面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
バルク家の小客間には、先に三人がいた。
アンナ嬢と、初めて見る男性。それから、できれば今日はお会いせずに済ませたかった人である。
「……宰相閣下。本日は、こちらに?」
「ああ。今日は休暇だ」
クラウスは入口で足を止めた。
休暇。聞き間違いではないと思う。言葉の意味も分かるのだが、この人の口から出てきたせいで、別の意味があるのかと考えてしまった。
「何か、急な御用でもございましたか」
「休みだと言ったろう」
「……左様でしたか」
この人にもそういう日があったらしい。失礼ながら初めて見た気がする。
自分が休んでいる日にも必ず向こうは働いていたので、休まない人なのだと思っていた。
「お待ちしておりました、クラウスさま。どうぞ中へ。そんなところで立っていらしては、皆でお迎えに出なければならなくなりますわ」
アンナ嬢に言われ、ようやく敷居を越えた。
窓の近くに座っていた男性が立ち上がる。四、五歳くらい年上だろうか。茶色の髪と短く整えた髭が温和な顔に似合っていて、襟元のゆったりした上着を着ていた。
「初めまして。マルティン・フォン・バルクです。君の話は、父と妹からお話はよくよく伺っているよ」
「クラウス・フォン・ライフェンベルクです。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
「一番上の兄です。今日は久しぶりに来ておりますので、ぜひ御紹介したくて」
アンナ嬢が隣から言った。
差し出された手を握ると、マルティン氏は空いている方の手も軽く添えた。
「妹がいつもお世話になっているようで。父の方は……まあ、お世話を掛けていると思いますが」
「お蔭様で、色々と勉強させていただいております」
当人がいるところで何と答えればよいのか考え、結局いつもの返事になった。
マルティン氏は少し笑っただけで、それ以上は訊かなかった。
勧められた椅子へ座った。アンナ嬢が向かいに、マルティン氏がその隣に腰を下ろす。宰相は一人だけ、肘掛けの大きな椅子で茶を飲んでいた。
机も書類もないところで見ると、随分と寛いでいるように見える。
表情だけがいつもと変わらないので、楽しんでいるのかはわからなかった。
「学院のお勤めはどうかな。新しいところでは、何かと気を遣うだろう」
マルティン氏が尋ねた。
「以前、学生として通っていたところですので、その点は少し楽です。もっとも、教える方は初めてですから、まだ慣れませんが」
「自分で分かっていることを人に説明するのは、難しいものだからね。それでもアンナは、君ならきっとよい先生になると言っていたよ」
「兄上。わたしは、そのような言い方はしておりません」
「そうだったかな?」
アンナ嬢がこちらへ目を向けた。
「……兄は、わたしの話を何でもそのまま人に伝えますので」
「悪い話はしていないつもりだけどね、アンナ」
本当に少し申し訳なさそうにしていた。
父親の方を見ると、こちらのやり取りには加わらず、菓子の皿から二つ目を取っている。
顔立ちは、見れば確かに似ているところがある。
しかし、話をしている間の気分が随分と違った。言葉のどこに次の仕事が隠れているのか探さずに済む。
「マルティンさまは、普段はどちらにお勤めなのですか」
「そう畏まらなくてもいいよ、クラウス君。私は役所にも軍にも入ってなくてね。領地の方を少し見ているくらいのものだよ。父の仕事を見て育ったもので、自分にはどうも務まりそうにないと思ったからね」
「……なるほど」
「軍も、どうもね。父には一度くらい試してみろと言われたんだけど、試すために部隊へ御迷惑を掛けるのもどうかと」
宰相は何も言わなかった。
マルティン氏も父親の顔色を窺う様子はなく、茶を飲んでいる。
そういう選び方もできたのか。
少し羨ましかったが、今から自分もそうするというわけにはいかないだろうなとも思った。それに自分の場合、軍人になるかどうかを考えるより先に、騎兵になるための稽古が始まっていた。
「父上、それは三つ目です」
アンナ嬢が言った。
いつの間にか宰相の手が、また菓子の皿へ伸びていた。
「小さいものだろう」
「大きさのお話はしておりません。お昼にも随分と召し上がったと聞いております」
「茶を飲みに来て何も食わん方がおかしい」
「もう、二つ召し上がったでしょう」
宰相は三つ目を自分の皿へ載せた。
アンナ嬢が何か言いかけ、兄の方へ目を向けた。マルティン氏は小さく頷き、菓子の皿をクラウスの方へ寄せてくれた。
「どうぞ。妹が朝から台所へ何度も頼みに行ってましたからね。焼き上がりを待っていたのは、父だけではありませんよ」
「兄上」
「ああ、これは言ってはいけなかったか」
今度は少し楽しそうだった。
クラウスは礼を言って一つ取り、アンナ嬢がこちらを見る前に口へ運んだ。
◆
しばらくは普通の茶会だった。
マルティン氏が庭の木について話し、アンナ嬢が、父のせいで去年植え替えることになった花壇の話をした。宰相は通り道に張り出していた枝を切らせただけだと言ったが、二人とも最後まで聞かなかった。
こうしていれば、家族というのはこういうものなのかもしれないと思えた。
ただ、宰相が黙ってこちらを見るたびに、何か返事をしなければならないような気がする。さっきから目が合うたびにカップを持ち上げていたので、茶がもう半分もなかった。
「……閣下。本日は、私に何かお話がおありなのでしょうか」
とうとう堪えきれずに訊くと、宰相は菓子の欠片を払った。
「ああ」
やはり、何か用があったようだ。
この人の行動はだいたいこのようなものである。
「何でしょうか」
「結婚はいつにするのかね」
クラウスはカップを持ったまま、宰相を見た。
隣でアンナ嬢の椅子が鳴った。
「父上!」
「いつまで茶を飲んでいるつもりだ。戦争も終わった。配属先も決まった。日取りくらい決められるだろう」
なるほど、仕事の話ではなかった。
それは確かなのだが、何も安心はできなかった。
「……まだ、具体的には御相談しておりません」
「だから相談したまえと言っておる。君らは二人で会って何を話しているのだ」
「父上のお話も、随分としておりますわ! 主に、こういう行動について!」
アンナ嬢が少し乱暴に答えた。
それでも宰相は眉一つ動かさなかった。
「私の話はせんでいい。私が結婚するわけではない」
「ええ、ええ、そうでしょう。でしたら、わたしたちに話をさせてください」
「話す時間なら十分あったろう。ライフェンベルク、レオポルト伯には伝えてあるのか」
急にこちらへ戻ってきた。
「アンナ嬢とお会いしていることは、お伝えしております」
「それで?」
「……よろしくお伝えするように、と」
「ならば、アンナを連れて挨拶くらいはいけばよい」
「父上、ですから――」
「お前にも言っておる。嫁ぐ家の者と顔も合わせずに済ませるつもりか。伯だけでなく、叔母君もおられるのだろう。手紙で済むことと、顔を出すべきことがある」
言っていることには、確かに一理あった。
ただ、いま問題になっているのはそこではない。
「父上。お二人も、これからお話しになるでしょうから」
マルティン氏が穏やかに口を挟んだ。
宰相はそちらを一度見てから、またこちらへ向き直った。
「学院なら、休みも前もって分かるはずだ。講義をしない日もあるだろう。軍務を理由にいつまでも先へ延ばすような話ではない」
「ええ、それは……そうなのですが」
「秋にするなら秋、来春にするなら来春と決めれば、こちらもそれに合わせて動ける。客を呼ぶにも場所を決めるにも、まず日が要る。何も決めずに待っておっても――」
「父上、もう結構です」
アンナ嬢の声が少し低くなった。
「まだクラウスさまと何も相談していないうちから、日取りだの、客を呼ぶだのと、お一人でどこまでお決めになるおつもりですか」
「私は決めておらん。君らで決めろと言っておる」
「でしたら、そのために黙っていてくださってもよろしいでしょう!」
クラウスはカップを戻した。
茶はまだあったが、このまま飲めそうにはなかった。
マルティン氏が立ち上がった。
「父上、少し庭へ参りましょう。母上が、午後には歩いていただくようにと仰っていました」
「後にしろ。今は話をしておる」
「ええ、お二人が。私たちは外へ出ましょう」
宰相の傍らへ回り、椅子の背に掛けてあった上着を取った。
そのまま広げて待っている。
「マルティン」
「はい。どうぞ、お立ちください。上着はこちらです」
怒っているわけでも、からかっているわけでもなさそうだった。
父が座っているので、立つまで待っている。ただそれだけという顔をしていた。
宰相は息子を見上げ、やがて面倒そうに立ち上がった。マルティン氏が片方の袖へ腕を通させ、もう片方も手伝う。
「ライフェンベルク。返事を待っているうちに、また君がどこかへ送られても困るのでな。早いうちに――」
「分かりました、父上。続きは私が伺いますから」
マルティン氏は上着の襟を直すと、そのまま父の肘へ手を添えた。
扉の方へ促され、宰相が一歩動いた。
「お前に話しても仕方がなかろう」
「そうですね。では、庭までは黙って歩きましょう。失礼、クラウス君、アンナ。どうぞごゆっくり。父は私と一緒におりますので」
こちらへ頭を下げ、マルティン氏は父を連れていった。
クラウスが立ち上がりかけると、空いている手で座っているように示された。
扉が閉まる間際まで、宰相の声がしていた。
「何をそんなに遠慮する。私はただ――」
「廊下です、父上。さあこちらへ」
足音が遠ざかっていった。
クラウスは、閉まった扉をしばらく見ていた。
マルティン氏は、たぶん軍に入っても自分よりよほど優秀だったのではないだろうか。
少なくとも、自分は宰相を話の途中で退出させたことはなかった。
◆
「……申し訳ありませんでした」
アンナ嬢が言った。
こちらへ向き直ってはいたが、目は父親の使っていた皿へ向いている。
「いえ。お兄様にも、お気を遣わせてしまいました」
「兄は慣れておりますから」
慣れもあるのだろうが、こちらが同じように上着を持って待っていても、先に書類を渡されそうだった。
アンナ嬢が鈴を鳴らした。
入ってきた女中へ、父と兄の茶器を下げ、新しい茶を持ってきてもらうように頼む。その間、クラウスも何か話そうと考えていたが、よい話題は浮かばなかった。
結婚の日取り。
それから、アウエンホーフへの挨拶。
宰相が口にしたことが順番に浮かんで、学院の話も、来る途中で見たものの話も、どうにも持ち出しにくい。
女中が皿を重ねる音がした。
「父は、何でも早く決めてしまえばよいと思っているのです。自分がそれで済むから、ほかの者も同じだと」
女中が出ていくと、アンナ嬢が口を開いた。
「ええ。以前も、君が返事をしないから先に手配したと言われたことがあります。まあ、結婚ではありませんでしたが……」
「でしょう? そのうえ、返事をする前にどんどんお話が進んでしまうのですから。あの人は本当に、一度くらい――」
そこで言葉が止まった。
クラウスも頷きかけたまま、次を待った。
「……お困りになりましたか」
先ほどよりも小さな声だった。
「ええと」
「結婚の、お話です」
アンナ嬢がこちらを見た。
自分も、そのことを考えていた。
それなのに訊き返してしまったのは、どこから答えるべきか決められていなかったからである。
「突然でしたので。何も申し上げられず、すみません」
「父には、わたしも腹を立てております。でも、その――お話そのものまで、お嫌だったのでしたら」
「いえ。それは違います」
今度は、考える前に答えた。
アンナ嬢が少し目を上げたので、続けなければならなくなった。
「僕は、あなたと結婚したいと思っています。ただ、まだきちんと申し上げていませんでしたから。閣下に先に言われて、何とお答えしたらよいのか分からなくなってしまいました」
言い終えてから、膝の上に重ねていた手をほどいた。
アンナ嬢はすぐには答えなかった。
卓の縁に触れていた指を引き、膝へ戻す。その手元を見ていると、こちらまで落ち着かなくなった。
「……わたしも、そのつもりでお会いしておりました」
少し俯いたまま、そう言った。
「前にも申し上げたと思いますけれど。あれだけ言いましたのに、まだ伝わっていなかったのかと、少し気にしていたのです」
「伝わっていました。僕の方が、ちゃんとお返事をしていなかったのだと思います」
「嬉しいとは、仰ってくださいましたね」
「はい。嬉しかったので」
ほかに言いようがなかった。
あの時も同じことを思い、同じように答えた気がする。
二人とも、それきり黙った。
何を、どの順番で決めればよいのだろう。
軍の仕事であれば、似たような書類を探すところから始められるのだが。
「……まず、御祖父様へ御挨拶に伺いたいです」
アンナ嬢が言った。
「父はあのように申しましたけれど、わたしも、一度お目にかかりたいと思っておりました。クラウスさまのお話に出てくる方ですから。叔母様にも」
「ええ。ぜひ、お越しください。祖父も喜ぶと思います。叔母は、たぶん、僕が帰る時より色々と用意するでしょうね」
「お邪魔になりませんか」
「それはありません。ただ、出発の前に食べ物のお好みを教えていただけますか。何も伝えないと、どれがよいか選べるようにと、全部出してきますので」
アンナ嬢が少し笑った。
こちらも、ようやくいつもの声で話せた気がした。
「どなたかと違って、親切な理由なのですね」
「叔母には親切にしてもらっています。食べ終わるまで、少し時間は掛かりますが」
「では、おなかを空かせて伺います。御祖父様は、どのような方なのですか」
「祖父は……」
庭仕事の途中で出てきて、手紙で知らせた内容をもう一度聞こうとする祖父の顔が浮かんだ。
結婚すると伝えたら、何と言うだろうか。
いつも無口な方なのに、そう想像すると、不思議と笑っている顔しか思い浮かばなかった。
「言い方が少し厳しいことはありますが、話は聞いてくれます。騎兵としては恐ろしい方だったようですが」
「まあ。お目にかかるのが、少し楽しみになりました」
扉が叩かれ、新しい茶が運ばれてきた。
アンナ嬢は少し待ってから、ポットを取った。
「学院のお休みは、いつ頃お分かりになりますか。わたしは母と、付き添ってくださる方のことも相談しておきます」
「次に出勤した時に確認します。アウエンホーフまでは片道二日ですので、何日か続けて休みを頂かなければなりません。祖父へも、先に手紙を出しておきます」
「わたしからも、一筆添えてよろしいでしょうか」
「もちろんです。叔母も読みたがるでしょうから、そちらへもお伝えしておきます」
茶を受け取った。
持ち手がまだ熱かったので、すぐには口へ運ばず、卓へ置いた。
「それから……式は、来春頃ではいかがでしょうか」
アンナ嬢がポットを戻す手を止めた。
「来春、ですか」
「御挨拶に伺って、両家で相談する時間も要るでしょうから。ただ、僕はそういう支度にどれほど掛かるのか、よく分かっていないのですが。もっと早い方がよろしければ」
「いいえ。来春でしたら、わたしもよいと思います。母にもそう申して、何を用意すればよいか聞いてみます」
話が一つ決まった。
具体的な日まではまだ先だが、来春になれば、この人と結婚する。
向かいのアンナ嬢は、自分の茶を注いでいた。
カップを手に取ったところでこちらと目が合い、少しだけ笑った。
窓の外から、宰相の声が聞こえた。
「その枝は去年も切らせたはずだ」
「また伸びたのでしょう。父上、あちらまで歩きませんか」
アンナ嬢が窓へ顔を向けた。
クラウスもつられて見たが、生垣の向こうに上着の肩が見えるだけだった。
「結婚してから住む家のことまで父に聞かせると、明日には候補を持ってこさせそうです」
「それは、ありそうです」
「……ひとまず、クラウスさまのご実家への挨拶の日取りを決めましょうか」
クラウスは内ポケットへ手を入れ、手帳を出した。
「そうしましょう。候補をいくつか挙げて、学院に確かめてみます」
「では、わたしも予定を持ってまいります。少しお待ちになってくださいね」
アンナ嬢が立ち上がった。
扉へ向かいかけて、卓へ戻ってくる。
「どうかなさいましたか」
「いいえ。これも、持っていこうと思って」
父親の座っていた椅子の脇から、銀の小さな菓子皿を取り上げた。
まだ一つ残っている。
「兄が散歩を続けてくれているうちに、片づけておきます」
クラウスは手帳を開いたまま頷いた。
空白の頁に、アウエンホーフと書いた。
少し迷ってから、アンナ嬢と、と書き足した。