深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第十六話「協力者」

七十五

 

 帝国暦四八七年五月八日。

 

 イゼルローン要塞、技術区画、第二伝達系統点検室。

 

 カール・シュナイダー技術中佐は、作業台の上に広げられた設計図を、老眼鏡越しに眺めていた。四十代後半にしては、眼はまだ悪いというほどではなかった。ただ、細かい配線図を長時間見続けると、夕刻には必ず疲れた。疲れた目で設計図を見るのは危険だった。一本の線を見落とせば、それが発射口に届くまでの経路の、どこかで誤作動を生む。

 

 「中佐。今週の定期点検の記録、上がってきました」

 

 リヒター少尉が、データパッドを差し出した。二十代前半の若い士官で、士官学校を出てまだ三年目だった。技術部門に配属されてから半年、シュナイダーの下で見習いのように動いている。

 

 シュナイダーはデータパッドを受け取り、画面を一瞥した。

 

 「第七中継の圧力計、また誤差が出ているな」

 

 「はい。先月の調整では基準値に戻していたのですが」

 

 「機械の調整は、戻した瞬間から外れ始める。そういうものだ。来週もう一度、同じ作業をやり直すことになる」

 

 シュナイダーはデータパッドをリヒター少尉に返した。

 

 「圧力計の本体を見るのと、制御回路を見るのと、どちらから始めるべきだと思う」

 

 リヒター少尉は一拍考えた。

 

 「制御回路から、です。本体は先月交換したばかりですので、物理的な故障の可能性は低い。誤差の原因は制御回路の経年劣化である可能性が高いと判断します」

 

 「正しい判断だ。来週の点検は、お前に任せる。私は立ち会うだけにする」

 

 リヒター少尉の顔が、わずかに緊張した。独り立ちの作業を任されるのは初めてだった。しかしその緊張には、嬉しさに近い何かも混ざっていた。

 

 「承知しました。準備を進めます」

 

 リヒター少尉が退室した後、シュナイダーは作業台の上の設計図を畳んだ。畳んでから、もう一度開いた。点検室の端の書棚にしまい直す前に、自分の頭の中にもう一度、経路の全体像を入れておきたかった。

 

 第一段階の主機関から、中央変換器へ。中央変換器から、第二段階の複数の中継点を経由して、発射口集束装置へ。三段階からなる経路のうち、シュナイダーが日常的に関与するのは第二段階だった。第二段階には十七の中継点があり、そのうちの三つが、設計上の制約から生じたボトルネックだった。ボトルネックの三つは、それぞれが他の中継点では代替できない。代替経路は存在するが、代替経路の導管容量は、主砲の最大出力を支えるには足りない。

 

 シュナイダーは、十七の中継点の位置を、頭の中で順番にたどった。自分が日々触っている装置たちの位置を、目を閉じても描ける程度には、把握していた。二十数年間、この仕事をしてきた。それだけの時間を注げば、装置の形と位置は身体の一部のようになる。

 

 設計図を畳み、書棚にしまった。

 

 窓の外では、要塞の内部照明が、昼間用の白光から夕刻用の淡い橙へと、ゆっくり切り替わり始めていた。

 

---

 

七十六

 

 同日。要塞内、士官宿舎、独身士官区画。

 

 シュナイダーの個室は、階級の割に簡素だった。技術中佐ともなれば、もう少し広い部屋に住む権利があったが、申請していなかった。広い部屋が必要な理由が、彼にはなかった。

 

 机の上には、端末が一つ置かれていた。画面は起動されていたが、入力欄は空のままだった。

 

 シュナイダーは椅子に腰を下ろし、端末の画面を見つめた。

 

 通信文の宛先は、テレーゼ・シュナイダーと入力されていた。オーディン近郊の小さな町に住んでいる。技術者として定期的な給与を送っているが、顔を合わせる機会は年に一度か二度だった。要塞勤務の軍人の家庭というのは、おおむねそういうものだった。

 

 シュナイダーは最初の一文を打ち始めた。

 

 「テレーゼへ。変わりはないか。私は——」

 

 そこで手が止まった。

 

 「私は」の続きを、シュナイダーは書けなかった。何を書くべきかが、わからないのではなかった。書くべきことはいくつもあった。ただ、書き始めた瞬間に、その全てが嘘になる気がした。書いても、書かなくても、同じことだった。

 

 シュナイダーは、入力した一文を削除した。削除してから、画面を閉じた。

 

 端末の上に、シュナイダーは指を一度だけ置いた。指を離し、椅子から立ち上がり、部屋の明かりを消した。

 

 眠りに入る前に、シュナイダーは二十数年前の結婚式のことを、少しだけ思い出した。若い頃の自分と、若い頃のテレーゼの顔を。顔は、記憶の中では、今のテレーゼの顔よりも鮮明だった。二十数年という時間の中で、現在の顔よりも、過去の顔の方が、整理されて残っている。そういうものらしかった。

 

 シュナイダーは目を閉じた。

 

---

 

七十七

 

 宇宙暦七九六年五月九日。

 

 ハイネセン、統合作戦本部、ヤン・ウェンリー少将執務室。

 

 夜遅い時間だった。執務室の窓の外では、ハイネセンの街並みが夜景に変わっていた。

 

 訪問者は、同盟軍情報部門の担当者——アルノー・マルタン大佐と名乗った。四十代の痩せた男で、目の下に疲労の影があった。情報部門の中でも、帝国領内の協力者網を管理する部署に所属していると、自己紹介の段階で付け加えた。

 

 グリーンヒル中尉が、紅茶のカップを二つ、机の上に置いた。それから、ヤンの背後の椅子に控えた。副官として、この会話を記録する役割だった。記録といっても文書化はしない。ヤンの指示で、マルタン大佐との会話は全て口頭のみで処理されることになっていた。

 

 「閣下。お時間を頂きまして」

 

 マルタン大佐の声は、小さかった。夜の執務室の空気に合わせるように、低く抑えられていた。

 

 「構わない。続けてくれ」

 

 「ご依頼の件について、ご報告に参りました。イゼルローン要塞内部の協力可能性のある人物の特定と評価です」

 

 ヤンは紅茶のカップに手を伸ばしかけて、やめた。代わりに、マルタン大佐の顔を見た。

 

 「一人、候補がいます」

 

 マルタン大佐はそう言って、薄い手書きのメモを机の上に置いた。印刷物ではなかった。情報部門でも、この種の案件については紙の手書きで扱う習慣があるらしかった。

 

 「カール・シュナイダー技術中佐。四十八歳。イゼルローン要塞技術部門副責任者。エネルギー供給系統の管理責任者の一人です」

 

 ヤンは、そのメモを読んだ。氏名、階級、年齢、役職。それだけだった。

 

 「経歴と動機についても、口頭でご報告します」

 

 マルタン大佐は、メモを自分の側に戻した。メモを机の上に長く置いておくことを、彼は好まないようだった。

 

 「シュナイダー中佐は、帝国中部の地方貴族の家系に生まれましたが、家はすでに爵位を失っており、彼自身は平民として技術士官の道に進みました。士官学校では優秀な成績で、卒業後、技術部門で経験を積み、十五年前からイゼルローン要塞の勤務です。既婚。夫人はオーディン近郊に在住。子供はいません」

 

 ヤンは黙って聞いていた。

 

 「協力の動機については——我々の分析では、単一の大きな理由ではありません。複数の小さな理由が、時間をかけて積み重なった結果だと判断しています」

 

 マルタン大佐は、そこで一度言葉を切った。紅茶のカップに手を伸ばし、一口だけ飲んだ。

 

 「接触を試みたのは、三年前です。最初の一年は、雑談だけでした。二年目に、帝国の現状への疑問を少しずつ混ぜ始めましたが、中佐は否定も肯定もせず、ただ聞いていました。三年目の初め、中佐が一度だけ——『もし、自分の立場で何かができるとしたら』と口にしたことがあります。その一言で、こちらは腹を決めました」

 

 「動機そのものは、何なのかな」

 

 ヤンが、ようやく口を開いた。

 

 マルタン大佐は、一拍考えた。

 

 「一言では申し上げられません。家系の没落への長年の苦さ、技術者としての誇りが門閥貴族の愚行に利用されることへの疲労、夫人との長い別離の中で生じた——これは我々の推測ですが——自分の人生の意味を問い直す時期に差しかかっていたこと。それから、彼が技術者として熟知していた『要塞の構造上の弱点』が、彼自身の中で意味を帯びてきたこと。これらが、組み合わさっています」

 

 「……」

 

 「最後の点については、我々の側からも具体的な情報提供があったことを、正直に申し上げます。我々は、彼が把握していた構造上の脆弱性を、戦略的にどう使えるかを、遠回しに示しました。それが、彼の中で『もし、自分の立場で何かができるとしたら』という仮定を、より具体的な形に変えた、と見ています」

 

 ヤンは、紅茶のカップに目を落とした。カップはまだ手に取っていなかった。

 

 「彼は、自分がこの作戦に関与することで、自分に何が起きるかを、理解しているのかな」

 

 マルタン大佐は、一拍、間を置いた。

 

 「理解していると思います」

 

 「思います、か」

 

 「我々は、彼に直接確認はしていません。確認することは、彼に選択を迫ることになります。我々の側から選択を迫るのではなく、彼自身の中で選択が整うのを待つ、というのが、この種の接触の原則です。ただ——彼の反応の質から、我々は、彼がそれを理解しているものと判断しています」

 

 ヤンは、しばらく何も言わなかった。

 

 執務室の静けさの中で、壁の時計の音だけが聞こえていた。

 

 やがてヤンは、紅茶のカップを手に取った。一口飲んで、机に戻した。

 

 「マルタン大佐。一つだけ、頼みがあるんだ」

 

 「はい」

 

 「シュナイダー中佐には、このまま接触を維持してほしい。ただし、作戦の詳細については、彼が知るべき最小限のことだけを伝えてくれ。彼が自分の担当部分で何をすべきかは、伝える。それ以外の、作戦全体の構造、他の協力者の有無、同盟軍の艦隊の動き——これらは、彼には一切伝えないでほしい」

 

 「承知しました」

 

 「それから」

 

 ヤンは、一度だけ息を吸った。

 

 「彼に伝えてほしいことがあるんだ。——いや、直接は、伝えないでいい。ただ、もし接触の担当者が、彼と話す機会があれば、その時に、一言だけ。我々は、あなたの判断を尊重している、と」

 

 マルタン大佐は、ヤンの顔を見た。

 

 「……承知しました。機会があれば、そう伝えます」

 

 マルタン大佐は、メモを上着の内ポケットに戻した。

 

 「では、失礼いたします」

 

 マルタン大佐は立ち上がり、敬礼して退室した。

 

 執務室には、ヤンとグリーンヒル中尉だけが残った。

 

---

 

七十八

 

 ドアが閉まる音がした。

 

 グリーンヒル中尉は、ヤンの背後の椅子から立ち上がり、机の前に回り込んだ。マルタン大佐の座っていた椅子は、まだわずかに温かかった。

 

 「閣下」

 

 グリーンヒル中尉が声をかけた。

 

 ヤンは、紅茶のカップを両手で包み込むようにして持っていた。カップはもう冷めかけていた。

 

 「聞いたね」

 

 「はい」

 

 「君だけは、知っていてほしかった」

 

 ヤンは、カップから目を上げてグリーンヒル中尉の顔を見た。

 

 「一つは、君が副官として、私の判断を支える立場にあるからだ。もう一つは——」

 

 ヤンは、そこで一度言葉を切った。

 

 「もう一つは、私が、この人のことを、一人で背負うのは、少しだけ重いからだ」

 

 グリーンヒル中尉は、何も言わなかった。

 

 グリーンヒル中尉は、机の上に置かれていたポットから、新しい紅茶を注いだ。ヤンのカップから冷めた紅茶を下げ、新しいものと入れ替えた。動作は普段と同じ速度だったが、その動作の間に、彼女の中で何かが位置を変えた。それを、ヤンは察した。察したが、言葉にはしなかった。

 

 「提督」

 

 グリーンヒル中尉が、ようやく口を開いた。

 

 「はい」

 

 「一人よりは、少しだけ、ましだと思います」

 

 ヤンは、わずかに頷いた。それ以上は、どちらも何も言わなかった。

 

 グリーンヒル中尉は、自分の机に戻った。戻る前に、ヤンの机の隅に、新しい紅茶のカップを置き直した。

 

 ヤンは、新しい紅茶を一口飲んだ。温かかった。

 

 窓の外では、ハイネセンの夜がまだ続いていた。街の明かりは、いつもと同じ密度で、遠くまで広がっていた。あの明かりの中のどこかに、マルタン大佐が今、歩いて帰っている。そして、この時刻に、イゼルローン要塞の中のどこかで、カール・シュナイダー技術中佐という人物が、同じように眠っているか、あるいは起きて、何かをしているはずだった。

 

 ヤンは、その人物の顔を、自分は知らなかった。知らないまま、その人物に、自分の作戦は食い込んでいく。

 

 ヤンは紅茶のカップを、もう一度取り直した。紅茶はまだ温かかった。それ以外のことは、今夜はもう、考えないことにした。

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