深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第十八話「両者の集結」

八十三

 

 宇宙暦七九六年五月二十四日。

 

 ハイネセン、統合作戦本部、第一三艦隊司令部。

 

 ヤン・ウェンリー少将は、編成完了の報告書を机に置いた。

 

 五千八百隻。人員約百万。第一三艦隊の最終編成表は、ヤンが当初想定していた数字を、わずかに下回っていた。同盟軍全体の兵力の逼迫を考えれば、この数を集められただけでも上出来だった。艦齢の古い巡航艦が多いこと、補給艦の割合が規定より少ないこと、訓練未了の新兵が含まれていること——これらはすべて、この状況下では飲み込むしかない条件だった。

 

 ヤンは、報告書の最後のページにサインした。万年筆の黒いインクが、白い紙の上で一瞬だけ光った。

 

 「編成完了。出撃は予定通り、二十六日の未明」

 

 グリーンヒル中尉が、机の横で頷いた。

 

 「艦隊司令部への通達を、準備しております」

 

 「頼む」

 

 ヤンは、椅子の背もたれに身体を預けた。肩のあたりに、何かが落ちてきた。この数週間、折に触れて感じてきた重さだった。いったん遠のいたはずのものが、署名と同時に戻ってきた。

 

 五千八百隻の指揮官として、ヤンは回廊を抜ける。回廊の先には、イゼルローン要塞本体と、ゼークト大将率いる駐留艦隊、そしてローエングラム元帥府の特命派遣としてロイエンタール中将が率いる独立艦隊——規模は七千から八千隻——がいる。数の上では絶望的に不利だが、ヤンはそれを織り込んで作戦を立てている。

 

 作戦の全体像を知るのは、自分とグリーンヒル中尉だけだった。シェーンコップ大佐には潜入任務の全体を渡したが、それ以上は知らせていない。ほかの者には、それぞれ必要な範囲の情報だけが配られている。その配り方が崩れれば、作戦そのものが崩れる。

 

 ヤンは、天井のあたりを一度だけ見上げた。

 

 「グリーンヒル中尉」

 

 「はい」

 

 「キャゼルヌ先輩に、今夜、少し時間を取ってもらえるか訊いてくれるか。書類のことで話したい、と」

 

 「承知しました」

 

 書類のことで話したい——その理由は、キャゼルヌには通じるはずだった。二人の付き合いは、そういう言い方で済む長さを持っていた。

 

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八十四

 

 同日。帝国暦四八七年五月二十四日。

 

 イゼルローン要塞近傍宙域、旗艦《トリスタン》。

 

 オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、艦橋の指揮席から、前方スクリーンに映し出されたイゼルローン要塞の姿を見ていた。

 

 直径六十キロの球体。要塞全体の九割が、装甲と兵装と居住区画で占められている。これを艦隊戦で正面から落とすことは、数万の艦艇を動員しても不可能——少なくとも、帝国軍が要塞建造以来の数十年間、そう信じてきた前提だった。

 

 ロイエンタール艦隊、総数七千八百隻。元帥府からの特命派遣として、イゼルローン回廊の帝国側出口付近に展開している。任務は、回廊から現れる同盟軍艦隊への対応。同時に、イゼルローン要塞との連携——「連携」と書類には書かれているが、実質的な合同指揮は取らない。

 

 副官のベルクマン少佐が、通信記録を差し出した。

 

 「要塞司令部より、定例連絡が入っております。シュトックハウゼン大将閣下からの通達で、駐留艦隊司令官のゼークト大将閣下との共同会議が二十五日に予定されている、とのことです」

 

 「共同会議、か」

 

 ロイエンタールの声には、軽い皮肉が含まれていた。

 

 「出席の必要は」

 

 「形式的には、閣下の出席を求めておりません。『情報共有のため』と記されています」

 

 「情報共有、ね」

 

 情報共有という言葉を、ロイエンタールは一度だけ口の中で転がした。シュトックハウゼンとゼークトが互いを嫌っていることは、帝国軍内部では広く知られている。その二人が同じ会議室に座り、しかも元帥府特命の自分を呼ばない。会議という形式だけを整えるつもりなのだろう。

 

 ロイエンタールは、静かに笑った。

 

 「出席しない。そう伝えてくれ」

 

 「承知いたしました」

 

 ベルクマンが下がった後、ロイエンタールはスクリーンに視線を戻した。

 

 要塞は、変わらずそこにあった。建造以来の数十年間、帝国軍の不敗の象徴だったもの。しかし今、その象徴を守る二人の大将は互いを嫌っていて、元帥府特命の自分を会議から外す。象徴の内側に、亀裂がある。

 

 そして、回廊の向こうには同盟軍がいる。寡兵で。

 

 寡兵で来るということは、正面突破ではない何かを考えている、ということだ。ロイエンタールは、オーディンを発った時からそう見ていた。要塞の構造を知る者の協力——内部工作の可能性。そして、それを指揮するのは誰か。アスターテで撤退戦を成功させた、あの同盟軍の指揮官だ。

 

 ロイエンタールは、指先で指揮席の肘掛けを一度だけ叩いた。

 

 「面白い」

 

 誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。

 

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八十五

 

 同日。イゼルローン要塞、技術区画、第二伝達系統点検室。

 

 カール・シュナイダー技術中佐は、点検記録の最新分を書棚に戻した。

 

 今週の定期点検は、予定通り完了していた。リヒター少尉が主担当として作業を進め、シュナイダーは立ち会った——形式上は。実質的には、シュナイダーは自分の計算を頭の中で進めていた。

 

 退勤時刻を過ぎていた。部屋には、シュナイダー一人しかいなかった。

 

 作業台の上に、今日の点検で使った工具が並んでいた。シュナイダーはそれを、いつもと同じ手順で片付けた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ向きで。工具の並びは、明日の朝、誰かが部屋に入ってきた時に、前日の作業が普通に終わっていたことを示すはずだった。

 

 工具を片付けた後、シュナイダーは作業台の前でしばらく立っていた。

 

 明日の朝、彼はリヒター少尉に、来週の点検の段取りを伝える予定だった。来週の点検は、リヒター少尉に全面的に任せる。そう伝えることになっていた。リヒター少尉の顔を、シュナイダーは一度だけ思い浮かべた。

 

 シュナイダーは、机の引き出しから封筒を一通取り出した。宛名は書かれていない。中には何も入っていない。彼は封筒の端を親指で一度だけなぞり、すぐに元の場所へ戻した。

 

 点検室の照明を落とし、シュナイダーは部屋を出た。廊下の夕刻用の照明が、遠くの角まで続いていた。

 

---

 

八十六

 

 同日午後。ハイネセン、国防委員会議事堂。

 

 国防委員会の定例会議は、予定通りの時間に始まり、予定通りの議題を消化していた。

 

 シドニー・シトレ元帥は、委員会の席から、議長席のヨブ・トリューニヒトを見ていた。同盟評議会議員、国防委員長。四十代後半の、雄弁な政治家。文民統制の原則の下、軍部の最高責任者であるシトレも、形式上は国防委員会の管轄を受ける。

 

 議事の最後、トリューニヒトが柔らかい声で言った。

 

 「シトレ元帥。第一三艦隊の編成について、進捗をご報告いただけますか」

 

 「編成は完了しております。出撃は予定通り、二十六日未明であります」

 

 「素晴らしい。予定通りとは、心強い」

 

 トリューニヒトは、穏やかに微笑んだ。

 

 「ヤン・ウェンリー少将は、我が同盟軍の希望の一つです。アスターテでの撤退戦以来、市民の間でもその名前は広く知られている。——元帥、この作戦の具体的な内容について、どこまで委員会で共有できますか」

 

 「作戦の詳細は、作戦機密に属します」

 

 「それはもちろん、軍機密の範囲は尊重します。ただ、委員会としては、市民への説明責任を果たさなければなりません」

 

 トリューニヒトは、机の上で両手を組んだ。

 

 「アスターテで我々は百五十万を失いました。市民はその数字を知っています。知った上で、次の一手を待っている。期待に応える責任が、我々にはあります——軍と委員会、双方に」

 

 「承知しております」

 

 シトレは、短く答えた。

 

 「期待に応える責任は、作戦の指揮官と、私自身の責任であります」

 

 「もちろんです。元帥が背負っておられるものの重さは、私も承知しております。ただ、もしも——万が一のことがあった場合、市民への説明は、最終的には国防委員会の責任になります。私個人ではなく、委員会全体の」

 

 トリューニヒトの声は、最後まで穏やかだった。

 

 「その時に、委員会がどう説明するかを、あらかじめ整えておく必要がある。作戦の詳細は伺いません。ただ、『同盟軍は最善を尽くした』という形式の報告を、後日、委員会に提出してください。それだけは、お願いしておきます」

 

 シトレは、トリューニヒトの顔を見た。

 

 「——承知しております」

 

 それだけを答えた。

 

 定例会議はそれで散会した。

 

 シトレは、議事堂を出て、公用車に乗り込んだ。運転手に行き先を告げてから、彼は後部座席の窓の外を見た。ハイネセンの午後の光が、街路樹の隙間から車内に入ってきていた。

 

 シトレは、しばらく窓の外を見ていた。視線の先に何があったかは、彼自身にもはっきりしなかった。ただ、見ていた。

 

---

 

八十七

 

 同日夜。ハイネセン、統合作戦本部、キャゼルヌ少将の執務室。

 

 アレックス・キャゼルヌ少将は、机の上に広げられた補給計画書から顔を上げた。

 

 ヤンが部屋に入ってきたところだった。珍しく、時間通りだった。

 

 「座ってくれ」

 

 キャゼルヌは、応接用の椅子を勧めた。ヤンは腰を下ろし、机の上の書類を一瞥してから、キャゼルヌの顔を見た。

 

 「補給の方はどうですか」

 

 「計画通りだ。第一三艦隊への初期補給は、出撃時に完了する。中期補給は、回廊内の指定地点までこちらから送る。長期補給は——その時の状況によって変わる」

 

 「その時の状況、ですか」

 

 「作戦の細部は訊かない。訊いても答えられないだろう」

 

 キャゼルヌは、短く言った。その短さに、長年の付き合いがあった。

 

 「ただ、補給面で言えることは一つだけある。長期補給を必要としない形で作戦が終われば、俺の仕事は楽になる。長引けば、俺が徹夜することになる」

 

 「徹夜は、なるべくさせたくないですね」

 

 「ありがたいことだ」

 

 二人は、短く笑った。

 

 キャゼルヌは、引き出しから小さな紙袋を取り出して、机の上に置いた。

 

 「うちの妻が、君に持たせろと言ってな」

 

 「何ですか、これは」

 

 「菓子だ。出撃前に食べろ、と」

 

 ヤンは、紙袋を手に取った。軽かった。

 

 「奥様にも、よろしくお伝えください」

 

 「伝えておく」

 

 ヤンは紙袋を机の隅に置いた。置いてから、しばらく動かなかった。

 

 「キャゼルヌ先輩」

 

 「何だ」

 

 「……いや、何でもありません」

 

 「言いかけてやめるのは、君の悪い癖だ」

 

 「そうですね」

 

 ヤンは、小さく笑った。

 

 「悪い癖ですが、治すつもりはないんです。治したら、言わなくていいことまで言ってしまいそうで」

 

 「——分かった。そういうことにしておく」

 

 キャゼルヌは、それ以上追及しなかった。追及する必要もなかった。ヤンが言いかけてやめたことの中身は、訊かなくても大体分かっていた。訊かないことが、友情の一部だった。

 

 ヤンが立ち上がった。

 

 「では、行ってきます」

 

 「ああ。気をつけてな」

 

 「気をつけます」

 

 ヤンは、扉の前で一度だけ振り返った。振り返って、何か言いかけて、やめた。それから扉を開けて、出ていった。

 

 キャゼルヌは、ヤンが置いていった菓子の紙袋を見ていた。しばらく見てから、机の引き出しに入れた。引き出しを閉じる前に、一度だけ手を止めた。

 

---

 

八十八

 

 同日深夜。ヤン・ウェンリーの官舎。

 

 ユリアン・ミンツは、居間のソファに座って、紅茶を淹れるためにポットを温めていた。

 

 ヤンが玄関を開けた音を、ユリアンは耳で捉えた。時計は二十三時を少し過ぎていた。普段の帰宅時刻より、少しだけ遅い。

 

 「おかえりなさい」

 

 「ああ、ただいま」

 

 ヤンは、上着を椅子の背にかけて、居間のソファに沈み込んだ。ユリアンが紅茶を差し出すと、ヤンは両手でカップを包んだ。

 

 「紅茶、ありがとう」

 

 「いえ」

 

 二人は、しばらく何も話さなかった。テレビジョンは消してあった。部屋には、時計の秒針の音だけが聞こえていた。

 

 ヤンは、紅茶を一口飲んでから、カップを机に戻した。

 

 「ユリアン」

 

 「はい」

 

 「明日の朝、少し早く出る。見送りはいらない」

 

 「……はい」

 

 ユリアンは、それ以上何も訊かなかった。ヤンが「少し早く出る」と言う時、それがいつもの朝の出勤ではないことを、ユリアンは知っていた。第十三艦隊の編成が完了したことは、ニュースでも報じられていた。

 

 「ヤン提督」

 

 「何だ」

 

 「……いえ、何でもありません」

 

 「それは、私のさっきの真似かな」

 

 ヤンは、小さく笑った。

 

 「いえ、私の方が先に覚えた癖だと思います」

 

 「そうかもしれないな」

 

 二人は、短く笑った。笑った後、ユリアンはヤンの空になったカップに、新しい紅茶を注いだ。

 

 「温かいうちに飲んでください」

 

 「ありがとう」

 

 ヤンは、新しい紅茶を一口飲んだ。温かかった。

 

 ユリアンは、ソファの反対側に座って、自分の紅茶を飲んでいた。ヤンは、少年の顔を見たが、何も言わなかった。今夜は、それで足りるように思えた。

 

 時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいた。

 

 「ユリアン」

 

 「はい」

 

 「もう寝なさい。明日も学校だろう」

 

 「はい」

 

 ユリアンは、カップを流しに持っていった。流しで洗ってから、棚に戻した。戻す動作は、いつもと同じ速度だった。しかし戻した後、ユリアンは棚の前で一度だけ動きを止めた。

 

 「おやすみなさい、ヤン提督」

 

 「ああ、おやすみ」

 

 ユリアンは自室に向かった。扉が閉まる音がした。

 

 ヤンは、一人になった居間で、新しい紅茶を飲み干した。それから、書斎に向かった。書斎の机の上には、第一三艦隊の最終編成表が置かれていた。ヤンはそれを手に取り、一度だけ眺めてから、机の引き出しにしまった。

 

 引き出しを閉じる前に、ヤンは一度だけ手を止めた。

 

 引き出しが閉じた。

 

 ヤンは、書斎の明かりを落として、寝室に向かった。

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