面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
「中央の前衛が押されております! 街道脇の畑まで下がりました! 増援の大隊も押し戻されています!」
ボートマー師団の連絡参謀、ヴェーラー少佐が報告書を差し出した。
ボートマー少将は紙を受け取るなり、ホーエンエック元帥へ向き直った。
「もう限界です! 後退の許可を! このまま兵を入れ続けては、後続まで潰されます!」
第一軍司令部の食堂には、朝からの報告が積み上がっていた。
窓の外では砲声が続いていた。留め金が緩んでいるらしく、窓枠がときどき細かく鳴っていた。
クラウスは、それをぼんやりと聞いていた。
「敵は動けないという話だったでしょう! まったく、統帥府の連中は何を見ていた!」
ボートマー少将は報告書を卓へ置き、指で押しつけたままこちらを見ていた。
ザルヴィッツ少佐が何か言おうとしたので、それを手で制した。
たぶん、お互いにとって有益なことではないと思ったからだ。
「後退は待て。前衛への援護は続けさせる」
ホーエンエック元帥は、第二軍へ送る続報をエストルフ少将へ渡した。
「軍予備を使って、こちらから攻勢に出るべきです。退けば敵は追ってくる。下がった先でも、また同じことになります」
ザルヴィッツ少佐が言った。
ボートマー少将がそちらを向くと、ランツァウ少将も口を開いた。
「その通りだ。我が師団はまだ健在です。中央が少し押されたからといって、皆で退くことはないでしょう」
「では、我々にはこのまま磨り潰されろと言うのですか!」
ボートマー少将はザルヴィッツ少佐へ顔を戻した。
「そうは申しておりません。反撃に移るまでは、今の位置で支えていただく必要があると」
「堪えられんから申し上げているのです! その兵を後退の援護に使っていただきたい! 反撃を待つ間にも、こちらの兵は減るのです!」
ボートマー少将の手が、卓に広げてあった配置図を叩いた。
ザルヴィッツ少佐が口を開くより先に、デッケン少将が中央の部隊札へ指を置いた。
「中央が下がるなら、南も一緒に退かせていただきたい。敵の勢いは予想を上回ります」
「下がれば、第二軍との合流位置が変わってしまいます」
エストルフ少将が、卓の端から道路図を引き寄せた。
「ならば、向こうにも知らせればよいでしょう」
「第二軍には電信を送りましたが、先発部隊は既に駅を離れております。そこから騎兵を追わせても、すぐに届くわけではありません。命令が届いたところで、長く伸びた縦隊を一度に引き返させることもできません」
デッケン少将へ、第二軍の連絡参謀であるリンデマン少佐が言った。
「その間にこちらだけが退けば、第二軍が単独で敵の前へ出てしまいます。それに、合流すると聞かされて進んでいる兵へ急使を走らせて今度は退けでは……第一軍はもう潰れたのだと思われかねません。こちらで整然と退くつもりでも、向こうが同じように受け取るとは限らないのです」
「では、その第二軍はいつ来るのですか」
デッケン少将はリンデマン少佐を見たまま返事を待った。
朝から何度も使いは出ていた。だが、第二軍がどこまで来ているか、今この場で答えられる人はいなかった。
ランツァウ少将が卓越しにデッケン少将を見た。
「だから反撃するのです。敵を押し返すことで時間を稼げる。エルツェンでは我が師団は持ち堪えた。あの時は軍予備の投入もなく、戦線を持たせましたぞ」
「その時、北へ砲兵を回したのは我が師団です、閣下」
ヴェーラー少佐が言った。
「メーレンにも損害が出ました。まるでそちらだけで持ち堪えたように仰られては困ります」
「貴官らの砲兵を借りたことくらい覚えている。今はその話をしているのではない」
「先にエルツェンの話をなさったのは、そちらでしょうに」
ボートマー少将が鼻眼鏡を外した。
「まるで我が師団だけが辛抱できないような言い方をなさる。我が隊が、いつ敵前で逃げましたか」
「まだ兵を出せるうちから退く相談をなさっているのは閣下でしょう。グラーフェン軍では、敵を前にしてまず逃げ道を探すような教育はしておりません」
「メーレンの兵にまで、そのようなやり方を押しつけるな!」
椅子が床を擦った。
ボートマー少将が立ち上がると、デッケン少将も卓へ手をついた。
「全くです。後退を提案するたびに逃げると言われては話になりません。グラーフェンが不利な状況で戦いたいならご自由になさればよろしい。我々はそのような真似はしない」
ランツァウ少将は鼻を鳴らした。
「ふ、ノルデックは第一帝政との戦争でも友軍を置いて退きましたな。あの際も貴国の兵だけはさぞ多く残ったでしょう」
デッケン少将の手が止まった。
隣にいたアルンスベルク少佐が、師団長より先に顔を上げた。
「取り消していただきたい。あれは命令による後退です、閣下。その命令はグラーフェンにも伝えられていたはずですが、なぜ我が軍だけが勝手に退いたことになるのですか」
「そちらの軍史にはそう書かれているのですな。いや、勉強させていただきました。隣国でも伝わる歴史は違うのだと」
ベルゲン少佐が言うと、アルンスベルク少佐は持っていた報告書を卓へ置いた。
「貴官は、我が邦が記録を偽ったと仰るのか」
「そうは申しておりませんが、そう聞こえたのであればそういうことなのでしょう。ぜひ取り残された側の記録もお読みになってはいかがですか。我が邦では、その戦いで失った軍旗を今も――」
「よくもまあ、百年前のことをいつまでも」
デッケン少将はベルゲン少佐を見ず、ランツァウ少将へ顔を向けた。
「グラーフェンの攻撃精神は、オーギュスト一世陛下には通じませんでしたな! 今はあの頃とは少しは変わったのでしょうか、少将?」
「貴様、我が邦がベルヴァーニュとの戦争でどれほどの兵を失ったかも知らずに――」
「知っておりますとも、勇敢に攻撃なされて大損害を出された! だから同じことになっては困ると申し上げている!」
「やめんか!」
ホーエンエック元帥の声に、ベルゲン少佐が肩を引いた。
ランツァウ少将も言葉を切って元帥を見た。
「今、戦っている敵の話をしろ! 百年前の軍旗をどうするかなど、誰も訊いておらんわ!」
「……失礼いたしました」
ベルゲン少佐が頭を下げた。
エストルフ少将が師団長たちの間へ配置図を戻す。
「とにかく、中央への援護が必要なことは一致しております。軍予備を――」
「元帥閣下。我が邦が友軍を見捨てたという言い分だけは、聞き捨てできません」
デッケン少将は元帥へ向き直っていた。
「作戦上の意見を申し上げるたびに、そのような話をされては。我々はグラーフェン軍の指揮下へ入ったつもりはございませんし、それは文書でも明記されていたはずです」
「ここは第一軍司令部だ。誰もそのようなことは言っておらん。それとも、今が防衛作戦の範囲の外だとでも申すつもりか」
「ですが、グラーフェンのために我々が時間を稼ぐなどとは承服しかねます」
「こちらは貴官らの支援のために兵を出すと言っているのだ! それを百年前の敗戦と一緒にされて、黙って聞いていられるか!」
ランツァウ少将が配置図を元帥の前へ寄せた。
「北からの反撃には、我が師団が先に立つ! それでも、まだ何かありますかな!」
「そちらが崩れればどうなるのかは、まだ答えてもらっておりませんよ」
ボートマー少将は眼鏡を握ったまま言った。
「グラーフェンの勇ましき勝利のために協力しろというのは簡単ですが、面倒事は全て引き取れというのはいささか――」
「我々が勝ち名乗りのために兵を出すとでも言いたいのか! まだ戦っているうちから、負けた後の言い訳を考えておられるのですな!」
「なんだと!? それならそちらは中央が先に逃げたので負けた、とでも今から書けばよろしい! どうにも、敗戦の理由を他へ押し付けたいようですからな!」
ザルヴィッツ少佐が配置図を持ち上げた。だが、ボートマー少将はヴェーラー少佐から別の報告書を受け取ると、それをランツァウ少将の前へ突き出した。
元帥はエストルフ少将を手招きした。少将から受け取った報告を開き、中央へ送り出した大隊が今どこにいるかを確かめていた。
その横でも、アルンスベルク少佐はベルゲン少佐へ言い返していた。師団長に話していた時より、随分と声が大きい。
クラウスは椅子の背へ寄りかかり、各邦の訛りが飛び交うのを聞きながら、卓を囲む顔を順に見た。
同じ制服を着ていても、それぞれ帰る邦があり、預かっている兵がいて、自分たちの名誉と歴史がある。
だからこそ、全員が違う国の代表のように振る舞うのだ。
今なら、それが前よりも理解できた。
もっとも、理解できたところで何も状況は好転しないが。
クラウスの膝には、第二軍との集中表があった。
ザルヴィッツ少佐の反撃案で敵を押し返せるのかもしれない。
ボートマー少将が兵を退かせたがるのも分かる。一度戦線を下げるというデッケン少将の案にも、何度か頷きかけた。
やはり、こういう時に軍をどう動かせばいいかというのは自分の頭から出てこない。
ただ、先ほどからその点ではないどこかが気に掛かっているのに、うまく言語化が出来ない。
こういう時、バルク宰相なら何と言うだろう。
卓の端にあの人が座っているところをふと想像した。
皆の言い分を聞き終えて、少し面倒そうに顔を上げる姿を。
『諸邦の歴史についての講義はやっと終わりか。それで、君たちは今、目の前の状況に対処するために議論しているのかね。それとも、会戦に勝利するために議論しているのかね』
いかにも言いそうだと思った。
それが声の調子まで妙によく浮かんで、口元が緩みかけたのを手で隠した。
そうだ。たぶんこの議論の問題は、諸邦の歴史や名誉の問題以前にそこにあるのだろう。
卓の周りでは今にもまた叫びださんばかりの様子で、皆が息を荒げていた。
発言すればその矛先が自分へ向くかもしれないと思ったが、それでも、この場にいる以上は役目を果たさなければならない。
間違っているのならば、それはそれで自分が笑われるだけだ。
そう覚悟を決めて、息を吸った。
「……敵が早く攻めてきたことも、押されていることも理解しました。しかし、当初の目的まで動かす必要はあるのでしょうか」