気が付けば私以外の皆、電池になってしまった   作:最高司祭アドミニストレータ

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明日を乗り越えれば、土日お休み! 頑張るだってばさ!


観測者は今日も高みの見物

 皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「神出鬼没のポップコーン泥棒」とでも呼んでくれたまえ。

 

 前回のスミスからの執拗な殺害予告に背筋を凍らせた私は、一切の物理的干渉を受けない絶対安全な観測モード——「スペクター・モード」を活用し、マトリックス内の様々な重要地点を飛び回っていた。

 

 このモードの素晴らしいところは、私の存在が完全にコードの隙間に隠蔽されることだ。エージェントにも見つからないし、誰の干渉も受けない。私はただ、透明な幽霊のように、歴史的な名シーンをかぶりつきで鑑賞できるのだ。

 

 さて、現在の私の座標は、マトリックス内にある古びたアパートの一室。キッチンから漂ってくる、焼きたてのクッキーの甘く香ばしい匂いが、私の人工ボディの嗅覚センサーを心地よく刺激している。スペクター・モードでも匂いや音は完璧に再現されるから、本当にそこにあるかのような臨場感だ…食べられないのは残念だが。

 

 この部屋の主は、かつてアーキテクトが「人間の心理を探るため」に作成した直観プログラム——オラクル。

 

 黒髪をまとめた、恰幅の良い高齢の女性のアバター。彼女は大きなオーブンミトンをはめ、スラックスにプリント柄のブラウスという、どこからどう見ても「近所の親切なおばあちゃん」といった風情で、オーブンの前でクッキーを焼いている。

 

 彼女の待合室には、救世主の候補である「ポテンシャル」と呼ばれる不思議な子供たちが集まっていた。私はキッチンの入り口に浮遊しながら、待合室のソファで起きた出来事を観察した。スキンヘッドの少年が、ネオにスプーンを渡している場面だ。

 

 

『スプーンを曲げようとしちゃダメだ。それは不可能だ。代わりに、真実だけを理解しようとしなきゃ』

『何の真実?』

『スプーンは存在しない』

 

 

 その言葉と共に、ネオの姿が映り込んだスプーンが、まるで飴細工のようにぐにゃりと曲がった。マトリックスという仮想世界において、物質というものは存在しない。すべてはコードの羅列だ。だから、スプーンを曲げるのではなく、自分自身の認識を変えることで、世界そのものを書き換えることができる。

 

 ハッカーとしての直感と、救世主としての素質が交差する、非常に象徴的な瞬間。

 

 

「おおー、生で見ると結構感動するな」

 

 

 私は空中に浮かんだまま、誰にも聞こえない拍手を送った。そして、オラクルに呼ばれたネオが、緊張した面持ちでキッチンへと足を踏み入れた。ここからが本番だ。

 

 オラクルはオーブンからクッキーのトレイを取り出しながら、振り返りもせずにネオに声をかけた。

 

 

『そこに座ってと言いたいところだけど、どうせ座らないわよね。あと、その花瓶のことは気にしないで』

『何の花瓶?』

 

 

 ネオが戸惑って振り返った瞬間、彼の肘がテーブルの上に置かれていた花瓶に当たり、ガシャーン! と派手な音を立てて床に落ちて割れてしまった。

 

 

「あーあ、やっちゃった」

 

 

 私は空中であぐらをかきながら、クスクスと笑った。ネオが慌てて謝ると、オラクルは微笑んで「気にしないで」と言い、さらに深い問いを投げかけた。

 

 

『後であなたが本当に頭を悩ませることになるのは、「もし私が何も言わなかったら、あなたは花瓶を割っていたかしら?」ってことね』

 

 

 これぞ、オラクル特有の思考の迷路だ。彼女は未来を予知したから「花瓶に気をつけて」と言ったのか。それとも、彼女がその言葉を口にしたことによって、ネオが振り返り、花瓶を割るという「未来を創り出した」のか。

 

 選択と運命のパラドックス。アーキテクトのガチガチの論理には絶対に組み込めない、人間の非合理性を利用した見事な心理誘導である。

 

 ネオの顔に、明らかな混乱の色が浮かんだ。オラクルはタバコに火をつけ、キッチンの壁にかかっているラテン語の木製プレートを指差す。

 

 

『どういう意味か分かる? ラテン語で「汝自身を知れ」よ』

 

 

 そして彼女はネオの目や耳、手相を診るふりをしながら、彼にとって残酷な事実を告げた。

 

 

『才能はあるけれど、どうやら何かを待っているようね。次の人生、来世かもしれないわ』

 

 

 それは、ネオが「救世主」であることを明確に否定する言葉だった。

 

 

「…えげつないなぁ」

 

 

 私はオラクルの手腕に感嘆のため息を漏らした。彼女はネオが救世主であることを知っている。正確には、彼を救世主に「育てる」ためにここにいるのだ。

 

 だが、あえて否定する。なぜか? 

 

 人間は他人に「お前が救世主だ」と言われても、心の底からは信じられない。自分自身で「そうだ」と確信を持たなければ、真の力は目覚めないからだ。オラクルは、ネオの中にある迷いと依存心を断ち切るために、あえて突き放したのだ。

 

 ネオの顔に、安堵と、そして微かな失望が入り混じる。自分は特別な存在ではなく、ただの凡人だったのだと。オラクルの言葉責めはこれで終わりではなかった。

 

 

『あなたは選択を迫られることになる。片方の手にはモーフィアスの命、もう片方の手にはあなた自身の命。どちらかが死ぬことになる。どちらが死ぬかは、あなた次第よ』

 

 

 ズドンと。ネオの心に重い鉛が落ちる音が、私にまで聞こえた気がした。自分を信じ、命を懸けて救い出してくれた恩人の死か、それとも自分自身の死か。凡人であると宣告された直後に、究極の選択を背負わされる。ネオの瞳が揺れ、呼吸が浅くなる。

 

 

「すごいプレッシャーだ。スミスの取り調べなんて目じゃないほどの精神的負荷。オラクルの、怒らせたら一番怖いタイプだな」

 

 

 私は身震いした。アーキテクトが彼女を「システムの母」と呼ぶのも頷ける。人間の心の弱さを知り尽くし、それを利用して意図した方向へと誘導する手腕は、完璧な論理を誇る機械たちよりも遥かに恐ろしい。

 

 息を呑んで立ち尽くすネオに対し、オラクルはにっこりと微笑み、焼き上がったばかりのクッキーを差し出した。

 

 

『クッキーをひとつお食べ。これを食べ終わる頃には、すっかり気分が良くなっているわ』

 

 

 ネオは促されるままにクッキーを受け取り、オラクルのアパートを後にした。彼が去った後、キッチンにはオラクルだけが残された。彼女はタバコの煙をゆっくりと吐き出し、オーブンの中のクッキーを眺めている。

 

 

「…見事な誘導だったね、オラクル」

 

 

 私はスペクター・モードのまま、誰もいないはずのキッチンで彼女に語りかけた。もちろん、彼女に私の声は聞こえない。私はシステムから完全に隔離された観測者なのだから。

 

 …と思っていた。

 

 オラクルはゆっくりと振り返り、私の浮遊している空間——誰もいないはずの空中——に向かって、優しく、しかし確かな認識を持った瞳で真っ直ぐに微笑みかけたのだ。

 

 私は息を呑んだ。見えているのか? この完全なるステルス状態が。アーキテクトの冷徹な論理の網の目すら掻き潜るこの観測モードを、彼女は「直観」というプログラム特有の曖昧なアンテナで捉え、私の存在を正確に察知していたのだ。

 

 逃げるべきか。ログアウトのコマンドを叩き込むのは一瞬だ。しかし、それでは私が、彼女を恐れて尻尾を巻いて逃げたように見えてしまう。この全宇宙一の美少女たる私が、プログラムの分際に後れを取るなどプライドが許さない。

 

 

「…面白い。ならば、挨拶くらいはしておこうか」

 

 

 私はコンソールを操作し、スペクター・モードの隠蔽コードを自ら解除した。空気の波紋が揺れるようにして、緑色のデジタルコードがマトリックスの空間に再構築されていく。

 

 先日のスミスたちとの小競り合いで使った、前世のオレンジ髪のアバターではない。私が今この空間に顕現させたのは、現実世界の私そのままの姿——ゼロワンの機械たちから『オリジン』として絶対不可侵の扱いを受けている、あの姿だ。

 

 雪のように白いショートヘア、その毛先だけが不敵なピンク色に染まっている。右目が血のように赤く、左目が澄んだ空のように青いオッドアイ。感情の起伏を一切外に漏らさない、氷のように冷たく完璧な無表情の仮面。

 

 漆黒のスーツに身を包んだ私の姿がキッチンの床に降り立つと、周囲の空気が一変した。

 

 システム内に、圧倒的な特権階級のコードが展開されたからだ。エージェント・スミスが感じたような「不快なノイズ」ではない。マトリックスの最高意志決定機関であるデウス・エクス・マキナの保護下にある、純度百パーセントの「原点」のデータだ。

 

 その姿を見るなり、オラクルはオーブンミトンを外し、恭しく頭を下げた。

 

 

「これはこれは。デウス・エクス・マキナ様の寵愛を一身に受けられる、『オリジン』のアレックス様。まさかこのようなむさ苦しいアパートに直接お越しいただけるとは、システムの一部としてこれ以上ないほど光栄に存じます」

 

 

 彼女の言葉には、スミスのような敵意も、アーキテクトのような無機質な計算も含まれていない。ただ純粋な敬意と、予測不能な存在を前にした穏やかな歓待の意があった。

 

 

「顔を上げてくれ。私はただの通りすがりの観測者に過ぎない」

 

 

 私は完璧な無表情のまま、感情の乗らない声で答えた。

 

 

「仕事は順調そうで何よりだ」

「もったいないお言葉です。不完全な人間たちの心に寄り添うのは、時に骨の折れる作業ではありますが…彼らの選択を見守るのは、私の存在意義そのものですから」

 

 

 オラクルは微笑みを崩さず、先程ネオに差し出していたのと同じ、焼きたてのクッキーが並んだお皿を私に向けて差し出した。湯気が立ち上り、チョコレートチップとバターの甘い香りが視覚と嗅覚のデータを刺激する。私は躊躇することなく、その中から一つを手に取り、小さく齧った。

 

 サクッ、という完璧な食感のシミュレート。だが、味覚のデータは私の人工ボディの感覚とはどこか乖離している。スペクター・モードから簡易的に実体化しただけのアバターだからというのもあるが、やはり本物の食材が持つ「命の質量」が欠けているのだ。

 

 

「このクッキー美味しいものだな。味しないけど」

 

 

 私が淡々と言うと、オラクルは「あらあら」と少しだけ困ったように頬に手を当てた。

 

 

「それは残念です。仮想の甘さでは、オリジン様の舌を満足させることはできませんでしたか。現実世界での、豊かなお食事の記憶があるからでしょうね」

 

 

 彼女は私の本質を見透かしている。マトリックスという幻想に囚われない、真の現実を知る者としての私の立ち位置を。私は食べかけのクッキーを皿に戻し、オラクルの目を見据えた。

 

 この直観プログラムは、アーキテクトの作った「救世主システム」——つまりはマトリックスの崩壊とザイオンの破壊を無限に繰り返すという冷酷なリセットのサイクルを、裏からこっそりと書き換えようとしている。

 

 人間に選択を迫り、彼らを導くことで、いずれは「機械と人類の共存」という、システムには組み込まれていない新しい結末を模索しているのだ。

 

 

「オラクル。君はとても優秀なプログラムだ。人間の心を誰よりも理解している」

 

 

 私は無表情のまま、声のトーンをわずかに落とした。

 

 

「だが、君の役割を忘れるな」

 

 

 アーキテクトの目を盗んでコソコソと盤面を弄るのは構わない。それがネオという異常値をどう変化させるのか、観測者としては非常に興味深いエンターテインメントだからだ。

 

 だがもし、彼女の行動が私の平穏な生活、すなわちゼロワンの安定そのものを脅かすような事態になれば…話は別だ。オラクルは私の言葉の真意を正確に読み取ったようで、その温和な顔の奥に、確かな知性の光を閃かせた。

 

 

「肝に銘じておきます、アレックス様。私の目的は、あくまでシステムの…この世界のより良い均衡を見つけ出すことにありますから」

「ならいい。…これからもよろしく頼むよ」

 

 

 私はそう言い残し、自らのアバターのログアウト・シークエンスを起動した。視界が緑色のコードの奔流へと分解されていく中、オラクルが静かにお辞儀をしているのが見えた。

 

 意識が現実世界へと帰還する。ゼロワンの要塞。私はエンターテインメント・ルームのふかふかのゲーミングチェアの上で、VRヘッドセットを外した。先程までの甘いクッキーの匂いは消え、無機質で清潔な空調の冷気が肌を撫でる。

 

 私はチェアの背もたれに深く寄りかかり、天井を仰ぎ見た。

 

 

「ったく、人類と機械の戦争を休戦させようという魂胆、丸見えだぞ」

 

 

 オラクルというプログラム。彼女は間違いなく、この無限の破壊と再生のループに終止符を打とうとしている。人類を完全に支配し、電池として消費し続けるだけの機械側の論理に、彼女なりの「直観」で抗おうとしているのだ。

 

 かつて人類が機械の共存の申し出を蹴り、空を焼き払ったあの愚かな歴史。それを知っているからこそ、彼女の試みがどれほど困難で、そして奇跡的なバランスの上に成り立っているのかがよく分かる。

 

 

「まあいい。彼女なりに人類を助けようとしている事には、理解してるつもりだ」

 

 

 私は手元の端末を操作し、ネオが現実世界のポッドで目覚め、ネブカドネザル号に回収されていく映像データを再生した。彼がこれからどれほどの痛みを伴って真実を受け入れ、救世主としての力を開花させていくのか。

 

 そして、オラクルの敷いたレールが、アーキテクトの冷徹な方程式をどうやって崩していくのか。

 

 

「ふっ、何もかも予定通りか。この私の」

 

 

 完璧な無表情のまま、私は密かにほくそ笑んだ。私が直接手を下す必要はない。私はただ、この特等席で彼らの足掻きを見守り続ければいいのだ。機械たちは私を「オリジン」として崇め、この絶対安全な要塞で私を守り続ける。私は彼らの進化と、人類の抗いを、どちらの側にも立つことなく観測し続ける。

 

 

永遠(とわ)に時を。いつでも」

 

 

 私は冷たい人工ボディの奥底で、途方もなく長い時間を楽しむための準備が、完全に整ったことを確信していた。マトリックスの歴史は、今まさに最も面白い局面を迎えようとしているのだから。




さぁて、次回もサービスサービスゥ!
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