五十五
宇宙暦七九六年四月二〇日。「門の日」から三十七日目。
ハイネセン側ワームホール出口、円盤裏側宙域。
同盟軍観測艦《セレネ》艦橋。
マルコ・ザンディ少佐は、艦橋の主観測モニターの前に立っていた。三十代半ばの実務型の士官で、数字と地図に強い、しかし数字と地図以外のものへの関心は薄い、という種類の人物だった。叩き上げで少佐まで上がってきた。これから上がる予定もなかった。それで構わなかった。
モニターには、ワームホール円盤の輪郭が表示されていた。円盤の表面ではなく、裏側の半球——観測艦と観測ブイが日ごとに増えていく、新しい戦線——だった。
ザンディは、配置図に視線を落とした。
「現時点で、観測艦三百七十二隻。観測ブイ、八百四基。配置完了は予定通りです」
副長が、隣の作業卓から報告した。
ザンディは頷いた。
「予定通り、というのは、誰の予定通りなのかね」
「は」
「いや、独り言だ」
ザンディは首を振った。彼は、自分でも気づかないうちに、最近こういう独り言を言うようになっていた。職務上、誰にも漏らせない種類の疑問が、独り言の形でだけ口から出る。それは、彼が経験したことのない種類の感覚だった。
モニターの上で、観測艦の配置を示す光点が、円盤の裏側半球に広がっていた。光点はまだ間隔を空けて並んでいたが、明日にはもう少し詰まり、明後日にはさらに詰まる予定だった。観測艦の追加派遣は、ハイネセンから日ごとに行われていた。
ザンディは、合意文書のコピーを机の引き出しに入れていた。文書はよく書かれていた。論理は通っていた。曖昧さも少なかった。裏側半球についても、条文は明示的に触れていた——「ワームホール円盤の裏側半球における艦艇配置は、観測目的に限定する」。ヤン・ウェンリー少将が交渉の席で加えさせた一文だった。この一文があるからこそ、ザンディの任務は明確だった。戦闘艦でも駐留部隊でもなく、観測艦。それ以外の艦種を裏側に置くことは、条文が封じていた。
「少佐」
副長の声で、ザンディは現実に戻った。
「明日の追加派遣の件で、本部から照会が来ています。観測艦十二隻、観測ブイ二十四基。これで配置密度が、計画値の一・四倍になります」
「計画値の一・四倍、か」
ザンディはモニターから視線を上げた。
「なぜ一・四倍なんだ。一倍ではないのか」
「『帝国側の観測体制の進捗を踏まえて、上方修正された』とあります」
「帝国側の観測体制の情報は、どこから来ている」
「フェザーン経由だそうです。最近、この手の情報は、ほぼ全てフェザーンの商人を経由して入ってきます」
副長の答えには、わずかな諦めがあった。ザンディも頷いた。同盟軍の情報部門がフェザーンから情報を買っている、という事実は、ここ数週間で公然の秘密になりつつあった。
ザンディは、モニターの配置図に視線を戻した。
同盟軍の観測艦は、ハイネセン側ワームホール出口の裏側半球に配置されている。この宙域はハイネセンから約八〇万キロメートル、同盟領空の内側にあった。オーディン側の出口とは、物理的には何万光年も離れている。両者は、ワームホールの内部を通じてのみ繋がっていた。したがって、同盟軍の観測艦は、ハイネセンから通常空間を普通に航行してここに到達する。ワームホールを通過する必要はなかった。帝国側観測艦を直接観測することも、物理的に不可能だった。
それなのに、同盟側も帝国側も、相手方の観測艦の配置数を、ほぼ正確に把握していた。情報源はフェザーンだった。フェザーンが両陣営の情報を双方に売ることで、両陣営は「相手がどれだけ配置しているか」を知り、それに合わせて自陣営の配置を増やしていた。直接見えない相手と軍拡競争をする——そのための仲介者が、フェザーンだった。
配置区域については、本部からの指示が繰り返されていた。「観測艦は裏側半球に限定せよ。警戒線の内側には絶対に入れるな。解釈の余地を相手に与えるな」。合意文書が禁じているのは「警戒線の内側への探査機の投入」であって、観測艦を円柱内に入れることは文面上の違反ではない。しかし本部は、その「文面上の違反ではない」という解釈そのものを嫌っていた。ザンディも同じ考えだった。現場の方が、文書よりも早く危険を察知する。
ザンディは、もう一つの疑問を、心の中で口にしかけて、やめた。この疑問は、誰にも向けられない種類の疑問だった。
純粋にワームホールからの帝国軍の出現を監視するだけなら、こんなに多くの観測艦と観測ブイは要らなかった。ワームホールの位置は固定されている。監視すべき宙域も固定されている。長距離レーダー数基と光学観測装置数基、それと通信中継艦数隻——合わせて二十隻ほどの観測艦と、五十基ほどの観測ブイ。これで足りるはずだった。帝国軍の艦艇が円盤の表側から出現した瞬間を検知し、即座に本国に伝達する。それが「出現監視」という任務の本来の姿だった。
今、ザンディが指揮している配置は、観測艦三百七十二隻、観測ブイ八百四基だった。本来の任務の、おおよそ十五倍の規模だった。
十五倍の規模は、任務上の必要性からは説明できなかった。別の論理が三つ、重なっていた。
一つ目は、技術研究部門の要求だった。ハイネセンの研究部門は、ワームホール円盤そのものの物理的性質を継続的に観測したがっていた。円盤の縁の空間歪曲、通過時の電磁気的挙動、円盤の厚さの微小な変動。これらを異なる角度から多方向に観測するには、異なる種類のセンサーを多数展開する必要があった。研究部門にとって、観測艦は「出現監視の装置」ではなく、「物理観測の装置」だった。そして研究部門は、ワームホール内長距離センサーの開発競争で先行するために、一基でも多くのデータを欲しがっていた。
二つ目は、軍拡競争の論理だった。フェザーン経由で「帝国側が配置を増やしている」という情報が入れば、同盟側も増やさざるを得なかった。増やさないという選択は、「弱気」あるいは「情勢判断の誤り」と解釈されかねない。相手が技術研究を急いでいるのであれば、こちらも急ぐ必要がある——そう主張するために、配置数の増加は「既に増えている」という事実そのものを根拠にしていた。一度増え始めた配置は、止まる理由を持たなかった。止めるためには「相手が止めた」という情報が必要だが、そんな情報はフェザーンからは来なかった。フェザーンは、両陣営が増やし続けることで商売になる。商人にとって、軍拡競争が止まるのは、商売が終わることだった。
三つ目は、予算の論理だった。ワームホール戦線は「重要な戦線」として議会から特別予算を確保していた。一度確保された予算は、年度内に使い切らなければ、翌年度は削減される。それが同盟軍の予算制度だった。観測艦と観測ブイの追加派遣は、予算を消化する最も簡単な手段だった。必要があるから派遣するのではなく、派遣しなければ予算が削られるから派遣する——その論理は、現場のザンディにも本部の予算担当者にも、口に出せない種類の論理だった。しかし口に出せないからといって、存在していないわけではなかった。むしろ、口に出せないからこそ、現場の配置図の上で確実に機能していた。
技術研究の要求、軍拡競争の論理、予算消化の論理——この三つが重なって、本来の任務の十五倍の規模の配置を、正当化していた。どれか一つだけでは足りなかったかもしれない。しかし三つ重なれば、「配置を減らすべきだ」と主張することは、ほとんど不可能になる。三つのうちどれか一つを否定すれば、他の二つの側から反論が来る。三つ全てを同時に否定しなければ、配置を減らす論拠にならない。そして三つ全てを同時に否定できる人間は、現場にも本部にも存在しなかった。
ザンディは、自分の疑問を、再び心の奥に沈めた。疑問を口にしたところで、配置は減らない。配置が減らない以上、疑問は現場の負担にしかならない。負担は、少ない方がよかった。
「分かった。受領しろ」
ザンディは短く言った。
副長は敬礼して、自分の作業卓に戻った。
ザンディは、再びモニターに視線を落とした。光点は、まだ増え続けていた。ただし、ここ数日、増加のペースは確実に鈍っていた。物理的に、監視対象の円盤は有限の大きさを持っている。任務に必要な密度を超えたあたりから、追加派遣のペースは自然に落ち始めていた。どこかで飽和が来る。ザンディはその飽和の手前にいることを、光点の広がり方から読み取っていた。
しかし、飽和は終着点ではないだろう、とザンディは思った。本部からの通達には、最近、観測艦の追加派遣と同じ頻度で、別の案件が混ざるようになっていた。ワームホール内長距離センサーの開発試験、通過実験装置の予備評価、研究艦の派遣計画。名前は様々だが、要するに、数から質への移行が、本部の頭の中では既に始まっていた。光点の増加が止まる日が来ても、別の形の増加は止まらない。ザンディは、その予感を、今日も心の奥に沈めた。
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五十六
帝国暦四八七年四月二〇日。「門の日」から三十七日目。
オーディン側ワームホール出口、円盤裏側宙域。
帝国軍観測艦《ザイデンシュトラーセ》艦橋。
オットー・フォン・グレーフェ大尉は、艦橋の主観測モニターを見ていた。二十代後半の若い士官で、貴族の出自だが家は貧しく、本人は実務派だった。要塞司令部で参謀補佐を務めていたところを、ワームホール戦線の観測艦勤務に転属させられた。希望して来たわけではなかったが、嫌がって来たわけでもなかった。
モニターには、円盤の裏側半球の三次元地図と、その上に散らばる帝国側観測艦の配置が表示されていた。
「現在の配置数、観測艦三百八十一隻。観測ブイ八百二十二基。配置完了は予定通りです」
部下の通信士官が報告した。
グレーフェは、数字を聞いて、わずかに眉を寄せた。
「同盟側の最新の配置数は」
「観測艦三百六十前後、観測ブイ八百前後と推定されます。我々の方が、わずかに多い状態です」
「わずかに多い、という言い方は不正確だな。具体的な差は」
「観測艦で約二十隻、観測ブイで約二十基」
グレーフェは頷いた。
「ということは、あちらの追加派遣のペースが、こちらと同じだとすれば、二、三日でこちらの優位は消える計算だ。あちらの追加派遣のペースは把握しているか」
「断片的には。明日、観測艦十二隻と観測ブイ二十四基の追加派遣が行われる、という情報があります」
「ということは、明日中にあちらは我々を上回る」
グレーフェは、椅子に座った。観測艦《ザイデンシュトラーセ》の艦橋には、動きがほとんどなかった。観測艦の任務は静的だった。配置に着き、センサーを起動し、データを収集し、データを送信する。それだけだった。戦闘艦のような緊迫した瞬間はない。しかし、緊張がないわけではなかった。緊張は、別の形で艦橋に居座っていた。
グレーフェは、自分の任務が「軍事行動」ではないことを知っていた。「軍事行動」は、ワームホール戦線における不交戦合意によって禁じられている。観測艦の配置は「観測活動」であり、合意文書はそれを明示的に認めていた——「ワームホール円盤の裏側半球における艦艇配置は、観測目的に限定する」という一文。この一文は、裏返しに読めば、戦闘艦の配置を条文上禁じている。しかし観測艦なら置ける。文面上は、彼の任務は完全に合法だった。
合法性の奇妙さは、別のところから来ていた。
司令部は同盟側の配置数を把握している。しかしその数字は、グレーフェ自身のセンサーが捉えたものではなかった。出所はフェザーンだった。
「大尉」
通信士官が、再び呼んだ。
「司令部から追加情報です。同盟側が、明日、観測艦十二隻と観測ブイ二十四基を追加派遣する見込み、とあります」
「出所は」
「フェザーン経由、とあります」
グレーフェは頷いた。予想通りだった。
「向こうもこちらを見ている。こちらも向こうを見ている。ただし、見ているのは互いの艦ではなく、互いに関する報告書だ。そして、その報告書の出所は——同じ一つの売り手だ」
通信士官が、わずかに眉を寄せた。グレーフェの言い方の意味を理解するのに、一瞬の時間が必要だった。
「つまり、我々と同盟は、同じ情報源から、互いに関する情報を買っている、ということですか」
「そうだ」
「それは……奇妙ですね」
「奇妙だな」
グレーフェは短く同意した。軍人として、彼は敵の情報を自陣営の諜報網から得ることに慣れていた。敵の情報は、敵から盗むものだった。工作員を送り込み、暗号を破り、偵察機を飛ばす——それが情報の取り方だった。しかし今、帝国と同盟の両方が、同じ一つの商人から、互いに関する情報を買っている。同じ井戸から、二つの陣営が交互に水を汲んでいる。その井戸の水質を管理しているのは、商人だった。
グレーフェは、その状態を言語化する言葉を持たなかった。軍人の語彙には、そういう状態を指す言葉がなかった。しかし嫌悪感は、はっきりとあった。それは「敵を憎む」という種類の嫌悪ではなかった。「取引の構造そのものに巻き込まれていることへの、冷たい居心地の悪さ」だった。
その嫌悪感を、グレーフェは口には出さなかった。出したところで、誰かに届けられる種類の感情ではなかった。
グレーフェは、モニターの配置図に視線を戻した。帝国側の観測艦の光点が、円盤の裏側半球に整然と並んでいた。彼の観測艦は、裏側半球の外縁近くに配置されていた。警戒線——円柱状の宙域の内側——には、観測艦を入れていなかった。合意文書は、警戒線の内側への探査機の投入を明示的に禁じている。しかし観測艦については、文書は何も書いていなかった。厳密には、観測艦を円柱内に入れることは違反ではない。
しかし、誰も入れていない。本部からの指示もそうだった——「文面が観測艦を禁じていない、という解釈を相手に与えるな。観測艦は裏側半球に限定せよ」。文書の文面より、文書の精神を守れ、という指示だった。
グレーフェは、椅子に深く座り直した。
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五十七
円盤の裏側。
暗黒の宇宙空間の中に、巨大な真円の円盤が浮かんでいる。直径約一万二千キロメートル。円盤の表面は、光を反射せず、光を吸収もしない、漆黒よりもさらに深い黒。
その円盤の裏側半球——つまり、相手陣営に向いていない側——に、無数の小さな光点が集まっていた。
光点の数は、千を超えていた。観測艦の航行灯、観測ブイの作動表示灯、データ送信のレーザーの輝き。光点は、円盤の表面に貼り付くように配置されていた。物理的には、観測艦は円盤の数十メートル以内まで接近できたが、円盤そのものには触れられなかった。
遠目には、円盤の縁に沿って星雲のように光が滲んでいるように見えた。
それは星雲ではなかった。人間が三十七日間で配置した、人工の構造物の集合だった。
「暗黒の円盤に、人間が貼り付けた星々」。
貼り付けた、という言葉は正確ではなかった。観測艦は円盤に貼り付いているように見えるが、実際には貼り付いていない。永遠に触れていない。物理的な距離はゼロに近いが、絶対に交わらない。
同じ光景が、もう一つ、何万光年離れた別の宙域で、同時に成長していた。
二つの光景は、並行して存在していた。しかし、どちらの光景も、全体として目撃する者はいなかった。観測艦の艦橋にいる者は、自分の艦の周囲しか見ていなかった。司令部にいる者は、配置図と数字しか見ていなかった。
光景は、誰にも見られないまま、二つの宙域で静かに光を増やしていた。
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五十八
宇宙暦七九六年四月二一日。「門の日」から三十八日目。
ハイネセン、捕虜収容所。
ハンス・ディートリヒ・フォン・ゼーフェルト大佐は、独房の窓から外を見ていた。窓は小さく、視界は限られていたが、夜空の一部が見えた。今日の夜空には、薄い雲がかかっていた。
看守の交代の音が、廊下から聞こえた。鍵束の音、足音、扉の開閉。看守たちの会話の断片。
最近、看守たちの会話の質が変わっていた。以前の気軽な雑談——仕事の愚痴、家族の話、休日の予定——が減り、代わりに緊張のある断片が増えていた。「今日も増えた」「向こうも同じだそうだ」「いつまで続く」。何が動いているのかは、ゼーフェルトには分からなかった。ただ、動いていることは確かだった。
彼は、捕虜になってまもない頃の、あの夜のことを思い出していた。看守に聞こえたかどうかすら分からない独り言——「首都同士が直結しているなら、戦争はやりにくくなるかもしれんな」——が、後に同盟側の報道で「帝国軍の高級将校が講和の可能性に言及した」として引用された経緯を、彼は事後的に知っていた。窓の外の夜景を見て、攻撃すれば自分の首都も攻撃されるという単純な事実を軍人として口にしただけだった。それを「講和の可能性への言及」と読むのは、聞き手の側の読み替えだった。
しかし、訂正する手段は、彼にはなかった。
ゼーフェルトは、独房の壁に背を預けた。自分の言葉が、自分の手の届かない場所で別の意味を持ち始める——それは、最初は腹立たしかった。次に、悲しかった。今は、もう、何も感じなかった。
もし自分が祖国に戻れたら、この一ヶ月をどう説明するだろうか。捕虜になった経緯、尋問、看守との日常的なやりとり、歪められた自分の言葉。事実そのものは記録できる。日付、場所、人物、出来事。しかし、それらの間に流れていた何かは、説明できなかった。看守たちとの会話の中に、敵意以外のものがあったこと。同盟側の尋問官たちが、彼を一人の人間として扱おうとしていたこと——それらは、説明しても、祖国の同僚たちには伝わらないだろう。
うまく説明できないだろう、と彼は思った。
ゼーフェルトは、目を閉じた。廊下で看守の足音が遠ざかっていった。
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五十九
オーディン、捕虜収容所。
エレーナ・グリシャム中佐は、独房の壁に背を預けていた。
拘置室の調度は、最初の日と同じだった。硬い寝台、硬い椅子、窓は小さい。変わったのは、壁越しに聞こえてくる看守たちの会話の質だけだった。
グリシャムは耳を塞がなかった。塞いでも聞こえてしまうからだった。帝国語の意味が勝手に頭に入ってきて、単語が文脈に繋がり、文脈が文になる——それは、自分の意志では止められない種類の作用だった。四十代前半になる今まで、この能力は彼女の誇りだった。今は、眠りを奪う道具になっていた。
最近、看守たちの会話に、これまでなかった言葉が混じるようになっていた。
「観測艦」
最初にその言葉を耳にした時、グリシャムは単なる艦種の話だと思った。しかし、文脈は別のものを示していた。「裏側半球」「観測目的なら置ける」「向こうも同じことをしている」「日ごとに増えている」——断片が、壁の向こうから、数日にわたって飛んでくる。彼女はそれらを頭の中で並べ直した。観察したものを報告書のように整理する習性は、捕虜になっても止まらなかった。
並べ終えた時、彼女は一つの光景を想像した。ワームホール円盤の裏側半球に、両陣営が大量の観測艦を展開している。観測目的に限定すると規定された宙域で、新しい形の軍拡競争が進行している。自分の想像が正しいという保証はなかった。しかし断片の整合性から判断するに、おそらく正しかった。
その想像が正しいなら——彼女の頭の中で、次の連鎖が動いた。
捕虜になった日に、尋問室で彼女が口にした一言。
あの時、尋問官は「通過中、部隊の統制は維持できていたのか」と問うた。グリシャムは少し考えてから、「通過中、我々の部隊は統制を維持できていた」と答えた。事実に近い答えだった。あの暗黒の中で、通信パネルにかすかなノイズが走ったのを、グリシャムは確かに聞いていた。完全な孤立ではなかった。しかし「部隊の統制」と呼べるほどの何かが成立していたかと言えば、そうではなかった。音が聞こえた、というだけのことだった。
彼女はその音を、「統制の維持」という言葉に翻訳した。翻訳の過程で、事実の輪郭は少しだけ膨らんだ。膨らんだ分だけ、聞いた側の解釈の余地が広がる。それが計算だった。自軍が「通過中に完全に孤立した」と見られるより、「何らかの統制を維持していた」と見られた方が、捕虜としての交渉価値が高まる。帝国側は、その一言の裏に「同盟軍はワームホール内で指揮統制を保つ何らかの方法を知っているのではないか」という仮説を置く。その仮説は、帝国側の疑念として保管され、慎重に検証されるだろう。検証には時間がかかる。検証している間、帝国はワームホール戦線での性急な行動を控える——それが彼女の狙いだった。控えめな効果を、控えめに期待していた。
しかし、壁越しに聞こえてくる断片は、別のことを告げていた。帝国側の反応は、彼女の予想を超えていた。「慎重に検証する」ではなく、「同盟側が何らかの技術的優位を持っている」という前提で、自陣営の研究と諜報を全力で加速させていた。観測艦の集結も、その流れの一部だった。
彼女の一言が、帝国の軍事政策に実際に影響を与えていた。
達成感は、なかった。
グリシャムは、自分が祖国に戻った時に書くことになるだろう報告書の欄を、ぼんやりと思い浮かべた。氏名、階級、捕虜期間、尋問の概要、得られた情報の断片。フォーマットは決まっている。彼女はそのフォーマットに、自分の経験を収めることになる。「通過中、我々の部隊は統制を維持できていた」という一言と、その一言の効果として両陣営の軍拡競争が加速したという事実——この二つは、同じ欄には収まらなかった。前者は「尋問時の対応」の欄に収まる。後者は——収まる欄が存在しなかった。
報告書のフォーマットには、自分の一言が敵の軍事政策を動かした、という種類の効果を書く場所はなかった。書く場所がないことは、その効果が存在しないことを意味するわけではなかった。ただ、報告書の中では、その効果は沈黙することになる。
グリシャムは、壁に背を預けたまま、目を閉じた。
独房の窓から、オーディンの夜空が見えた。薄い雲がかかっていた。同じ時刻にハイネセンでも薄い雲がかかっていることを、彼女は知らなかった。
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六十
ハイネセン、ヤン・ウェンリーの執務室。
ヤンは、机の上に置かれた一枚の報告書を読んでいた。
報告書のタイトルは、「ワームホール戦線・観測艦配置状況・第三十七日目」だった。情報部門が日次で作成している報告書の一つで、ヤンの机には毎朝届くようになっていた。
ヤンは、報告書の数字を読んだ。観測艦の配置数。観測ブイの配置数。前日比の増減。帝国側の推定配置数。比較分析。
彼は、報告書を最後まで読んでから、それを閉じた。
フレデリカが、紅茶のカップを机の隅に置いた。
「ありがとう」
ヤンは紅茶のカップを取って、一口飲んだ。
「閣下」
フレデリカが、わずかに口を開いた。それから、口を閉じた。何かを言いかけて、やめた。
ヤンは、フレデリカの顔を見上げた。
「いや、何でもありません」
フレデリカはそう言って、自分の机に戻った。
ヤンは、フレデリカの「何でもない」が、何でもないわけではないことを知っていた。彼女が言いかけてやめる言葉は、たいてい、ヤン自身が考えたくない種類の言葉だった。今日もまた、そうだろう。
ヤンは、報告書の表紙に視線を落とした。
「ワームホール戦線・観測艦配置状況・第三十七日目」——表題の下の連番は、明日には「第三十八日目」になる。明後日には「第三十九日目」。情報部門の誰かが最初に「第一日目」と振った時、彼はおそらく終わりの日を想定していなかった。連番は、機械的に進む。終わりがないまま進む。
ヤンは、報告書を机の引き出しにしまった。引き出しの中には、過去三十六日分の同じ報告書が、日付順に並んでいた。
引き出しを閉める手が、一瞬、止まった。その一瞬の間に、ヤン自身にも言語化されない何かが通り過ぎた。言語化されないまま、手は動きを再開した。引き出しは閉まった。
紅茶のカップを、ヤンはもう一度傾けた。紅茶は、まだ温かかった。窓の外では、ハイネセンの春の午後の光が、執務室の床に細い線を描いていた。
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六十一
オーディン、元帥府、控室。
ジークフリード・キルヒアイス少将は、オーベルシュタインの隣に立っていた。
オーベルシュタインの手元には、報告書のコピーがあった。「ワームホール戦線・観測艦配置状況・第三十七日目」——同盟側のヤン・ウェンリーの机にあるのと同じ表題の、帝国側の版だった。
「順調に進捗しております」
オーベルシュタインの声は、いつもの通り、平坦だった。
「我が方の配置数は、観測艦三百八十一隻、観測ブイ八百二十二基。同盟側の推定配置数は——フェザーン経由の情報に基づけば——観測艦三百六十前後、観測ブイ八百前後。わずかに上回っています。ただし、ここ数日、双方の増加ペースには鈍化の兆しがあります。配置が物理的な飽和に近づきつつあるためと分析しております」
「飽和、か」
「はい。数の増加は、いずれ止まります。しかし、それは戦線の静謐化を意味しません。既に、技術開発と諜報活動への予算配分を、観測艦追加派遣の予算から段階的に移し替える計画を進めております。数の競争から、質の競争への移行です。次の段階は、すでに始まっております」
キルヒアイスは、報告書を手に取った。数字を読んだ。
「次の段階は、すでに始まっている」
彼は、その一文を、無意識のうちに声に出していた。
オーベルシュタインの義眼が、キルヒアイスの方に向いた。
「閣下、何かご懸念が」
「いえ」
キルヒアイスは、首を振った。報告書を、オーベルシュタインの手元にそっと戻した。戻す手が、一瞬だけ、止まった。意味のない仕草だった。意味のない仕草が、彼の手から出ていた。
キルヒアイスは、控室の窓の外を見た。オーディンの夜空は、いつもと同じだった。星の配置も、月の位置も、空の色も、何も変わっていなかった。
数字は、千個の光点を「千」という一文字で表現する。その「千」という一文字が、いずれ、別の一文字に置き換わる日が来る。置き換わった先にあるのは、センサー性能という数字、通信技術という数字、開発進捗という数字——どれも、報告書の表に整然と並ぶだろう。しかし、その整然と並んだ数字の重さは、今日の「千」の重さよりも、読み取りにくくなる。読み取りにくい重さは、読み取りやすい重さよりも、押し返しにくい。キルヒアイスは、その読み取りにくさの予感を、自分の手のひらの中に感じていた。手のひらは空っぽだったが、その空っぽさが、重かった。