面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
十月十五日、クラウスは最後の引継書へ署名した。
受け取った参謀が綴りの中へ収めるのを見届けて、机の脇に置いていた鞄を持ち上げる。
この数日で何度も荷物を詰め直したが、今日はもう取り出さずに済みそうだった。
アーベルニッツ会戦の後、戦線が東へ進む間も、クラウスの仕事はあまり変わらなかった。
帝国軍は既に押し戻され、戦線は開戦前の国境線まで戻っていた。
第一軍では、各地から送られてきた増援を組み込み、戦闘のたびに所属を変えていた部隊を整理する再編が始まっている。
司令部の陣容も改められ、クラウスには王都グランツェルへの帰還命令が届いていた。
◆
帰還前の挨拶に伺ったホーエンエック元帥の部屋には、エストルフ少将もいた。
二人の間には地図と書類が広がっていたが、クラウスが入ると、元帥は読んでいた紙を伏せた。
「引継ぎは済んだか」
「はい。午後の列車で発ちます」
「そうか。御苦労だった、ライフェンベルク。君がいなければ、もう少し難しいことになっていただろう」
「……恐縮です」
そこまで言われると、やはり少し困る。
あの日も、自分は具体的な配置や反撃の方法を示したわけではないからだ。
「エストルフ。少し、二人にしてくれ」
「承知しました」
エストルフ少将は、広げていた地図を畳んだ。
脇へ抱えて立ち上がり、クラウスへ手を差し出す。
「道中、お気を付けて。私も貴方に助けられました、ライフェンベルク中佐」
「こちらこそ、お世話になりました」
握手を終えると、少将は扉を閉めて出ていった。
クラウスは元帥へ向き直った。
「掛けたまえ」
勧められた椅子へ腰を下ろした。
元帥はしばらく何も言わず、伏せた書類の端を揃えていた。
「ライフェンベルク。君に、謝っておかねばならんことがある」
「……何でしょうか」
「君は覚えておらんようだったが」
元帥は手を止め、こちらを見た。
「エルンストは、私の指揮の下で戦死した」
クラウスは返事をしかけ、そのまま口を閉じた。
「……父上が?」
「ああ。君が私を覚えていなかったから、今まで黙っていた。すまない」
「では、閣下にお会いしたというのは」
「葬儀でのことだ。私が一方的に覚えていた」
なるほど。
元帥に会ったはずなのに覚えていなかった理由がようやくわかった。
確かに父上の葬儀の際の記憶は酷く薄い。
正直なところ、今でも全く思い出せない。
「私の命令で戦い、君の父上は亡くなった。そのことは、君に私から話しておくべきだった。もちろん、あの時の命令が間違っていたと思っているわけではないが」
「……当時の詳しい事情は聞いております。閣下をお恨みしたことはございません」
あれは流れ弾だったと聞いている。
確かに、父が死なずに済めばよかったとは思う。
しかし、それを目の前の元帥へ言っても仕方がないのは理解していた。
「すまない。謝りながら、命令は間違っていなかったと言う。卑怯な言い方だとは思う」
「いえ。私の方こそ、お会いしたことも思い出せずにおりましたので」
口にしてから、返事になっていたか少し気になった。
だが、元帥は小さく頷いただけだった。
「……そうか」
しばらく、廊下を通る軍靴の音だけが聞こえた。
誰かが扉の外で足を止めたが、エストルフ少将の声がして、そのまま遠ざかっていった。
「エルンストは、卓越した軍人だった」
元帥が再び口を開いた。
「私は長く軍にいるが、あれほどの指揮官をそう多くは知らん。部下をよく動かし、自分が出るべきところではためらわずに出た」
「そうだったのですか」
「君は、聞いておらんのか」
「家では……父は、あまり話をしませんでしたので」
覚えているのは、いつも食卓で黙っている父の姿だった。
何かを話した記憶は、驚くほど少ない。
祖父も父を立派な騎兵将校だったと言っていたが、家族以外からその話を聞くと、少し違って聞こえた。
「ああ、そういう男だったな」
元帥は口元を緩めた。
クラウスもつられて少し笑った。
やはり父はいつでもそうだったのだ、と思うと少しだけ懐かしかった。
「君も、評判を聞く限りそういう男なのかと思ったのだが」
「それは……随分と違ったでしょう」
「ああ、それは否定せん」
元帥はそこで言葉を切って、手元へと視線を向けた。
「だが、君はもっと大きな仕事をするのかもしれんと思ったよ」
父のことは、もう少し聞いていたかった。
自分のことになると、途端に返事のしようがなくなった。
「……恐縮です」
先ほども同じ言葉を使ったと思う。しかし、ほかに何と言えばよいのかは思い浮かばない。
相変わらず、便利な言葉である。
「願わくば、エルンストと君が並び立つ姿を見たかった。それだけが悔いだ」
「そう言っていただければ、父も喜びます」
「……会えてよかった、クラウス。私は君の名を忘れん」
元帥は椅子から立ち上がり、こちらへ手を差し出した。
クラウスも立ち上がってその手を握ると、思った以上に力が入っていた。
「兄上にも、ブランデン国王陛下にも、君の働きは偽りなく奏上しておいた」
「ありがとうございます、閣下」
余計に不安になった。
先程の評価まで、その中に入っていなければよいのだが。
「また会えるのを楽しみにしている」
「はい。またお目にかかれますことを」
できれば次は、軍議をしなくてよい場所で、というのはもちろん口に出さなかった。
クラウスは手を離すと、敬礼した。
元帥も椅子へ戻らず、その場で答礼した。
◆
玄関へ向かう途中で、ザルヴィッツ少佐に呼び止められた。
少佐は階段を上ってきたところだった。
「中佐殿。お帰りになると聞きました」
「ええ。残られるそうですね」
「はい。次はハイゼンベルク領内への攻勢計画を立てねばなりません。部隊の再編と、並行して進めることになります」
「それは、また忙しくなりますね」
ようやく国境まで戻したと思ったら、今度は向こうへ入っていく。
戦争である以上そういうものなのだろうが、ともかく、その前に帰還命令が出てくれてよかった。
「どうか、お体にはお気を付けて」
「……中佐殿」
「はい」
ザルヴィッツ少佐は、図面を脇へ抱え直した。
「勉強になりました」
まっすぐにこちらを見ていた。
何についてだろうと思ったが、今から詳しく聞くのも妙な気がした。
「そうでしたか。それなら、よかったです。私も随分と助けていただきました」
それは本当だった。
まあ同時に中々困らされた気もするが。
ザルヴィッツ少佐は踵を揃え、敬礼した。
クラウスが返すと、少佐は階段の上へ向き直った。
こちらが玄関へ着く頃には、もう作戦室の扉を叩く音が聞こえていた。
◆
駅には、帰還用の乗車証を持った軍曹が待っていた。
自分の名を告げると、軍曹は背筋を伸ばした。
「ライフェンベルク中佐殿! グランツェルまでの護衛を担当いたします!」
「ああ、はい。よろしくお願いします」
ひどく声が大きかった。
すぐ近くに立っているので、そこまでしなくても聞こえるのだが。
軍曹はクラウスの鞄を受け取ると、客車の入口まで先に立った。
「こちらです、中佐殿!」
用意されていたのは、通路の奥にある小さな区画だった。
向かいの座席まで空いている。
これなら、何も気にせずに途中で眠れそうだった。
軍曹が荷棚へ鞄を載せた。
クラウスが腰を下ろして手袋を外しても、まだ扉の前に立っている。
「何かありましたか」
「中佐殿の御活躍は我々も伺っております! お会いできて光栄です!」
「……活躍、ですか」
「はい! アーベルニッツでは、中佐殿が司令部の皆様をおまとめになったと!」
やはり、その話らしかった。
会戦の後で何度か耳にしたが、話す人によって自分のしたことが少しずつ増えている気がした。
中央にまで変な形で伝えられてないと良いのだが。
「そういう話は、半分くらいで聞いておいてください。私一人で何かを決めたわけではありませんから」
「そのようなことは!」
軍曹は、言いかけて口を閉じた。
それから一度頷き、先ほどよりも深く頭を下げる。
「失礼いたしました。御用がありましたら、何なりとお申し付けください!」
「ええ、ありがとうございます」
何か分かってもらえたのだろうか。
そういう顔をしていた気もするが、どうにも話が通じた感じがしなかった。
軍曹は扉を閉め、その向こうへ立った。
汽笛が鳴り、列車が動き始めた。
窓の外では、砲車を載せた貨車が何両も止まっていた。連結部へ身を屈めていた作業員が顔を上げ、こちらの列車が通るのを待っている。
クラウスは、外套を膝へ掛けた。
王都へ戻ってから何を命じられるかは、まだ聞いていない。
少なくとも、列車が着くまでは眠っていようと思った。
◆
グランツェルの市街へ入る頃には、軍曹が扉を叩きに来た。
目を開けると、車窓に見覚えのある煉瓦の建物が並んでいた。
クラウスは外套を畳み、襟元を整えた。
「まもなく到着いたします、中佐殿」
「ありがとうございます」
鞄を下ろそうと立ち上がると、軍曹が先に手を伸ばした。
任せることにして、軍帽を取る。
列車は線路を何本か跨ぎ、中央駅の長い屋根の下へ入った。
ホームに人がいた。
到着する列車を待っているのだから、それ自体は不思議ではない。
ただ、随分と多かった。
柱の間にも、階段の下にも人が立っていた。
旅行鞄を持った者はあまり見えない。花束を抱えた婦人や、子供を肩へ載せた男までいる。
中央の通路だけは空けられており、その両側に警官が並んでいた。
今日は王族の行幸でもあるのだろうか。戦意高揚のためにならそういう行事があってもおかしくはないが。
しかし、この様子だと駅を出るまで少し待たされるかもしれない。
早く統帥府に寄ってから自宅へ帰りたいというのに、なかなか思い通りにいかないものだ。
列車が速度を落とすと、窓の向こうで誰かが手を上げた。
その隣にいた男も帽子を振った。
クラウスは、通路へ鞄を出していた軍曹へ顔を向けた。
「今日は、駅で何かあるのですか」
「はい! 皆様、中佐殿の御帰還と聞いて、一目お姿を見ようと駆けつけておられます!」
「……は?」