第十四話「諜報網の影」
六十七
宇宙暦七九六年四月二六日。「門の日」から四十二日目。
ハイネセン、自由惑星同盟軍統合作戦本部。
ヤン・ウェンリー少将の執務室は、書類の山で覆われていた。
第一三艦隊の編成作業は、凍結解除から十二日目に入っていた。四月一四日にシトレ元帥が凍結を解除し、イゼルローン攻略に向けた準備の再開を命じた。それ以来、ヤンの机の上には人事案、装備調達リスト、艦艇の修復状況報告、乗組員の訓練記録が、日ごとに積み上がっていた。
ぬるくなった紅茶のカップが、書類の山の隙間に置かれていた。
第一三艦隊の基幹は、アスターテで壊滅した第四・第六艦隊の残存兵力である。生き残った将兵は、戦友の大半を失ったという事実を、それぞれの仕方で背負っていた。その上に新兵を加え、半個艦隊を編成する。通常の艦隊が約一万五千隻であるのに対し、第一三艦隊に与えられる規模は五千から六千隻にとどまる。将校の数も、著しく不足していた。
アスターテの大敗で第二・第四・第六艦隊が壊滅し、同盟軍は十個艦隊体制に縮小された。その主力は、ハイネセン首都防衛とワームホール戦線に拘束されている。イゼルローン方面に回せるのは、この半個艦隊だけだった。
シトレが凍結を解除した時、ヤンは一つの条件を暗黙に理解していた。一ヶ月以内。アスターテの敗北から同盟議会に蓄積された「反撃」への渇望が、いつまでも待つことを許さない。評議会の安全保障部会は、ワームホール防衛と首都防衛の二重の負担を抱えながら、同時にイゼルローン攻略という成果を求めている。ヤンが準備に時間をかけすぎれば、議会は別の手段——より大きく、より派手で、より危険な手段——を求め始める。
問題は、時間だけではなかった。
ヤンは、自分自身の報告書の言葉を思い出していた。
「諜報活動は不可避」。
あの報告書は、ワームホール出現後の戦略環境を分析し、両陣営の諜報網の拡大が避けられないことを結論づけたものだった。その結論は正しかった。正しかったからこそ、同盟側の諜報予算は倍増し、情報収集体制は急速に強化された。帝国側も同じことをしている。フェザーンが両陣営に情報を売り、両陣営がフェザーンの情報を買う構造は、この四十二日間で確立された。
しかし、その構造が確立されたということは、同盟軍の内部情報もまた、何らかの経路で帝国側に流れている可能性が高い、ということを意味する。
ヤンは、冷めた紅茶を一口飲んだ。苦かった。
自分が第一三艦隊の司令官に任命されたこと。第一三艦隊がイゼルローン攻略を目的として編成されていること。この二つの事実は、おそらく既に帝国側に伝わっている。フェザーン経由か、別の経路か、あるいは複数の経路を通じて。情報は水のように流れる。穴が一つあれば、水はそこから漏れる。穴を全て塞ぐことはできない。
問題は、「第一三艦隊がイゼルローンに向かう」という事実が漏れることではない。それは遅かれ早かれ知れる。問題は、「第一三艦隊がイゼルローンで何をするか」が漏れることだった。
ヤンは紅茶のカップを置いた。通常の手順で作戦案を文書化すれば、漏れる。それが、自分自身の報告書が予言した世界の当然の帰結だった。
「……これは、かなり厄介だな」
ヤンは、誰に言うともなく呟いた。
フレデリカ・グリーンヒル中尉が、隣の部屋から戻ってきた。手には、本日三通目の通信記録の束があった。
「提督。統合作戦本部の人事課から、追加の士官候補者名簿が届いています。それと、装備調達課から、駆逐艦六隻の修復完了報告です」
「ありがとう。そこに置いてくれ」
グリーンヒル中尉は、書類の山の上に新しい束を置いた。置いた後、一瞬だけ、ヤンの顔を見た。
「提督。お顔の色が、昨日より少し悪いように見えます」
「そうかな。紅茶が冷めていたせいだと思う」
「淹れ直しましょうか」
「頼む」
グリーンヒル中尉は冷めたカップを下げ、執務室の隅のポットに向かった。紅茶を淹れる手つきは、この十二日間で完全に習慣化していた。
「グリーンヒル中尉」
「はい」
「……作戦というのは、立てた時点で半分は相手に知られていると思った方がいい、と言ったら、君はどう思う」
グリーンヒル中尉の手が、ポットの上で止まった。紅茶の湯気が、二人の間の沈黙の中を、細く立ち上っていた。
やがて、紅茶を注ぐ動作を再開しながら、グリーンヒル中尉は答えた。
「その前提でも、なお実行する価値のある作戦を立てる以外にないと思います」
ヤンは、少しだけ目を細めた。
「そうだな。そういうことだ」
紅茶のカップが、机の隅に置かれた。温かかった。
ヤンは、新しい紅茶を一口飲みながら、考えた。通常の手順では漏れる。では、文書化せず、自分の頭の中だけに留める作戦はどうか。
それは、司令官が全ての判断を一人で背負う作戦だった。
ヤンは、その重さを、まだ完全には理解していなかった。
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### 六十八
同日。
ハイネセン、統合作戦本部長執務室。
ヤンが非公式に呼ばれたのは、午後遅くのことだった。
シドニー・シトレ元帥の執務室は、統合作戦本部の最上階にあった。ヤンが入室すると、シトレは窓際に立ち、ハイネセンの街並みを見下ろしていた。
「座りたまえ」
ヤンは座った。シトレは窓から離れ、執務机の向こう側に腰を下ろした。二人の間に、机が一つあるだけだった。記録係はいない。通信記録装置も切られている。
「凍結解除から十二日だ。進捗は」
「編成は六割程度まで進んでいます。あと二週間で、出撃可能な状態にはなります。ただ——」
「ただ?」
ヤンは、一拍置いた。
「……作戦案について、ご相談したいことがあります。ただし、この場限りの話として」
シトレの目が、わずかに鋭くなった。
「聞こう」
「イゼルローン攻略の作戦案を、通常の手順では提出できません」
沈黙が、三秒ほど続いた。
「理由を聞こう」
「私自身の報告書が理由です。『諜報活動は不可避』と書きました。その結論は正しかったと思っています。正しかったからこそ——諜報網が拡大した世界で、通常の手順で作戦案を文書化し、関係部署に配布すれば、帝国側に筒抜けになるリスクがあります。イゼルローンという戦略目標の重要性を考えれば、そのリスクは許容できません」
シトレは、黙ってヤンの言葉を聞いていた。
「つまり、作戦案を提出しない、ということか」
「正確には、作戦の骨格だけを、口頭で、この場で、閣下にのみお伝えします。文書化はしません。関係部署への配布もしません。実行に必要な最小限の人物にのみ、それぞれが知るべき範囲だけを、適切な時期に伝えます」
シトレは、長い沈黙の後、低い声で言った。
「それは、私にも全体像を見せない、ということか」
「全体像はお伝えします。ただし、この部屋の中でのみ」
シトレは、椅子の背に体を預けた。
「ヤン少将。お前は分かっているだろうが、言っておく。文書化しない作戦を私が承認するということは——作戦が失敗した場合、私の手元にお前を守る記録が一枚もない、ということだ。統合作戦本部長が作戦を承認した証拠がない。議会に追及されたとき、私はお前を庇う根拠を持たない」
「承知しております」
沈黙が落ちた。シトレの沈黙は、拒絶の沈黙ではなかった。制度の長としての責任と、現場指揮官への信頼との間で、判断を組み立てている沈黙だった。——いや、もう一つ何かがあるのかもしれない、とヤンは思った。思ったが、その何かを特定する言葉を、ヤンは持っていなかった。
「……分かった」
シトレは、それだけ言った。
「ヤン少将。お前の報告書は、お前自身の首を絞めたな」
「自覚しております」
シトレは、何か続けようとした。唇が、わずかに動いた。しかし言葉は出なかった。シトレは、言いかけたものを飲み込むように、一度だけ視線を机の上に落とし、それから顔を上げた。
「……忘れろ。本題に戻ろう」
ヤンは先を促さなかった。シトレが何を言いかけたのかを、問いただす権利が自分にあるとは思えなかった。ただ、ヤンはシトレの顔を見返した。見返した一瞬が、普段より、わずかに長かった。
シトレは、わずかに口元を緩めた。笑みとは呼べない、しかし険しさが一瞬だけ和らいだ表情だった。
「聞かせてくれ。この部屋の中だけで」
ヤンは、話し始める前に、椅子の上で一度だけ座り直した。その動作の間に、ヤンの中で何かが位置を変えた。この部屋の中だけで語る作戦が、この部屋の中だけで完結する話ではないこと——それだけは、言葉にならないまま、ヤンの肩のあたりに落ちてきた。
ヤンは一度だけ深く息を吸い、話し始めた。
作戦の骨格を伝え終えるまで、十数分かかった。シトレは、途中で一度も口を挟まなかった。ヤンが話し終えた後、シトレは短く頷いただけだった。
「——必要なものは」
「三つあります」
ヤンは、指を順に折った。
「帝国軍の鹵獲艦、駆逐艦一隻。数年前に辺境で拿捕されたものが、マルタン大佐の部署に保管されているはずです。それを借り受けたい」
シトレは黙って聞いていた。
「帝国軍の軍服、二十四着分。士官用・下士官用を混合で。階級章と所属章は、後から付け替えられる状態のものを」
「二十四着か」
シトレが、初めて数字を繰り返した。ヤンは頷いた。
「三つ目は、帝国軍のIDカード。偽造のもの、同じく二十四枚。士官・下士官の階級が混在する構成で、所属は駐留艦隊の一分艦隊に寄せてください。照合された時に、艦隊の乗員登録データベースと矛盾しない程度の精度を求めます」
シトレは、長い沈黙の後で口を開いた。
「マルタンの部署なら、できるか」
「できる、と判断しています。あの部署は、この種の仕事のために維持されてきました」
「私から指示を下ろそう。私の名前で、マルタンに直接」
「助かります」
シトレは、指先で机の縁を一度だけ叩いた。叩いてから、その指を静かに戻した。
「——それ以上は訊かない。訊かない方が、私にとってもお前にとっても楽だ」
「承知しております」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。沈黙の質は、先刻までとは少し違っていた。最初の沈黙は、判断を組み立てる沈黙だった。今の沈黙は、判断を下した後の沈黙だった。
ヤンは、もう一つだけ、と付け加えた。
「閣下。私が出撃している間、ハイネセンが無防備になります。ワームホール経由で帝国軍が来る可能性は——低いと判断していますが、ゼロではありません。歴史上、不可侵条約というものは、破る側の都合で破られてきました」
シトレは、わずかに頷いた。
「分かっている。そちらは私が引き受ける。観測艦の早期警戒と、首都防衛艦隊の即応態勢を、お前の出撃に合わせて整えておく。お前は、自分の戦場のことだけを考えろ」
「ありがとうございます」
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### 六十九
帝国暦四八七年四月二六日。
オーディン、ローエングラム元帥府。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、円卓の地図の一枚を見つめていた。イゼルローン回廊の地図だった。
「閣下」
オーベルシュタインが、執務室に入室した。手には薄い報告書が一枚あった。
「同盟の動向について、新しい断片が入りました」
「申してみよ」
「同盟軍第一三艦隊の編成が、加速しています。先月の情報では凍結中とのことでしたが、四月中旬に解除されたようです。司令官はヤン・ウェンリー少将のまま。編成規模は通常の三分の一程度——五千から六千隻と推測されます」
ラインハルトは、地図の上のイゼルローン要塞の位置に、指先を置いた。
「情報の出所は」
「フェザーン経由です。二系統から同じ方向の断片が入っていますので、信頼度は比較的高いものと判断します」
「半個艦隊か」
ラインハルトは、低い声で言った。
「半個艦隊でイゼルローンを攻める。正面攻略は不可能だ。少数精鋭による奇策——あの男は、自分の分析の通りのことを、自分でやるつもりか」
オーベルシュタインは、表情を変えなかった。
「同盟側の主力も、首都防衛とワームホール戦線に拘束されています」
それ以上は言わなかった。ラインハルトには、それで十分だった。
「同じ制約、か」
帝国もまた、イゼルローンの防衛に十分な兵力を回せない。ロイエンタールの短期派遣で再編した防衛体制が、シュトックハウゼンの下でどこまで維持されているかも、保証の限りではなかった。
「キルヒアイスを呼べ」
キルヒアイスが入室した。
「ラインハルト様。お呼びでしょうか」
「キルヒアイス。同盟の第一三艦隊の編成が加速している。目標はイゼルローンだ。——お前はどう見る」
キルヒアイスは、地図に視線を落とした。数秒間、沈黙があった。
「ヤン・ウェンリー少将は、半個艦隊で何かを仕掛けてきます。正面攻略ではありえません。何らかの奇策です。ただ、その奇策の内容は——今の段階では分かりません。分かるのは、あの人物が、分かっていない状態では動かないだろう、ということだけです」
「分かっていない状態では動かない。しかし、分かった時には、迷わず動く。——そういう男だ」
ラインハルトは、地図から目を上げた。
「イゼルローンの現状を確認する。シュトックハウゼン大将に報告を求めろ。同時に——ロイエンタールの現在の配置を確認しておけ」
キルヒアイスは、その命令の含意を即座に理解した。
「はい、ラインハルト様」
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### 七十
同日。
同盟軍観測艦《セレネ》艦橋。
ザンディ少佐は、スクリーンに表示された数字を眺めていた。
同盟側の観測艦配置数は、三百七十二隻。帝国側の推定配置数は——フェザーン経由の情報に基づけば——三百八十前後。増加ペースは、双方とも鈍化している。配置が物理的な飽和に近づきつつあるためだった。
飽和。
その一語が、ザンディの日常を要約していた。この宙域に配置されてから一ヶ月以上が経過し、観測任務は完全にルーティンと化していた。ワームホールの円盤は変わらずそこにあり、観測データは毎日同じパターンを繰り返し、フェザーン経由で「帝国側が二隻増やした」という情報が入れば、こちらも二隻追加する。その繰り返しだった。
「艦長、司令部から定時報告の要請です」
「いつもの書式で送れ。変化なし、と」
副長が頷き、通信パネルに向かった。ザンディはスクリーンの数字から目を離し、艦橋の天井を仰いだ。
変化なし。この宙域では、その一語が最良の報告だった。変化がないということは、誰も死んでいないということだった。
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### 七十一
フェザーン自治領、ルビンスキーの執務室。
ルビンスキーは、二枚の報告書を並べて読んでいた。一枚は帝国領内の情報の集約、もう一枚は同盟領内の情報の集約。いつもと同じ作業だった。
帝国側:ローエングラム元帥府、安定運用段階に入る。カストロプ事後処理は継続中。門閥貴族の動きに変化なし。
同盟側:第一三艦隊の編成加速。ヤン・ウェンリー少将の動向に注目が集まっている。議会の安全保障部会で「イゼルローン攻略の進捗」に関する質問が出始めている。
ルビンスキーは、二枚の報告書の間に、指を置いた。
帝国側は同盟の編成加速を知りたがっている。同盟側は帝国のイゼルローン防衛体制を知りたがっている。双方が知りたがっている情報を、双方に売る。それがフェザーンの仕事だった。
ただし、今回は少し事情が異なった。
同盟の第一三艦隊がイゼルローンに向かうという情報を帝国側に売れば、帝国はイゼルローンの防衛を強化する。強化されたイゼルローンに同盟軍が突入すれば、同盟側の損害は大きくなる。同盟側の損害が大きくなれば、同盟側はさらにフェザーンの情報を必要とする。
逆に、帝国のイゼルローン防衛体制に関する情報を同盟側に売れば、同盟はその情報を基に作戦を修正する。修正された作戦に帝国が対応すれば、さらに情報の需要が生まれる。
どちらに売っても、需要は増える。
ルビンスキーは、ペンを取った。
帝国向けのメモ:「同盟軍の新設艦隊の編成が最終段階に入った模様」。同盟向けのメモ:「帝国側イゼルローン要塞の防衛体制に、人事上の不安定要素あり」。同じ素材を、買い手が欲しがる形に切り分ける。いつもの作業だった。
書き終えてから、ルビンスキーは椅子の背にもたれた。通路に座る者は、通る者が何を運んでいるかを知っている。