面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
プロローグ 陸軍高等軍学院
統暦七十八年、一月。
クラウスは統帥府の作戦課課長室で二枚の書類の前に立っていた。
「陸軍高等軍学院の教官と、近衛第一師団の首席幕僚。君なら、どちらを希望するかね」
クラウスはエッゲン准将の顔を見た。
「……私が選んでよろしいのでしょうか」
「そう伝えたつもりだが。どちらの配属も可能だ。君の希望を聞いてから手続きを進めることになっている」
差し出された紙には、それぞれの職と、クラウスの姓名が記されていた。
近衛第一師団の方を一度読んでから、軍学院の紙へ戻った。
「軍学院では、何を教えることになるのでしょうか」
「担当する講義の詳しい内容は、向こうと相談して決めたまえ。学院からも要請が来ていてな。戦役の報告を読むだけでは分からんこともあるので、是非、本人から話を聞きたいそうだ」
「では、できれば軍学院へ伺いたく存じます」
「近衛の方はよいのかね」
准将がもう一枚の紙を指で叩いた。
クラウスはそちらにも目を落としたが、読むべきところは先ほどと同じだった。
「……はい」
「近衛第一師団の首席幕僚だぞ。そこで経験を積めば、その先の配属も随分と違ってくる。少しくらい考えてから返事をしてもよかろう」
「私には軍学院の方が向いているのではないかと」
軍学院でのことなら、まだ記憶にある。
教本を読み直して、説明する順番を考えることもできそうである。分からないことがあっても、講義までに調べておけばよい。
近衛と聞いて思い出すのは、王宮の大広間と、こちらの返事を待っておられた陛下の顔だった。
師団で勤務すれば毎日お目にかかるというわけでもないのだろうが、今はまだ進んで近くへ伺いたい気分にはなれなかった。
「まあ、君はそう言うだろうと思っていた」
「御配慮いただき、ありがとうございます」
「礼を言うのは、理由を聞いてからでも遅くはないぞ。統帥府総長閣下は、しばらく君を余計なことのできない場所へ置いておきたいのだそうだ」
クラウスは顔を上げた。理由は、わざわざ考えるまでもなかった。
「また御前で何か言い出されても困るし、どこかの司令部へやれば、今度は何を決めて帰ってくるか分からん。軍学院で学生の相手をしている間くらいは、大人しくしているだろうとな」
「私も、そのつもりでおります。必要な講義をきちんと務めれば、それでよいのでしたら」
「そのつもりだったのは、今までの仕事も同じではないのかね」
そう言われれば、返事のしようがなかった。
最初から大層なことをするつもりで出かけた仕事など、一つも思い当たらない。
「では、軍学院で返事をしておく。赴任は春だ。それまでに向こうと打ち合わせて、講義の準備をしておきたまえ。正式な辞令は、明日こちらへ取りに来ればよい」
「承知いたしました。お手数をお掛けいたします」
敬礼すると、准将は顔を上げた。
「もし軍学院でも勲章を頂くようなことになれば、その時は我々の負けでいい」
口元は少し緩んでいたが、こちらから笑ってよいものかは分からなかった。
それでもなんとか笑みの形だけは作った。
「……そのようなことには、まずならないと思いますが」
「私もそう思っていた。ルサントの折も、ハイゼンベルクの折もな」
准将は書類を閉じた。
クラウスはもう一度頭を下げてから、課長室を出た。
◆
春になり、クラウスは陸軍高等軍学院へ赴任した。
入学式の朝、門を通ると、歩哨が通行証を見るより先に敬礼した。
視線は、胸に提げられた勲章へ向いていた。
「お待ちしておりました、中佐殿」
「……ありがとうございます」
出しかけていた通行証を、それでも一度見せてからしまった。
玄関へ向かっていた将校たちの一人が振り返り、隣の者へ何か言った。二人とも足を止めて敬礼するので、クラウスも答礼をした。
その先でも、誰かの側を通るたびに何度も同じことになった。
玄関で外套を預けると、教務のヘンチュ少佐が迎えに出てきた。
「おはようございます。学院長がお待ちですので、まずはそちらへ御案内いたします。鞄もこちらへお預けください」
「ありがとうございます。少し早く着いてしまいましたが、御都合はよろしいのでしょうか」
「はい。お着きになったらすぐにお通しするよう、申しつかっております」
ヘンチュ少佐について階段を上がった。
クラウスが学生だった頃と、廊下の掲示板の位置も、階段を上がったところにある大きな地図も変わっていなかった。
「ライフェンベルク中佐がお見えです」
「おお、入ってもらいたまえ」
扉が開くと、机の向こうにいた老将が立ち上がった。
白い口髭をきれいに揃えた、頬のふっくらした人だった。机を回ってこちらへ来るので、クラウスは敷居を越えたところで敬礼した。
「クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐、着任の御挨拶に伺いました」
「うん、ライフェンベルク君。久しぶりだね。懐かしい、卒業式で答辞を読んでくれて以来かな。これからは教官としてよろしく頼むよ」
学院長であるフーゴ・フォン・レンツ中将は返礼を済ませると、その手をクラウスへ差し出した。
握手をしている間も、にこにことこちらを見ている。
「総長から君の了承を得たと聞いて、ほっとしたよ。近衛からも話があったそうだから、難しいかもしれんと思っていてね。さあ、座りたまえ。式まではまだ少しある」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。ただ、教官を務めるのは初めてですので、何かと御面倒をお掛けするかと存じます」
「最初は皆そうだ。講義の進め方なら、ほかの教官にも尋ねるといい。私でも構わないよ。もう、担当の打ち合わせは済んだのかな」
「はい。参謀勤務について、起案と報告の扱いから始める予定でおります。教材も、いくつか用意して参りました」
「それはありがたい。君が中央で実際にどう仕事をしてきたか、その辺りを是非教えてやってほしい。学生たちにも、統帥府で働きたいという者は多いからね」
レンツ中将は卓の茶器へ手を伸ばした。
クラウスが腰を浮かせると、そのままでよいと空いている手を振った。
「君の赴任を知らせてから、教務にも随分と問い合わせが来ているそうだ。担当は何か、何年の講義に出られるのかと。そうだったね、ヘンチュ君」
「はい。上級学年からも聴講の希望が出ております。時間割が重ならなければ、ということで返事をしておりますが」
扉の脇にいたヘンチュ少佐が答えた。
クラウスは差し出されたカップを受け取ったまま、そちらを見た。
「……上級生の方も、ですか」
「中佐殿が講義をなさると聞いて、わざわざ教務まで確かめに来た者もおりましたよ」
ヘンチュ少佐はにこやかに続けた。
クラウスの講義範囲は、上級学年なら既に教わっているはずだった。
用意してきた教材を思い返した。同じことをもう一度聞かせるだけにならないだろうか。
「御期待に添えるよう、努めます。ですが、最初から戦役のお話ができるかどうかは……」
「急がなくていいとも。せっかく来てもらったのだから、順を追って教えてもらおう。学生には私からも話しておくから、君は予定どおりに進めてくれたまえ」
そう言われて、ようやく茶を一口飲んだ。
教本の初めからでは困ると言われたら、今夜また用意し直さなければならないところだった。
「ありがとうございます。それでしたら、少し安心いたしました」
「それから、今日の式で一つお願いがあってね。新任の教官を代表して、学生へ挨拶をしてもらえんかな」
カップを下ろした。
ヘンチュ少佐がこちらへ向き直った。
「急に申し訳ございません。ほんの二、三分で結構です。教官の御紹介に続いて、お話しいただければと」
「……何も用意してきておりませんが。どのようなお話をすればよいのでしょうか」
「入学のお祝いと、これから君の講義で何を教えるか。そのくらいでよいよ。今、私に聞かせてくれたように話してもらえれば、学生も喜ぶからね」
レンツ中将は自分の茶を飲み、カップを置いてから付け加えた。
「いや、当日に頼むのは気の毒だったね。まあ、もしよければでいいんだ、ひと言だけでももらえたらと思ってね。どうだろうか」
「……承知いたしました。あまり長いお話はできませんが、それでよろしければ」
「ありがとう。では、お願いしよう」
学院長はヘンチュ少佐へ頷いた。
二、三分なら、何とかなるだろうか。
祝いの言葉を述べ、自分の名と担当を伝える。それで半分くらいにはなるかもしれない。
◆
大講堂の扉が開くと、学生席の方から椅子の鳴る音がした。
何人かが立ちかけ、少佐が片手を上げて着席を促した。レンツ中将は通路に近い学生へ声をかけながら前へ進み、クラウスもその後についていった。
前へ向き直った者も、こちらが横を通ると目を向けてくる。
正面には学院の旗が掛けられていた。その下に演台があり、脇には教官たちの椅子が並んでいる。
「皆さん、こちらがライフェンベルク中佐です。今日から御一緒してもらうことになったので、よろしく頼みますよ」
レンツ中将が紹介すると、教官たちは次々に立ち上がった。
クラウスも挨拶を返した。担当する科目と名前を覚えようとしている間に、次の人から握手を求められる。
「先の戦役の報告を拝読しました。いずれ、御話を伺えればと思っていたところです」
「私の方こそ、色々と教えていただくことになるかと存じます。よろしくお願いいたします」
最後に挨拶をした大佐が、学院長との間にある椅子を勧めてくれた。
腰を下ろして軍帽を膝に置くと、少佐から式次第を手渡された。
講堂の扉が閉まり、式が始まった。
号令に従って立ち、また座る。
レンツ中将が演台へ立つと、クラウスも学生席へ向き直った。
入学を祝う言葉に続いて、これまで部隊で任務に就いてきた学生たちへの労いがあった。ここで学ぶ間は存分に本を読み、分からないことは教官に尋ね、互いの経験も聞いておくようにと、話は続いた。
先ほど学院長室で聞いたのと同じ、ゆっくりした声だった。
クラウスは耳を傾けながら、自分の挨拶で何を話すか考えた。
入学を祝う言葉も、勉学への励ましも、既に学院長が仰っている。
二度言ってはいけないわけでもないのだろうが。
学生席には、中尉の襟章が多く見えた。少尉もいる。
この中からすぐ統帥府に採られるのは、おそらく卒業時の成績が上位に入った数人だけだ。
今はその試験を作る側にいるのだから、どうにも落ち着かなかった。
学院長の訓示が終わり、教官の紹介になった。
名を呼ばれた者から立ち上がり、担当する科目を告げられて座る。
クラウスも軍帽を持ち直して、自分の番を待った。
「続いて、本年より参謀勤務についての講義を担当される、クラウス・フォン・ライフェンベルク中佐を御紹介いたします」
立ち上がると、学生席から拍手が起きた。
それまでの教官の紹介では、拍手はなかった。
隣の大佐も手を叩いている。学院長までそうしていたので、クラウスは一度頭を下げた。
なぜか拍手が大きくなった。
どう反応するべきか迷っていると、ヘンチュ少佐が紹介を続けた。
学院を首席で卒業し、統帥府に配属されたこと。ルサントでの従軍、宰相府での勤務、それから先のハイゼンベルク戦争における功績。
自分のことなのに半分くらいは身に覚えのない話で、最後には勲章の名まで読み上げられた。
最前列の学生が隣の者に頷いた。
後ろの席では、こちらを見るために少し身体を傾けた者もいた。
「それでは、新任教官を代表して、ライフェンベルク中佐より御挨拶をいただきます」
軍帽と式次第を椅子へ置き、演台へ向かった。
また拍手が起きた。前列の端では、膝に手帳を開いた学生もいる。
クラウスは演台の縁へ両手を添え、静まるのを待った。
「御入学、おめでとうございます。クラウス・フォン・ライフェンベルクです。この春から、参謀勤務についての講義を担当いたします」
声は思っていたよりもよく響いた。
学生席の後ろまで届いているようだったので、そのまま続けた。
「私も以前はこちらで学んでおりました。今日は教官として御挨拶をしておりますが、先ほどから皆様の座っておられる辺りを見て、随分と落ち着かない気分でおります。あちらの窓際には、よく座っておりましたので」
そこに座っていた中尉が背筋を伸ばしたので、クラウスは演台へ目を戻した。
別にそういう意味で言ったわけではないのだが、彼はどうにもそう受け取ったようだ。
「これまでの勤務についても御紹介いただきました。戦役のお話をする機会もあると思いますが、講義では、命令書の起案や報告の扱いといった仕事から始めるつもりです。統帥府でも、各地の司令部へ伺った時にも、そうしたものを読んだり書いたりしている時間が、随分と長くありました」
手帳を開いていた学生が何か書きつけた。
まだ書き留めるようなことは何も言っていない気がしたが、続きを待っているのだろう。
「教材を揃えておりますと、自分が最初に何を間違えたか、どなたに直していただいたかを、よく思い出します。先輩の参謀に教わったこともあれば、命令を受け取った部隊から聞き返されて、ようやく気づいたこともありました。その辺りも、実際の書類を見ながらお話しできればと思っています」
手帳に書きつける手は、止まっていなかった。
「教える側になるのは初めてですので、説明が足りないこともあるかもしれません。分かりにくいところは、遠慮なくお尋ねください。これから、よろしくお願いいたします」
頭を下げ、拍手を聞きながら椅子へ戻ると、隣の大佐が軍帽と式次第を取って渡してくれた。
礼を言って受け取り、膝へ戻した。
レンツ中将が少し身を寄せてきた。
「いやあ、ありがとう、ライフェンベルク君。私も一度、君の講義を聴かせてもらおうかな」
「……閣下も、ですか」
「うん。空いている席でよいからね。時間が合う日に伺うよ。君は随分と話すのが上手いからね」
たぶん、そんなに期待されたところで教本をなぞるだけの講義にしかならないと思うのだが。
とはいえそう正直に言うわけにもいかないので、クラウスは承知しましたと答えて、式次第へ目を落とした。
式の残りは、座って聞いているだけで済んだ。
預けた鞄を取りに行こうとしたところで、後ろから名を呼ばれた。
「ライフェンベルク中佐殿。御挨拶を申し上げてもよろしいでしょうか」
振り向くと、最前列に座っていた中尉がいた。
その隣に少尉が二人、さらに後ろにも何人かいる。
「ええ、もちろん。どうぞ」
「本日のお話を伺って、ますます御講義が楽しみになりました。中佐殿に直接御指導いただけるとは、入学が決まった時には思ってもおりませんでした」
中尉が名乗り、所属していた連隊を告げた。
クラウスも改めて挨拶を返した。隣の少尉はほとんど間を置かずに続けた。
「カール・アルバース少尉であります! 自分は卒業後統帥府での勤務を希望しております! 中佐殿が在学中に、どのような勉強をなさっていたのかも、是非伺いたいと思っておりました!」
「私が、ですか。……あまり特別なことはしておりませんが……」
「でしたら、何かお勧めの教本などはございますか! 講義が始まる前に読んでおきたいと思います!」
何を使うつもりだったか思い出し、教本の名を挙げた。
アルバース少尉が手帳を出すと、隣にいた者も同じように取り出した。
「学院で配られるものですから、今から買わなくても大丈夫だと思います。ほかに必要なものがあれば、その都度お伝えしますので」
「は! ありがとうございます! あの、それから、アーベルニッツについて――」
ヘンチュ少佐が、玄関から鞄を持ってきてくれた。
クラウスが礼を言って受け取ろうとすると、ヘンチュ少佐は集まった学生たちを見て、そのまま壁際へ下がった。
どうにも、まだここで話をしなければならないようだった。