深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第十三話「深淵を覗く者」

六十二

 

 帝国暦四八七年四月二三日。「門の日」から四十日目。

 

 オーディン、ブラウンシュヴァイク公爵邸。

 

 四十日ぶりに、同じ応接間に同じ顔ぶれが集まっていた。ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯、フレーゲル男爵、その他の高位貴族。そして末席に近い位置に、ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将が、先回と同じように座っていた。

 

 四十日前と違う点が、一つあった。あの時、部屋の空気を支配していたのは「怒り」だった。怒りには、まだ楽観が含まれていた——怒っているうちは、宮廷に請願し、陛下の耳に届け、正当な手続きで押し戻せるという、漠然とした期待があった。今日、部屋の空気を支配していたのは、怒りではなかった。怒りよりも冷たく、怒りよりも重い、別のものだった。

 

 「諸君」

 

 ブラウンシュヴァイク公は、先回よりも低い声で切り出した。

 

 「四十日が経った。この四十日の間に、ローエングラム伯は元帥府を開いた。ワームホール戦線の管理権は、完全にあの男の手中にある。カストロプの動乱は、あの男の腹心によって鎮圧された。我々が宮廷に出した請願は、却下の形式すら踏まれずに放置されている。陛下の耳に届いたかどうかも、定かではない」

 

 ブラウンシュヴァイク公は、一度、言葉を切った。

 

 「私は、この四十日、言葉を尽くして宮廷に訴え続けた。無駄だった。言葉では、もはや何も動かない」

 

 リッテンハイム侯が、ワインのグラスを傾けた。先回は傾けるだけだった動作に、今日は、わずかな苛立ちが混じっていた。しかし、その苛立ちもまた、表面に現れることは抑えられていた。

 

 「公爵閣下のお嘆きは、我々の嘆きでもあります。宮廷を通じた手続きが機能しなくなったということは、我々が——正当な手段を失いつつあるということです。それを認めるのは、不愉快ですが、認めなければならない時期が来ています」

 

 「認めた上で、どうなさるおつもりか」

 

 末席近くから、メルカッツが静かに問うた。声には、今日も感情の起伏がなかった。

 

 ブラウンシュヴァイク公は、メルカッツを見た。しかし、その目は、答えを持っている者の目ではなかった。

 

 「組織的な対応を、考えねばならぬ時期だ。個々の家がばらばらに請願を出している間は、あの男に押し戻される。しかし、帝国の伝統を重んじる家々が、一つの意志の下で動けば——事情は違ってくる」

 

 「一つの意志の下で、とは」

 

 「いずれ、具体的な形を取るだろう。今日の集まりは、その前段階だ。今日ここで決めるのは、我々が一つの意志を共有する用意があるかどうか、それだけだ」

 

 メルカッツは、ブラウンシュヴァイク公の言葉を、静かに聞いていた。「組織的な対応」「一つの意志の下」——言葉は整っているが、具体的な形は、まだ何も決まっていない。いや、決まっていないというより、決める準備ができていない。四十日前の怒りが、四十日後に冷たい認識に変わっただけだった。認識は変わった。しかし、認識を行動に移す段階には、まだ達していない。

 

 その時、末席のフレーゲル男爵が、突然、身を乗り出した。

 

 「叔父上。いずれ、ではありません。今でございます。今こそ、ローエングラム伯の専横を、力で押し返すべき時です。正当な手続きが機能しないのであれば、正当ではない手続きを用いるしか——」

 

 「フレーゲル」

 

 ブラウンシュヴァイク公は、短く甥を制した。声には、叱責ではなく、疲労があった。

 

 「その話は、今日の場にはふさわしくない。今日ここで語るべきは、認識の共有だ。行動の話ではない。行動を語るには、早すぎる」

 

 「しかし、叔父上——」

 

 「早すぎる、と言った」

 

 ブラウンシュヴァイク公は、もう一度、今度は少しだけ強い声で繰り返した。

 

 「今は、叛徒どもが健在だ。帝国と叛徒どもの戦争は、ワームホール戦線を除けば、依然として続いている。この状況で帝国内部の力を内向きに使えば、叛徒どもに付け入る隙を与える。力の行使には、時期というものがある。その時期は、まだ来ていない。——いつ来るかは、誰にも分からない。しかし、今ではない」

 

 フレーゲル男爵は、不服そうに座り直した。しかし反論はしなかった。他の貴族たちも、口を開かなかった。部屋の空気には、フレーゲルの発言への同意と、ブラウンシュヴァイク公の制止への同意が、奇妙な比率で混在していた。どちらを完全に支持することもできない状態で、貴族たちは沈黙を選んでいた。

 

 メルカッツは、その沈黙を観察していた。「時期はまだ来ていない」というブラウンシュヴァイク公の言葉は、半分は正しかった。叛徒どもが健在である限り、帝国内部の武力抗争は帝国そのものを危険に晒す——その認識は正しい。残りの半分をメルカッツは言葉にしなかった。今の門閥貴族たちの優柔不断が、結果として帝国を延命させている——その逆説までは、今日、部屋の空気には収まらなかった。

 

 やがて、ブラウンシュヴァイク公が、話を収めた。

 

 「本日の会合の結論は、一つだ。我々は、ローエングラム伯の専横に対して、組織的に対応する必要性を、認識した。認識を共有した。それが今日の成果だ。具体的な形については、情勢を見ながら、改めて協議する」

 

 ブラウンシュヴァイク公は、そこで一度、言葉を切った。

 

 「ただし——一つだけ、今日この場で決めておかねばならぬことがある」

 

 貴族たちの視線が、ブラウンシュヴァイク公に集まった。

 

 「今後、我々の連絡は、通常の宮廷経路を使わぬ。宮廷の文書系統には、ローエングラム伯の影が、どこまで届いているか分からぬ。各家は、次回以降の連絡のために、私設の使者を一人ずつ指名せよ。その使者の名と所在、および各家の私的な連絡先を、本日中にリッテンハイム侯の秘書官に預けられたい。秘書官のもとで、一括して管理する。今後の会合の通知、書簡のやり取り、必要があれば物資のやり取りも、この私設の経路で行う」

 

 リッテンハイム侯が、静かに頷いた。

 

 「我が家の秘書官は、帝国内務省の文書官経験者だ。情報の管理には慣れている。安心してお預けいただきたい」

 

 「もう一つ」

 

 ブラウンシュヴァイク公は続けた。

 

 「各家は、次回の会合までに、当座の運営資金として同額を拠出されたい。額は追って通知する。多寡は問題ではない。大事なのは、全員が同じ額を拠出したという事実だ。拠出の記録は、使者の記録と共に、秘書官のもとで一括管理する」

 

 フレーゲル男爵が、今度は満足げに頷いた。他の貴族たちも、一人また一人と頷いた。規約のような大仰な文書はなかった。署名もなかった。しかし、「私設の連絡経路」と「共同の運営資金」という二つの事務的な決定は、言葉だけの場とは違う重みを持っていた。

 

 メルカッツは、この二つの決定を、黙って聞いていた。

 

 貴族たちは、頷いた。反対の声は上がらなかった。賛成の声も、大きくは上がらなかった。しかし先ほどまでの「認識の共有」とは、明らかに質の違う沈黙だった。言葉だけの場が、事務の場に変わった瞬間を、部屋の全員が感じ取っていた。

 

 メルカッツは、立ち上がった。

 

 「本日の御議論は、承りました。私設の連絡経路の件および拠出金の件につきましては、私個人としては、いずれも辞退させていただきます。私は、帝国軍人として、引き続き本務に当たります。失礼いたします」

 

 辞退の言葉は、短かった。余計な装飾はなかった。それは拒絶ではなく、距離の表明だった。ブラウンシュヴァイク公は、引き留めなかった。リッテンハイム侯は、わずかに眉を動かしたが、言葉は発さなかった。メルカッツは、静かに部屋を出て行った。

 

 帰途の車中で、メルカッツは目を閉じた。先回と同じ姿勢だった。先回は「守るべき秩序の内部に能力がないとき、忠誠は何に向けられるべきなのか」という問いを持ち帰った。その問いに対する答えを、彼はまだ持っていない。今日もまた、同じ問いを持ち帰ることになる。

 

 しかし、今日は、先回とは決定的に違うことが、一つあった。

 

 今日の会合で共有されたのは、「組織的な対応の必要性」だけではなかった。ブラウンシュヴァイク公が最後に置いた二つの小さな決定——私設の連絡経路の設置と、共同の運営資金の拠出——が、この会合の本当の重心だった。「認識の共有」という言葉は、前半の飾りに過ぎなかった。後半の五分間で、貴族たちは、宮廷制度の外側に、自分たちだけの細い線を引いた。その線は、まだ連合ではない。まだ規約もない。まだ署名もない。しかし、連絡先の名簿と拠出金の記録という二つの実務は、一度動き出せば、止めるのが難しい種類のものだった。

 

 メルカッツは、目を閉じたまま、車の揺れに身を任せた。窓の外では、オーディンの街並みが、いつもと同じように流れていた。何も変わっていないように見える街並みの下で、帝国の骨組みが、少しずつ、音を立てずに軋み始めていた。

 

 軋みは、まだ亀裂にはなっていない。しかし、軋む場所では、いずれ亀裂が生じる。それは、メルカッツにとっては、ほとんど確信に近い予感だった。答えを出さねばならない日は、まだ来ていない。しかし、来ないわけではない。その日までに、残された時間は、今日、目に見えないところで、少しだけ短くなった。

 

---

 

六十三

 

 帝国暦四八七年四月二四日。「門の日」から四十一日目。

 

 フェザーン自治領、自治領主府。

 

 アドリアン・ルビンスキーは、窓際に立っていた。眼下に広がるフェザーンの街並みは、四十一日前とほとんど変わらない活気に満ちていた。物の流通は続いている。両替所には長い列がある。宿屋は満員だ。表面だけを見れば、ワームホールの出現はフェザーンの日常に何の影響も与えていないように見えた。

 

 表面だけを見れば、の話だった。

 

 ルビンスキーの背後には、補佐官のルパート・ケッセルリンクが立っていた。彼の手元には、この四十一日間に積み上がった一連の報告書があった。ルビンスキーの指示で作成された、フェザーン情報網の成果の総括だった。

 

 「閣下」

 

 ケッセルリンクが、冷静な声で口を開いた。

 

 「総括をお伝えします」

 

 「頼む」

 

 ルビンスキーは窓の外を見たまま、答えた。

 

 「この四十一日間で、フェザーンの情報収入は、前年同期比の約七倍になりました。物の仲介による収入は、予想通り減少しています——ワームホールによる直接貿易の可能性が囁かれるだけで、従来の通路を経由する貨物の保険料率が下落し始めています。しかし、情報仲介の収入がその減少を大きく上回っています。差し引きで、フェザーンの歳入は、この四十一日間で一・八倍になりました」

 

 「一・八倍、か」

 

 ルビンスキーは、わずかに口の端を持ち上げた。

 

 「内訳は」

 

 「両陣営への情報仲介がほぼ全てです。帝国側からは同盟側の観測艦配置数・研究進捗・政治動向。同盟側からは帝国側の同じ情報。両者は、互いに関する情報を、ほぼ等量、我々から買っています。それぞれが、自陣営の諜報網の成果だと思っているようですが——実際には、同じ情報を二度売っています」

 

 ケッセルリンクは、次の報告書の束を取り出した。

 

 「一つ、御判断を仰ぎたい案件があります。カストロプ動乱の結果です。帝国側では既に詳細が報告されています。一五〇〇隻の寡兵で、アルテミスの首飾り型防衛網が破られた——その事実と、突破の手段についての情報を、我々は帝国側から先に入手しました。同盟側には、まだ断片的にしか伝わっていません。この情報を同盟側にどう流すかについて、閣下の御指示を」

 

 「流せ」

 

 ルビンスキーの返答は、即座だった。

 

 「しかし、閣下——」

 

 ケッセルリンクは、一拍躊躇した。

 

 「これは、同盟の首都防衛体制を根本から動揺させる情報です。同盟政府と軍上層部は、ハイネセンの首飾り型の信頼性を再評価せざるを得なくなります。国防予算の再編、諜報予算の倍増、観測艦のさらなる追加派遣——同盟側の軍事支出は、大きく変動するでしょう。その変動は、フェザーンにとって必ずしも望ましい方向ばかりとは限りません」

 

 「『望ましい』という言葉の定義による」

 

 ルビンスキーは、ようやく窓から視線を外し、ケッセルリンクの方に体を向けた。

 

 「短期的に見れば、お前の言う通りだ。同盟が落ち着いている状態の方が、我々の商売は安定する。しかし、三つの観点から見れば、この情報は流すべきだ」

 

 「三つ」

 

 「一つ目。等距離性の問題だ。我々は両陣営にほぼ等量の情報を売ることで仲介者の地位を保っている。一方に流して他方に流さない、という選択は、等距離性を壊す。止めたこと自体が、いずれ帝国側経由で同盟側に漏れる可能性がある。その時、『フェザーンは意図的に止めた』という認識が同盟側に生じる。その認識は、観測艦の配置についても、技術開発についても、ヤン・ウェンリー少将の報告書の扱いについても——我々が既に深く関わっている全ての局面で、同盟側の対フェザーン信頼度を根本から低下させる。短期的な損失を回避するために、長期的なインフラを毀損する。そういう選択は、私の決裁では、しない」

 

 「二つ目」

 

 「止めるのは実務的に難しい。カストロプ動乱の規模の軍事行動の結果を、フェザーン一国で情報封鎖するのは、技術的に不可能だ。民間商船、独立の情報商人、亡命貴族、密貿易網——別経路が複数存在する。我々が止めても、いずれ別経路で同盟に届く。その時、同盟側には『フェザーン経由では来なかったが、他経路では来た』という認識が生じる。これは、我々の情報網の包括性への疑問を生む。止めても止まらないものを止めるのは、ただの無駄だ」

 

 「三つ目」

 

 ルビンスキーは、わずかに口の端を持ち上げた。先ほどの笑いよりも、少しだけ深い笑いだった。

 

 「三つ目は——これが、最も実質的な理由だ。この情報は、『流して何が起きるか』が、我々にとって有益な種類の情報だ。同盟の政府と軍上層部は動揺する。動揺した結果、何をするか。国防予算の再編、諜報予算の倍増、観測艦のさらなる追加派遣——お前が挙げた全ての変動だ。そして、その変動から生まれる情報需要、技術需要、仲介需要は、全て、我々に還流する。動揺は不確実性を生むが、不確実性の中で人々が取る行動は、我々の既存のインフラを使う方向にしか動かない。他に使える手段が、ないからだ」

 

 ケッセルリンクは、しばらく沈黙した。それから、低い声で応じた。

 

 「閣下、つまり、この情報を流すことは、中立性の維持というよりも——」

 

 「触媒だ」

 

 ルビンスキーは、短く答えた。

 

 「カストロプの情報は、両陣営が我々への依存を深める方向に動くための触媒だ。特に、キルヒアイスの戦術の性質が——採掘装置を軍事転用した奇策という性質が——同盟軍に与える心理的衝撃は、純粋な技術情報よりも大きい。『自国の首都防衛が、想定外の手段で破られうる』という恐怖を、ヤン・ウェンリー少将の論点とは独立の形で、同盟政府の頭の中に植え付けることになる。この恐怖から生まれる次の需要は、全て、我々の既存の商売の延長線上にある」

 

 「しかし、それは結果として、ヤン・ウェンリー少将の主張と同じ方向を——」

 

 「結果として同じ方向を向くことと、連携することは、別だ。ヤンは同盟軍の内部から論理で説き、我々は外部から情報で動揺させる。二つは偶然同じ方向を向いているだけで、連動はしていない。ヤンは我々を利用しているつもりもなく、我々はヤンを利用しているつもりもない。それぞれが、それぞれの論理で動いた結果、同じ方向の圧力を生んでいる。——こういうものを、『意図せざる整列』と呼ぶ。意図せざる整列であっても、整列していることに変わりはない」

 

 ルビンスキーは、指で報告書の端を弾いた。

 

 「流せ。通常の手順で、通常の価格で。特別扱いはするな」

 

 「承知しました」

 

 ケッセルリンクは頷き、報告書の束を卓上の別の山に移した。処理済みの案件の側に、一つ加わった。

 

 ルビンスキーは再び窓の方を向いた。一拍の沈黙があった。

 

 ケッセルリンクが、別の口調で切り出した。

 

 「閣下のやり方を観察した結果、いくつか分かってきたことがあります」

 

 「何が分かった」

 

 「一つは——フェザーンは、通路の仲介者ではなく、情報の仲介者として生き残る、という閣下の決定が、正しかったことです」

 

 「正しかった、か」

 

 ルビンスキーは、軽く笑った。

 

 「それは、結果が出た後の評価だ。決定した時点では、正しいかどうかは分からなかった。ワームホール出現から三日目に、私はこの決定を下した。根拠は、報告書の三行目を読んだ時の直感だ。意味を失うものの代わりに何を売るか——それを決めるのに、私は十秒も使わなかった」

 

 「もう一つ、分かったことがあります」

 

 ケッセルリンクが、続けた。

 

 「両陣営は、お互いに、我々を通じて情報を得ていることを——薄々知っているようです。しかし、知っていても、我々を排除しようとしません。なぜだと思われますか」

 

 ルビンスキーは、ケッセルリンクの顔を見た。

 

 「なぜだと、お前は思う」

 

 「排除するための代替手段がないからです。両陣営の出口は、何万光年も離れている。直接の諜報網を構築するには、時間がかかりすぎる。時間がかかっている間に、相手の情報を得る必要がある。その『時間を稼ぐ手段』として、我々を使うしかない。一時的に使っているつもりでいるのでしょうが——その『一時的』が、もう四十日以上続いています」

 

 「そして、これからも続く」

 

 「おそらく」

 

 ルビンスキーは、机の上の報告書の断片を、指で一つ動かした。先回と同じ仕草だった。

 

 「ワームホールが出現した日、私は『フェザーンは門の番人ではなくなった』と思った。三日後に、『しかし、門の向こうに何があるかを知る者として、まだ生き残れる』と結論した。今日、その結論は——結論ではなく、現実になった」

 

 ケッセルリンクが、低い声で応じた。

 

 「閣下。一つだけ、気になる点があります。両陣営が、いつか、この循環に気づいた時——彼らは、怒るのではないでしょうか。そして、その怒りは、我々に向かうのではないでしょうか」

 

 ルビンスキーは、ケッセルリンクを見た。それから、ゆっくりと、窓の方を向いた。窓の外では、フェザーンの街並みが、いつもと同じ活気に満ちていた。

 

 「ケッセルリンク。それは良い問いだ。しかし、答えは、お前が想像している種類のものではない」

 

 「どのような答えでしょうか」

 

 「両陣営は、いつか循環に気づく。それは確かだ。しかし、気づいた時、彼らは我々を排除しようとするのではない——彼らは、我々を『飼い慣らそう』とする。排除するには、代替手段が必要だ。飼い慣らすには、代替手段は必要ない。既にある構造を、別の名前で呼び直すだけで済む。『フェザーンの中立性を前提とした情報管理体制の構築』——そういう名前がつけば、彼らは我々を排除したのではなく、統合したのだと自分に言い聞かせることができる。統合という言葉は、排除よりも聞こえが良い」

 

 ルビンスキーは、窓ガラスに映る自分の顔を、しばらく見つめた。

 

 「怒りは、私に向かうだろう。しかし、私個人に向かった怒りは、フェザーンという構造を壊さない。個人と構造は、別物だからだ。私が退場した後も、フェザーンは残る。そして、残ったフェザーンは、次の誰かの手で、同じ商売を続ける。それが、私の仕事の本質だ」

 

 ケッセルリンクは、沈黙した。今度の沈黙は、先ほどの沈黙より長かった。

 

 ルビンスキーは、窓から離れ、机に戻った。机の上の報告書の束から一番上の一枚を取り上げ、指で弾いた。先回と同じ仕草だった。しかし、先回と違う点が一つあった。先回は「これはフェザーンの死刑宣告だな」と声に出して言った。今日は、何も言わなかった。言う必要がなかった。既に、商売は軌道に乗っていた。

 

---

 

六十四

 

 宇宙暦七九六年四月二五日。「門の日」から四十二日目。

 

 ハイネセン、ヤン・ウェンリーの執務室。

 

 ヤンは、机の上に広げた地図を、しばらく見つめていた。地図は、同盟と帝国の勢力範囲を示す標準的なものだった。しかし、その地図には、一つ、新しい線が引かれていた。ワームホールの両端を結ぶ線——通常空間では存在しない、しかし実質的には存在する線。その線は、同盟首都と帝国首都を直接結んでいた。

 

 ヤンは、紅茶のカップを手に取り、一口飲んだ。紅茶は冷めかけていた。フレデリカが午後に淹れたものだった。

 

 フレデリカは今、隣の部屋で別の書類を整理している。ヤンは一人で、地図と向き合っていた。

 

 「あの男」

 

 ヤンは、声に出さずに思った。「あの男」——それが誰を指しているかは、自分でも分かっていた。ラインハルト・フォン・ローエングラム。直接会ったことはない。しかし、アスターテ会戦で対峙した相手だった。同盟軍の第二、第四、第六——三個艦隊の包囲戦を、内側から各個撃破に転じ、第四艦隊と第六艦隊を壊滅させた後、ほとんど損害を受けないまま第二艦隊の前に現れた、二十代の若い貴族。三対一の不利を、艦隊運動の速度と判断の速度だけで覆して見せた男。今は帝国元帥。元帥府を開き、ワームホール戦線の管理権を掌握し、カストロプ動乱を腹心の手で鎮圧させ、帝国の再編を主導している男。

 

 ヤンは、その男の名前を、この一ヶ月の間に何度も聞いた。報告書の中で、会議の中で、シトレとビュコックの会話の中で。名前を聞くたびに、ヤンは同じことを感じていた。アスターテで対峙したあの若い提督は、もはや一人の戦術家ではない。帝国そのものを動かす戦略家に変わっていた。そして、その変化は、一ヶ月では収まらない速度で進んでいた。

 

 合意を組み立てた通信交渉の時、ヤンの画面の向こうに座っていたのは、ラインハルトではなかった。ジークフリード・キルヒアイス少将——ラインハルトの腹心と言われる、赤毛の若い少将だった。ヤンと同じ階級章をつけていた。同じような分析能力を持っていた。合意を組み立てる一時間半の間、キルヒアイスは誠実に向かい合ってくれたと、ヤンは感じていた。

 

 しかし、その誠実な分析者を、窓口として送り出したのは、ラインハルトだった。

 

 ヤンが恐れるべきなのは、キルヒアイスではなかった。キルヒアイスほどの人材を、必要な時に必要な場所へ置ける制度——帝国の元帥府という組織そのものの方だった。

 

 ヤンは、紅茶のカップを机に戻した。

 

 机の脇には、報告書の束があった。一番上には「ワームホール戦線・観測艦配置状況・第四十日目」——三日前の報告書の表題が見えていた。同じ表題の報告書が、その下に三十九枚、日付順に積み重なっていた。

 

 四十日分の数字は、ゆっくりと増え、そして今、増加のペースが鈍り始めていた。観測艦三百七十二隻。観測ブイ八百四基。物理的な上限——四百隻前後——に近づきつつあった。

 

 数が止まるなら、良いことのはずだった。しかし、ヤンは良いこととは思えなかった。

 

 数の増加が物理的に不可能になったとき、軍拡は別の層に移る。配置の数から、配置の質へ。見えない層に潜った軍拡は、止めにくい。

 

 この数字の向こう側に、実際の光景があることを、ヤンは知っていた。円盤の裏側半球に貼り付くように配置された観測艦の群れ。彼自身は、その光景を自分の目で見たことはない。

 

 机の脇の報告書の束に、ヤンは視線を戻した。自分の報告書が、この観測艦集結の引き金の一つになったことを、ヤンは知っていた。「諜報活動は不可避」と書いた瞬間に、彼は同盟政府に「諜報予算を倍増せよ」と告げたのと同じだった。本人の意図とは別に、文書はそう読まれ、そう扱われた。

 

 そして——報告書だけの問題ではなかった。合意の交渉の席で「裏側半球における艦艇配置は観測目的に限定する」という一文を加えさせたのも、ヤン自身だった。戦闘艦を排除する意図の一文が、裏返せば観測艦の集結を条文上合法化する規範でもあった。同じ一文の表と裏だった。

 

 そしてもう一つ——「寡兵でしか実行できない」という一文が、彼自身のイゼルローン攻略任務を縛っていた。シトレから「一時中断解除」を告げられた時、その命令の正当性は、ヤン自身の報告書によって与えられていた。

 

 あの男は——ラインハルトは——この構造のことも、既に承知しているだろう。根拠はなかった。しかし根拠がなくとも、確信だけはあった。

 

 ヤンは、もう一度、地図の上の線に視線を落とした。線の向こう側を、ヤンはまだ自分の目で見たことがなかった。

 

 窓の外では、ハイネセンの夕方の光が、執務室の床に長い影を落としていた。

 

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六十五

 

 フレデリカが、隣の部屋から入ってきた。手には、新しい紅茶のポットがあった。

 

 「閣下。紅茶、淹れ直しましょうか」

 

 「ありがとう」

 

 ヤンは、視線を地図から上げた。

 

 フレデリカは、冷めたカップを下げ、新しい紅茶を淹れた。その動作は、いつもと同じ速度だった。同じ速度の動作の中に、わずかな配慮があった。執務室の空気が、今日は少しだけ重いことを、フレデリカは感じ取っていた。しかし彼女は、その重さについて何も言わなかった。何も言わないことで、彼女はヤンの思索を邪魔せずにいた。

 

 新しい紅茶のカップが、机の隅に置かれた。

 

 「明日の会議の議題一覧、お持ちしますか」

 

 「頼む」

 

 フレデリカは、一礼して、隣の部屋に戻っていった。ヤンは、新しい紅茶のカップを手に取り、一口飲んだ。温かかった。

 

 窓の外では、春の光が、ゆっくりと傾き始めていた。

 

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六十六

 

 一ヶ月と十日。

 

 それが、「門の日」から数えた、この物語の期間である。

 

 三月十五日、ワームホールが出現した。四月二五日、暫定不交戦合意は成立から二週間を経過していた。

 

 この四十日間に起きたことを、最も深いところで理解していた人物は、両陣営にそれぞれ一人ずついた。同盟軍のヤン・ウェンリー少将と、帝国軍のラインハルト・フォン・ローエングラム元帥である。二人は、まだ直接顔を合わせたことはない。アスターテ会戦で、戦場の両端から互いの旗艦の影を遠くに見ただけだった。それでも、この四十日間のそれぞれの判断の背後には、相手の存在が、影のように寄り添っていた。

 

 ラインハルトは、元帥府の地図の前で、帝国の再編の青写真を描き続けていた。その青写真の余白には、ヤン・ウェンリーという名前が、消えない線で引かれていた。

 

 ヤンは、ハイネセンの執務室で、地図の上の一本の線を見つめていた。線の向こうにいる男と、自分がいずれ戦うことになる、という予感から逃れられずにいた。

 

 交渉の現場に立ったのは、二人のどちらでもなかった。ジークフリード・キルヒアイス少将——ラインハルトの腹心の、赤毛の若い少将が、画面越しにヤンと一度だけ向かい合った。合意を組み立てた後、二人の若い少将は、それぞれの場所で、同じような重さを手のひらの中に感じていた。

 

 「門」は、開いたままだった。

 

 一五〇年続いた戦争の、一ヶ月と十日。

 

 それだけのことだった。そして、それだけのことが、歴史の流れを変えた。

 

---

 

(第一章 了)

 

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