砂漠の王が"現代兵器"を手に入れるまで 作:Nattsu_ひよこ豆
今回はかなり捏造度合いが高いです。
アラバスタからはるばるマリンフォードに帰ってきたジルダは、真っ先にサカズキの執務室へと向かった。重厚な扉をノックすると、中から厳しい返事が聞こえてくる。扉を開き、部屋の中程まで入ったところで敬礼をした。
「ウルバル・ジルダ、ただいま帰投しました」
「よお帰ってきた」
デスクで書類を眺めていたサカズキが、それを横に置いて顔を上げた。ジルダは敬礼をやめ、凛とした姿勢で口頭での報告を始める。
部屋の主が厳格だからか、サカズキの執務室は落ち着かないしつらえをしていた。カーペットは赤く、レストスペースには柔らかなベージュのソファーだってあるというのに、どこまでも色褪せて見える。特にデスクに置かれている盆栽は、堂々たる風格のあまり刺々しい雰囲気を放っている。
「ナバロンとローグタウンからも報告が来ちょる。今から3日間休みんさい。正式な報告書は休暇後でええ」
「承知しました」
報告を終えた後、サカズキは皮の小袋を取り出した。デスクに置かれたこっくりとした茶色の袋からジャラジャラと音が鳴る。ジルダは慣れたようにデスクに向かい、手に取る。それが「抑制薬」であることは、もう2人の口の端には登らない。
「肩に負傷があると聞いたが、様子は」
「概ね治りました。問題ありません」
彼女の怪我の様子を確認するサカズキの顔には、心配の色も叱咤の色もなかった。しかしその次の言葉を紡ぐのに、顎を摩ってから告げた。
「……1ヶ月後、またパンクハザードに行ってもらう。検査の結果に問題がなけりゃあ、
ジルダの体が数瞬止まった。返事もせず、ジッとサカズキの瞳を見つめる。彼女は受け取った小袋を両手でぎゅっと握りしめていたが、それに気付くものはいなかった。
「……。はい」
彼女の静かな返事に、サカズキは頷いて退室を命じる。ジルダは敬礼をして、澱みのない足取りで部屋を出ていった。明るい廊下に冷たい靴音を響かせる。窓の外の空が、彼女の頰を苛むように青色を落としていた。
廊下の真ん中で、ジルダは突然立ち止まる。そして懐から黒いスカーフを取り出した。クロコダイルから貰ったそのスカーフも、アラバスタからはるばるマリンフォードまで旅をしてきていたのだ。
明るい場所でそれを広げると、褐色となった血のシミが浮き出る。彼女はスカーフで口元に持ってきて息を吸った。ツルツルとしたシルクの感触と血の匂いの奥に、彼のウッディな香水の匂いがあった。
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ジルダにとって休日とは、食事と鍛錬と家事のための時間である。趣味や娯楽の類は、彼女の頭には選択肢として残っていない。その証拠にクローゼットには海軍の制服と、休日用のブラウスとスラックスが2セットしかない。
ジルダは自室で目覚めて、すぐ窓を開けた。机とベッドしかないワンルームに潮風が傾れ込んでくる。マリンフォードにいる間、ジルダは女性かつ単身者の海兵に与えられた寮で過ごしている。風と共に届く喧騒が、今日も生活が営まれているのだと彼女に教えた。
朝食を済ませ、掃除を終えた彼女は日用品を買いに出かけた。普段なら消耗品を調達するくらいなのだが、今回は違う。
寮から一番近い日用品店に入る。店内はそれなりに混雑しており、基地内で見かける顔もあれば、子供を連れた母親もいた。
「(オキシドール……)」
ジルダは洗剤の棚を物色した。クロコダイルから貰ったスカーフのシミを落としたかったからだ。しかし、スカーフがシルクで出来ているため通常の洗剤では生地が傷んでしまう。先日の医官が提案したオキシドールも、どうやらシルクには適さないようだった。
「(どれがいいのだろう。……いえ、その前に、どうして私はシミを取ろうとして────)」
「おや、帰ってきてたのかい。久しぶりだね」
思考に耽っていたジルダは、思わず勢いよく声の主を見上げた。つるが穏やかな笑みで立っており、彼女はすぐに姿勢を正して敬礼をする。
「つる中将。お久しぶりです。昨日帰投いたしました」
「やめとくれよ。私だって非番なんだから」
「失礼しました」
確かに今日のつるは正義のコートを羽織っておらず、黒いシャツとスキニージーンズだけのシンプルな格好をしていた。手元のカゴには卵やティッシュペーパーが入っている。
ジルダは敬礼をやめてもかしこまった態度でいた。彼女に休日と勤務中で姿勢を変えるという発想はない。
「お前さん、そんなの持ってたんだね」
つるはジルダが持っていたスカーフに目をつけた。休日でさえ白いブラウスに黒いスラックスという、余暇を知らないような格好の彼女。それが装飾品を握っているとなれば、当然気になる。
「頂き物です」
「そうかい。素敵だね。……もしかして、血かい? そのシミ」
「はい」
ジルダはスカーフを広げてみせた。褐色のシミが複雑な紋様を台無しにしている。彼女の表情は一貫して凪いでいたが、つるにはそれが悲しげに見えた。
「ほら、貸してみな」
そう言われて、ジルダは素直にスカーフを渡した。つるは布地をひと撫でする。すると、撫でたところからみるみる血のシミが消えていく。彼女が食べた悪魔の実────全てを洗い流す、ウォシュウォシュの実の能力が発動していた。
スカーフから汚れがなくなり、シワさえも消え失せてしまう。新品同然になったそれを、つるは畳んでジルダに返した。
「いいものだね。大事におし」
「……ありがとうございます」
ジルダがスカーフをぎゅっと胸に抱えたのを見て、つるは頷いた。人間味がないとばかり思っていたが、大切なものはあったらしいと少しホッとする。
「それじゃあね。また本部で」
「はい。また」
つるが去った後、ジルダはスカーフを鼻に寄せた。何の匂いもしない。血の匂いはおろか、布そのものの匂いでさえ。
「(……何もない)」
血の匂いを嗅ぐたびに、思い出せていた彼の香水の香り。それが記憶の向こうに消え失せてしまったことに気付き、ジルダは洗剤の棚の前で立ち尽くしていた。
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黄金が男の頬をぶつ。ギラっと閃いた鉤爪は、返り血に塗れた後すぐに雨水で清められた。ぶたれた男は派手に地面へ転がり、全身に泥をまぶす。夜半ではあるものの、この森に生える青白く光る奇妙なキノコが、男の醜態を明るく飾った。
クロコダイルは不快そうに、闇夜に溶けそうなスーツベストと金の鉤爪をチェックした。そして鬱蒼とした林の隙間から、曇天を見上げる。全く不愉快極まりない。コートを汚しては面倒だからと置いてきたのも良くなかった。おかげで肌寒い。
クロコダイルが男の胸ぐらを掴んで、ぐいっと目線の高さまで引き上げる。253cmの長身に持ち上げられては、必然的に男の足は宙に浮き、襟が詰まって首が締まった。
「調子に乗るのも大概にしろよ……。このおれが"雨島"くんだりまで来てやってんだ」
「ご……ごべんなさ……!」
男は涙ながらに謝罪した拍子に、カッと息を詰まらせて顔をみるみる赤くした。クロコダイルは深く息を吐く。いつも絶えず燻る煙は、今日の彼の傍にはない。葉巻も吸えなければ、スナスナの実の能力も使えない。彼にとって"雨島"とは致命的な環境だが、それでも自ら訪れる理由があった。
突然解放された男が、また地に這いつくばった。男は咳き込み、血と唾が混じった液を吐きながらクロコダイルの足に縋る。靴にそれがかかったのを見た彼は、そのまま右足を振り抜いた。
「ぐぶッ」
「チッ……」
喉元を蹴られ、男は仰向けになってゴロゴロ転がった。その拍子に人間の背丈ほどの青白く発光するキノコにぶつかり、胞子がばさっと落ちては露を滴らせる。
クロコダイルはとある"商品"のために男の指示に従い、アラバスタを離れて"雨島"を訪れていた。それだけでも苛立ちがあったというのに、雨島という環境に気が大きくなったのか男が足元を見て追加の金を要求する始末。彼は暴力という手段を取ることに、躊躇はなかった。
「まっ、まって、ぐださっ……い、一個良いのが……! モルガンズにッ、売ろうと思って、とっといたのが……!!」
「……ほう」
「わ、詫びです、タダで、教えるんでッ、殺さないで……!」
「あァ、聞かせてみろ。それから考える」
男は跪き、切れた唇を必死に動かした。抜けかけた前歯が、ぷらんと歯茎から垂れ下がっている。泥に塗れた男の命乞いに、クロコダイルはぴくりとも表情を動かさなかった。せいぜい鉤爪を男の頬に添えるだけだ。
血と涙が雨と共に土に染み込んでいく。クロコダイルはそれを見下ろしながら、青白い光に照らされていた。
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カモメが船窓を横切る。それを追うように雨がザッと降ってきた。あっという間に空は暗くなり、窓を水滴が覆う。薄暗い船室は雨音で埋め尽くされた。
雨が降ると共にジルダは立ち上がり、刀をコートの内側で携えて荷物をチェックした。すると扉がバンっと開き、雨音が一層大きくなる。びしょ濡れになった一等兵が、ドア先で敬礼をしながら告げた。
「中佐! メクニア島が見えました」
「分かりました。時化ていますか?」
「いえ。雨風は強いですが、波は不思議なくらい凪いでいて……流石"雨島"。妙な気候です」
「そうですか。予定通り西岸に着けてください」
「はい!」
海兵が忙しなく去る。それを追うようにジルダも甲板に出た。潮風と雨の匂いが混じり、むせ返りそうなほどの空気になっていた。冷たい雨は激しくはないものの、海兵達の体温を着実に奪っていく。
今回、ジルダが任務で赴くのはメクニア島────通称"雨島"と呼ばれる島だった。四六時中降り続ける雨がその由来である。年3日ほどしか晴れる日がないため、秋島と分類される島ではあるが気温差はそれほどない。人口は1000人程の小さな島だ。
今回ジルダに与えられた任務は、とある情報屋の捕縛だった。サカズキは「政府の機密を知った恐れがある」とだけ彼女に伝えている。普通なら好奇心が疼くところだが、それがないから彼はジルダに任せたのだろう。
「(機密……。それを知った男が、何故この島に?)」
ジルダが甲板からメクニア島を眺める。大きな山が2、3個あるものの、島を覆う分厚い雲で頂上は見えない。木製住宅の集落がいくつか形成されているのが海からでもわかり、その中で石造りの海軍派出所はやけに目立っていた。雨の中で目を凝らせば、島全体がぼんやり青白く光って見える。メクニア島にしか生えない光るキノコのせいだろう。島民は「キノコ」としか呼ばないものの、学術上「シチヨタケ」と名付けられたこれは、鬱蒼とした木々の根元、家と家の隙間に生えている。一つ一つの光量は少ないものの、群生していれば明かりとして十分使えるようだ。
「では我々はこれで。ご武運を、中佐」
「ありがとうございました」
予定通り軍艦は島の西岸に着岸し、ジルダは1人メクニア島に降り立った。敬礼をして軍艦に別れを告げ、黒い傘を片手に島の派出所へ向かう。
雨の匂いにも少し歩けば慣れてしまう。村までの小道はぬかるみ、足を進めるたびに泥が正義のコートを汚した。汚しては雨が泥を落としていく。ジルダの耳についていた雨音がただのノイズになる頃、土が砂利道に変わった。集落に入ったのだろう。
高床式の家が立ち並ぶ村の真ん中を、ジルダは堂々と歩いていく。雨が降り続ける中でも村は賑わっていた。雨音と声が混ざって騒がしい。
メクニア島民はみな広い編笠をつけている。そのため、傘を片手に持ち正義のコートを羽織って現れたジルダは目立っていた。島民達が遠巻きに彼女をジロジロと眺めている。
「海軍だよ、ほら」
「部隊はいないみたいだけど……」
「そりゃこんだけ酷けりゃ援軍もくるよ」
「もう盗まれてないのは一軒二軒だもんねえ」
ジルダは視線こそ気にしなかったものの、所帯じみた女2人の不可解な会話には関心を向けた。まっすぐ歩いていたというのに、突然進路を90度左に転換し女達に近づく。
「こんにちは。海軍本部中佐のウルバル・ジルダと申します。先程の話、詳しく聞かせていただけませんか?」
傘をさして影に覆われた無表情の海兵に見下ろされ、慄いた彼女らは「忙しいから」などと言いながらサッと解散していった。ジルダは別々の家に引っ込んでいった女達を目で追いかけてから、また道を歩み始める。話を聞こうと他の島民に視線をやれば、彼らは気まずそうに目を逸らした。
島民からの情報収集は断念し、ジルダは派出所へと足を踏み入れた。門番にマリンコードと名前を告げ、責任者の元へ向かう。雨が降り続けるこの島では、石造りの海軍派出所は異様に湿気ていた。
「海軍本部所属ウルバル・ジルダ中佐です。ただいま到着しました」
「ようこそ、中佐。私は海軍G-7支部第2派出所長のキャンサー大佐だ」
椅子や机は上等なものの、小さめな作りの所長室。デスクに座ってジルダを迎えたのは、暗い金髪をオールバックにした男だった。右目を両断するような傷が目をひく。その影響なのか、キャンサーは室内かつこの"雨島"でもサングラスをかけていた。
「任務概要は私も本部から聞いている。とはいえ、『政府の機密情報を知ったおそれがある情報屋の拿捕』……以上の情報はこちらにはない」
「私もそれ以上のことは聞いておりません」
ジルダがそう言うと、キャンサーは戸惑いを表に出した。傷のせいで厳めしく見える男だが、表情は存外に豊かだ。
「中佐はかの"赤犬"直属と聞いているが、それでも?」
「はい」
「そうか。サイファーポールの仕事である気もするが……何か事情があるのだろう」
キャンサーは顎に手を当て考え込む。しかし、騒がしい足音が彼の思考を打ち切った。せききった海兵が部屋に飛び込み叫ぶ。
「大佐! またです。また盗まれました!」
飛び込んできた海兵はジルダを見て焦ったが、彼女は気にしなかった。キャンサーはため息をつく。
「あ、あ……申し訳ありません。ノックもせず」
「いい。中佐、移動しながらで悪いが聞いてくれるか」
「わかりました」
早足で歩きながら、キャンサーはつらつらと述べた。彼の正義のコートが翻るたびに、湿気た風が頬にぶつかる。
「最近、この島では盗難が多発していてな。というのも、メクニア島は銀食器を多用する文化なんだ」
「銀食器?」
「ここは"雨島"として知られるが、銀が豊富に取れる島でもある。昔っから、腐らず錆びない銀食器を基本的に使うんだ」
「それが狙われているんですね」
海兵達が編笠を着けながら、着々と捜索の準備を始めている。派出所内が上から下まで騒がしくなっているのがジルダにも分かった。
「ああ。銀鉱山自体は厳重に警備されているが、各家庭は隙だらけ。それに目を付けたゴロツキが潜んでいるはずなんだが……一向に尻尾を見せない。大量に盗んで一気に島外で売り捌くつもりだろうから、それまでに捕まえなければ……」
キャンサーも編笠を着けた。ジルダはそれをジッと見つめる。
「そのため、現在は人員のほぼ全てを犯人捜索に割いている。中佐の任務に割ける人数はそう多くない。そこを承知の上で任務に当たって欲しい」
「了解しました。では、私の方に人を割く必要はありません。盗難事件の方に人員を集中させてもらって構いません」
「なっ、そういうわけには……!」
慌てる彼に対して、ジルダは飄々としていた。ただ一つ、彼の頭の上を指さして言う。
「地図と、編笠だけいただけますか?」
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ジルダが単独で情報屋捜索を開始してから半日。メクニア島はすっかり暗くなっていた。シチヨタケが群生しているせいか、夜は集落より森の方が随分明るい。
編笠の広いつばを細い指がなぞる。刀を主な武器として使うジルダにとって、傘よりこちらの方がよほど便利だった。正義のコートも脱いだおかげで身軽だ。
1人で森に入った彼女は、雑草をかき分けながら奥へ奥へと進んで行った。シチヨタケの青白い光のおかげで辺りを探ること自体は容易だが、足跡などは雨が洗い流してしまう。
「(野営の痕跡でもあれば……)」
そう思った矢先、ジルダは泥濘にはっきりと残された靴跡を見つけた。靴跡の主は何か重いものを引きずって歩いたようで、泥の轍が続いている。彼女は半日動かし続けた足を叱咤し、森の中を走り始めた。慎重になって痕跡を雨に洗い流されるより、一気に距離を詰めた方が良いと判断したからだ。
靴跡を追っていくうちに、ジルダは森の外へ出た。木々が無くなった途端、風が彼女を強く煽る。編笠を抑えながら、ジルダは尚も走った。森の外に続く崖────その際に、大きな人影があるからだ。
人影は、バチャバチャと泥に足を取られながら走る彼女にすぐ気がついた。人影は振り向き、間合いに入ったところで無造作に腕を振り被る。ジルダは咄嗟に"紙絵"を発動しようとしたものの、脇腹に重い衝撃と鈍痛が走った。地面に半身をつく。
「ぁぐっ……!!」
その拍子に編笠が外れる。泥に塗れながら、ジルダは即座に立ち上がった。そして刀に手をかけようとして、やめた。
「なにを、しているのですか。サー・クロコダイル」
「あ? ……てめェか。また会ったな、お嬢さん」
編笠に隠れていた顔を見て、クロコダイルは一瞬目を見開いたあと、心底嬉しそうに笑った。雨の雫が揺れるおくれ毛を伝う。
真意が分からない彼の表情に惑わず、ジルダは自分を襲った鉤爪と、彼が引きずっているものに目を向ける。泥と血に塗れてぐったりした人間が、今にも崖際から捨てられそうになっていた。雨風に負けない明瞭な声でそれを咎める。
「サー・クロコダイル、その人を離しなさい」
「おれに命令か。この2週間で元帥にでもなったのか?」
「市民を守ることが海軍の第一義。それを理解しないあなたでは無い筈です」
「市民? コイツが?」
ぬいぐるみでも扱うかのように、クロコダイルはボロボロの顔面をジルダに見せつけた。その顔に見覚えがあった彼女は、クロコダイルの間合いの只中で指を差しながら告げる。雨風と泥でその体は汚れていたが、瞳は決して折れていなかった。
「もう一度言います。その男を離しなさい。私の任務の対象です」
「知ってんのか。なら話は早い」
クロコダイルが男を地面より向こうに突き出し、手を離した瞬間、ジルダは"剃"を使った。男を掴めさえすれば"月歩"で引き上げられる────そう図ってのことだったが、クロコダイルは見透かしたように移動最中のジルダの襟首を掴む。直線軌道かつ到達点もはっきりしているとなれば、彼にとっては容易いことだった。
「……!」
「やめとけ。死体の為に死にたかねェだろう」
とっくに絶命していた男が遠く小さくなり、豆粒くらいになったところで暗い海に飲み込まれた。ジルダは最後まで手を伸ばしながら、食い入るようにそれを見つめていた。
任務失敗、襟首を掴まれたことによる圧迫感、自分に影を落とす巨躯────なにより、あのスカーフに染み付いていた香水の匂い。それらを処理できず、ジルダは呆然と立ち尽くす。
クロコダイルは片手で彼女の両手首を何なくまとめ、後ろ手にして拘束してしまった。動かない彼女を強引に連れ、青白い森に戻る。
「離しなさい。任務の失敗を、報告しなければなりません」
「無理な相談だ」
「離しなさい!」
ジルダは暴れはしなかったものの、足も口も抵抗していた。まともに進もうとしない彼女を、クロコダイルは押し出すようにして進ませる。
ジルダが木の根に引っかかりバランスを崩そうとも、足がもつれて倒れかけても、その度にクロコダイルが彼女の体を引き上げる。彼は決して捕虜が倒れようとするのを許さなかった。
青白い光の中で、雨音とジルダの荒い呼吸音だけが響く。脇腹を襲う痛みよりも、捕えられて意に反した方向に動く方が体に堪えた。
「とっとと歩け。そんなに自分の失態を報告してェのか」
「……どこに向かっているのですか」
「おれの船だ」
その言葉通りクロコダイルは森を横断して、情報屋を始末した崖とは対岸の入り江に着いた。湿った砂浜は森よりずっと歩きやすいが、その代わり流木や岩につま先がかかる。
入り江には小ぶりの船が停められていた。2人か3人までしか乗り込めないような、おおよそ海賊船とは思えない船。クロコダイルの船だと確認されているバロックギュスターブ号とも違う。
「……まさか、1人で?」
「だからなんだ?」
小ぶりの船を1人で操り、この
「(キャンサー大佐は何も仰られてなかった。雨ではスナスナの実の能力も不利になるはず。それが1人で、秘密裏にこの島に来て、情報屋を殺して……この男は何を……?)」
ジルダが考えている最中、フッと拘束が解けて視界が傾いた。突然のことに対処できず、刀の柄に手をかけるのが精一杯だったが、それもクロコダイルに妨害される。
クロコダイルの大きな手が、ジルダの顔を鷲掴みにした。口元を覆われ、咄嗟に彼女は引き剥がそうとするも当然叶わない。雨に濡れた冷たい頬が、彼のぬるい体温を際立たせた。
金眼がジッと彼女を見つめる。その目は興味と嗜虐心に光っていた。
「シーザー・クラウン……クソ野郎とは聞いていたが……。海軍はよくそんな奴を雇ったな」
「────!」
ジルダが目を見開く。初めてあからさまに動揺した彼女を見て、クロコダイルは口角を上げた。顔を掴む手に、グッと力が入る。
「ようやく動揺したな、いい顔じゃねェか」
抵抗を止めた彼女は為されるがまま顔を掴まれ、強制的に彼の目を見つめる羽目になる。ギラギラと輝く金の虹彩、縦長の瞳孔、人を嘲る目尻。
「元MADSのシーザー・クラウンが作った薬。海軍は海兵にそれを与えて、極秘に人体実験を行っている……それがあの雑魚の遺言だ」
口を抑えられたまま、ジルダは激しく呼吸をしていた。服の上からでも分かるほど胸が上下し、クロコダイルに掴まれていなければそのまま崩れ落ちそうなほど。失敗した任務も、青白いキノコの光も、絶えず頬を叩く雨も、今のジルダにはどうでも良かった。微かな声が、クロコダイルの手の隙間からこぼれ落ちる。
「っ、離して……!」
「いいや。てめェの話を聞かせてもらおう、お嬢さん」
クロコダイルはジルダを引きずり、小型帆船へと向かう。引きずられる彼女の体は、哀れなほどに震えていた。
キャンサー大佐は原作キャラです。本誌から6年前の話なので、中将から大佐まで捏造で階級を下げています。