後にこの日は「門の日(ターク・デス・トーアズ)」と呼ばれるようになる。しかしその瞬間に、事態の全容を理解していた者は、銀河のどこにもいなかった。
第一話「虚空より来たる(前編)」
一
帝国暦四八七年三月一五日、標準時〇九時二三分。
銀河帝国の首都ヴァルハラ星系、惑星オーディン外縁宙域。
ハンス・ディートリヒ・フォン・ゼーフェルト大佐は、哨戒巡航艦《ブレーメン》の艦橋で、退屈な一日の始まりを予感していた。
帝都外縁部の定常哨戒任務は、軍務のうちでもとりわけ刺激に乏しい。平時のオーディン近傍宙域に出没する不審船といえば、せいぜい密輸業者か、航路を逸脱した民間貨物船がいいところである。ゼーフェルトが指揮する哨戒部隊——巡航艦八隻、駆逐艦一六隻、偵察艦六隻の計三〇隻——は、帝都外縁を三つの哨区に分けて巡回していた。ゼーフェルト自身は旗艦《ブレーメン》を含む第一哨区の二二隻を直率し、残る八隻は第二・第三哨区に展開している。
もっとも、この日の帝都には、いつもと異なるささやかな華やぎがあった。数日前、ラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将がアスターテ星域会戦において叛乱軍を撃破したという勝報が届いていたのである。帝都の市民は祝賀ムードに沸き、将兵たちも例外ではなかった。
「大佐、アスターテの詳報をお読みになりましたか」
副官のベルント・シュトライト少佐が、データパッドを手に声をかけた。
「読んだ」
ゼーフェルトは簡潔に答えた。五十代半ばの彼は門閥貴族の出身ではなく、実戦と実務の積み重ねで大佐にまで昇った叩き上げの軍人である。派手な武勲とは無縁だが、任された任務を確実にこなす能力を買われて、帝都哨戒という地味だが重要な職務に就いていた。
「ローエングラム伯の用兵は見事というほかありませんな。三個艦隊を各個撃破とは」
「確かに鮮やかだ。だが、上が鮮やかすぎると、下は振り回される。覚えておけ、シュトライト」
ゼーフェルトがそう言ったのは、別に皮肉でもなんでもなく、三〇年の軍歴から得た実感であった。英雄的な指揮官のもとで華々しい戦果を挙げることより、確実な任務遂行が自分の仕事であると、彼は信じていた。
その信念が、数分後に根底から覆されることになる。
最初の兆候は、航法システムの異常だった。
「大佐、航法コンピュータに誤差が生じています。……いえ、誤差というレベルでは——」
オペレーターの声が途切れた。ゼーフェルトが前方スクリーンに目を向けた瞬間、彼は自分の目を疑った。
オーディンの星々を背景にした暗黒の宙域に、それは出現した。
暗黒の構造体。
光を飲み込む暗黒の領域が、虚空に浮かんでいた。距離があり、混乱した状況での観測のため、その正確な形状は判然としなかった。一見すると、完全な球体のようにも見える。しかし球体だと断定できるだけの観測データはなかった。ただ、目の前の宙域に「ある」ということだけが確かだった。光が存在しない領域。その縁では周囲の恒星の光が異様に歪んで見え、まるで空間そのものが巨大なレンズによって屈折しているかのようだった。
それは拡大しているように見えた。秒単位で。あるいは、こちらに向かって展開しているのかもしれなかった。
「何だあれは……」
誰かが呟いた。規律に厳しいゼーフェルトの艦橋で、私語が漏れること自体が異常だった。しかしゼーフェルトは叱責しなかった。叱責する余裕がなかったからではない。彼自身もまた、あの暗黒の構造体から目を離すことができなかったからである。
それは、宇宙空間に浮かぶ物体というよりも、空間そのものに開いた穴のように見えた。通常、宇宙の暗黒は恒星や星雲の光を背景に認識されるものだが、この暗黒はそれとは質的に異なっていた。光が届かないのではなく、光が存在できない場所。そう表現するのが最も近い。
「全艦、緊急回避! 面舵一杯、最大推力——」
ゼーフェルトは叫んだが、それは彼の軍歴で最も無意味な命令となった。暗黒の領域は、第一哨区の艦艇がいた宙域を呑み込むかのように急速に膨張した——あるいは、こちらが急速にその領域に引き寄せられた。後から振り返れば、どちらだったのか判然としなかった。第二・第三哨区の八隻は外縁に届かなかったが、ゼーフェルトが直率する二二隻は回避の時間すらなく、その黒い表面に呑まれた。
接触した瞬間——世界が消えた。
前方スクリーンに映っていたオーディンの星々が、一瞬にして消失した。星雲も、航路標識も、帝都の軌道構造物も——全てが消え、完全な暗黒に覆われた。計器盤の表示が次々と異常値を吐き出し、やがてそれすらも意味を失った。帝都司令部との通信は切断され、恒星を捉えるセンサーは沈黙し、宇宙空間に存在するあらゆる手がかりが——自分がどこにいるのか、どちらを向いているのか、動いているのかすら——消え去った。
恐怖。
それは、戦闘の恐怖とは質が異なっていた。敵の砲火に晒されるとき、人は少なくとも自分がどこにいるかを知っている。逃げる方向がある。撃ち返す手段がある。しかしこの暗黒には、方向も距離もなかった。自分の艦が存在しているのかどうかすら、確信が持てなかった。
ゼーフェルトの艦橋は沈黙していた。誰も声を出せなかった。計器の明かりだけが、艦内が無事であることを告げていた。
ゼーフェルトは反射的に、艦橋の各部署に視線を巡らせた。航法、操舵、通信、火器管制——三〇年の軍歴で身についた点検の動線だった。航法士は計器盤に向かって硬直していた。操舵士は両手を操縦桿にかけたまま、何をすればよいか分からない顔をしていた。通信士は無音のヘッドセットを耳に押し当てていた。火器管制士は——撃つべき敵のいない世界で、ただ座っていた。
全員が、何かしらの持ち場に向かって構えていた。しかし構えているだけで、何もできなかった。命令を出せば部下は動く。それが軍隊だ。しかしゼーフェルトには出すべき命令がなかった。「前進」も「後退」も意味を持たない。「警戒」も「攻撃」も対象がない。三〇年の指揮経験のすべてが、この瞬間に無効化されていた。
その暗黒の中で、ゼーフェルトが唯一認識したものがあった。前方スクリーンの左端に、微かな光点がちらついていた。《ブレーメン》のすぐ近くにいるはずの僚艦——駆逐艦《ヴィスマール》の識別灯だった。暗黒に呑まれたのは自分だけではないということ。その一点だけが、ゼーフェルトを正気につなぎ留めていた。
時間が経った。
信頼できる時計は艦内のクロノメーターだけだった。それ以外のあらゆる計器が無意味な数値を吐き出すか、沈黙していた。クロノメーターの数字だけが規則正しく刻まれていく。しかし恒星も航路標識も視界にない以上、その時間が「移動の時間」なのか「停止の時間」なのか——あるいは「存在し続けている時間」なのかすら——誰にも分からなかった。
ゼーフェルトは艦長席で背筋を伸ばしたまま、ただ前方の暗黒を見つめていた。指揮官として動揺を見せることだけは許されなかった。それは技術ではなく、習慣だった。三〇年かけて身体に染み込ませた習慣が、思考とは無関係に背筋を伸ばさせていた。
時間はゆっくりと、しかし確実に経過していった。
航法士が、計器盤に額を押し付けていた。操舵士が両手で顔を覆っていた。ゼーフェルトは叱責しなかった。叱責する気力もなかったし、叱責する正当性もなかった。それでもゼーフェルトは姿勢を崩さなかった。崩したら最後、艦橋全員が崩れる。それだけは、やってはならなかった。
どれだけの時間が経ったのか——突然、光が戻った。
前方スクリーンに恒星の光が広がり、計器類が息を吹き返した。艦体に損傷はなかった。二二隻は、ほぼ原形のまま存在していた。
艦橋の何人かが、声にならない声を漏らした。安堵ではなかった。安堵するには、まだ何が起きたのかを把握していなかった。
ただし、宙域そのものが変わっていた。
「——恒星配置が合致しません」
航法士の声は震えていた。
「ヴァルハラ星系の恒星が……ありません。既知の航路標識も確認できません。完全に未知の宙域です」
ゼーフェルトは前方スクリーンを凝視した。見覚えのない恒星の配列。帝国領のどの宙域とも一致しない星図。しかし——星図そのものが全くの未知というわけでもなかった。ゼーフェルトは士官学校時代に叩き込まれた銀河天文学の知識を総動員して、その恒星配置の意味を理解しようとした。
通信士が蒼白な顔で報告した。
「大佐、広域通信波を受信しています。……同盟公用語です。軍事周波数帯——自由惑星同盟軍の通信と思われます」
艦橋が凍りついた。
「内容は」
「……ハイネセン首都防衛艦隊の定時交信です。……大佐、我々は——」
通信士は絶句した。ゼーフェルトが彼に代わって、その結論を口にした。
「バーラト星系か」
自由惑星同盟の首都、惑星ハイネセンが位置する星系。帝国の首都からは一万光年以上離れた、敵国の心臓部。一秒前までオーディン近傍にいた自分たちが、今はそこにいる。
その意味を理解するより先に、レーダーが反応した。
「大型艦隊接近。方位〇四七。……数は——百隻以上。速度から見て、全速で接近中です」
ハイネセンの首都防衛艦隊が、突如として自国首都近傍に出現した帝国軍艦艇に向かって殺到してきていた。当然の対応であった。二二隻で百隻以上の防衛艦隊と交戦することは、勇敢というより無謀であり、無謀というより愚行である。
ゼーフェルトは二秒で決断した。敗北を悟った帝国軍指揮官がなすべき最初の義務を、彼の三〇年の軍歴が反射的に引き出したのだ。
「全艦に通達。直ちに航法記録、センサーログ、全ての電子データを消去せよ。消去を確認次第、武装を解除し、推進を停止。通信を開放周波数に切り替え、同盟公用語で以下の通り送信せよ。『当方は銀河帝国軍哨戒部隊。敵対の意思なし。交戦を望まず。状況の説明を求める』」
データの消去は、降伏に先立つ最も重要な手順だった。あの暗黒の中で計器が何を記録したかは分からない。しかし、自分たちがオーディンからハイネセンまで——一万光年を——瞬時に移動したという事実に関わるデータが、敵の手に渡るべきではないことだけは分かる。消去されたデータの中身は、もう当事者の記憶の中にしか残らない。
副官のシュトライト少佐が一瞬の躊躇いを見せた。帝国軍人が敵に対して武装解除を行うことは、降伏に等しい。しかしゼーフェルトの眼を見て、彼は黙って命令を伝達した。
ゼーフェルトが考えていたのは、名誉ではなかった。二二隻の乗員、およそ六〇〇〇名の部下の生命と、この異常事態についての知見を生きて持ち帰ること——それが、状況が許す範囲での最善だった。
帝国軍人としてそれが正しい判断であったかどうかは、ゼーフェルト自身にも分からなかった。正しいか正しくないかを判断するための前提そのものが、あの暗黒に呑み込まれた瞬間に消失してしまったのだから。
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二
同じ瞬間——正確には、宇宙暦七九六年三月一五日、標準時〇九時二三分——銀河の反対側でも、全く同じことが起きていた。
自由惑星同盟の首都バーラト星系、惑星ハイネセン外縁宙域。
エレーナ・グリシャム中佐は、哨戒巡航艦《ペルセウス》の副長席で、通常業務の点検リストに目を通していた。ハイネセン外縁部の哨戒任務は、オーディンのそれと同様に平時の日常業務であるが、この日の空気はいつもと異なっていた。
アスターテの敗報が、ハイネセンに届いていた。
第四艦隊と第六艦隊が帝国軍に各個撃破され、両艦隊は事実上壊滅した。第二艦隊のみが、辛うじて撤退に成功していた。戦死者は百五十万に及ぶ。同盟軍の歴史においても、これほどの敗北は数えるほどしかない。
グリシャムにとって、敗報は単なる数字ではなかった。士官学校の同期であり、親友でもあったリタ・メンデスが第四艦隊の補給艦に乗り組んでいた。艦名は戦没艦リストに載っていた。
四十代前半のグリシャムは、実務型の士官として知られていた。感情を表に出すことは少なく、与えられた任務を粛々とこなす。中佐に昇進した日、当時の上官が「性別ではなく能力で評価した結果だ」と一言添えたことを、グリシャムはまだ覚えていた。わざわざそう言わなければならないこと自体が、その言葉の意味を曖昧にしていた。
この数日間、彼女の胸の中にはリタの笑顔が繰り返し浮かんでは消えていた。最後に会ったのはいつだったか。半年前か、それとも一年前か。あの時、もう少し話せばよかったと思っても、もう手遅れだった。
「中佐、レーダーに異常反応が——」
オペレーターの声が、グリシャムの思考を断ち切った。
スクリーンを見たグリシャムが最初に思ったのは、システムの故障だった。ハイネセンの星空に、あるはずのない暗黒の領域が広がっていた。光を呑み込む完全な暗黒。その縁で星光が不自然に歪む。形状は判然としない——一見すると球体のようにも見えたが、急速に拡大していくその輪郭を、グリシャムはまだ把握できていなかった。
「全センサーの校正データを確認。システム障害の可能性は——」
「ありません、中佐。全センサーが一致した読み取りを示しています。あれは実在の物体です」
グリシャムが次の命令を発する前に、暗黒の領域は急速に拡大した。哨戒部隊二五隻のうち、近傍にいた一四隻——グリシャムの《ペルセウス》を含む——が、暗黒に呑まれた。残る一一隻はその外にとどまり、一四隻が視界から消えていく光景を、なす術もなく見つめることしかできなかった。
星が消えた。計器が狂った。ハイネセン司令部との通信が途絶えた。
暗黒。
ゼーフェルトが経験したのと同じ暗黒が、グリシャムの世界を覆った。方向も距離もなく、自分の艦が宇宙空間のどこに存在しているのかすら分からない。あらゆる外部認識が消えた中で、艦内の照明と空調だけが、自分がまだ生きていることを告げていた。
グリシャムは声を出さなかった。部隊を率いる者には、恐怖を見せない義務がある。しかし恐怖はあった。アスターテで第四艦隊が壊滅したとき、リタが最後に見たものは何だったのか——その問いが、暗黒の中で不意に浮かんだ。こんな暗闇だったのだろうか。光が消えていく艦橋で、リタは何を考えただろうか。痛みを感じる時間があったのか、それとも一瞬だったのか。同期の友のことを思うとき、グリシャムはいつも、彼女の最後の数秒間を想像することができなかった。今、自分がその数秒の中にいるのかもしれない、と思った。
通信パネルに、かすかなノイズが走った。ほとんど聞き取れない断片——隣の僚艦からの近接通信の残滓のようだった。完全な孤立ではない。その事実だけが、暗闇の中の小さな手がかりだった。
時間が経った。
艦内のクロノメーターだけが、信頼できる時計だった。数字は進んでいるが、それが本当に現実のものなのか、針が動き続けているだけなのか、判断がつかなかった。グリシャムは何度か、計器盤に指を触れた。触れた時の金属の冷たさだけが、その場所に自分がいることを確認する唯一の手段だった。
艦橋では、誰もが声を潜めていた。この種の経験を訓練で受けていない。誰の戦記にも書かれていない。
どれだけの時間が経ったのか——光が戻った。
前方スクリーンに映し出されたのは、同盟の軍人であれば誰もが資料映像で見たことのある、しかし実物を目にした者はほとんどいない惑星の姿だった。
黄金の帯のように大気圏を取り巻く雲の層。巨大な大陸を覆う深緑の森林。そして、大気圏の外に浮かぶ無数の軌道構造物と、帝国軍の紋章を掲げた艦艇の群れ。
惑星オーディン。
銀河帝国の首都。一五〇年間の戦争の向こう側にある、敵の心臓。
グリシャムは、それを見ていた。同盟軍人として、自分の目で帝国の首都星系を見ていた。
感慨に浸る暇はなかった。
帝都防衛部隊が、蜂の巣を突かれた蜂のように殺到してきたからである。
グリシャムの判断はゼーフェルトと同じだったが、その思考の道筋は異なっていた。帝国軍人であるゼーフェルトが部下の安全を第一に考えたのに対し、グリシャムが最初に考えたのは情報の価値だった。
自分たちは今、帝国の首都近傍にいる。どうやって来たのかは分からない。しかしこの事実そのものが、同盟にとって極めて重要な情報である。この情報を持ち帰るためには、まず生き延びなければならない。
「全艦に通達。直ちに航法記録、センサーログ、全ての電子データを消去せよ。消去確認後、武装を解除、推進を停止。開放周波数で帝国語により以下を送信——『当方は自由惑星同盟軍哨戒部隊。敵対の意思なし。現在の状況を把握できておらず、交戦を望まない』」
あの暗黒の中で何が起きていたのか、グリシャムにはまだ分からない。しかし計器は何かを記録しているはずだ。それが敵に渡るべきではない——ゼーフェルトと同じ結論に、グリシャムもまた到達していた。消去されたデータの中身を知るのは、もう自分たちだけだ。そしてその記憶を、誰に、どこまで語るかは、自分で選べる。
通信士が帝国語での送信を行った。グリシャムは自分の帝国語の発音の方が正確であることを知っていたが、指揮官が直接通信を行う段階ではないと判断した。
帝国軍の反応は迅速だった。武装解除した同盟艦艇を包囲し、臨検部隊を送り込んできた。帝国軍の兵士が《ペルセウス》の艦橋に足を踏み入れたとき、グリシャムは座席に座ったまま、相手の顔を見据えた。
帝国兵の目には、驚きと困惑があった。敵意もあったが、それ以上に「これは何が起きているのか」という当惑が勝っていた。
降伏を告げるグリシャムの帝国語は、流暢だった。
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三
宇宙暦七九六年三月一五日、標準時一〇時四八分。
ハイネセン、自由惑星同盟軍統合作戦本部。
ヤン・ウェンリー少将は、第一三艦隊の編成計画書にうんざりしていた。
少将への昇進は、アスターテ会戦での撤退戦指揮に対する報酬だった。同時に第一三艦隊司令官の任命もあった。一介の准将から一気に艦隊司令官へ——同盟軍の人事としては異例の抜擢で、「ミラクル・ヤン」という安っぽいが耳に残る異名が、軍内外に広まりつつあった。
しかし当のヤン自身は、昇進よりも紅茶の方に関心があるように見えた。
統合作戦本部の一室で、彼はぬるくなった紅茶のカップを片手に、山積みになった人事案と装備調達リストを眺めていた。第一三艦隊は新設部隊であり、ゼロから編成しなければならない。人も艦も足りていない。ヤンにとってはそれ以上に、自分がこうした実務に向いていないという事実の方が深刻だった。
歴史を研究し、本を読み、紅茶を飲んで暮らす——それが彼の望む人生であった。だが人生は、望んだ通りにはいかない。それもまた歴史が教える事実のひとつだ。
フレデリカ・グリーンヒル中尉が、ノックもそこそこに室内に入ってきたとき、ヤンはカップを口に運ぼうとしているところだった。第一三艦隊の編成過程で副官に着任したばかりの彼女は、まだヤンとの距離感を測りかねているように見えたが、この瞬間にはそんな余裕はなかった。
「ヤン少将」
フレデリカの顔が尋常ではないことに、ヤンは気づいた。着任以来、常に冷静な態度を崩さなかった彼女が、明らかに動揺している。
「ハイネセン近傍に正体不明の空間異常が出現しました。首都哨戒部隊の一部——二五隻中一四隻と連絡がとれません」
「……空間異常?」
「それだけではありません」
フレデリカは一瞬息を整えてから続けた。
「空間異常の付近に、帝国軍の艦艇が出現しました。首都防衛艦隊が拿捕に成功しています」
ヤンの手が止まった。紅茶のカップが、唇に届かないまま宙に浮いた。
「帝国軍が。ハイネセンに」
「はい」
「……イゼルローン回廊の突破報告は?」
「ありません」
「フェザーン回廊は?」
「同様にありません」
ヤンはカップをテーブルに置いた。その動作は静かだったが、彼の内部では既に思考が加速を始めていた。
帝国軍がハイネセン近傍に出現した。しかし既知の回廊を通過した形跡がない。出現した帝国艦は少数——侵攻部隊の規模ではない。そして、出現は空間異常と同時。
「グリーンヒル中尉、拿捕された帝国艦の隻数は」
「現時点の報告では約二〇隻です。哨戒部隊規模と見られています」
約二〇隻。それはまさに、首都近傍の哨戒任務に就く部隊の一部という規模だった。帝国の首都の。そしてこちらも、二五隻中一四隻が消えている。
ヤン・ウェンリーは、三分とかからずに仮説を組み立てた。
空間異常が、帝国領とハイネセンを直接結んでいる。そして帝国の首都近傍にいた哨戒部隊の一部が、空間異常に吸い込まれてハイネセンに出現した。もしこの仮説が正しければ——
「こちらの通信途絶した一四隻も、帝国側に出現しているのではないか……」
呟くように言ったその推論を、フレデリカは聞き逃さなかった。
「つまり、帝国も今、同じ混乱の中にいる?」
「その可能性が高い、と思う。もちろんこれは仮説だ。情報が圧倒的に足りない。ただ——そうでなければ説明がつかない、と感じる」
ヤンは紅茶のカップに目を落とした。冷めた紅茶の水面に、天井の照明が歪んで映っていた。彼はそこに、報告書で読んだあの暗黒の像を重ねるようにして、事態の意味を考えた。形状の詳細はまだ分からない。観測データは混乱しており、球体のように見えたという報告もあれば、断定を避ける報告もあった。形が確定するには、もっと冷静な観測が必要だった。
もしこの空間異常が安定しているなら——恒常的に帝国の首都とハイネセンを繋ぎ続けているなら——それは、一五〇年の戦争の地理的前提が崩壊したことを意味する。
もし、と言ったところで、ヤンは自分自身に言い聞かせた。仮説の上に仮説を重ねている。観測データはまだ届いていない。出現は局所的な現象かもしれないし、一回限りの異常かもしれない。冷静に考えれば、結論を急ぐべきではなかった。
しかし——もし仮説が当たっているなら、シトレ元帥には早く伝えた方がよい。間違っていれば訂正すればいい。
「……グリーンヒル中尉、この推論をただちにシトレ元帥のオフィスへ回してくれ。ワームホールの可能性あり、と。あくまで仮説だが、検討に値する、と添えてくれ」
シトレ元帥が緊急会議を招集したのは、標準時一一時三〇分のことだった。
統合作戦本部の大会議室に、居合わせた将官たちが急ぎ集まった。ロボス宇宙艦隊司令長官は出席したものの、アスターテの責任問題が取り沙汰される中、その表情には精彩がなかった。巨躯を椅子に沈め、会議の流れを見守る姿勢であったが、積極的に発言する気力はないように見えた。
クブルスリー中将が到着し、ビュコック中将もまた、別の会議を中断して駆けつけた。ビュコックは老齢の提督であったが、その目には会議室の誰よりも鋭い光があった。
会議は冒頭から混乱した。
「帝国の新兵器ではないか。ワープ技術の延長として、空間に穴を開ける技術を実用化した可能性がある」
「先制攻撃の前兆だ。直ちに防衛態勢を最大に引き上げるべきだ。全艦隊をハイネセンに集結させろ」
「いや、拿捕した帝国艦の乗員は全員が困惑している。攻撃の意図を持って来たのではないと証言している。彼ら自身も何が起きたか理解していない」
「敵の証言を鵜呑みにするのか!」
ビュコック中将が、しわがれた声で割って入った。
「新兵器にしては、自軍の哨戒部隊を巻き込むのは迂闊にすぎんかね。帝国軍がそこまで間抜けとも思えんが」
この一言は会議室のヒステリックな空気をいくらか鎮めた。シトレ元帥が机を叩いて正式に静粛を求めた後、視線をヤンに向けた。
「ヤン少将。君はワームホールの可能性について意見があると聞いたが」
ヤンは立ち上がった。少将の階級は、この会議室ではおそらく最も低い。しかしアスターテの武功が、彼の発言に通常以上の重みを与えていた。
「仮説にすぎませんが」
ヤンは前置きしてから、自分の推論を述べた。空間異常が帝国首都近傍とハイネセン近傍を直接結んでいること。帝国側の哨戒部隊の一部がこちらに吸い込まれたのと同様に、こちらの一四隻も帝国側に出現している可能性が高いこと。従って、これは帝国の計画的な軍事行動ではなく、双方にとって予期しない現象であること。
「もしこの空間異常が安定した接続であるならば——つまり、一時的な現象ではなく、恒常的に二つの宙域を結び続けるものであるならば——戦略的状況は根本的に変化します」
会議室が静まりかえった。
「両首都が直接攻撃圏内に入ったということです」
ヤンがその一言を述べたとき、将官たちの顔色が変わるのが、彼にも見えた。
クブルスリー中将が、落ち着いた声で問うた。
「ヤン少将、一つ確認したい。君の仮説は、空間異常が安定した恒常的接続であることを前提にしている。しかし一時的な現象——たとえば数時間、あるいは数日で消失する——という可能性は排除できるのか。もし消失するなら、我々は一時的な怪異のために防衛態勢を根本から組み替えることになる」
合理的な疑問だった。ヤンは頷いた。
「排除できません。しかし逆もまた排除できません。消失するかもしれないし、しないかもしれない。消失しなかった場合の損害が、消失した場合に備えすぎた損害よりも遥かに大きい以上——消失しない前提で備えるべきです」
クブルスリーは数秒考え、次に頷いた。「なるほど。最悪想定で動くのは合理的だ」
シトレ元帥は数秒の沈黙の後、頷いた。
「ヤン少将を、この事態の戦略分析の責任者とする。第一三艦隊の編成作業は一時中断。全面的な協力を命じる」
ヤンは敬礼して着席した。彼は内心、紅茶がもう一杯ほしいと思っていた。それと同時に、奇妙な感覚が背後を通り過ぎていくのを感じていた——イゼルローン攻略のために編成されつつあった第一三艦隊が、その目的を果たす前に、別の事態のために棚上げされた。シトレ元帥から命じられた任務が、同じシトレ元帥の口から、別の任務に置き換えられた。任務そのものは消えていない。「一時中断」という言葉の中に、それは保存されている。しかしいつ再開されるかは、誰にも分からない。それだけのことだ。それだけのことなのに、ヤンには何か、不吉な静けさのように感じられた。
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四
帝国暦四八七年三月一五日、標準時二〇時一〇分。
旗艦《ブリュンヒルト》、オーディン帰還航路上。
ラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将は、アスターテの勝者として凱旋する途上にあった。
旗艦の艦橋には、いつもの静謐な緊張感が満ちていた。金色の髪をなびかせた若き上級大将は、艦橋中央の指揮席で、帰還後の政治的シナリオを頭の中で組み立てていた。
アスターテの勝利は、彼の軍歴における最大の武勲となった。三個艦隊を各個撃破するという鮮やかな戦果は、元帥昇進の推薦に十分すぎるものだった。元帥になれば元帥府を開設できる。独自の人事権を得て、有能な将兵を自らのもとに集めることができる。それは門閥貴族との権力闘争において、決定的な一歩となるはずだった。
「ラインハルト様」
赤毛の友人——ジークフリード・キルヒアイスが、静かに声をかけた。
「アスターテの最終報告がまとまりました。戦果は先の速報通りですが、一点、興味深い事項があります」
「聞かせてくれ」
「叛乱軍の第二艦隊ですが、途中で指揮官が交代しています。最初の指揮官パエッタ中将が負傷で退き、代わって指揮を執ったのが——」
キルヒアイスはデータパッドに目を落とした。
「ヤン・ウェンリー准将。この人物が指揮を引き継いだ後、第二艦隊は見事な撤退戦を行い、第六艦隊の残存兵力とも合流して全滅を免れています」
「准将?」
ラインハルトの眉がわずかに上がった。アスターテの戦場で、帝国軍の圧勝が確定的になった後に、同盟軍の一部が巧みに陣形を組み替えて撤退したことは、ラインハルトも気づいていた。あの見事な撤退戦を指揮したのが、たかだか准将にすぎない人物だとは。
「准将の身で艦隊指揮を引き継ぎ、あの状況を収拾したのか。……面白い男だ。覚えておこう」
もっとも、それ以上の関心は、この時点では示さなかった。ラインハルトにとって、アスターテの撤退戦を指揮した同盟軍の准将は、「有能だが地位の低い敵の一士官」にすぎなかった。彼の思考はむしろ、帰還後の宮廷工作に向けられていた。
その思考が、唐突に中断された。
帝都防衛司令部からの緊急暗号通信。復号された内容を読み上げる通信士の声が、《ブリュンヒルト》の艦橋に響いた。
「オーディン近傍宙域に正体不明の空間異常が出現。首都哨戒部隊の一部が消失。同時に、叛乱軍の艦艇が空間異常付近に出現。帝都防衛部隊が拿捕に成功。状況は混乱中。詳細続報を待て」
艦橋の全員が凍りついた。しかし、凍りつかなかった者が一人いた。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、蒼氷色の瞳を細め、通信内容を二度読み返させた。
「叛乱軍の艦艇が、オーディン近傍に」
その声は静かだったが、明瞭だった。彼の思考は既に走り始めていた。
叛乱軍の艦艇が出現した。しかしイゼルローン回廊の突破報告はない。空間異常と同時に出現した。同時に、帝国の哨戒部隊が消失した。
「……別の経路が存在するのか。空間異常がオーディンと叛乱軍の領域を直接繋いでいるとしたら——」
ラインハルトの目が光った。もしそのような経路が存在し、帝国軍が利用できるなら、イゼルローン回廊を迂回して同盟の首都を直撃できる。一五〇年の戦争の構図を一変させる戦略的革命。
しかし。
「ラインハルト様」
キルヒアイスが、静かに、しかし明確に指摘した。
「同じ経路を敵も使えるということです。そしてその出口は、オーディンの目前にあります」
ラインハルトの思考が一瞬止まった。次の瞬間、彼は苦笑に似た表情を浮かべた。
「攻めるための道は、攻められるための道でもある、か」
英雄的な直感と、冷徹な戦略的判断。その二つを同時に働かせることが、ラインハルトという人物の本質であった。最初の一瞬は攻勢の好機と見た。しかしキルヒアイスの一言で、硬貨の裏面に気づいた。
次の瞬間、ラインハルトは動いた。
「《ブリュンヒルト》、最大戦速。オーディンへ。全艦隊に集結命令を発信——アスターテ参加の全艦隊は直ちにオーディンに帰還し、私の指揮下に入れ」
上級大将として、彼にはアスターテに参加した艦隊に対する指揮権がある。しかし帝都防衛部隊は宮廷の直属であり、ラインハルトの指揮下にはない。副司令長官の権限で帝都防衛の統一指揮をとれるかどうかは、政治的な駆け引きの問題でもあった。
元帥であれば、話は違う。帝国軍元帥は、事実上あらゆる艦隊に対する指揮権を有する。だが今の彼は上級大将にすぎない。アスターテの武功で元帥昇進は確実と見られていたが、それはオーディンに帰還してからの話であり、しかもこの事態で宮廷がどう動くかは予測しがたかった。
ラインハルトは通信士に命じた。
「ミッターマイヤー、ロイエンタール両提督にも、最大戦速でオーディンに向かうよう伝えよ。事情は後で説明する。とにかく急げ、と」
ヴォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタール。ラインハルトが最も信頼する二人の提督は、アスターテには参加せず、それぞれの担当戦域に展開していた。彼らの艦隊がオーディンに集結すれば、帝都防衛部隊を含めた統一指揮権の掌握は、政治的にも軍事的にも容易になる。
「空間異常の出口——あれを握る側が、先に動ける」
ラインハルトはキルヒアイスにそう告げた。そして、ほとんど独り言のように付け加えた。
「元帥昇進は、これで確実になるか。あるいは——この騒ぎで、それどころではなくなるか」
キルヒアイスは答えなかった。代わりに、別のことを口にした。
「ラインハルト様、これは戦争の形を根本的に変えます」
「変える、か」
ラインハルトは前方のスクリーン——星々が流れるワープ空間——を見つめた。
「あるいは、終わらせる」
ラインハルトはそう言って、何か別の言葉を続けようとした。しかし、その言葉は声にならなかった。
キルヒアイスは友の横顔を見ていた。「終わらせる」という言葉の意味を問おうとして、彼もまた、口を開きかけてやめた。問うべき時ではなかった。あるいは、問うても答えが返ってこないことを、キルヒアイスは知っていた。
《ブリュンヒルト》は、最大戦速でオーディンに向かっていた。
本文でも書きましたが、フレデリカ・グリーンヒルはヤンの副官に就任して10日ほどしか経っていない設定です。