深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第十七話「ローゼンリッター」

七十九

 

 宇宙暦七九六年五月十二日。

 

 ハイネセン、統合作戦本部、第一三艦隊司令部。

 

 ヤン・ウェンリー少将の執務室の扉が、ノックもなしに開いた。

 

 扉を開けたのは、背の高い男だった。金髪を軽く後ろに流し、軍服の襟元は規定よりほんの少しだけ開いていた。男は入室すると同時に、きびきびとした動作で敬礼した。

 

 「ローゼンリッター連隊長、ワルター・フォン・シェーンコップ大佐。出頭いたしました」

 

 ヤンは、一拍だけ相手の顔を見てから、ゆっくり立ち上がった。

 

 「ヤン・ウェンリーだ。……お待ちしていたよ」

 

 「お待ちいただいたのであれば、遅れたのはこちらの落ち度ですな」

 

 シェーンコップの声には、軍人の硬さよりも、社交場の軽さに近いものがあった。ただし、軽さの奥に、何かを測る目があった。ヤンを観察している——敵意でも好意でもない、情報を集める種類の目だった。

 

 「座ってくれ」

 

 ヤンは、応接用の椅子を勧めた。シェーンコップは椅子に腰を下ろしたが、背もたれには寄りかからなかった。

 

 グリーンヒル中尉が紅茶のカップを二つ、机の上に置いた。シェーンコップはグリーンヒル中尉に短く会釈してから、ヤンに視線を戻した。

 

 「ご用件は、伺っております。ローゼンリッターの一部を、第一三艦隊の作戦に組み込みたい、とのことでしたな」

 

 「ああ」

 

 「しかし、少将閣下。ローゼンリッターは白兵戦の連隊であって、艦隊戦の補助戦力ではありません。艦隊司令官が我々に声をかける理由は、通常、一つしかない——何か、艦隊戦以外のことを企んでおられる」

 

 ヤンは、紅茶のカップに手を伸ばした。一口飲んでから、カップを机に戻した。

 

 「そうだ」

 

 シェーンコップの口元が、わずかに持ち上がった。ヤンの答えの簡潔さが、彼の中で何かの評価を動かしたようだった。

 

 「結構。では、単刀直入にお伺いします。我々に何をさせたいのですか」

 

 「イゼルローン要塞の、一部の構造物を、内側から破壊してほしいんだ」

 

 シェーンコップの表情は変わらなかった。しかし、両手は膝の上で一度だけ組み直された。

 

 「内側から、ですか」

 

 「そうだ」

 

 「ローゼンリッター連隊が、イゼルローン要塞の内部に、どうやって入るのですか」

 

 「その手段については、こちらで協力体制を整えてある。詳細は、隊の選抜が終わった段階で、貴官自身に直接伝える。今は、作戦の枠組みだけを話している」

 

 シェーンコップは、しばらく何も言わなかった。それから、紅茶のカップを手に取り、一口飲んだ。

 

 「少将閣下。失礼ながら、一つ確認させていただきたい」

 

 「どうぞ」

 

 「この作戦は、文書化されていますか」

 

 ヤンは、シェーンコップの目を見返した。シェーンコップの目は、先ほどまでの軽さを脱いでいた。

 

 「文書化されていない。この作戦の全体像を知っているのは、現時点で私と、そこにいるグリーンヒル中尉だけだ。貴官は、三人目になる。ただし、貴官に伝えるのは、潜入任務の全体であって、作戦の全体像じゃない」

 

 「つまり、私も、自分の担当部分だけを知る、ということですな」

 

 「そうだ」

 

 「——ついでに言うと、この作戦は、もともとこういう形ではなかったんだ」

 

 シェーンコップの眉が、わずかに動いた。

 

 「もともと、と仰いますと」

 

 「ワームホールが出現するまでは、貴官たちにイゼルローンそのものを奪ってもらうつもりだった。占領作戦だ。筋としては、単純だった」

 

 「ほう」

 

 「だが、あの門が開いた日に、その構想は潰えた。——ワームホール出現以後、同盟軍の中は諜報の網目が細かくなりすぎている。奪取作戦を文書化して各部門で準備を進めれば、どこかから漏れる。漏れれば、要塞の防衛体制が変わる。変われば、奪取そのものが成立しなくなる」

 

 シェーンコップは、カップの縁を指でなぞった。

 

 「それで、奪取ではなく、内部の構造物を破壊する、ということですな」

 

 「そうだ。奪うのは諦めた」

 

 「なるほど。……ですが、閣下」

 

 「うん」

 

 「『諦めた』という言い回しが、少し引っかかりますな」

 

 ヤンは、紅茶のカップに手を伸ばしかけて、やめた。

 

 「引っかかる、と言うと」

 

 「諜報網が広がったから、奪取作戦の文書化ができない——それは、分かります。しかし、文書にしない組織を使う道はあるはずです。現に、今がそうでしょう。我々ローゼンリッターは、文書化された指揮系統の外で動くことに慣れている」

 

 ヤンは、答えなかった。

 

 「閣下が『難しい』と仰るなら、私は納得します。しかし『諦めた』と仰るのは、やり方の問題ではなく、そもそも奪いたくない、というふうに聞こえますな」

 

 「……貴官の言う通りだ」

 

 シェーンコップは、一拍だけ、ヤンの顔を見た。

 

 「お聞かせいただけますかな。奪取を避けた、本当の理由を」

 

 ヤンは、しばらく答えなかった。シェーンコップも、答えを待った。

 

 「……貴官に、正直に言うが」

 

 「どうぞ」

 

 「私は、もともとイゼルローンを奪うことに、別の意味を込めていた」

 

 「別の意味、と仰いますと」

 

 「奪えば、回廊を封鎖できる。封鎖できれば、帝国は同盟に侵攻する経路を失う。そうなれば、講和の交渉ができる。数十年規模の、不戦条約のような形で」

 

 シェーンコップは、眉を上げた。

 

 「……ああ。それが本来のお考えでしたか」

 

 「そうだ。一五〇年続いた戦争を、軍事的な勝利ではなく、地理的な分断で終わらせる。それが、私の考えていた道だった」

 

 ヤンは、紅茶のカップに目を落とした。

 

 「しかし、あの門が開いた日に、その道は消えた」

 

 「ワームホール、ですか」

 

 「そうだ。イゼルローンを奪って回廊を封鎖しても、帝国はワームホール経由でハイネセンに来られる」

 

 シェーンコップが、少し考えてから返した。

 

 「——ですが、閣下。奪取後の立場で考えれば、帝国がハイネセンを攻めれば、我々はイゼルローンから逆にオーディンを突ける。相互牽制にはなりませんか」

 

 「一段目としては、その通りだ。——だが、ローエングラム伯がいる限り、それも信用できない」

 

 シェーンコップは、わずかに眉を寄せた。

 

 「ローエングラム伯、ですか」

 

 「最近、ローエングラム伯の側が、ハイネセンの衛星防衛網を寡兵で破った。フェザーン経由の情報だが、事実だ。——あの男なら、我々には思いつかない種類の手を打ってくる」

 

 シェーンコップは、しばらく黙った。

 

 「……それに、イゼルローンを失えば、帝国は門閥貴族との対立を一時的に封印して、一つにまとまりますな」

 

 「そうだ」

 

 シェーンコップは、何か言いかけて、やめた。それから、ゆっくりと言った。

 

 「閣下が奪取を『諦めた』のは——奪取が難しくなったからではなく、奪取の意味が消えたからですな」

 

 「そうだ」

 

 「では、なぜ、それでも内部の構造物を破壊する作戦を」

 

 「——何もしなければ、もっと悪い方向から圧力が来る。アスターテで百五十万を失った後の同盟軍には、『反撃の成果』を出せという圧力がかかっている。ここで何もしなければ、強硬派が別の方向から動く。大艦隊を動員する、本格的な侵攻作戦の類だ」

 

 「なるほど」

 

 「奪取は強硬派の『次の段階』を呼ぶ。何もしなければ、別の形で強硬派が動く。——『一時的に使えない状態』は、その中間を狙っている」

 

 シェーンコップは、カップの縁を指でなぞった。なぞりながら、何か考えていた。

 

 「つまり、閣下は、帝国にも同盟にも、『決定的ではない成果』として見せたいわけですな」

 

 「そうだ」

 

 シェーンコップは、何か言いかけて、やめた。

 

 「それを、初対面の私に、お話しいただけるとは」

 

 「貴官に、作戦の目的を誤解されたくなかった。それだけだ」

 

 シェーンコップは、また一拍だけ、ヤンの顔を見た。

 

 「結構。お引き受けします。隊員の選抜と訓練は、こちらで進めます。私自身が指揮を執ります。他の連隊員には、通常の機動訓練の名目で召集をかけます。理由を知るのは、選抜された隊員だけに限ります」

 

 「ありがとう」

 

 「ただし」

 

 シェーンコップは立ち上がった。

 

 「一つだけ、約束していただきたい。潜入任務の細部については、決定した段階で、必ず私自身に直接お伝えください。中継を経由させず、文書に残さず。これは、隊員の命に直結します」

 

 「約束する」

 

 シェーンコップは敬礼し、執務室を退出した。

 

 扉が閉まった後、グリーンヒル中尉が静かに口を開いた。

 

 「……面白い方ですね」

 

 「面白い、で済むといいんだが」

 

 ヤンは、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。

 

---

 

八十

 

 五月十五日。

 

 ハイネセン近郊、ローゼンリッター連隊駐屯地、訓練区画。

 

 ワルター・フォン・シェーンコップ大佐は、自分の執務室の窓から、訓練場を見下ろしていた。

 

 訓練場では、連隊員たちが通常の機動訓練を行っていた。シェーンコップは、その中から目当ての顔を探していた。既に、頭の中には候補の名前が並んでいた。三十名から五十名の枠。この種の任務に必要なのは、腕だけではなかった。口の固さ、判断の速さ、そして——これが最も重要だが——任務の意味を問わないこと。

 

 「連隊長」

 

 副官が、書類を一束持って入室した。

 

 「ご指定の候補者の身上書を、お持ちしました」

 

 「ありがとう。そこに置いてくれ」

 

 副官は、机の上に書類を置いた。置いた後、一拍だけ、シェーンコップの顔を見た。

 

 「連隊長。質問してよろしいですか」

 

 「内容による」

 

 「今回の訓練は、通常の機動訓練とは別物と承知しております。目的について、私にどこまでお伝えいただけますか」

 

 シェーンコップは、窓から視線を外さなかった。

 

 「お前が知るべき範囲は、『候補者の身上書を私に届けること』までだ。それ以上の範囲には、お前は入らない。理由は二つ。一つは、お前の安全のため。もう一つは、この任務の構造上、お前が知らないことそのものが、任務の一部だからだ」

 

 副官は、わずかに間を置いてから、敬礼した。

 

 「承知しました」

 

 副官が退室した後、シェーンコップは机の上の身上書を手に取った。一枚ずつ、ゆっくりと捲っていった。名前、階級、経歴、戦歴、そして人柄についての短い所見。シェーンコップは、自分の目で見たことのある隊員については、身上書の所見よりも自分の記憶を優先した。

 

 選抜の条件は、三つ決まっていた。独身であること。帝国語の会話能力。狭い空間での戦闘経験。どれも、この種の任務には必要な条件だったが、どれもが、この任務の本質を決める条件ではなかった。

 

 シェーンコップ自身のことは、最初の条件から除外していた。連隊長として、自分が行かない選択肢はなかった。彼自身も独身だった。結婚しなかった理由は、彼の中で整理されていたし、他人に説明するつもりもなかった。

 

 四つ目の条件——シェーンコップが最後に書いた条件は——「問わない」だった。任務の意味を問わない。命令の理由を問わない。隣の戦友の氏素性を問わない。自分が戻ってこられない確率を問わない。問わないことは、臆病さではなく、ある種の強さだった。

 

 前の三つは、条件を満たせば選ばれる。四つ目は、そうではなかった。

 

 シェーンコップは、身上書の山の中から、最初の一枚を選び出した。一番上に置いた。それから、二枚目を選び、一枚目の上に重ねた。三枚目、四枚目、五枚目。

 

 夕刻までに、四十二人の名前が揃った。

 

---

 

八十一

 

 帝国暦四八七年五月十五日。

 

 イゼルローン要塞、司令部執務室。

 

 トーマ・フォン・シュトックハウゼン大将は、副官から告げられた面会要請の名前を聞いた時、一瞬だけ顔をしかめた。

 

 「ゼークト大将閣下がお越しです」

 

 「……通せ」

 

 シュトックハウゼンは、机の上の書類を一度だけ揃え直した。書類の内容は面会とは関係がなかったが、机の上を整えることで、わずかに気持ちを整える必要があった。

 

 ハンス・フォン・ゼークト大将が入室した。敬礼は規定どおりだったが、必要最小限だった。シュトックハウゼンも、立ち上がっては応接用の椅子を勧めたが、自分からは握手を差し出さなかった。二人の大将の間には、軍の格式以上のものが存在しないということが、両者の動作の一つ一つに表れていた。

 

 「ご足労、痛み入る」

 

 シュトックハウゼンの声には、言葉の内容と裏腹の冷たさがあった。

 

 「痛み入るほどの距離でもない」

 

 ゼークトは、椅子に腰を下ろした。腰を下ろしたが、背もたれには寄りかからなかった。要塞司令官の執務室に長居するつもりはない、という姿勢だった。

 

 シュトックハウゼンは、紅茶もブランデーも勧めなかった。勧めるつもりがあれば、既に副官に命じていた。ゼークトも、勧められないことに何の反応も示さなかった。要塞司令官と駐留艦隊司令官の——この二人の間では——それが通常の応対だった。

 

 「本題を」

 

 ゼークトが切り出した。

 

 「ローエングラム元帥府からの通達について、貴官の見解を伺いたい。ロイエンタール中将の特命派遣に関する、詳細な要請事項の件だ」

 

 シュトックハウゼンは、机の上の一枚の文書を、ゼークトの方に押し出した。ゼークトは文書を取り上げたが、一瞥しただけで机に戻した。既に自分の執務室で同じ文書の写しを読んでいた。

 

 「駐留艦隊との連携について、細かい要求が並んでいる」

 

 シュトックハウゼンが言った。

 

 「連携と言っても、ロイエンタール中将は独立した指揮系統で動く。正式な合同指揮は取らない。——そう決まっていたはずだ」

 

 「決まっていた。しかし、元帥府からの要請の方は、『情報の共有』『補給の調整』『哨戒範囲の擦り合わせ』と、実質的には連携を求めている」

 

 「連携を取るか取らないかは、駐留艦隊司令官として、貴官が判断することだ。要塞の内部には、貴官の判断は及ばない」

 

 シュトックハウゼンの声は、事務的だった。事務的な中に、線を引くような明確さがあった。

 

 ゼークトは、ほんの少しだけ口元を動かした。笑いではなかった。

 

 「承知している。私の判断は、要塞の内部には及ばない。そして、貴官の判断は、要塞の外の宙域には及ばない。——そうだな」

 

 「そうだ」

 

 「ならば、連携の必要はない。元帥府が何を要請しようと、実務上は、二つの指揮系統が互いの領域に口を出さないことが、最も混乱の少ない運用だ」

 

 シュトックハウゼンは、頷いた。頷いた後、机の上の文書に手を置いた。文書を挟んだその手の位置が、二人の領域の境界線を示しているように見えた。

 

 「同盟の第一三艦隊が、近々、この方面に展開するらしい。規模は五千から六千隻と聞いている」

 

 シュトックハウゼンが、話題を変えた。

 

 「寡兵だな」

 

 ゼークトが短く返した。

 

 「寡兵だ。正面攻略は、あり得ない」

 

 シュトックハウゼンの声には、要塞司令官としての自信があった。トゥールハンマーの火力は、要塞ができて以来の数十年間、不敗の根拠だった。

 

 「ロイエンタール中将は、正面以外を心配しているらしい。元帥府の通達にも、それらしき表現が混じっている」

 

 ゼークトが、低い声で言った。

 

 「内部浸透への警戒は、既に強化している。ロイエンタール中将の懸念は理解するが、我が方の備えは、既にそれを上回っている」

 

 「結構」

 

 ゼークトは、それだけ言った。シュトックハウゼンの自信に同意したのではなかった。ただ「要塞内部の話は、私の担当ではない」と線を引いただけだった。

 

 「私の艦隊は、同盟軍が接近してくれば対応する。ただし、要塞内部の防衛については、関与しない。関与する権限もない」

 

 「関与されても困る。要塞の内部は、私の責任範囲だ」

 

 二人の大将は、束の間、互いの顔を見た。視線が合ったのは、会話が始まってから、初めてだった。その視線の中に、互いへの信頼はなかった。尊敬もなかった。ただ、互いの領域を侵さないという暗黙の合意——それだけが、かろうじて二人の間を繋いでいた。

 

 ゼークトが立ち上がった。

 

 「話は以上か」

 

 「以上だ」

 

 ゼークトは敬礼し、執務室を退出した。退出の動作に、入室時と同じ必要最小限の規定性があった。

 

 扉が閉まった後、シュトックハウゼンは机の上の文書に手を戻した。戻した指先の動きには、わずかな苛立ちがあった。苛立ちの相手は、ゼークトだけではなかった。元帥府と、若い元帥と、その元帥府が連携を求めてくるこの状況全体に向けられていた。

 

 「あの男は、いつもああだ」

 

 シュトックハウゼンは、誰にでもない独り言を漏らした。そして、独り言を漏らしたこと自体を、誰も聞いていないことを確認した。執務室には、自分一人しかいなかった。

 

 窓の外では、要塞の内部照明が夕刻用の淡い橙に切り替わっていた。

 

---

 

八十二

 

 同日。要塞内、技術区画、第二伝達系統点検室。

 

 カール・シュナイダー技術中佐は、一人で作業台に向かっていた。

 

 リヒター少尉は、既に退勤していた。今週の定期点検の主担当はリヒター少尉で、シュナイダーは立ち会うだけ、という約束だった。約束通り、シュナイダーは今日の点検には立ち会った。立ち会っただけだった。リヒター少尉は、上官の目の前で、落ち着いて作業を進めていた。来週には、もう立ち会いも不要だろう。

 

 退勤時刻を過ぎていた。点検室には、シュナイダー一人しかいなかった。

 

 作業台の上には、点検記録の控えが積まれていた。過去三ヶ月分。シュナイダーは、その中から、特定の中継点——第二段階の、三つあるボトルネック中継点のうちの一つ——に関する記録を、ゆっくりと捲っていった。

 

 記録を見ていたのは、故障の兆候を探しているのではなかった。中継点の調整装置の制御パラメータが、過去三ヶ月の間にどの程度、基準値からずれていたかを、自分の目で確認するためだった。ずれの幅は、通常の運用誤差の範囲内にあった。

 

 シュナイダーは、その数字を指でなぞった。なぞりながら、頭の中で別の計算を組み立てた。計算の手順は、二十数年間の技術者としての仕事と、まったく同じ種類のものだった。違うのは、計算の目的だけだった。

 

 目的を意識しないようにすることは、できなかった。意識しないようにしようとする瞬間に、意識してしまう。シュナイダーは、その矛盾を受け入れた。目的を意識したまま、計算を進めた。計算は、目的を意識していても、意識していなくても、同じ数値を導き出した。

 

 計算が終わった。必要な時間は、定期点検の定められた作業時間の範囲内に収まる——それが、シュナイダーの結論だった。

 

 シュナイダーは、記録を閉じた。書棚にしまう前に、一度だけ、作業台の前で立ち止まった。立ち止まった理由は、シュナイダー自身にも、よく分からなかった。ただ、しまう前に一度だけ立ち止まることが、今日の作業の締めくくりとして、必要な気がした。

 

 記録は書棚に戻された。点検室の照明を落とし、シュナイダーは部屋を出た。

 

 廊下では、夕刻用の淡い橙の照明が、遠くの角まで続いていた。その照明の下を、シュナイダーは自分の宿舎に向かって歩いた。




ヤンの思考について、小説本文では小説という媒体上詳しく書けなかったので、以下で少し補足したいと思います。

原作『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーは、イゼルローン攻略について一貫した戦略目的を持っていました。奪取して回廊を封鎖すれば、帝国は同盟に侵攻する経路を失い、数十年規模の不戦条約のような形で講和できる——軍事的な勝利ではなく、地理的な分断による戦争の終結という発想です。本作のヤンも、ワームホール出現まではこの戦略を持っていました。第十七話でシェーンコップに語った原作戦略の告白は、そのままなぞっています。

しかし、ワームホールはこの戦略を論理的に無効化しました。イゼルローンを奪って回廊を封鎖しても、帝国はワームホール経由でいつでもハイネセンに来られるからです。不戦条約を結んでも、門がある限り、条約は紙切れになりかねません。

ここでヤンは一度、相互確証破壊の論理で救済を試みます。奪取後の立場で考えれば、帝国がハイネセンを攻めても同盟はイゼルローンから逆にオーディンを突ける——双方が相手の首都を直接脅かせる状態は、帝国側にも条約を守る合理的な理由を与えます。しかし、この論理にも崩壊条件がありました。ラインハルト・フォン・ローエングラムという個人の戦略眼です。

第十三話でルビンスキーが決めた情報流通により、アルテミスの首飾り破壊の件は同盟軍情報部門にも伝わっています。ハイネセン上空の衛星防衛網を、ラインハルトの部下であるジークフリード・キルヒアイスが寡兵で破ったという事実です。ヤンはここで重要な推論をします。部下にそれができるということは、本人はそれ以上の発想ができる、と。ラインハルトであれば、イゼルローンを同盟が保持したまま無力化する方法を考えつく可能性がある——本作の第二章でヤン自身が今まさに実行しようとしている作戦の論理を、敵側もいつか思いつく、という恐怖です。

加えて、奪取後の駐留艦隊問題があります。要塞保持のために一個艦隊を置かなければならず、アスターテで百五十万を失った直後の同盟軍にとって、首都防衛戦力から一個艦隊を外すことは、とても痛い決断です。

そして、この駐留艦隊問題には、さらにもう一段の層があります。ヤン自身の人事です。

原作をご存じの方なら、ヤン・ウェンリーがイゼルローン攻略後に要塞司令官として赴任したことを覚えていらっしゃるでしょう。本作でも、同じ人事が行われる可能性があります。ヤンほどの実績と経験を持ち、しかも要塞攻略の立役者である以上、駐留艦隊司令官として他に誰を配置するかという問題は、必ずヤン本人に行き着きます。

これはヤンにとって決定的な問題です。もしヤンがイゼルローンに赴任すれば、ヤンはハイネセンを長期間離れることになります。そしてハイネセンには、ラインハルトがいつでもワームホール経由で攻め込める状況があります。ヤン抜きのハイネセンで、ラインハルト率いる帝国軍の全戦力を迎え撃つ——これはヤンの計算上、同盟が敗北する最短の道筋です。

イゼルローン奪取は、成功すれば成功するほど、同盟の最後の盾であるヤン自身を最前線から遠ざけることになります。議会や強硬派にとっては「成果を挙げた英雄を成果の象徴である要塞に置く」という理想的な政治的絵ですが、軍事的には同盟がワームホール経由の本格侵攻に対して最も脆弱になる瞬間を自ら作り出すことになります。

ヤンはこの可能性を誰にも語っていません。語れば、自分が駐留艦隊司令官の任命を拒否しているように聞こえるからです。奪取を選ばないことは、自分がハイネセンを離れないことと同義であり、同時に、同盟が最後の砦を保持し続けることを意味します。

それでも「何もしない」のではなく「一時的な無効化」を選ぶ理由は、本文でも軽く触れた通りです。アスターテで百五十万を失った後の同盟軍には「反撃の成果」を出せという圧力がかかっており、何もしなければ強硬派が大艦隊を動員する本格的な侵攻を主導する。それは同盟を滅ぼしかねません。奪取と「何もしない」の中間として、帝国には「回復できる」と思わせる程度の無力化に留めつつ、国内には「帝国要塞の一時無力化」として成果を報告できる——これが、ヤンが敵と味方の両方を同時に読んで設計した中間点です。

本文で全てを語らせなかったのは、シェーンコップとの初対面の場面として重すぎるからです。しかしヤンの頭の中では、これらの論点が全て同時に計算されている——そう考えて読んでいただければ幸いです。
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