積雪に浮かぶは椿   作: 燃える空の色

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プロローグ:幼き日の記憶

 

 

 

 小さい頃、爺ちゃんが腰を悪くした。

 俺には父ちゃんも母ちゃんもいなかったから、病院まで付き添ったことがある。

 暇な間、好きにしていいと言われたから、爺ちゃんが診てもらっている間に、俺は病院の外で遊んでいた。

 

 

 

 

 

 たしかその日は、雪が降っていた。

 別に珍しいものでもなかったが、まだ冬と言うには早い頃だったので、餓鬼の俺は、無邪気にはしゃいでいた。

 

 

 

 ―――静かだ

 

 

 積もった雪に埋もれて、天然の白絨毯の冷たさに笑いながら蹴散らして、しばらく。

 ぴたっ、と不自然に動きを止めて、周囲の不自然に気づいた。

 

 静かだ。

 

 雪を踏みつぶし、水飛沫をあげながら車道を走るタイヤの音も。

 早めの雪に、焦った様子で餌を探す鳥の囀りも。

 忙しなく駆け回る、病院の人々の喧騒も。

 

 せっかくの雪だと言うのに、誰も外にいないのもまた不思議。

 降り積もる雪だけが、進む時間を示してくれる。

 

 なんでだろ。

 爺ちゃん、もう終わったかな。

 腹減ったな〜。

 今日の飯なんだろ。

 

 ガキらしく、忙しなく駆け巡る思考の渦。

 けれどそれを押しのけて、なんとなく、俺は立ち上がった。

 そして、なんとなく、病院の中に戻った。

 

 中には、誰もいなかった。

 電気は着いたまんまだったけど、声を掛けても誰も反応してはくれなかったから、誰もいなかったんだと思う。

 

 けどその頃の俺は、特に怖いとかは思わなくて、そのままなんとなく、病院にあるちょっとした中庭まで歩いていった。

 

 

「……おや」

 

 静かだった。

 そこには、雪を割るようにして、一輪の寒椿が咲いていて。

 そこには、彼女がいた。

 

 

「懐かしい気配に来てみれば、これはまた、可愛らしい坊だ」

 

 白髪を結い上げた、ひとりの老女。

 

「…ばあちゃん、だれ?」

 

 不思議に首を傾げると、彼女は皺のついた目を優しく細めた。

 多分、笑ったのだと思う。

 

「ただの、通りすがりの老耄にございますよ」

 

 柔らかい声とともに、ゆっくりと、彼女は緩やかな足取りで俺に歩み寄ってきた。

 静かだった。

 踏みしめた雪のすり潰れる音も、彼女の呼吸音も、何ひとつとして聞こえなかった。

 

「坊や」

 

 彼女が手を伸ばす。

 そして花を愛でるように、ツンツンとしたピンクの髪を優しく撫でた。

 かじかんだ耳や鼻が痛いくらいに冷たいはずなのに、しわくちゃな指先は不思議と気分が良くて、俺は照れ隠しに視線をそらした。

 そんな俺に、彼女は更に深く皺を刻み、ゆっくりと口を開いた。

 

「あなたのこれから歩む道のりが、どうか、善いモノでありますように」

 

 まるで祈るように、深く瞼を閉じ、彼女は虎杖の頭に、小さな椿の花を乗せた。

 その感触はあっという間に消えたけれど、その花そのものが消えたわけではないことは、何となくわかった。

 

「…さて。そろそろ帰らねばなりませぬ」

 

 そう言って、彼女は虎杖から手を離した。

 それがどうにも名残惜しくて、俺は頭から遠ざかっていくその手を見つめていた。

 

「またいつか、巡り会える日が来ましょう」

 

 

 遠退いていく。彼女の暖かい指先が。

 遠退いていく。彼女の優しい視線が。

 遠退いていく。彼女の美しい白色が。

 

「その時は、どうか。廻る呪いの中で」

 

 

 

 遠い、雪の降る日。

 寒々とした空模様の下、しんしんと降り頻る白色の中で。

 雪景色に溶け込むような彼女は、鮮やかな赤に身を染めていた。

 最後に見えた、彼女は、まるで。

 

 

 

 

 ――まるで、雪のような人だった。

 

 

 

 

 

 今思えば、夢のような話だ。

 けど、不思議なことに、その時の記憶を、俺は今でも鮮明に覚えていた。

 

 

 

 

 

 次の瞬間には、俺の耳に、無数の"音”が届いていた。

 車のタイヤが雪を割く音。

 遠くで誰かが笑う音。

 自動ドアが開閉する機械音。

 

 そして、

 

「悠仁ー!!」

 

 俺の名前を呼ぶ、爺ちゃんの声。

 振り返る。

 痛めた腰をさすりながら、しかめっ面のままこちらに近寄る祖父の姿。

 振り返る。

 中庭には、ポツンと季節外れの梅が咲いていた。

 けど、あの暖かい白色は、どこを探しても、見つかることはなかった。

 

 雪の上に、足跡はない。

 

 子どもだった俺は、それを深く考えることもなく、爺ちゃんの元へ走った。

 

 あの日のことを、誰かに話した記憶もない。

 話そうと思ったことすら、なかったのかもしれない。

 

 ただ。

 

 雪が降ると、ふと思い出す。

 あの静けさを。

 世界が止まった、あの一瞬を。

 

 

 

 

 まるで、雪のようなあの人を。

 

 

 

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