面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
十二月のグランツェルは、すっかり白くなっていた。
宰相府の廊下で手袋を外すと、指の先がまだ冷たかった。
秘書官に案内されて執務室へ入ると、暖炉に火が入っていた。
その前へ椅子を持っていきたいと思ったが、バルク宰相が指したのはいつもの机の向かいだった。
「座りたまえ」
「失礼いたします」
机には書類が積まれ、その隙間に食事の皿があった。肉はもう残っていなかったが、濃いソースの匂いは部屋へ入った時からしている。
宰相は署名を一つ済ませると、書類を脇へ寄せてクラウスを見た。
「私は、そこまで無礼なことをしろとは言わんと伝えたはずだ」
手袋を畳む手が止まった。
今日は講和のことで呼ばれたのだと、秘書官からは聞いていた。
「……勲章のことでしょうか」
「ほかに心当たりがあるなら、それも聞こう。君は冗談だと言っていたし、私も冗談として聞いた。あの時は笑ったが、宮殿では笑えんかったよ。本気で君が正気かどうかを疑った」
「申し訳ございません。閣下方にも御迷惑をお掛けしました」
「既に言われただろうが、ローデンもリュトヴィッツも随分と困惑していた。実際、誰もあそこまでやるとは思っておらん。迷惑で済んだのは、運がよかっただけだ。あれは最悪、君一人が軍服を脱いで済む話ではない。諸邦の君主や使節まで居並ぶ前でのことだ。陛下のお怒りが収まらなければ、私にも取り繕えんかった」
クラウスは手袋を膝へ置いた。
あの後呼び出されたとき、リュトヴィッツ総長には一切笑顔がなく、ローデン大将に至っては部屋に入った途端に拳骨を落としてきた。
「……それでも、申し上げなければならないと思いました」
宰相は机へ肘をついた。
クラウスは少し待ったが、先を促されただけだった。
「最初はもちろん、陛下にお喜びいただいて、そのまま帰れればよいと思っておりました。勲章も、これまでの働きをお認めいただけるのであれば、ありがたく頂くつもりでした。ただ、次の勝利までお約束したことにされては困ります」
「君が困るだけなら、あそこで黙っていることもできただろう」
「はい。ですが、それで前線へ戻れば、今度は私が元帥閣下たちへ、何より前線の兵へお願いすることになります。陛下には勝てると申し上げましたので、よろしくお願いしますと」
言い終えてから、膝の手袋へ目を落とした。
宰相は肘をついたまま、しばらく黙っていた。
「君は普段、叱られそうになると実に慎重に言葉を選ぶくせに、あの場では陛下に何を仰せつかっても同じ返事をするのだからな。本当は途中で下がらせようと思ったのだがね」
「閣下が口をお挟みになったのは、そのためでしたか」
「ああ。下がらせて、その後のことはそれから考えるつもりだった。あそこでお笑いになるとは、誰にも分からん」
宰相はカップを取り、口元まで上げたところで続けた。
「君も、陛下だからこそお聞き入れになったとは覚えておきたまえ。……まあ、あの方でなければ、次の勝利のための勲章などとも仰らんかっただろうが」
なんと返事をしてよいのか分からず、クラウスは黙っていた。
宰相は茶を飲み、それから机の上の綴りを取り上げた。
「ともかく、帝国から回答が来た。こちらの講和の条件をほぼ受け入れるそうだ。まだ署名は済んでおらんが、締結の準備に入る」
「……では、やっと正式に講和が成立するのですね」
「ああ。陛下にも既にお伝えした。御満足いただけたようだ」
そう言って、はっきりと頭を下げた。
宰相のつむじを見たのは、これが初めてだった。
「経緯はどうあれ、その点は君にも礼を言っておく。ありがとう、ライフェンベルク」
差し出された綴りを受け取って、クラウスも頭を下げた。
「……お役に立てたのであれば、何よりです」
顔を上げても、宰相はこちらを見ていた。
まだ何かあるらしい。
「陛下は随分とお喜びであった。あの方は褒められるのは好きだが、阿られるのは嫌いだ。そういう感覚は鋭い。次の配属は近衛かもしれんな」
「……できればご遠慮申し上げたいのですが」
「そう思っても、口に出すのはもうやめたまえ。……君は、ここで働いている間も、随分と嫌そうな顔をしていたな」
宰相は笑っていた。
否定する言葉を探したが、見つからなかった。本当に嫌だった記憶しかなかった。
「……実際、辞めたいと思ったことはございます」
「何度くらいかね」
「数えてはおりません。朝に迎えが来るたびとは申しませんが、昨夜は九時と聞いたはずだと思うことは、よくありました」
「君は今でもそれを覚えているのか。九時まで待てんから呼んでいたのだが」
「業務であることは分かっておりました。ですが、もう少し眠りたいと思うくらいは、お許しいただければと」
宰相は鼻を鳴らした。
机にある書類の一枚へ目を落としたが、手は伸ばさなかった。
「君に聞かせても仕方のない小言まで、随分と聞かせたからな。あちらへ行けば向こうの文句も聞かされ、戻れば私に早くしろと言われる。面白くはなかったろう」
「閣下にも、お分かりだったのですね」
「分かるとも。小言を言われながら働くのが楽しい人間などおらん」
内容には同意したが、全く納得はできなかった。
わかっていてやっているのだから、酷い話である。
「ただ、命じたものは持ってきた。分からんことがあれば聞きに来るし、私の言った通りでは使えんところは直してある。だから次も任せた。君がこの仕事を好きかどうかは関係ないからな」
「お断りできるとも思っておりませんでしたので」
「それもあったろうな。だが、言われた通りに書きましたと差し出して済ませることもできるだろう」
「そのままでは使えないと分かっているものをお渡ししても、結局は直すことになりますから。自分で使うのであれば、まだ後で直せますが、ほかの方が持っていかれるものですので」
「そうだ、君がそういう人間だから任せた」
宰相は少し身を乗り出し、机の端へ寄っていた皿を戻した。
クラウスも膝の綴りから手を離した。
「しかし、それだけ辞めたがっていたから、統帥府へ戻すと言えばもっと喜ぶものだと思っていたがね」
「私も、そう思っておりました」
返事をすると、宰相の顔が上がった。
「ですが、向こうへ戻ったら戻ったで、こちらで伺ったことを思い出すこともありました。前には気にしていなかったようなことまで」
机へ返した通行証を思い出した。
「ならば、私の小言にも意味はあったということだな」
宰相はカップへ手を伸ばした。
「だが戦場のことまで自分の手柄ではないと言うな。私は戦場へは行けん。あちらで何を見て、どう使うかまでは教えていない」
「……口を出されたような気がしたことはございます」
そう言うと、宰相のカップを持つ手が止まった。
「アーベルニッツの軍議で、閣下なら何と仰るだろうと考えました。今は何を決めるために集まっているのかと、お尋ねになるのではないかと。皆様のお話を聞いているうちに、そう思いまして」
「それを、私のように言ったのか」
「いえ。言い方は、もう少し考えました」
「君らしいな」
宰相が声を立てて笑った。
クラウスは綴りを持ち直し、それから付け加えた。
「その時は、ここで働いていてよかったと思いました」
宰相は口元を緩めたまま、カップを置いた。
「そうか。君の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったな」
「全部がよかったと申し上げているわけではございません」
「分かっている。朝の時刻については、もう聞いた」
その言葉に、クラウスも少し笑った。
「その控えは持っていけ。まだ外へは出すな」
「承知いたしました」
クラウスが綴りを机へ置くと、宰相はその隣にあった皿へ目をやった。
「君は、何か食ってきたのか」
「いえ。戻ってからにしようかと」
「では、食っていけ。……それと、奏上の後は娘に会っておらんだろう。たまには顔を出してやれ」
宰相が黒パンの皿を押しやった。
クラウスの方へ届く前に書類の角へ当たったので、それを持ち上げて通した。
「……では、頂きます」
黒パンを一切れ取った。
肉の皿の隣にあったせいか、ソースの匂いがした。
宰相が次の頁をめくる間に、クラウスはパンの端をかじった。
四十話で第二部も終わりにしようと思っていたのですが、どうしても一話はみ出てしまいました。
次回が第二部エピローグとなります。
余談ですが、バルク宰相の初期構想はのじゃロリでした。