面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
呼び出されて初めて入った統帥府総長の執務室には、軍務長官までいた。
クラウスが敬礼すると、ローデン大将は肘掛けに預けていた手を軽く上げた。
その目が一度こちらの顔に留まったが、向かいの男が立ち上がると、そちらへ移った。
「やあ、ライフェンベルク。顔を合わせたことはあるけれど、こうして話すのは初めてだね」
「はい。お時間をいただき、ありがとうございます」
「僕が呼んだのだから、そこは気にしなくてよいよ。どうぞ、こちらへ」
統帥府総長エドゥアルト・フォン・リュトヴィッツ大将は卓の脇へ出てきて、クラウスに椅子を勧めた。
六十も間近だと聞いているが、こめかみに白いものが混じる程度で、近くで見ても随分と若い。ローデン大将とはほとんど同い年だというのが、少し信じられなかった。
二人を見比べそうになり、クラウスは勧められた椅子へ目を落とした。
「いやあ、たいした働きだったね。あのホーエンエック殿まで、君のおかげで勝てたと書いてきたんだから」
「……私には、過分なお言葉です」
「そうかな。各師団の報告も読んだけれど、そこだけはよく揃っていたよ。自分の師団がどれほど働いたか、隣の師団がどれだけ酷かったかを長々と書いて、最後には君の名前が出てくるんだ」
リュトヴィッツ大将は、卓に積まれた報告書へ手を伸ばした。
中を見せられるのかと思ったが、表紙を確かめただけで元の場所へ戻してしまった。その下にも、同じような綴りが何冊も重なっている。
見せていただかなくても構わなかった。自分についてらしい報告書を見せられたところで、どういう顔をして読めばいいのか分からない。
「君が軍学院を出た時の配属は、よく覚えているよ。あの成績で、しかもライフェンベルク家だからねぇ」
「閣下が配属を決定されたのですか」
「そう、なかなか大変だったんだ。首席でライフェンベルク、ただ机上演習の成績が君も知っての通りだったからね。扱いにくいことこの上なかったよ。本当は作戦課に配属なんて、僕は――」
「エディ」
ローデン大将の低い声が、その先を止めた。
なんとも率直な物言いだった。とはいえ、認識としては正しいと思う。
「いや、失礼。要するに、あの頃の君にこういう仕事を任せようとは思っていなかったなあ、と。無難に勤めてくれれば、それで十分だと思っていたんだよね」
クラウスは思わず頷いた。
まったく同感である。こちらもそれでよかった。それ以上を望んだ覚えは、少なくとも自分には一度もない。
まさか、統帥府の一番上の方が自分の理解者だとは思わなかった。
「ええ。私も、できる仕事をさせていただければと思っておりました」
「初めは何を担当していたんだったかな」
「西方鉄路網の石炭割当表の整理などです」
「ああ、そういうものを間違いなく片付けてくれればよいと思っていたよ。それが今では英雄だ。いや、驚いたなあ」
ローデン大将が肘掛けから手を離した。
「いい加減にしろ。こいつを褒めたいのか、昔の言い訳をしたいのか」
「両方かな。こんな働きをするとは、まるで思っていなかったんだから」
「……いえ、総長閣下の当時のお見立ては、間違っていなかったと思います」
「そう言ってくれると助かるよ。ただ、もう石炭の割当表だけを任せておくわけにはいかなくなったね」
別に任せてくださって構わないのだが。
そうだろうとは思ったが、やはり昔の机へ戻してもらえる話ではないらしい。
「そういえば、陛下とは以前にもお会いしているそうだね。エッゲンから聞いたよ」
「はい。祖父に連れられて王宮へ伺った折に。まだ王太孫殿下でいらした頃ですが」
「ああ、先王陛下の頃だね。父君殿下があんなに早く亡くなられるとは思わなかったなあ。陛下も、あのお歳で王位をお継ぎになるとは思っておられなかっただろうけれど、とはいえ若いから何でも擁護できるわけではないよね」
リュトヴィッツ大将はいかにも楽し気にそう言ったが、クラウスは最後の部分に同意するわけにもいかず、曖昧に頷いた。
先王陛下への拝謁を終えた後、祖父が紹介してくれたのだった。自分よりも若い殿下は祖父とこちらの顔を見比べ、それから肩や腕まで眺めていた。
『お前がライフェンベルクか! 伯爵とはずいぶん違うな。少しも騎兵らしくないではないか。馬には乗れるのか?』
『はい。一通りは、殿下』
『そうか! なら今度、一緒に乗ろう。余の厩も見せてやる。伯爵、構わぬだろう?』
祖父は笑って承知いたしましたと答え、そのまま殿下と馬の話を始めてしまった。
こちらも隣で笑っていたような気がする。一通り乗れると答えただけで、祖父のように乗れると申し上げた覚えはない。
できれば断ってほしかったが、馬の話をしている祖父にそれを期待しても仕方がなかった。
幸い、その後ご一緒する機会はなかったが。
「それで、陛下へお話しする準備は進んでいるかな。ハルトゥングとも会ったそうだね」
「はい。第二軍の報告を頂いて、両軍の記録を照らし合わせました」
ハルトゥング中佐とは先日、作戦課の空いた机を借りて会った。
中佐は挨拶もそこそこに鞄から第二軍の報告を取り出し、第一軍の綴りと並べた。戦場へ入った時刻、兵数、損耗、退いた敵の位置。一行ずつ突き合わせていくと、食い違いは幾つも見つかった。
損耗の欄まで進んだところで、兵数を確かめ直すために前の頁へ戻ることもあった。
第一軍の師団報告には、北から来た兵を二万近くと書いたものまである。
『助けられた側は、援軍を多く数えるものです』
中佐はそう言って、第二軍の行軍表を手元へ寄せた。実際に戦場へ入った部隊を拾っていくと、歩兵およそ一万と少数の騎兵砲だった。後続はまだ行軍中だったらしい。
到着時刻を確かめるところで、クラウスは前から訊いてみたかったことを口にした。
『何故、第二軍の全隊を待たずに先遣を出されたのですか』
『第一軍が退かないなら、一刻でも早く着いた方がよいでしょう』
『ですが、先遣を出された時には、第一軍の方針はまだ届いていなかったはずです』
『ええ、届くのを待っていたら間に合いませんでした』
『では、何故退かない方だと』
中佐は鉛筆を止めた。少し間を置いて、一度だけこちらへ目を上げた。
『……そちらの可能性が高いと思っただけです。どちらかを前提にしなければ、こちらも兵の動かし方を決められませんので』
持参した綴りを膝の上で開くと、ローデン大将が覗き込んできた。
帰還してから日が経つほど、王宮へ持っていく書類が増えている。
質問に備えて表を足し、その数字の根拠も添えているうちに、今朝は第一軍の引継ぎに使った表まで写してきた。
「それを全部読み上げるつもりか。終わる前に陛下が昼食へお立ちになるぞ」
「いえ、お尋ねがあった時のためにと思いまして」
「うん。僕たちが先に聞いておきたいのも、その時の話でね」
クラウスは綴りから顔を上げた。
やはり、その話になるらしい。
「帝国領内への進軍について、でしょうか」
「話が早くて助かるよ。陛下は君の意見も聞きたがっておられるからね」
「ハルトゥング中佐には、今から進むとすれば何が必要かを伺いました」
「ああ、それも聞いていたんだね。彼は何と言っていた?」
「戦前の計画はそのままでは使えないと。ただ、組み直せば進めないということでもないそうです」
リュトヴィッツ大将は頷き、卓に開いていた地図の折り目を伸ばした。
国境の向こうにも赤鉛筆の印が幾つか付いている。脇には小さな書き込みがあったが、クラウスの側からは読み取れなかった。
「うん、僕もできないことはないと思う。両軍を揃え直して進めば、次の会戦でも勝つ見込みはある」
「では、統帥府は進撃を支持されるのですか」
「……準備はするよ。それが仕事だから」
「陛下はシェーンハルトへと仰っておられると聞きましたが」
「陛下は賢明であらせられるからね。しかも、勝った時だけ御自分がさらに賢くなったと思われる」
「口が過ぎるぞ。帝国軍を国境まで追い返したんだ。浮かれるのも無理はないだろう」
「もちろんそうだよ。ただ、専門の部署よりも御自分の判断を信じすぎるのはお控えいただきたいね。そう願うくらいは不敬に当たらないだろう?」
ローデン大将は答えず、地図の端を押さえた。総長が折り返していた部分を広げると、帝都の名が卓の中央へ出てきた。
「……とにかく、最初からシェーンハルトへ入るまで終わらんと決めると途中で何に勝っても足りなくなる。俺たちが案じているのはそういうことだ」
「兵を止めるたびに、勝っているのに何故だと聞かれるのも困るからねぇ」
「既に、そのように奏上なさったのですか」
「したよ。ただ、陛下はまだ勝利が足りないらしい」
リュトヴィッツ大将はローデン大将を見た。
長官は口髭を撫でたが、何も言わなかった。
「とはいえ必要な補充も、途中で兵を休ませることもお認めになる。鉄道を直している間に何ができるかをお尋ねにもなるよ。ただ一通り申し上げると、その用意が済めばいつシェーンハルトへ入れるのか、というお話に戻ってしまうんだ」
「帝都まで進むこと自体は、もう陛下の中ではお決めになっているのですね」
「うん。僕はせめて次の会戦で何を得られたかを見てから、その先を決めたいんだけど。陛下は帝都へ向かう途中の手配を任せたのだから、それを進めてくれと仰る。同じ地図を見ながら話しているはずなのにね」
「そして帝都へ入れば、諸邦も我が国を頼りにするほかなくなると仰る。そこまでいくと、俺たちが御返事できる話でもなくてな」
ローデン大将が地図から手を引いた。
クラウスも帝都の名から目を離し、膝の綴りを見た。兵数や鉄路の状態は確かめてきたが、帝都へ入った後の諸邦がどうするかまでは、この表に書き込めそうもなかった。
リュトヴィッツ大将は地図を少し持ち上げ、下敷きになっていた報告書を引き抜いた。先ほど、クラウスの名が出てくると言っていたものだった。
「僕もあんな報告をもう一度陛下へお持ちできれば、気分はよいだろうけれど」
「どうせまたその後に同じ相談をする羽目になるぞ、シェーンハルトの次の駅だ」
ローデン大将が言うと、総長は困ったように笑って報告書を手元へ置いた。
「軍務省でも、その準備をなさっているのでしょうか」
「ああ。やれと言われりゃあやるさ。軍だからな。予算も今なら集まるだろうよ。平時に一個大隊の費用を渋っていた連中まで、もっと兵を送れと言ってくる」
大将は鼻を鳴らし、脇の鞄から書類を一冊出した。表紙には各邦から回答を受け取った日付が書き込まれていた。
「金も兵も手配はしている。だが軍務長官としての俺は、今のまま進撃を続けることには反対だ」
「……そうなのですか」
「軍人としてなら、俺もハイゼンベルクをもう何発かは殴りたいがな。それでも予算を組んで金を使って進撃すれば、今度はその金に見合う戦果を得るまで終われんと言い出す。今ある勝利では足りないと言っているところへ、もう一つ理由を足すことになるだけだ」
クラウスは長官の顔を見た。
冗談を言う顔には見えなかった。
「とはいえ、な。攻め込まれて兵も領土も失い、やっと追い出した。そこで終わりだと言われてすぐに頷けん奴もいる。そりゃ俺だってそう思うさ」
「ええ。現地でも、そういう声は聞きました」
「だろうな。実際に戦った兵も、家族を送り出した者もそう言っている。それを浮かれているからで済ませるのは違う」
「……ええ。それは」
「だが、それでは次にどこまで兵を送るかは決められん。要求されれば補充兵も馬も集めるが、どれだけ要るのか分からんものを際限なく寄越せとは俺も諸邦へ言えんからな」
ローデン大将は膝の書類を開き、最初の頁へ目を落とした。
「宰相閣下からは、その辺りについて何かお話はございますか」
「あるよ。陛下にも何度か申し上げたそうだ。酷い言い合いになったらしいけどね」
リュトヴィッツ大将が可笑しそうに答えた。
ローデン大将は開いた書類を閉じた。
「その後も、お話は進んでいないのでしょうか」
「今もお互いに引かないようだね。これまではしばらくするとまた同じ机で別の話をしていたし、今回もそのうちと思っていたんだけれど」
「バルクの奴も少しは言い方を考えればいいんだよ。陛下にそれまでの御判断が間違っていたことまで認めさせようとするからな」
「嫌な老人だねぇ」
「俺たちもそう歳は変わらんだろうが」
「だからこそ、ああはなりたくないんだよ。陛下も御自分が宰相閣下に操縦されていると思ってしまわれるから、余計に意地になるんだろうね」
クラウスは返事をせず、膝の綴りへ目を落とした。
茶会の席でも、アンナ嬢が似たようなことを言っていた。
「そういうわけで、今回は僕たちも困っていてね。補充の予定を申し上げた時にも、宰相と相談したのかとお尋ねになったよ。あれは軍務省と詰めた数字だったんだけれど」
「俺のところも同じだ。準備に要る日数を申し上げれば、バルクもそれを理由にしていたと仰る。あいつと違うことを言うために、嘘の数字を出すわけにもいかん」
ローデン大将は書類を卓へ戻し、その隅を指で押さえた。
「兵を国境の向こうへ出してから仲直りされても困るんだよ」
「お二人とも、一度出した兵をすぐに国へ戻せるわけではないことくらい、よく御承知なんだけれどねえ」
リュトヴィッツ大将が地図の上へ鉛筆を置いた。
「だから僕は各軍の報告を合わせて、改めて日程をお持ちすると申し上げている。君がハルトゥングに聞いたのも、その辺りのことかな」
クラウスは手元の綴りを閉じた。
日程について知りたかったのも確かだった。ただ、茶会の後から考えていたことは、それだけではなかった。
ハルトゥング中佐には、進軍に必要な手配について一通り教わった。その後で、そこまでして今から進む必要があるのかと訊きかけると、中佐は綴りを閉じた。
『そこから先は、私の机の上の話ではありません』
「……それもあります。ですが、もう少し手前のところで確かめておきたかったのです」
「どういうことだい?」
「できれば、ここで戦争を止められないかと」
ローデン大将の手が書類から離れた。
リュトヴィッツ大将はすぐには答えず、置いたばかりの鉛筆を指先で転がした。
「君は、ここで終えた方がよいと思っているのかな」
「条件にもよるでしょうが、はい。こちらがまだ有利であるうちに、交渉を始める方がよいのではないかと」
「相手もその間に兵を揃えるぞ。話を引き延ばされるかもしれん」
「はい。ですから、こちらも次の準備は続ける必要があると思います。ハルトゥング中佐にも、国境で軍を待たせておくにも手配が要ると言われました」
大将たちはこちらを見ていた。
クラウスは閉じた綴りの端を揃えた。もう一度揃え直してから、言葉を続けた。
「私が前線を離れる時にも、部隊を戻し、将校を補い、ようやく次の命令を受けられるようにしているところでした。それでまた勝てるかもしれませんが、同じことを何度も続けられるわけではないでしょう。ですから今、講和の話を始めるには何が足りないのかを伺ってみたいのです」
「君から、陛下に?」
「……もちろん、お尋ねがあればですが」
リュトヴィッツ大将は小さく頷いた。
「なるほど。君の考えは分かったよ」
「そうか。お前も、できれば止めたいか」
ローデン大将が椅子へ背を預けた。少しだけ、息を吐く音がした。
宰相閣下の話では、もっと大勢から反対されるものと思っていた。
ところが、ここにいるお二人も止められるものなら止めたいらしい。
これだけ止めたい人間がいて、何故自分が御前で話すことになっているのだろう。
「……長官閣下も、同じお考えなのですね」
「たぶんお前よりは殴りたいがな。ただ、それを軍務省の方針にはできん」
「僕も、次の攻撃が必要かどうかを確かめる余地は残しておきたい。でも、君がそこまで考えてくれていたのは嬉しいね」
「いえ、まだ教えていただいてばかりですので」
「いいんだよ。君にまで、もう一度前へ出たいと言われたらどうしようかと思っていたんだ。陛下はアーベルニッツの報告を何度も読み返しておられるからね。君が次も引き受けると言えば、ずいぶん御安心なさるだろうし」
「いえ。そのようなことは、考えておりません」
少し返事が早すぎたかもしれない。
リュトヴィッツ大将は構わず頷いていたが、ローデン大将は口髭の下で笑っていた。
「第一軍をああやって動かしたんだ。もう一度やってみたくはならんか?」
「できれば、あのような思いは一度で十分です」
「そうか。お前くらいの歳なら、もっと欲を出すものなんだがな」
休みたいという欲なら、随分とあるのだが。
わざわざ訂正することもないので、クラウスは曖昧に頭を下げた。
「ははは、いや、君を戻してもらってよかったなあ。本当に僕の人を見る目はあてにならないようだ」
総長の言葉に、下げたばかりの頭を上げた。
つい先ほどまで、この人は自分の理解者だと思っていたのだが。
「ただ、御前では会戦の報告を先に済ませてくれるかな。陛下は君たちの働きをお喜びだし、各邦からもその話を聞きに来られる方がいる。そこはきちんと伝えてもらいたい」
「はい。それはもちろんです」
「今後のことをお尋ねになったら、今の考えを話してくれればよいよ。統帥府で用意していることは、僕から申し上げるから」
「俺の方の話も同じだ。予算や補充までお前に答えさせるつもりはない。陛下がお喜びになったからといって、知らんことまで請け合うなよ」
クラウスは二人を見た。
「……では、お話しする内容をあらかじめお見せする必要は」
「会戦の数字に直すところがあれば、教えてほしいね。君自身の意見は今聞かせてもらえたから、それで十分だよ」
扉が叩かれた。
総長が時計を確かめたので、クラウスも綴りを抱えて立ち上がった。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。準備で分からないことがあれば、エッゲンを通して聞いてくれるかな」
「はい。それでは、失礼いたします」
敬礼して扉へ向かうと、後ろからローデン大将に呼び止められた。
「ライフェンベルク。勲章を頂く時くらいは、もう少し嬉しそうな顔をしておけよ」
「……顔に出ておりましたか」
「入ってきた時からな」
クラウスは口元へ手をやりかけ、途中で下ろした。
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