深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第二話「虚空より来たる(後編)」

 

 宇宙暦七九六年三月一五日、標準時二二時三〇分。

 

 ハイネセン、同盟軍首都防衛司令部付属収容施設。

 

 ゼーフェルト大佐は、清潔だが殺風景な個室に収容されていた。

 

 同盟軍の処置は、彼が予想していたものとはかなり違っていた。拿捕された帝国軍将兵は階級ごとに分けられ、士官は個室、下士官と兵は集団房に収容された。食事は質素ではあったが十分で、看守の態度にも無用な粗暴さはない。敵意がないわけではない。しかし無秩序でもなかった。

 

 帝国では、叛乱軍とは法も秩序も持たぬ集団だと教えられる。民主政とは、多数派の気まぐれを法と呼ぶ制度だと。ゼーフェルトは若いころからその種の教義を額面どおりには受け取ってこなかったが、それでも現実に捕虜となってみれば、目の前の秩序はやはり意外だった。

 

 尋問が始まったのは、拿捕から六時間後だった。

 

 尋問室に入ってきたのは、四十代と思しき女性の少佐である。ゼーフェルトは、その瞬間だけまばたきを忘れた。帝国軍に女性軍人は存在しない。軍服を着け、少佐の階級章を付けた女性が、自分の前に書類を置いて着席する——その光景そのものが、彼にとっては未知の現象だった。

 

 「ゼーフェルト大佐。バーラト星系に出現した経緯を説明してください」

 

 同盟軍の尋問官は、教本どおりの帝国語でそう言った。発音にはわずかな硬さが残っていたが、語彙の選び方は正確である。ゼーフェルトが帝国語で答えると、彼女は一言で通訳を退室させた。その判断の速さに、ゼーフェルトは訓練の行き届いた相手だと理解した。

 

 「分からない」

 

 答えは短く、それでいて虚偽ではなかった。あの暗黒の中で彼が認識したこと——僚艦の識別灯が見えていたこと、完全な孤立ではなかったこと——まで敵に語る義務はない。経験の外枠だけを事実として渡せば十分だった。

 

 「オーディン外縁部で通常の哨戒任務に就いていた。そこへ暗黒の空間異常が出現した。形状は断定できない。一見、球体にも見えたが、混乱の中では確証が持てなかった。部隊はそれに呑み込まれた。次に光が戻ったときには、ここにいた」

 

 尋問官の表情が、そこで初めてわずかに崩れた。困惑だけではない。確認が取れた者の表情だった。

 

 「こちらでも、同様の空間異常が出現しています。そして、我が軍の哨戒部隊の一部が——」

 

 彼女はそこで口をつぐんだ。言い過ぎたと判断したのだろう。

 

 しかし、それで十分だった。ハイネセン側でも同種の異常が出現し、同時に哨戒部隊の一部が消えている。ならばこちらと向こうが入れ替わった可能性は高い。確認はまだできていないにせよ、仮説としてはほとんど一つしかなかった。

 

 尋問はその後も続いたが、ゼーフェルトが差し出したのは、終始「輪郭」だけだった。原因も性質も分からない現象について、分からない以上のことは語れない。尋問官の側もそれを理解し、やがて追及を打ち切った。

 

 尋問の後、ゼーフェルトは同じ施設に収容されている部下たちの様子を確認することを許された。同盟軍が捕虜の士官にそこまで認めることも、彼には小さな驚きだった。

 

 集団房に収容された下士官や兵たちの反応は、一様ではなかった。

 

 若い伍長の一人は、配給の皿を空にしたところで、妙に晴れやかな顔をしていた。

 

 「大佐、ここの食事は悪くありません。味付けは変ですが、量はあります」

 

 場違いなほど明るいその報告に、何人かが苦笑した。

 

 対照的に、二十年以上の軍歴を持つ古参の上級兵曹は、壁を背にして腕を組み、頑として表情を崩さなかった。

 

 「大佐。我々はいつ帰れるのですか」

 

 「……分からない」

 

 ゼーフェルトは、それだけを答えた。

 

 個室に戻った後、彼は小さな窓から外を見た。

 

 夜のハイネセンが広がっていた。収容施設は地表の軍事区画内にあり、遠方には高層建築の灯が連なり、航空路の誘導灯が規則正しく瞬いている。交差点には地上車の流れがあり、歩道には帰宅を急ぐ人影があった。

 

 それは、オーディンの夜景と本質的には変わらなかった。

 

 建築様式は違う。使われる文字も違う。街路の意匠も、往来する人々の服装も異なるのだろう。だが、遠景に縮めてしまえば残るのは、人間が働き、食べ、眠り、翌日に備える都市の灯りだけだった。

 

 一五〇年間「叛徒の巣窟」と呼ばれてきた場所が、ただ人間の住む首都にすぎない——その事実に、ゼーフェルトは奇妙な静けさを覚えた。感動ではなかった。失望でもない。ただ、自分が長く見てこなかったものを見た、というだけの認識である。

 

 廊下では、夜勤の看守が交代していた。引き継ぎの雑談が薄い壁越しに聞こえてくる。言葉は異国のものだが、声の調子は帝国の兵舎と変わらなかった。

 

 ゼーフェルトは、独り言のつもりでつぶやいた。

 

 「首都同士が直結しているなら、戦争はやりにくくなるかもしれんな」

 

 それは軍人としての分析ではなく、窓の外の夜景を見た人間の感想だった。

 

 そして、廊下の足音が扉の前で一瞬だけ止まったことに、ゼーフェルトは気づかなかった。

 

---

 

 

 帝国暦四八七年三月一五日、標準時二三時一五分。

 

 オーディン、帝国軍憲兵隊中央拘置施設。

 

 グリシャム中佐は、尋問室の硬い椅子に座っていた。

 

 同盟の収容施設が機能的な簡素さで捕虜を包み込むとすれば、帝国の施設は最初から威圧を設計思想にしているようだった。高い天井、石造りを思わせる壁面、黄金の縁取りを施した帝国紋章。調度はどれも丈夫だが、座る者の身体への配慮は感じられない。ここでは快適さより先に、誰の法の下にいるかを思い出させることが優先されている。

 

 尋問官は帝国軍の少佐だった。四角い顔に、長年の規律で固めたような表情を浮かべた男である。

 

 扉が閉まる。男は着席する前に、グリシャムを見て一瞬だけ目を細めた。軍服を着た女性、それも佐官階級。帝国では、彼の人生で初めて見る種類の存在であったに違いない。だが、その動揺は一秒と続かなかった。彼は書類を開き、形式どおりの声で言った。

 

 「名前、階級、所属を述べよ」

 

 「エレーナ・グリシャム中佐。自由惑星同盟軍ハイネセン首都防衛管区、哨戒部隊副司令」

 

 帝国語で答えた瞬間、少佐の視線がわずかに鋭くなった。驚きは二つに増えていた。女性軍人であることと、その女性軍人が帝国語をかなりの精度で話すことだ。

 

 「帝国在住の経験があるのか」

 

 「ありません。士官学校で学びました」

 

 それは事実ではあるが、全体ではなかった。グリシャムにとって帝国語は業務上の必修科目にとどまらない。敵を理解するには、敵が自分たちをどう語るか、その言葉のまま聞く必要がある——その信条が、彼女に帝国語の文学と戦史の両方を読ませてきた。帝国の耳には、バーラト星系特有の母音の開きがわずかに異物として響くだろう。しかしそれは「外国語」よりも「地方訛り」に近い違和感のはずだった。

 

 尋問官は、紙を一枚めくった。

 

 「副司令ということは、司令官が別にいたのだな。どこにいる」

 

 グリシャムは一拍だけ考えた。正直に答えれば、元の部隊がここにいる十四隻より大きかったことを知らせることになる。

 

 「司令官は、この十四隻には乗っていませんでした。現在の所在は不明です」

 

 嘘ではない。だが、必要以上の情報も与えていない。その違いを、尋問官がどこまで感じ取ったかは分からなかった。

 

 次の問いは、いくぶん語気を強めて発せられた。

 

 「どのようにしてヴァルハラ星系に侵入した」

 

 同盟軍の規定に従えば、氏名、階級、軍籍番号以外への回答は拒否できる。だがこの問いだけは、拒否する利益が薄かった。あの暗黒の中で近接通信の残滓があったこと、完全な孤立ではなかったことまで話す必要はない。しかし経験の輪郭だけなら、相手に渡しても損はない。

 

 「来たくて来たわけではありません」

 

 帝国語でそう言ったとき、グリシャムは自分でも少しだけ可笑しさを覚えた。敵国の軍人に向かって、本音を、敵国語で、そのまま言っている。

 

 尋問官は沈黙し、それから口元をほんのわずかに緩めた。

 

 「こちらも同じだ。侵入を歓迎した覚えはない」

 

 それは笑いではなく、職務の隙間から漏れた人間的な反応だった。

 

 尋問は形式的に続いたが、実のある収穫は双方とも少なかった。グリシャムは必要最低限しか差し出さず、帝国側もそれ以上を引き出せないと悟ったのである。

 

 拘置室に戻された後、グリシャムは寝台に腰を下ろし、しばらく目を閉じていた。硬い縁が腰に食い込む。尋問室の椅子も硬かったが、この施設の家具はどれも、使用者の身体より制度の面子を重んじているようだった。

 

 静寂の中で、聴覚だけが鋭敏になっていく。

 

 壁の向こうから、帝国軍の看守たちの雑談が聞こえた。当直交代の愚痴、食堂のメニューへの不満、そして家族の話。若い看守が、子どもの学校行事に行けなくなったとこぼしている。別の看守が、それをからかい半分で慰めている。

 

 グリシャムは耳を塞ぎたかった。しかし意味の分かる言葉は、聞こえた瞬間に頭の中で文脈を結び始める。耳を塞いでも遅い。帝国語を理解するということは、相手の日常まで理解してしまうということだった。

 

 これが敵なのか、と彼女は思った。

 

 壁一枚向こうで、子どもの行事に行けないと愚痴る父親がいる。その声を、抽象的な「敵」として処理することは、もうできなかった。

 

 それでもグリシャムの思考は、感傷の側に流れきらない。今日の尋問で彼女が渡したのは輪郭だけだ。暗黒の中で何が失われ、何がまだ機能していたのか。どの観測を帝国側に伏せ、どの観測を将来同盟側に渡すべきか。そこにはまだ選別すべきカードが残っている。

 

 壁の向こうの会話が途切れたあとも、グリシャムは耳を塞がなかった。

 

 むしろ寝台から少し身を起こし、より壁に近い側へ身体を寄せた。

 

---

 

 

 宇宙暦七九六年三月一六日、標準時〇一時四〇分。

 

 ハイネセン、ヤン・ウェンリーの官舎。

 

 緊急会議が深夜まで続いたあと、ヤンが官舎の扉を開けると、居間の明かりがまだ点いていた。

 

 ユリアン・ミンツがソファに座り、テレビジョンのニュースを見ている。画面の上を流れるテロップには、「ハイネセン近傍に帝国軍出現」「正体不明の空間異常」「首都防衛艦隊緊急出動」といった文字が並んでいた。十四歳の少年の顔には、事態を理解しきれない者特有の不安が浮かんでいる。

 

 「ユリアン、まだ起きていたのか」

 

 「おかえりなさい。紅茶を淹れます」

 

 ヤンが返事をする前に、ユリアンは台所に立っていた。こういうとき、この少年は問い詰めるより先に湯を沸かす。ヤンはソファに身体を沈め、その手際をぼんやりと見ていた。

 

 紅茶が差し出されると、ヤンは両手でカップを包んだ。

 

 「今日、買い物に行ったら、食料品店の棚が半分空いていました」

 

 ユリアンはニュースからではなく、自分で見た街の変化から話を始めた。

 

 「買い占めですね。帝国がすぐ攻めてくると思った人が多かったんだと思います。学校でも、戦争がどうなるのかって——みんな落ち着かなくて」

 

 「そうか」

 

 ヤンは一口飲んだ。温度がちょうどいい。ユリアンの淹れる紅茶は、疲れている日に限ってひどく正確だった。

 

 「何が起きたんですか」

 

 単刀直入な質問だった。ヤンはすぐには答えず、湯気の立つカップを見つめたまま少し考えた。十四歳の少年に何をどう言えばいいのか、というより、自分自身の頭の中でも、まだ言葉が定まっていなかった。

 

 「大変なことが起きた。……帝国の首都とハイネセンのあいだに、別の通路が突然開いた、と考えるのがいちばん近い。そうだな、ワームホールとでも呼ぶほかない」

 

 「ワームホール」

 

 「空間の穴、みたいなものだよ。一万光年以上離れた二つの首都の間に、既存の回廊とは別の通り道ができた。ただし、中がどうなっているかはまだ誰にも分からない」

 

 ユリアンは、数秒考えたのちに顔を上げた。

 

 「つまり、帝国がすぐハイネセンに来られるということですか」

 

 「理屈の上ではね。……そして、逆もまた真だ。こちらもオーディンのすぐ近くに出られる可能性がある」

 

 「戦争はどうなるんですか」

 

 ヤンは、その問いにすぐ答えられなかった。

 

 「理屈だけ言えば、終わるかもしれない。少なくとも、今までと同じやり方は続けにくくなる」

 

 ユリアンの目がわずかに明るくなる。

 

 ヤンはそれを見て、すぐに付け加えた。

 

 「終わるべきなんだが、終わるかどうかは別の問題だ」

 

 少年はその言葉を飲み込もうとしているようだった。ヤンは小さく肩をすくめた。

 

 「今日はもう寝なさい。明日も学校だろう」

 

 「はい。……ヤン提督も、あまり夜更かししないでください」

 

 ユリアンはそう言い残して自室に向かった。提督、とヤンは心の中で苦笑した。少将でしかないのだが、艦隊司令官になった瞬間から、ユリアンの中ではそういう分類になったらしい。

 

 寝室の扉が閉まる音を聞いてから、ヤンは書斎へ入った。ブランデーの瓶を取り出し、グラスに少しだけ注ぐ。机の上には、今日の朝まで彼をうんざりさせていた第一三艦隊編成案の束が、そのまま残っていた。

 

 表紙には、イゼルローン要塞攻略のための編成準備書類であることを示す赤い印字が残っていた。

 

 一五〇年の戦争は、地理によって成り立っていた。

 

 帝国と同盟のあいだには、イゼルローン回廊とフェザーン回廊という二本の隘路しかない。だから首都は前線ではなく後方でいられた。後方であるからこそ、両国は一五〇年という長い時間をかけて消耗戦を続けることができた。

 

 その前提が、今日崩れた。

 

 だが、崩れたと言い切るのも早計だった。新しい通路が開いたからといって、古い回廊が消えたわけではない。ワームホールが安全に通れる大道なのか、あるいは首都防衛に兵力を貼り付けるための罠なのか。それすらまだ分からない。首都が相互に脅威にさらされたとしても、その均衡が本当に対称かどうかは、既存の戦線——とりわけイゼルローン回廊——を抜きにしては論じられない。

 

 分からないことが多すぎた。

 

 しかし一つだけ、ヤンにははっきりしていたことがある。最初の言葉を置かなければならない、ということだ。分からないものを分からないままにしておくと、誰かが勝手な名前で呼び始める。その名前が、後から事態の意味を決めてしまう。自分が書かなければ、もっと好戦的な誰か、あるいはもっと空想的な誰かが、この門を勝手な言葉で説明し始めるだろう。

 

 ヤンはグラスを置き、第一三艦隊の書類の上に新しいメモ用紙を置いた。

 

 しばらく考えてから、一行だけ書く。

 

 「地理が変わったとき、戦争はどう変わるか」

 

 その下へ続く言葉は、まだ出てこなかった。

 

---

 

 

 後世の歴史家たちは、宇宙暦七九六年三月一五日の最初の二十四時間について、おおむね次のように整理している。

 

 帝国の首都オーディン近傍と、同盟の首都ハイネセン近傍に、同時に暗黒の空間異常が出現した。正確な形状はまだ分からず、双方向に通行できるかどうかも不明、内部環境も観測不能のままだった。出現の瞬間、帝国側哨戒部隊二十二隻がハイネセン近傍へ、同盟側哨戒部隊十四隻がオーディン近傍へそれぞれ転移し、双方とも相手側に拿捕された。

 

 この時点で両陣営が共有していた認識は、驚くほど少ない。だが、その少ない認識の中に決定的な一行があった。

 

 首都が、直接攻撃圏内に入った。言い換えれば、首都が前線になった。

 

 宇宙暦七九六年三月一五日。のちに「門の日」と呼ばれることになるその日の終わりにも、人々はまだそれを「門」とも「ワームホール」とも統一して呼んではいなかった。ただ、名のない暗黒が二つの首都の近傍に沈黙したまま浮かんでいる——そのことだけが、帝国と同盟の双方に等しく確認されていた。




女性軍人、それも佐官を二人出しました。原作でも、フレデリカ・グリーンヒルは最終的に少佐にまで昇進していましたので、許容範囲だと思います。ただし、女性将官は歴史上まだ一人も存在したことがないという設定です。女性軍人の存在そのものが、帝国にとって異質に映るという点を描写しました。
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