、そこで後続を待つと聞かされている。
昨日は畑の間を進み、前の部隊が止まるたびに待たされた。
ようやく入った村でも、食事の前に東側へ浅い溝を掘らされている。
藁の山へ横になった後は、起こされるまで目が覚めなかった。
ハンネスは布を巻き足し、踵を靴へ押し込んだ。
戸口に立て掛けた銃を取ると、曹長が庭へ出ろと顎を振った。
東の方で銃が鳴った。
井戸の周りでは、同じ中隊の兵が水筒を満たしていた。何人かが顔を上げたものの、すぐにまた桶へ手を伸ばした。
昨日もこのくらいの時刻に撃ち合いがあった。
帝国軍の後衛が残っていると聞いていたから、ハンネスは前の小隊がそいつらと撃ち合っているのだろうと考えていた。
続けて数発、今度は少し近くで鳴った。
しばらくして村の東口から馬が二頭駆け込んできた。
先頭の騎兵は庭先で手綱を引いて誰か将校はいないかと怒鳴り、もう一騎は止まらずに家並みの間を西へ抜けていった。
「東の丘を越えてきています! 歩兵です、道路の両側に大勢――」
ハンネスは騎兵の指す方を見た。
煉瓦塀が邪魔で外はよく見えなかった。通りへ出ようとすると、納屋から出てきた兵にぶつかった。
「中隊、集合! 銃を持て! 背嚢は置いていけ、集合だ!」
庭へ飛び出してきた中隊長は、外套を片腕に掛けていた。
早朝が井戸から離れろと怒鳴り、まだ蓋を締めていた兵の腕を掴んで引いた。
その肩越しに、東の畑から何人もの兵が走ってくるのが見えた。
前へ出ていた小隊だった。その中で後ろへ銃を向けて撃っている一人が倒れた。
その時、ハンネスの頭の上を何かが唸って通った。
納屋の壁が鳴ったかと思うと、庭へ瓦が降ってきた。
ハンネスはその場で首をすくめようとしたが、誰かに襟を引かれて膝をついた。
「馬鹿野郎! 何をぼんやりしておる! 頭を下げろ!」
ヘルマン曹長だった。
背を押されるままに、ハンネスは庭の東側へ走った。
煉瓦塀の向こうには木がまばらに立ち、その先の畑に兵が散っていた。
一瞬戻り遅れた味方かと思った。しかし、銃口はこちらへ向いている。もっと奥の低い丘には軍旗があり、その下からも兵が出てきていた。
「ハンネス、装填は!」
「ま、まだです!」
「急げ! とにかく弾を込めて、塀の低いところへ銃を出せ!」
弾薬盒の蓋が指に引っかかった。
ようやく掴んだ包みを歯で破り、銃口へ火薬を注ぐ。槊杖を使っている間にも、飛んできた弾が煉瓦を削った。
すぐ隣で銃を構えていた兵が何か言ったが、裏手に落ちた砲弾の音で聞き取れなかった。
ハンネスはやっとのことで塀の欠け目へ銃身を出した。
昨日掘った溝へ、敵の歩兵が入ろうとしているのが見える。
「曹長! て、敵は動かないんじゃなかったんですか!」
「そんなもん生き残った後司令部にでも聞け! 小隊撃て!」
ハンネスが引き金を絞ると、肩へ衝撃が来て、畑が煙に隠れた。
手探りで次の弾薬包を取り出す間にも、塀の外から撃ち込まれる音は続いていた。