八十九
宇宙暦七九六年六月十五日。
イゼルローン回廊、中間地帯。
旗艦《ヒューベリオン》の艦橋で、ヤン・ウェンリー少将はお茶を飲んでいた。
第一三艦隊五千八百隻は、出撃から三週間近くが経過していた。既に回廊の同盟側入口を抜け、現在は中間地帯を慎重に進んでいる。航行は順調だった。
「前方、帝国軍艦隊の反応。距離二百光秒」
オペレーターの声が艦橋に響いた。ヤンはカップを机に置いた。置いたカップが、机の上で一度だけ小さく揺れた。
「規模は」
「推定、七千から八千隻。展開は——回廊の帝国側出口から、こちらへ向かって前進中」
「向かって、か」
ヤンは、前方スクリーンを見た。スクリーンには、まだ帝国艦隊の姿は映っていない。距離二百光秒——約六千万キロメートル——は、艦隊戦の基準ではまだ遠い。しかし、互いの存在を認識し合うには十分な距離だった。
グリーンヒル中尉が、ヤンの横から静かに言った。
「向こうも、こちらを捉えました」
「そうだろうね」
ヤンは、もう一度カップを手に取った。紅茶はまだ温かかった。
「全艦、速度を半分に落とす。前進は継続。ただし、まだ詰めるな」
「承知いたしました」
副官のムライ参謀長が、指示を艦隊全体に伝達した。第一三艦隊は速度を半分に落とし、慎重に前進を続けた。
艦橋の空気は、張り詰めていた。五千八百隻対七千から八千隻——数の上では約三割の劣勢。しかも相手は、アスターテで残存していた帝国軍の精鋭部隊の一部を含む艦隊だった。情報部門の分析では、指揮官は帝国軍の若手有力者の一人で、ローエングラム元帥府の直轄部隊。ヤンはその輪郭を知っていた。知っていたが、艦橋では口にしなかった。
名前を口にすれば、部下たちがその名前に反応する。ヤンが必要としていたのは、相手を侮らないことではなく、相手の名声に艦橋を支配させないことだった。
「ヤン少将」
グリーンヒル中尉が、ヤンの耳元で小さく言った。
「はい」
「艦橋の皆に、少しだけ、お言葉を」
「そうだね」
ヤンは、カップを机に置いた。艦橋の全員の顔を、ゆっくりと見回した。
「聞いての通り、前方に帝国軍艦隊がいる。規模はこちらより大きい」
ヤンの声は、普段の会話と同じ調子だった。
「だが、今日のところはまだ、互いの距離を測る日だ。ここで急いでも、あまり得るものはない。我々は前へ進む。ただし、焦らない」
艦橋の何人かが、ゆっくりと頷いた。
「焦らせたい方が、先に動く。我々は、その時まで落ち着いていればいい」
ヤンは、それだけ言って、指揮席に戻った。
艦橋の緊張が、わずかに緩んだ。完全に解けたわけではなかったが、部下たちは指揮官が落ち着いていることを確認した。それで十分だった。
ヤンは指揮席で紅茶を飲み干した。カップの底に、わずかな茶葉が残っていた。
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九十
同日。同時刻。
イゼルローン回廊、帝国側中間地帯。旗艦《トリスタン》の艦橋。
オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、前方スクリーンに映し出された同盟軍艦隊の反応を見ていた。
「距離二百光秒。速度低下を確認。前進そのものは継続しています」
副官のベルクマン少佐が、観測報告を読み上げた。
ロイエンタールは、わずかに眉を上げた。
「停止でもなく、加速でもなく、半速での前進か。——面白い選択をする」
停止すれば、こちらの出方を待つだけの消極的な姿勢になる。加速すれば、接触距離まで一気に詰める積極的な姿勢になる。半速で前進するのは、そのどちらにも寄らず、決定を先送りにしたまま、決定できる距離を保つという選択だった。
これは、指揮官が焦っていない証拠だった。焦っている指揮官は、止まるか、詰めるかのどちらかに流れる。中間の速度を選ぶには、艦隊全体の空気まで含めて制御する余裕が要る。
「ヤン・ウェンリー、らしい動きだな」
ベルクマンが、ロイエンタールの横で頷いた。
「はい。アスターテで撤退戦を指揮した時の記録とも、呼吸は一致します」
ロイエンタール艦隊には、オーディンを発つ前からヤン・ウェンリーに関する情報が配布されていた。ローエングラム元帥からの直接の指示で、アスターテで第二艦隊を全滅の淵から引き戻した指揮官として、全幹部が彼の経歴を頭に入れていた。三十歳、少将、アスターテ後の第十三艦隊司令官。情報自体は、既に机の上にあった。
ロイエンタールは、スクリーンに視線を戻した。机上で何度も読んだ経歴——アスターテでパエッタ中将に代わって第二艦隊を引き継いだ、撤退戦の男。五千八百隻を率いて、この回廊に入ってきた。正面からの勝算が薄いことは、その男自身が一番よく知っているはずだった。それでも入ってきた。
「こちらは、どう対応なさいますか」
ベルクマンが尋ねた。
ロイエンタールは、少し考えてから答えた。
「こちらも半速で前進する。距離は保ったまま、先に詰めない」
「承知いたしました」
「初対面の相手に、こちらから土足で距離を踏み潰す必要はない。向こうが測ってくるなら、こちらも測る」
ロイエンタールは、指先で指揮席の肘掛けを一度だけ叩いた。
机上のヤン・ウェンリーと、目の前で半速を選んだ指揮官——名前は同じでも、二つはまだ、ロイエンタールの中では完全には重なっていなかった。記録の中の男が、この回廊の中で、どう動くか。それを確かめるまでは、机上の評価を先回りして使う気はなかった。
艦橋には、静かな緊張だけが残った。七千八百隻の艦隊が、半速で前進を続けた。前方には、同盟軍の艦隊がいる。
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九十一
帝国暦四八七年六月十五日。
オーディン、ローエングラム元帥府。
ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は、執務室の机に広げられた戦況図を見ていた。
戦況図には、イゼルローン回廊の帝国側出口付近の宙域が拡大されて表示されていた。赤い印はロイエンタール艦隊。青い印は、回廊内を前進する同盟軍艦隊——先ほど第一三艦隊と確認されたばかりだった。
「半速で前進を継続しているそうです」
キルヒアイス上級大将が、戦況図の前に立って、ラインハルトに報告した。
「半速か」
ラインハルトは、指先で戦況図の同盟軍艦隊の位置を軽く叩いた。
「接触の意思はあるが、急ぐ気はない、という意味だな」
「はい」
「ロイエンタールは」
「同じく半速で応じています」
「二人とも、相手の距離に合わせた、ということか」
ラインハルトは、椅子の背にもたれた。戦況図から一度視線を外し、天井のあたりを見上げた。
「キルヒアイス」
「はい」
「お前は、ヤン・ウェンリーという男を、どう思う」
キルヒアイスは、少し考えてから答えた。
「アスターテで撤退戦を成功させた人物です。現時点で、私に言えるのはそれだけです」
「それだけ、か」
「はい。それ以上のことは、まだ分かりません」
ラインハルトは、わずかに笑った。
「お前の正直さは、相変わらずだな」
「恐れ入ります」
ラインハルトは、戦況図に視線を戻した。戦況図の青い印は、ゆっくりと、しかし着実に、赤い印の方へ前進を続けていた。
「ロイエンタールには、自由に判断させる。元帥府からの細かい指示は出さない。——あの男が必要としているのは、指示ではなく、信頼だ」
「承知いたしました」
キルヒアイスは、一礼して執務室を出た。
一人になったラインハルトは、戦況図の前でしばらく立っていた。ヤン・ウェンリー——アスターテで撤退戦を成功させた男。その男が、今、自分の派遣した艦隊と対峙している。
ラインハルトの指先が、戦況図の青い印の上で、一度だけ止まった。
「——お前は、何をしに来た」
誰に聞かせるでもなく、ラインハルトは呟いた。答えは、戦況図の中にはなかった。
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九十二
同日深夜。イゼルローン回廊、同盟側中間地帯、旗艦《ヒューベリオン》の艦長室。
ヤンは、艦長室の机に向かっていた。机の上には、回廊内の航路図と、帝国軍艦隊の推定位置が記された戦術図が広げられていた。
距離二百光秒を保ったまま、両軍は半速で前進を続けていた。このまま進めば、三日後には接触距離——約五十光秒——まで詰まる計算だった。そこまで待てば、選べる手は狭くなる。ヤンはそれを避けたかった。
ヤンは、戦術図の上で、指先を一度だけ動かした。動かしたのは、ロイエンタール艦隊の推定位置から、自分の艦隊の位置までの距離を、もう一度確認するためだった。
扉が軽くノックされた。
「入ってくれ」
グリーンヒル中尉が、艦長室に入ってきた。手に、紅茶のカップを二つ持っていた。
「温かいうちに、一杯いかがですか」
「ありがたい」
ヤンは、カップを一つ受け取った。グリーンヒル中尉は、机の反対側の椅子に座り、自分のカップを机に置いた。
「艦橋の様子は」
「落ち着いています。昼間の閣下のお言葉が、効いたようです」
「言葉で効くのは、最初の一日だけだ。明日以降は、別のことが要る」
「別のこと、ですか」
「行動だ」
ヤンは、紅茶を一口飲んだ。
グリーンヒル中尉は、戦術図を見ていた。ヤンの指先がなぞった距離を、彼女の視線が追った。
「接触距離まで、三日」
「そうだね」
「そこまで待たれますか」
「待たない」
ヤンは、短く答えた。
「正面からぶつかって勝てる相手ではない。だから、接触距離より前に、こちらから一度動く」
グリーンヒル中尉は、ヤンの顔を見た。
「艦隊の形を、変えるのですね」
「そうなる。けれど、今夜ここで言葉にするのは、まだやめておこう。艦隊が動き出す前の作戦は、机の上で整いすぎるとろくなことにならない」
「では、明日」
「明日の朝、必要な人たちだけに話す」
ヤンは、それだけ言って、紅茶を机に置いた。
「君は、少し休みなさい。明日は、忙しくなる」
「閣下は」
「私は、もう少し戦術図を見てから寝る。心配しなくていい」
グリーンヒル中尉は、空のカップを二つ持って艦長室を出ていった。扉が閉まった後、ヤンは戦術図の上に視線を戻した。
戦術図の中心には、ロイエンタール艦隊の推定位置を示す赤い印があった。ヤンは、その印をしばらく見つめていた。
シェーンコップに語った仮定の中心にいたのは、ロイエンタールではない。ローエングラム伯だった。だが、その伯がこの局面を任せた艦隊指揮官が、今、目の前にいる。ならば、仮定はもう、遠い机上の話ではなかった。
ヤンは、戦術図の赤い印の上に、もう一度だけ指先を置いた。そして、すぐに離した。