深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第十五話「特命派遣」

七十二

 

 帝国暦四八七年五月三日。

 

 オーディン、ローエングラム元帥府。

 

 ラインハルトは、シュトックハウゼン大将から届いた報告書を読み終えた。読み終えるのに、三分もかからなかった。

 

 「楽観的だな」

 

 キルヒアイスが、円卓の向かい側から答えた。

 

 「楽観的です。ただし、完全に根拠がないわけではありません。トゥールハンマーの火力は健在であり、駐留艦隊の訓練も一定水準を維持しています。シュトックハウゼン大将は、ロイエンタール提督の再編案を——部分的にですが——受け入れています」

 

 「部分的に、か」

 

 ラインハルトは報告書を卓上に置いた。

 

 「ロイエンタールが懸念した通りだ。あの男が去った後、再編案の半分は元に戻されている。シュトックハウゼンは要塞の火力を信じている。トゥールハンマーがある限り、正面から来る敵は防げる——その認識は間違いではない。間違いではないが、正面から来ない敵を想定していない」

 

 オーベルシュタインが、壁際の椅子から口を開いた。

 

 「ヤン・ウェンリーは、おそらく正面からは来ないでしょう」

 

 ラインハルトは、わずかに頷いた。

 

 「私も、そう思う。アスターテで対峙したあの男の動きからすれば——正面に兵力を厚くする種類ではない、と思う。何を仕掛けてくるかは、まだ分からない。ただ、シュトックハウゼンが想定していない何かであることだけは、たぶん、確かだ」

 

 三人の間に、短い沈黙が落ちた。

 

 「ロイエンタールを呼べ」

 

 ラインハルトの声は、静かだった。

 

---

 

 オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、元帥府の廊下を歩きながら、呼び出しの意味を推測していた。

 

 先週から、元帥府の中に微妙な緊張が走っていることは、感じていた。イゼルローン方面の情報報告が増えている。同盟の動きに関する断片が、オーベルシュタインの情報部門から日に数通ずつ上がってきている。

 

 ロイエンタールは推測の幅を絞った。イゼルローンだ。先月の短期派遣で自分が見てきた、あの要塞に関する何か。

 

 控室の扉を開けると、ラインハルト、キルヒアイス、オーベルシュタインの三人が、すでに円卓の前にいた。

 

 「ロイエンタール。座れ」

 

 ロイエンタールは、指定された椅子に腰を下ろした。異色の双眸が、卓上の地図——イゼルローン回廊の地図——を一瞥した。推測は正しかった。

 

 「同盟の第一三艦隊が、イゼルローンに向かう」

 

 ラインハルトは、前置きなく本題に入った。

 

 「司令官はヤン・ウェンリー少将。編成規模は五千から六千隻。正面攻略ではなく、何らかの奇策を仕掛けてくることが予想される。シュトックハウゼン大将の報告は楽観的だが、私はその楽観を共有しない」

 

 ロイエンタールは、黙って聞いていた。異色の双眸が、ラインハルトの言葉の先を読もうとしていた。

 

 「もう一度、イゼルローンに行ってもらう」

 

 ロイエンタールの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。予想通りだった。

 

 「ただし、今回は前回とは違う。前回は防衛体制の再編だった。今回は、艦隊を率いての実戦配備だ」

 

 「艦隊の規模は」

 

 「七千から八千。それ以上は出せない」

 

 ロイエンタールは、その数字を聞いた瞬間に全てを理解した。通常の中将艦隊の半分。主力がワームホール防衛に拘束されている以上、これがラインハルトの出せる最大だった。相手のヤン・ウェンリーと同じ制約の下にある——ラインハルト自身がそれを自覚していることも、ロイエンタールには読み取れた。

 

 「形式は」

 

 「元帥府からの特命派遣だ。シュトックハウゼン大将の指揮系統には入らない。ゼークト大将の駐留艦隊とも、正式な合同指揮は取らない。お前は独立して動く。——ただし、お前は中将で、先方は二人とも大将だ。階級的には下位になる」

 

 「承知しています」

 

 ロイエンタールの返答は簡潔だった。階級の問題は、前回の派遣の時から分かっていた。中将が大将の上に立つことはできない。しかし、独立した指揮系統で動く限り、大将の下に入る必要もない。

 

 「シュトックハウゼン大将は、私の前回の再編案を部分的にしか受け入れていない、と聞いております」

 

 「その通りだ」

 

 「であれば、要塞内部の防衛体制については、私の関与できる範囲ではありません。私にできるのは、要塞の外側で、同盟軍の艦隊と直接対峙することです」

 

 ラインハルトは、わずかに頷いた。ロイエンタールが状況を正確に把握していることを、確認した。

 

 「ヤン・ウェンリーという男について、お前はどの程度知っている」

 

 「名前は。閣下とオーベルシュタイン准将が、あの男の名前を口にされる時の重みは、感じております」

 

 ラインハルトは、その答えに、微かに笑った。

 

 「重みは正しい。あの男は、半個艦隊で何かを仕掛けてくる。何を仕掛けてくるかは分からない。分からないが、仕掛けてきた時には——本気だ」

 

 「であれば、なおのこと」

 

 ロイエンタールは、わずかに顎を上げた。

 

 「半個艦隊同士の対決は、指揮官の質で決まります。こちらの不利は、ないと考えます」

 

 ラインハルトは、ロイエンタールの目を正面から見た。自信ではない。自分の能力に対する冷徹な評価だった。ロイエンタールという男は、自分を過大評価もしないし、過小評価もしない。その種の正確さが、ラインハルトが彼を信頼する理由の一つだった。

 

 「出撃は三日後だ。準備を進めろ」

 

 ロイエンタールは立ち上がり、敬礼した。

 

---

 

七十三

 

 元帥府を出た後、ロイエンタールは自分の執務室に戻り、窓から帝都の街並みを見下ろした。

 

 相手は、五千から六千隻。こちらより少ない。数の上では、自分が優位に立っている。にもかかわらず、ラインハルトはこの任務に自分をわざわざ送り込んだ。それが、ヤン・ウェンリーという名前の重さだった。

 

 ロイエンタールは、その名前を心の中で転がしてみた。アスターテには自分は参加していない。あの会戦で撤退戦を指揮して名を上げた同盟の士官——それだけが、ロイエンタールの知識の全てだった。ラインハルトとオーベルシュタインの口ぶりからすると、ただの士官ではない。しかし、どれほどの相手かは、直接対峙するまで分からない。

 

 ロイエンタールは、それを不快とは感じなかった。むしろ、未知の相手との対峙は、彼の中の何かを刺激した。

 

 半個艦隊同士の戦いは、大艦隊の戦いとは質が異なる。兵力の厚みが指揮の粗さを吸収する余裕がない。指揮官の能力が裸のまま試される。それは——ロイエンタールにとって——悪い条件ではなかった。

 

 ロイエンタールは窓から離れ、執務机に向かった。出撃まで三日。艦隊の編成を確認し、航路を設定し、補給を手配する。

 

 不満の隣に、期待に似た何かが芽生えていた。

 

---

 

七十四

 

 宇宙暦七九六年五月五日。

 

 ハイネセン、統合作戦本部、第一三艦隊司令部。

 

 ヤンは、首席幕僚のムライ准将を執務室に呼んだ。グリーンヒル中尉が同席していた。

 

 「ムライ准将。艦隊の基本運用方針について、私の考えを伝えておく」

 

 ムライは、背筋を伸ばしたまま、ヤンの言葉を待った。生真面目で規律を重んじる首席幕僚は、ヤンとは正反対の気質の持ち主だった。しかし、正反対であるからこそ、ヤンは彼を必要としていた。

 

 「第一三艦隊がイゼルローン方面で作戦行動に入った場合、我々の基本方針は柔軟な運用だ。正面からの決戦は避ける。敵の布陣と動きを観察しながら、こちらの動きを変える。硬い陣形を組んで突進するのではなく、状況に応じて形を変えられる艦隊にしたい」

 

 ムライの眉が、わずかに寄った。

 

 「艦隊司令官としてのお考えは承りました。ただし、柔軟な運用は訓練の質に依存します。現在の第一三艦隊は、アスターテの生き残りと新兵の混成であり、練度にばらつきがあります。高度な艦隊運動を行うには——」

 

 「足りない。分かっている」

 

 ヤンは、あっさり認めた。

 

 「だからこそ、首席幕僚にはその足りない部分を埋めてもらいたい。艦隊運動の基本訓練を、出撃までの間に可能な限り詰め込んでくれ。完璧でなくていい。最低限、分割と再合流が混乱なくできる水準に持っていければいい」

 

 「分割と再合流、ですか」

 

 ムライの目が、一瞬だけ鋭くなった。しかし、それ以上は問わなかった。

 

 「了解しました。訓練計画を、本日中に提出します」

 

 「頼む。——ムライ准将、もう一つだけ」

 

 「はい」

 

 「訓練計画の内容は、参謀部内に限定してくれ。他の部門への共有は、私が許可するまで控えてほしい」

 

 ムライは、一拍だけ間を置いた。

 

 「……了解しました」

 

 その一拍に、ムライの戸惑いと、しかし従う決意の両方が含まれていた。通常であれば、訓練計画は関係部署に共有されるものだ。それを制限するということは、情報管理に特別な配慮が必要な作戦が進行している、ということを意味する。ムライはその意味を理解したが、問いただすことはしなかった。

 

 ムライが退室した後、グリーンヒル中尉が、静かに口を開いた。

 

 「それでも、聞きませんでしたね」

 

 「聞かない人だから、首席幕僚に選んだ」

 

 ヤンは、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。

 

 信頼する部下にも、知るべき範囲だけを伝え、それ以外は伝えない——そう決めた後に残るものは、論理では片付かなかった。

 

 グリーンヒル中尉は、何も言わなかった。ポットから新しい紅茶を注ぎ、ヤンの机の隅に置いた。

 

 ヤンは、紅茶のカップを手に取りながら、ふと考えた。紙の上の条文が、攻める側の決断を止めてきた試しは、地球時代の歴史にも、ほとんどなかった。ヤンの留守がラインハルトに破る理由を作り出す可能性は——低いが、ゼロではない。

 

 シトレは引き受けると言った。

 

 ヤンは、新しい紅茶のカップに手を伸ばしかけて、一度止めた。肩のあたりの重さは、消えていなかった。

 

 ヤンは、紅茶のカップを取り直した。




最後のシーンで、ヤンは例えば独ソ不可侵条約や日ソ中立条約のことを念頭に置いています。
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