小さい頃、爺ちゃんが腰を悪くした。
俺には父ちゃんも母ちゃんもいなかったから、病院まで付き添ったことがある。
暇な間、好きにしていいと言われたから、爺ちゃんが診てもらっている間に、俺は病院の外で遊んでいた。
◇
たしかその日は、雪が降っていた。
別に珍しいものでもなかったが、まだ冬と言うには早い頃だったので、餓鬼の俺は、無邪気にはしゃいでいた。
―――静かだ
積もった雪に埋もれて、天然の白絨毯の冷たさに笑いながら蹴散らして、しばらく。
ぴたっ、と不自然に動きを止めて、周囲の不自然に気づいた。
静かだ。
雪を踏みつぶし、水飛沫をあげながら車道を走るタイヤの音も。
早めの雪に、焦った様子で餌を探す鳥の囀りも。
忙しなく駆け回る、病院の人々の喧騒も。
せっかくの雪だと言うのに、誰も外にいないのもまた不思議。
降り積もる雪だけが、進む時間を示してくれる。
なんでだろ。
爺ちゃん、もう終わったかな。
腹減ったな〜。
今日の飯なんだろ。
ガキらしく、忙しなく駆け巡る思考の渦。
けれどそれを押しのけて、なんとなく、俺は立ち上がった。
そして、なんとなく、病院の中に戻った。
中には、誰もいなかった。
電気は着いたまんまだったけど、声を掛けても誰も反応してはくれなかったから、誰もいなかったんだと思う。
けどその頃の俺は、特に怖いとかは思わなくて、そのままなんとなく、病院にあるちょっとした中庭まで歩いていった。
「……おや」
静かだった。
そこには、雪を割るようにして、一輪の寒椿が咲いていて。
そこには、彼女がいた。
「懐かしい気配に来てみれば、これはまた、可愛らしい坊だ」
白髪を結い上げた、ひとりの老女。
「…ばあちゃん、だれ?」
不思議に首を傾げると、彼女は皺のついた目を優しく細めた。
多分、笑ったのだと思う。
「ただの、通りすがりの老耄にございますよ」
柔らかい声とともに、ゆっくりと、彼女は緩やかな足取りで俺に歩み寄ってきた。
静かだった。
踏みしめた雪のすり潰れる音も、彼女の呼吸音も、何ひとつとして聞こえなかった。
「坊や」
彼女が手を伸ばす。
そして花を愛でるように、ツンツンとしたピンクの髪を優しく撫でた。
かじかんだ耳や鼻が痛いくらいに冷たいはずなのに、しわくちゃな指先は不思議と気分が良くて、俺は照れ隠しに視線をそらした。
そんな俺に、彼女は更に深く皺を刻み、ゆっくりと口を開いた。
「あなたのこれから歩む道のりが、どうか、善いモノでありますように」
まるで祈るように、深く瞼を閉じ、彼女は虎杖の頭に、小さな椿の花を乗せた。
その感触はあっという間に消えたけれど、その花そのものが消えたわけではないことは、何となくわかった。
「…さて。そろそろ帰らねばなりませぬ」
そう言って、彼女は虎杖から手を離した。
それがどうにも名残惜しくて、俺は頭から遠ざかっていくその手を見つめていた。
「またいつか、巡り会える日が来ましょう」
遠退いていく。彼女の暖かい指先が。
遠退いていく。彼女の優しい視線が。
遠退いていく。彼女の美しい白色が。
「その時は、どうか。廻る呪いの中で」
遠い、雪の降る日。
寒々とした空模様の下、しんしんと降り頻る白色の中で。
雪景色に溶け込むような彼女は、鮮やかな赤に身を染めていた。
最後に見えた、彼女は、まるで。
――まるで、雪のような人だった。
◇
今思えば、夢のような話だ。
けど、不思議なことに、その時の記憶を、俺は今でも鮮明に覚えていた。
◇
次の瞬間には、俺の耳に、無数の"音”が届いていた。
車のタイヤが雪を割く音。
遠くで誰かが笑う音。
自動ドアが開閉する機械音。
そして、
「悠仁ー!!」
俺の名前を呼ぶ、爺ちゃんの声。
振り返る。
痛めた腰をさすりながら、しかめっ面のままこちらに近寄る祖父の姿。
振り返る。
中庭には、ポツンと季節外れの梅が咲いていた。
けど、あの暖かい白色は、どこを探しても、見つかることはなかった。
雪の上に、足跡はない。
子どもだった俺は、それを深く考えることもなく、爺ちゃんの元へ走った。
あの日のことを、誰かに話した記憶もない。
話そうと思ったことすら、なかったのかもしれない。
ただ。
雪が降ると、ふと思い出す。
あの静けさを。
世界が止まった、あの一瞬を。
まるで、雪のようなあの人を。