面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
「総督、本国から新聞です」
南洋のベルヴァーニュ領タヴァロア島まで、本国の新聞が届くには二カ月以上かかった。
途中の港で船便を逃せば、三カ月前の記事を読むことになる。
総督官邸の露台で、アルジュー侯は籐椅子から顔を上げなかった。上着は椅子の肘に引っ掛け、靴も脱いで籐の足台へ両足を載せている。日除けの先で椰子の葉が揺れ、その向こうには底の砂まで透ける入江が広がっていた。
侯はその船を眺めていた。
卓の水差しには切った果実が沈んでいる。飲み残しの杯には、小さな蟻が上がってきていた。
「三カ月遅れの、か? そんなものを読んで何になる」
「しかし、我々と因縁浅からぬ名前がございましてね」
南洋駐屯軍司令官、ド・サン=クレール大佐は新聞の束と封書を卓へ置き、一枚を抜いて差し出した。
侯は指の先で押し返そうとして、折り返された紙面に目を留めた。
「……なんだと? ……ライフェンベルク!?」
「こちらはブランデン紙ですが、本国紙もございます」
侯は新聞をひったくった。
「何だ、これは。ハイゼンベルクに勝った? あの男がか? 冗談ではないぞ。私をこんなところへ追いやって、自分は英雄か!」
「ほかの新聞もお読みになりますか。そちらは似顔絵がありましたので、先にお持ちしました」
「北の新聞だろう! 自分たちの参謀を褒めるくらい、いくらでも――」
サン=クレールはもう一枚、卓へ置いた。
本国の新聞だった。侯はそちらを取り、途中まで読んでから日付を確かめた。
「……親王が軍を率いていたのか。皇帝の身内まで出して、この始末か? おい、サン=クレール。君も読んだのだな?」
「ええ。着いた船にほかの新聞はないかと聞きましたら、そちらが出てきまして。船長に借りてまいりました」
「借りてまで確かめたのか」
「閣下も、すぐにはお信じにならなかったではありませんか」
侯は返事をせず、新聞を顔へ近づけた。
サン=クレールは上着の釦を外した。港から坂を上ってきた汗で、襟の糊がすっかり落ちていた。
「……やられたのか。あれだけ偉そうにしていた連中が」
侯は紙面の途中で止まり、もう一度その行を読んだ。
鼻から小さく息が漏れた。
「そうか。ハイゼンベルクも、か」
新聞を膝へ下ろした。
大佐が顔を見ていると、侯は急にそちらを向いた。
「何だ。君、笑っているだろう」
「閣下ほどではございませんが。どうにも、ルサントの時にハイゼンベルクの新聞が書いていたことを思い出しましてね」
侯は口元を撫で、それから声を立てて笑った。
「あの伝統ある帝国の親王殿下が、御自ら軍を率いて、あの小僧に負けたか! 傑作だ。これは傑作だぞ!」
椅子の背へ身体を預けても、まだ笑いは止まらなかった。
侯は新聞を膝で叩いた。
「我々には何かというと正統だの秩序だのと御高説を垂れおって! その御立派な親王殿下が、二度も追い返されたのか。いや、これはいい。あちらの新聞も欲しいな。あの鼻持ちならぬ連中が、どんな言い訳をしておるか!」
「本国の新聞も、なかなか読ませますよ。『ノルトマルクの軍事的脅威を過小評価してはならない』。私の報告を受け取った頃にも、そのくらい心配していただきたかった」
「今更だ! 今更そんなことを言われても、私はここにいるのだぞ。五年だ、五年!」
侯は新聞を卓へ叩きつけた。
水差しの蓋が鳴った。侯は新聞を拾い直して大佐へ突きつけた。
「これを書いた男を連れてこい。私の前で読ませてやる。声に出してな!」
「その者を連れてくる船がございましたら、私どもを乗せていただきたいものですが」
「君はそういうことばかり言う! 腹が立たんのか!」
「立っておりますとも。だから持ってきたのです。私一人で読んでいても、誰も返事をしてくれませんので」
侯は新聞を持ったまま口を閉じた。
大佐の顔をしばらく見て、空いた椅子を顎で示した。
「座れ。いつまで突っ立っておる。そちらは昼になると日が差すぞ。もう少しこっちへ寄せろ」
サン=クレールが椅子を寄せて上着を脱ぐと、侯は戸口にいた従僕を呼んだ。
「いつもの酒を二人分だ。果汁は入れずに持ってこい。こちらでやる」
濡れた布を巻いた酒瓶と、小さな柑橘を切った皿が運ばれてきた。
侯は注がれた地酒に実を搾り、ひと口飲んでからもう一切れ取った。サン=クレールも袖を折り返し、自分の杯へ果汁を足していた。
侯は足台を引き寄せ、またブランデン紙を広げた。
「しかし、よりにもよってライフェンベルクか。忌々しい。ほかに参謀はおらんのか、あの国には」
「おるのでしょうが、わざわざ我々の目に入るのはあの男ばかりですな」
「『沈黙の天才参謀』とは。惚けた男が随分と立派になったものだ」
侯は挿絵を見て顔をしかめ、新聞を大佐へ押しやった。
「君、これも腹が立つ。こんな顔だったか?」
「もう少し、ぼんやりしていたように思います」
「そうだろう! あの顔を思い出すと、今でも……ええい、そちらへ向けておけ!」
「……最後に会った時も、そうでしたな。本国へ召還される前に、あの男へ挨拶をしたのですが」
大佐は挿絵を見て首をすくめた。
「まるで他人事でした」
「それで引き下がったのか? よく殴らずに済ませたな。私なら、その場で怒鳴っておるぞ」
「本当に分かっていないように見えたものですから」
侯はまた挿絵が目に入ったらしく、新聞を大佐へ向け直した。
「それが見ろ、今やこの有様ではないか!」
大佐は口元へ手をやった。
侯はそれを見て鼻を鳴らし、新聞の本文へ目を戻した。
「今度は中佐だ。……何だ、まだ君より下ではないか。君は大佐だぞ」
「その上ベルヴァーニュ南洋駐屯軍司令官閣下ですからな。もっとも、司令部将校は私だけですが」
「私など南洋における皇帝陛下の全権委員だぞ。見ろ! この広大な海は我々の土地だ!」
海から来た風が日除けを膨らませた。
涼しかったのは一瞬で、すぐに椅子の背へ汗が滲んだ。
侯は手巾で首を拭った。
「初めの年には、次の雨季までには帰れると思っていた。君も覚えているだろう。新しい書記官が来るたびに、本国で何か聞いておらんかと尋ねたものだ」
「最初の書記官は帰りました。次の者も。今の者は、この前来たばかりですから」
「その男まで見送るのは御免だ。まったく、どいつもこいつも、着いた時には海の色に感心しおる」
入江では郵便船の脇を小舟が離れた。
侯はそれを見送り、卓へ向き直った。
「だが、ハイゼンベルクも負けたのなら、本国の連中も少しは考え直すのではないか」
「ええ、本国も我々のことを思い出したようです」
サン=クレールは新聞の下から封書を抜いた。
宛名には、ベルヴァーニュ帝国南洋諸島総督兼皇帝陛下全権委員、アルジュー侯爵閣下とあった。
侯は差出人を見ると背を起こし、卓の新聞を脇へ押して中の紙を広げた。
「外務省か。……『クラウス・フォン・ライフェンベルクの人物及び能力について』……」
侯の目が行を追った。
「『直接折衝の経験を有する貴官並びにド・サン=クレール大佐に、詳細な所見の提出を求める』……それは五年前に書いただろう!」
「今回は当時の言動に加えて、個人的な印象も詳しく述べよと。今頃になって、あの男が何を考えていたのか気になったのでしょう」
「私たちが何も考えずにやられたと思っていたからだ! 相手が天才になったら、ようやく話を聞く気になったか!」
侯は紙を裏返した。
裏には何もなく、もう一度表へ戻した。
「……これで全部か」
「はい、報告は次の本国便で送付せよとあります」
「持参せよとは書いていないのか。直接説明を求めるとか、そういうことは」
「私も探しましたが、ありませんでした」
侯は口を開きかけた。
大佐は封筒の折れた角を指で押さえていた。
「……君もか」
「ええ。二度ほど」
侯は書面を卓へ置いた。
しばらくして、また持ち上げた。
「ベルソールへ呼べばよいではないか。聞きたいことがあるのだろうに」
「まったくです。こちらも五年分、話が溜まっております」
「全部聞かせてやれ。ライフェンベルクの話が済んでも帰すな!」
山の方が暗くなっていた。
サン=クレールが新聞を寄せたところへ、日除けを大粒の雨が叩いた。庭の椰子がざわめき、露台の端から濡れていく。
日除けの継ぎ目から雫が落ち、侯は椅子を少し引いた。
「ここの雨漏りは直させたはずだぞ」
「先月は反対側でした。こちらは去年も」
「まったく、覚えたくもないことをよく覚えるようになったものだ」
雨で入江が見えなくなった。
葉を打つ音が大きくなり、二人は少し声を張った。
「……所見の方は、どう書く」
「本当に何も分かっていないように見えた、と書くことになりますな。正直に申し上げるなら」
「……そんなものを送れば、我々はあと五年ここだぞ。返事には、対面での説明を希望すると書いておけ。君の分にもだ。私だけが帰りたがっているように書くなよ」
「承知しております。私の方からも申し上げるつもりでした」
侯は手巾で額を拭い、そのまま顔を覆った。
「皮肉なものだ。戻るためにはライフェンベルクの活躍を祈らねばならんとはな」
雨樋から水が溢れた。
サン=クレールは、卓の端に残っていた新聞を膝へ上げた。