面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
第二軍連絡参謀補佐官である、テオドール・フォン・ライフェンベルク少尉は、軍帽の裏地で掌の汗を拭った。
扉の脇で待機を命じられてから、卓に近づく機会をずっと窺っていた。
水差しを取るために席を立った将校へ道を譲ったほかは、ほとんど同じ場所にいる。
司令部で従兄に会えると聞いた時には、挨拶くらいできると思っていた。
だが、とてもそのような空気ではなかった。軍帽の縁を擦る音さえ、今は気になる。
ランツァウ少将が水へ手を伸ばした。
ボートマー少将は鼻眼鏡を掛け直しながら、まだ何か言っている。
その隣からデッケン少将も口を挟み、椅子を寄せたエストルフ少将の声はよく聞こえなかった。
その時、卓から少し離れた椅子に座る従兄が顔を上げた。
心なしか、微笑んでいるようにすら見えた。
「……敵が早く攻めてきたことも、押されていることも理解しました。しかし、当初の目的まで動かす必要はあるのでしょうか」
ランツァウ少将の手がグラスから離れた。
「今まで黙って何を聞いておられた、中佐! こちらが何も変えずに済むなら、こんな協議はしておらんわ!」
テオドールは壁へ寄りかけ、踵を踏み止めた。
軍帽を持つ腕へ力が入った。従兄の方へ目を移すと、クラウスは卓へ紙を広げているところだった。
「はい。ただ、両軍で敵を叩くためにここまで進んできたのでしょう。第二軍との共同を取りやめるとは、まだ決めていなかったと思ったものですから」
「その第二軍が来ていないから、こうしているのです!」
ボートマー少将が身を乗り出した。
「前衛だけで済まず、送った大隊まで押し戻されている。目的を確かめ直したところで敵はいなくならんのですよ!」
「ええ。前衛への援護は、すぐに要るのだと思います」
「でしたら、軍予備を回していただきたい! 先ほどから何度もそう申し上げている!」
卓の縁に置かれていた眼鏡のケースが落ちた。
テオドールは一歩出かけたが、そばのヴェーラー少佐が先に拾った。
クラウスは少将の声が止まるのを待って、広げた紙へ目を落とした。
「北から反撃する案も、西へ下がる案も伺いました。しかし、どちらも第一軍がそうした後で、第二軍に合わせてもらうお話になっているように聞こえたものですから」
「第二軍と合流するために、戦線を下げると言ったのです!」
デッケン少将がエストルフ少将の方へ向けていた体を捻った。
「ここで兵をなくしては共同も何もない!」
「もちろんです。そのために反撃するのか、下がるのかを考えるべきではないでしょうかと申し上げております」
従兄はなんでもないように答えた。
デッケン少将は、その様子に勢いを失ったようだった。
「だから、反撃だと何度も言っておる!」
入れ替わるように、ランツァウ少将が配置図を指した。
「我が師団が先に立つ! 敵を押し返せば中央も持ち直せる! 第二軍が来る前にこちらが崩れてはならんから、そう申し上げているのだ!」
「ええ。反撃することも必要なのだと思います。ただ、第一軍だけで敵を何とかして、それから第二軍とどうするかでは、肝心の共同作戦が後回しになってしまいませんか」
「中佐。共同攻撃の方針は承知しております」
エストルフ少将が言った。
「いま決めなければならないのは、それまでの処置です。こちらの兵をどう使うか決めなければ、師団へ命令を出せません」
「ですから、その順番が逆だと申し上げているのです。両軍で戦うために、今ここで何をするかを決めるのでしょう。第一軍だけで敵をどうにかしてから第二軍との作戦を考えるのでは、初めの目的が変わってしまいます」
「共同作戦ができるまで、持つかどうかを問題にしているのです!」
ベルゲン少佐が、従兄を見た。
「第二軍がいつ来るかも分からない。来た時には第一軍が潰れていたでは何にもならんでしょう! それとも、中佐殿には第二軍がいつ到着するかおわかりなのですかな!」
「いえ。それはもちろん、私にも分かりません」
テオドールは帽子の縁を握り直した。
そこを認めてしまったら、また先ほどの話へ戻されるのではないかと思ったからだ。
「ただ、第一軍だけでは難しいから、両軍で戦う計画だったのでしょう。第二軍がまだ来ないからといって、こちらだけで決着をつけるところまで考える必要があるのでしょうか。反撃も後退も、両軍で戦えるようにするためなら必要なのだと思いますが」
不思議なほど声は落ち着いていて、叫ぶよりもずっとこの場によく通るように聞こえた。
従兄の声を聞きながら、テオドールは実家の小さな机を思い出した。
幼年士官学校へ入る前、母に頼まれた従兄が、何度か勉強を見てくれたことがあった。
自分が途中の計算を長々と説明しても、従兄は遮らずに聞いていた。それから答案の最初へ目を戻して穏やかに言う。
『一度最初から考え直してみようか、テオドール君』
あの時と、なんら声の調子は変わらなかった。
こちらの説明が終わるまで待ってくれる時の顔で、居並ぶ将官たちを見ている。
「……であれば、中央への兵はどうなるのですか」
ボートマー少将の声に、テオドールはそちらへ目を戻した。
答えたのはエストルフ少将だった。
「前衛を交代させれば、下げた兵を揃え直すことはできますか」
「どれだけ戻るかにもよります。少なくとも、今の大隊をそのまま攻撃へ出せとは言わないでいただきたい」
「ええ。第二軍が来た時に、御師団も攻撃へ加われるようにしておかねばなりませんな」
「そのためにも兵を引かせたいと、申し上げているのです」
エストルフ少将は報告を置き、元帥を見た。
「軍予備の大隊を、まず交代に使わせてはいかがでしょうか。後続砲兵が入れば、残った大隊も支えやすくなります。私は、今の位置で両軍の共同攻撃へ持ち込む方がよいと思います」
「しかし、第二軍がどこまで来ているかも分からないのでしょう」
デッケン少将が言った。
エストルフ少将は少し考えてから答えた。
「ええ。ですが、今こちらが退いてもそれに合わせられるかは分かりません。今の位置で戦える兵を残せるのであれば、その方が両軍の共同攻撃へ移りやすいでしょう」
「待て。軍予備を中央へ使えば、北からの反撃はどうするのだ。中央だけ持たせれば済むと思われては困るぞ!」
ランツァウ少将がザルヴィッツ少佐へ向き直った。
「北で反撃することは必要です。ただ軍予備まで出してしまえば、その間を支える兵が残りません」
「先ほどは、それを使って攻勢に出ると仰ったではありませんか」
ベルゲン少佐が言った。
「ええ、御師団の反撃を止めろとは申しておりません。中央の交代に使う分を除き、予備は残します」
「我が師団の兵だけでは、押し戻した後まで続けられませんぞ」
「敵が下がれば、いったん兵をそこでまとめていただきたい。要するに、その先まで攻め続ける必要はないのです」
ザルヴィッツ少佐が北の部隊札へ指を置いた。
ランツァウ少将はその指先を見て、口髭を撫でた。
「それなら、中央の砲兵が届くところまでの反撃が可能か……」
ボートマー少将が報告書を卓へ戻した。
「軍予備を交代に使わせていただけるなら、前衛の左から下げたい。ただし、引き揚げた大隊を、そのまま北の反撃へ回せと言われても承服できませんからな」
「後方で揃え直していただきます。両軍が攻撃に移る時にも、師団として戦っていただかなければなりません」
「それならば、まずその命令を出していただきたい」
少将はまだエストルフ少将を見ていたが、ヴェーラー少佐が何か耳打ちすると、そちらの報告を覗き込んだ。
デッケン少将もアルンスベルク少佐を手招きした。
「中央が持ち直すのであれば、南も今の陣地で戦えます。全軍が退く際の援護に残していた兵を、中央との間へ出しましょう。ただし、中央が移る時には必ずこちらへ知らせていただきたい。我々だけ置き去りにされてはかないません」
ランツァウ少将が口を開きかけた。
ホーエンエック元帥はその前へ手を出した。
「……わかった。命令には連絡の手順も入れる。第一軍は現線を維持し、第二軍との共同攻撃へ移れるよう戦列を整える。軍予備を揃えて北へ攻勢をかける案は見送るが、各正面で敵を押し返すための反撃は行ってよい」
「敵を押し戻すところまでは、現地で判断してよろしいのですな」
「砲兵と隣の部隊への連絡を保った上で、君に任せる。どこから出すかは、今、ザルヴィッツ少佐と詰めてくれ」
「……承知しました。ベルゲン、旅団へ戻す連絡将校を呼んでくれ」
テオドールは卓を見回した。
ランツァウ少将がザルヴィッツ少佐の説明を遮り、砲兵の位置を確かめていた。
ボートマー少将も、交代を先に済ませるよう念を押している。声の大きさだけは、先ほどとあまり変わっていない。
「南の兵がここへ入るなら、この砲兵を北へ向けられます」
ヴェーラー少佐が図面へ印を付けた。
アルンスベルク少佐がそれを覗き込み、中央の大隊が下がる道を確かめる。ベルゲン少佐も身を寄せてきた。
「その間、北から出る旅団はここで止める。南から来る兵にも、その位置を伝えておいてくれ」
「こちらの旅団長へ知らせます。そちらの書いたものも写させていただきたい」
アルンスベルク少佐が言うと、ベルゲン少佐は図面を二人の間へずらした。
つい先ほどまで、相手の邦の軍史を巡って怒鳴り合っていた二人だった。
テオドールには、図面のどこを直したのかまでは分からなかった。
ただ、誰かが案を出すたびに、別の誰かが自分の部隊で何ができるかを答えている。
いつの間に、こんなふうに話が進むようになったのだろうか。
従兄は、席へ戻ってきた書類を揃えながら、将官たちの話を黙って聞いていた。
相変わらず、この場にはそぐわないほど穏やかな顔をしていた。
「リンデマン。第二軍へこちらの方針を伝えてくれ。第一軍は現線で戦い、両軍の共同攻撃に備える。エストルフ、今決めた配置と反撃の方針も書き添えてくれ。第一軍からも将校を付けよう。先の報告だけでは、第二軍も今の状況を掴めまい」
「写しをいただき次第、直ちに使いを出します」
エストルフ少将が命令を書き上げ、元帥の前へ差し出す。
ホーエンエック元帥は一通り目を通すとペンを取った。
そのまま署名するものと思っていたテオドールの前で、元帥は顔を上げた。
「この方針で異存はないか、ライフェンベルク」
従兄は、手元へ戻ってきた書類を畳みかけていた。
師団長たちも、その返事を待っている。テオドールは従兄と元帥を交互に見た。
「はい。異存ありません、閣下」
先ほどと少しも変わらない声だった。
それをもって、第一軍の方針は決定された。
◆
「中佐であるにも関わらず、まるで従兄はその場の最終決定者であるようだった!」
――『マルク近代戦史』アーベルニッツ会戦の項より
テオドール・フォン・ライフェンベルク少尉(当時)の手記に見える、有名な一節である。
氏は少尉として第一軍司令部に同道し、この軍議に居合わせていた。
従兄への敬愛が随所に表れる手記であり、記述を額面どおりに受け取るべきではないという指摘はもっともであろう。
ただ、この日の軍議については、他の出席者も多くの証言を残している。
それらを読み比べると、反撃や後退を巡る議論の細部は必ずしも一致しない。自らの案を弁護する筆もあれば、隣接師団への不満を記したものもある。
ところが、ライフェンベルク中佐(当時)の発言を境に軍議の方向が定まったという点だけは、いずれも一致している。
ホーエンエック元帥は命令への署名に先立ち、中佐に異存の有無を確かめたという。
テオドール氏が驚いたのは無理もない。諸邦の将官が居並ぶ席で、最後に意見を求められたのは若年の中佐だったからだ。
ライフェンベルク中佐は、両軍の共同作戦という大方針の下に、諸邦の将官たちをまとめ上げたのである。
軍予備の使途も反撃の範囲も、以後はその目的に従って調整された。
第二軍の到着時刻さえ定かでない中で、各師団は兵と砲を融通し合い、第一軍として戦い続けた。
当時の連邦諸軍の内情を知る者であれば、この取りまとめを軽く扱うことはできまい。
一方、第二軍の参謀であったルートヴィヒ・ハルトゥング中佐(当時)は、第二軍の全隊を待たずに先遣部隊を急行させていた。
戦場へ入った兵力は歩兵約一万と少数の騎兵砲。これを加えても、総兵力ではなお帝国軍が優勢であった。
しかし第一軍を崩し切れぬうちに、見積もりより早く北から新手を迎えたハイゼンベルク軍は敗れた。
いかな精強たる兵士なれども、連戦による疲労が積み重なっており、指揮官であるアルブレヒト親王は攻め急ぐあまりにその点を軽視していた。
帝国軍は国境への後退を余儀なくされ、戦争の主導権を再び取り戻すことはなかった。
アーベルニッツにおいて三ヶ月戦争の帰趨は決した。
我が統帥府が多年にわたり整えてきた動員と参謀勤務は、この大勝によって内外の評価を一変させたのである。
ライフェンベルク中佐を会戦の立役者とする評価も、すでに戦勝直後の通信に見える。
軍公報よりも早く、その名は本国の新聞へ届いていた。
統帥府が両軍の戦果と功績を照合していた頃、従軍記者は司令部の将校たちから聞き取った話を打電していた。
話した将校が違っても、挙がる名は同じであり、内容は似通っていた。
彼らはまず、長く黙していたライフェンベルク中佐が紛糾する軍議を収め、元帥も最後にはその意見を求めたという話を述べた。
「第一軍司令部より」と付された通信は各紙へ転載され、紙面を飾ることになる。
ハイゼンベルクの初期攻勢以来、本国へ届くのは失地と後退の報ばかりであったが、そこへ今度は敵主力を破ったという知らせが来たのである。
各紙は号外を出し、翌日の紙面で連邦の各邦は戦勝の記事を大きく掲げた。
『アーベルニッツにて大勝――我が精鋭、帝国主力を撃破』
『ハイゼンベルク軍敗走 多数の捕虜と大砲を獲得』
戦勝を祝う紙面には、司令部での一幕が大きく取り上げられていた。
その名は「ただ一言で将官たちを従わせた」とされ、加えて「敵の企図を看破し、援軍の到着を待ち受けた」と称えられた。
どの記事にも添えられた呼び名を、今日のマルク軍で知らぬ者はいない。
――沈黙の天才参謀、クラウス・フォン・ライフェンベルク!