面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
外務卿ヴァルデンフェルスは、手元の書類を一枚めくった。
「続いて、マルク鉄道条約及び同条約に基づく諸邦間の協定について、帝国はその効力を無期限に承認するものとします。アーレン王国との間で取り決められた通告及び損害負担の手続も、これに含まれます」
皇帝フランツ・カール二世は、卓に置かれた同じ書類へ目を落としていた。
右手には外務卿、左手には財務卿レーヴェンタールが座り、その向かいには陸軍卿ヘッツェンドルフ公がいた。
アルブレヒト親王は陸軍卿から一つ席を空けて座り、第三軍の参謀長を傍らに立たせている。
卓の末席では、書記官が外務卿の言葉を書き留めていた。
「帝国は、これらの条約及び協定に関し、最高保護者の権能によって変更、停止、または再協議を要求する権利を放棄するものとします」
外務卿は顔を上げた。
皇帝はしばらく書類を見ていたが、やがて指先で一箇所を押さえた。
「期限は設けられなかったか」
「はい。先方は期限を付すことに応じておりません」
「……そうか」
外務卿は次へ進んだ。
ヘッツェンドルフは椅子の背に身を預けたまま、眉一つ動かさなかった。外務卿が頁を改めても、陸軍卿の前の書類は動かなかった。
親王の前の書類は、そのたびに同じだけ繰られていた。
外務卿が賠償金の支払いに移ると、財務卿が自分の書類を引き寄せた。
「支払いの日程は、こちらから出した案でよろしいのですな」
「その点は受け入れられました」
「承知しました。陛下、これでしたら財務省で手当ていたします。もっとも、陸軍への支払いもまだ残っておりますので、直ちに余裕ができるということではございません」
「分かっておる」
皇帝は外務卿へ顔を向けた。
「これ以上、譲らせる余地はないと見るか」
「はい。これまでの折衝を踏まえますと、この条件で受け入れるのがよろしいかと存じます」
「先方も、戦を続けたいわけではあるまい」
「折衝の様子からは、そのように見ております。ただ、アーベルニッツ以後、我が軍は開戦時の国境まで退いております。この条件を拒んでも、先方が更に譲るとは――」
椅子が音を立てた。
ヘッツェンドルフが立ち上がっていた。
「あの会戦は勝てたのだ」
外務卿は言葉を切った。
陸軍卿は卓へ両手をつき、その向こうから皇帝を見た。
「陛下、アーベルニッツでは我が軍が優勢だったのでございます。第三軍と第五軍を合わせれば、敵を上回っていた。北から来た軍とて、全軍が揃ったわけではない。歩兵一万ばかりが加わったところで、こちらが劣勢になるはずはなかったのです!」
「公爵、まだ御説明の途中でございます」
「先ほどから聞いておる! だが我が軍には勝つだけの兵がいた。砲もあった。それが何故、国境まで下がらねばならんのだ!」
ヘッツェンドルフは親王へ向き直った。
「殿下、貴方の軍は何をしていた!」
親王は椅子から立ち上がった。
陸軍卿が二歩近づいても、その場を動かなかった。
「あれだけの兵を預けて、敵を退けられなかった! 北から敵が来ると分かっていたのなら、その前に片を付ければよかった! カールハイムの軍もいたではないか! 二個軍を使って、何故できなかった!」
「カールハイムは、私が頼んだ通りに動いてくれた。中央への攻撃は私が命じた。だが、敵は崩れなかった」
「ならば更に兵を入れるべきだったのだ!」
「投入した部隊を揃え直せなくなっていた。前へ出す兵も、すぐに使える状態ではなかった」
「貴方は毎度そう言う! 兵が疲れている、将校が足りない、部隊が揃わない! ならば、それを承知で攻めたのは誰だ!」
参謀長が口を開いた。
「前進を急がせたのはそもそも、陸軍卿の――」
親王が片手を上げた。
参謀長は一歩出かけたところで止まり、親王の横顔を見た。
「その通りだ、陸軍卿。あの夜、参謀長はもう一日待てと言った。聞かなかったのは私だ」
ヘッツェンドルフは口を開いたまま、親王を見ていた。
親王は手を下ろした。
「両軍を休ませ、部隊を整える必要があるという進言は受けていた。それでも、敵が揃う前に正面を退けるべきだと判断した。攻撃を命じたのは私だ。あの会戦の指揮については、私が陛下にお答えする」
「そうだ! 敵が来る前に叩くと決めて、それすら果たせなかった!」
「ああ。果たせなかった」
「認めれば済むことではない! エルツェンでもそうだ! 好機を失い、砲まで置いて下がってきた! 殿下がもっと早く敵を潰していれば、我々がこのような話を聞かされることもなかった!」
参謀長は唇を結んでいたが、親王の表情は変わらなかった。
「どいつもこいつもライフェンベルク、ライフェンベルクと! たかが中佐が帝国陸軍を打ち負かしたとでもいうのか!」
ヘッツェンドルフは卓の縁を掴んだ。
親王は小さく頷いた。
「……エルツェンとアーベルニッツの絵図を描いたという、沈黙の参謀か」
「どちらもあと少しで中央を破れた! あそこまで敵を押したのだぞ! 何故そこで兵をまとめて押し切らなかった!」
「ヘッツェンドルフ」
皇帝が呼んだ。
陸軍卿は親王から顔を戻した。
「会戦の報告は受け取っておる。アルブレヒトからも改めて聞く。今は外務卿の話を最後まで聞け」
「ですが陛下、あの会戦は勝てたのでございます!」
「それも聞いた」
皇帝は外務卿へ頷いた。
外務卿は、途中で止まっていた書類を持ち直した。
「残る条項は、開戦に先立つ陸軍当局の措置についてでございます。帰営列車の取消し、並びに境界駅間保安区へ武装した兵を進めた件に関し――」
「兵を帰していたら、戦うことさえできなかった!」
書記官のペンが止まった。
皇帝は外務卿から陸軍卿へ、ゆっくりと顔を向けた。
「あの時に兵を引いていれば、また次の年まで待たねばならなかったのです。その翌年も、またその翌年も! ノルトマルクが強くなるのを眺めたままで! 陛下、私は何度も申し上げたはずです。戦うならば早い方がよいと! だからこそ、兵を集めてから帰すくらいなら進ませるべきだったのです!」
財務卿が書類から手を離した。
親王は立ったまま陸軍卿を見ていた。参謀長もその傍らを離れなかった。
「諸卿らも存じておろう! 私は六年前から戦争をしろと言い続けていたのだ!!」
ヘッツェンドルフの声が広間に響いた。
「あの時なら勝てた! まだ早いと言われ、用意ができていないと言われ、そのたびに待たされた! こちらが待っている間に、敵は強くなるばかりではないか! その結果がこれではないのか!」
外務卿は書類を卓へ置いた。
「公爵。陛下は、私の説明を最後までお聞きになると仰せです」
「卿は黙っていろ! いつでもそうだ。まだ待て、今はその時ではないと、そればかりではないか! 六年前に私の言う通りにしていれば、こんなことにはならなかったのだ!」
ヘッツェンドルフは皇帝へ一歩近づいた。
「陛下があの時ご決断くだされば、我が軍は勝っていたのでございます! なぜお許しくださらなかったのです! 私は勝てると申し上げた! 何度も、何度も申し上げたではありませんか!」
皇帝は椅子の肘掛けに手を置いていた。
陸軍卿が更に何か言おうとした時、その手が上がった。
「侍従長」
壁際に控えていた侍従長が進み出た。
「預けてある辞表を」
「かしこまりました」
侍従長が扉へ向かった。
ヘッツェンドルフはその背を見送り、すぐに皇帝へ顔を戻した。
「陛下、まだ軍はございます。国境まで戻しただけです。補充を入れ、今度こそ兵を揃えて進めれば――」
「八月、余は兵を帰せと命じた」
皇帝の声は大きくなかった。
「卿は、帰営を撤回してはおらぬと答えたな」
「帰営は、現地の状況によって一時――」
「その答えも残っておる。繰り返さずともよい」
扉の外で足音がした。
侍従長が戻ってくるまで、皇帝は陸軍卿を見ていた。
ヘッツェンドルフは卓に置いた自分の書類へ一度手を伸ばしたが、取らずに引っ込めた。
侍従長が皇帝の前へ、一枚の紙を置いた。
本文は短く、その下にはヘッツェンドルフ自身の署名と印章があった。日付の欄だけが空いている。
『臣、陸軍卿の任を辞することを請い奉る』
皇帝は書面を確かめると、卓の中央へ寄せた。
「ヴァルデンフェルス。続きを」
外務卿は立ち上がり、先ほど置いた書類を取り上げた。
「帝国政府は、陸軍当局の独断による帰営列車の取消し及び境界駅間保安区への武装進入について、関係諸邦に陳謝するものとします。皇帝陛下は、御命令に反してこれらの行為が生じたことを遺憾とされ、陸軍卿の辞任をもって、その責任を明らかにされる。以上でございます」
皇帝は外務卿を見た。
「謝罪の対象は」
「帰営列車の取消しと保安区への武装進入です。それ以外の事柄について謝罪する文言はございません」
「この条件で回答せよ。締結の準備を進めるように」
「かしこまりました」
書記官がペンを動かした。
外務卿は書類を卓へ置いたが、席には戻らなかった。
「陛下。あわせて、私からもお願いがございます。講和の締結を終えましたら、私も外務卿の任を辞したく存じます」
ヘッツェンドルフが顔を上げた。
外務卿は皇帝を見ていた。
「卿まで辞めると申すか。ここまで折衝してきたのは卿であろう」
「外交の失敗です、陛下。帝国の仲介による再協議を要求するよう申し上げたのは、私でございます」
外務卿は皇帝の前の書類へ目を落とした。
「公を陸軍卿の任に留めるよう進言したのも私です。講和の締結と後任への引継ぎまでは、責任を持って務めさせていただきます。その上で、お暇を賜りたく存じます」
皇帝はしばらく外務卿を見ていた。
財務卿も書類を閉じた。
「……講和を済ませてから、改めて辞表を出せ。それまでは卿に任せる」
「かしこまりました」
外務卿は深く頭を下げた。
席へ戻ると、卓上の書類を順に重ねていった。
ヘッツェンドルフはそれを見ていたが、やがて皇帝へ向き直った。
「陛下。今度は私に全軍をお預けください。私ならば――」
「卿の辞表を受理する。これまでの責務、大儀であった」
皇帝は侍従長からペンを受け取った。
ヘッツェンドルフの署名の上に空けられていた一行へ、その日の日付を記した。
吸取紙が当てられ、侍従長が辞表を下げた。
ヘッツェンドルフはしばらく卓の前から動かなかった。
やがて誰にも礼をせず、扉へ向かった。
アルブレヒト親王は背を伸ばし、踵を揃え、公が目の前を通り過ぎる間もその姿勢を保った。
ヘッツェンドルフは一度もそちらを見なかった。
扉が閉じた。
卓の上には、鉄道条約の条項が記された頁のまま開かれている書類が残っていた。
親王はそれを引き寄せて閉じ、端を揃えて侍従長へ差し出した。
「公の書類だ。届けてやってくれ」
侍従長が受け取った。
皇帝はそれを見ていたが、何も言わなかった。
◆
陸軍卿を退いたヘッツェンドルフ公は、領地の屋敷で穏やかな余生を送った。
回想録『帝国陸軍とマルク危機』の執筆を日課とし、開戦に至る経緯から両会戦における諸将の判断まで、詳細な記述を残している。
その一方で、兵についての記述は、どこにあと何個大隊があれば勝利を得られたかという検討に終始している。
公は晩年まで原稿への加筆を続け、天寿を全うした。
その筆致は終生衰えなかったという。