深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第二十話「分断と陽動」

九十三

 

 宇宙暦七九六年六月十七日、朝。

 

 イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》、作戦会議室。

 

 ヤン・ウェンリー少将は、会議室の机に広げられた回廊内の詳細航路図を見下ろしていた。

 

 両軍は、前日から距離を約百五十光秒まで詰めていた。半速で前進し続ければ、あと二日で接触距離——約五十光秒——に達する。ヤンはそこまで待つ気はなかった。

 

 机の向こうには、三人が座っていた。ダスティ・アッテンボロー准将、ムライ参謀長、そしてグリーンヒル中尉。会議室にいる四人のうち、作戦の全体像を知っているのは依然として二人だけだった。ヤンとグリーンヒル中尉。アッテンボローとムライに渡すのは、それぞれの持ち場に必要な部分だけでよかった。

 

 「アッテンボロー、頼みがあるんだ」

 

 ヤンは、視線を航路図から上げた。

 

 「先輩の頼みですか」

 

 アッテンボロー准将は、椅子に斜めに座り、両手を後ろに組んでいた。砕けた姿勢が、この男の常だった。

 

 「聞くだけは聞きますよ。断れるかどうかは、聞いてから決めますが」

 

 「艦隊を二つに分けたい。本隊四千五百隻と、別働隊千三百隻。別働隊の指揮を、君に任せる」

 

 「ほう。千三百隻ですか」

 

 「別働隊は、帝国軍の側面に回ってもらう。接触戦を挑む必要はない。ただ、正面と側面の両方を見させたい」

 

 アッテンボローは、しばらく航路図を見ていた。

 

 「正面は、先輩が引き受けられるわけですね」

 

 「そうだ」

 

 「僕が側面から現れれば、相手は正面と側面の両方に戦力を割かざるを得ない」

 

 「その通り」

 

 「一つだけ、訊かせてください」

 

 アッテンボローは、初めて姿勢を起こした。

 

 「何のために、そこまでしてロイエンタールを割らせるんですか」

 

 ヤンは、アッテンボローの顔を見た。この質問が来ることは予期していた。

 

 「要塞が、こちらだけを見ていられない時間が欲しい」

 

 それだけで十分だった。アッテンボローは、ゆっくり頷いた。それ以上は訊かなかった。訊けば、ヤンが答えられない範囲に入ると察したのだろう。

 

 「分かりました。引き受けます」

 

 「ありがとう」

 

 「ただし、一つ、確認させてください」

 

 アッテンボローは、今度は真面目な表情になった。

 

 「本隊との連絡は、どうしますか」

 

 「必要な時だけにする。君は君の判断で動いてくれ」

 

 「本隊から切り離されて、一人で考えることになりますね」

 

 「そうなる」

 

 アッテンボローは、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。

 

 「先輩、相変わらず、人に仕事を任せるのが下手くそですね」

 

 「否定はしないよ」

 

 「任せた振りをして、本当は気にしてばかりいる」

 

 「それも、否定しない」

 

 「だったら、今回は本当に任せてもらいます。僕は、僕の判断で動きます」

 

 「頼む」

 

 アッテンボローは椅子から立ち上がった。

 

 「別働隊の編成、夕方までに完了させます。離脱は今夜です」

 

 「助かる」

 

 アッテンボローは一礼し、会議室を出ていった。

 

 会議室には、ヤン、ムライ、グリーンヒル中尉の三人が残った。ムライ参謀長は、閉まった扉を見てから、短く言った。

 

 「別働隊は、うまくやりますかな」

 

 「ああ」

 

 ヤンは、航路図から目を離さずに答えた。

 

 「アッテンボローは、命令どおりではなく、目的どおりに動ける人だ。それで十分だ」

 

---

 

九十四

 

 同日。午後。

 

 イゼルローン回廊、帝国側中間地帯。旗艦《トリスタン》、艦橋。

 

 ベルクマン少佐が、観測報告を読み上げていた。

 

 「同盟軍艦隊に変化。——分離を確認しました」

 

 オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、前方スクリーンに視線を向けた。

 

 「分離、とは」

 

 「本隊と別働隊の二つです。別働隊は規模約千三百隻。本隊から離脱し、回廊の側面方向へ進んでいます」

 

 ロイエンタールの指先が、指揮席の肘掛けで一度だけ止まった。

 

 「側面、か」

 

 「はい。このまま行けば、我が艦隊の側面を回り込む軌道になります」

 

 ロイエンタールは、スクリーンに映る同盟軍艦隊の分散を、しばらく黙って見ていた。

 

 五千八百隻を五千八百隻のまま運用せず、四千五百対千三百に分ける。焦っている指揮官の判断ではなかった。焦っている指揮官は、数の不利なときほど戦力をまとめる。だが、目の前の男は先に艦隊の形を変えてきた。こちらに選ばせる前に、である。

 

 主導権は、帝国側にあるはずだった。その戦場で先に形を変えさせられたことが、ロイエンタールには少しだけ癪だった。

 

 「元帥府から事前に回っていた記録とも、符合します」

 

 ベルクマンが言った。

 

 「ヤン・ウェンリー少将は、正面で数を競わないタイプだと」

 

 「記録をそのまま戦場に貼りつける気はない」

 

 ロイエンタールは、わずかに目を細めた。

 

 「だが、ようやく同じ呼吸をし始めた、とは言えるな。——ヤン・ウェンリー少将、か」

 

 その名は、今度は独り言ではなかった。ベルクマンも、それを聞いた。

 

 「対応を決める」

 

 「はい」

 

 「こちらも戦力を分ける。主力四千五百隻は正面に維持。側面対応に三千三百隻を回す。指揮は第一分艦隊司令に任せろ」

 

 「承知いたしました」

 

 「ただし」

 

 ロイエンタールは、スクリーンに映る同盟軍別働隊の進路を、一度だけ指先で示した。

 

 「あの別働隊は、こちらに決定的な打撃を与えるために動いているのではない。こちらを分けさせるために動いている。深追いは不要だ。側面で接触しても、距離を崩すな」

 

 「なぜ、そうお考えですか」

 

 「本気で側面を食い破るつもりなら、あの規模では足りない。足りない規模で出してきたのは、十分だからだ。目的が撃破ではなく、分断にある証拠だ」

 

 ベルクマンは、短く頷いた。

 

 「承知いたしました」

 

 ベルクマンが命令伝達のために下がった後、ロイエンタールはスクリーンを見続けた。

 

 別働隊の役割は見えた。だが、その陽動で稼いだ時間を、ヤン・ウェンリー少将がどこに使うつもりなのかは、まだ見えない。見えていないものが一つあるというだけで、この戦は急に面白くなる。

 

 ロイエンタールは、指揮席の肘掛けを、もう一度だけ叩いた。

 

---

 

九十五

 

 同日、夕刻。

 

 イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。第十三艦隊随伴、鹵獲帝国軍駆逐艦《エクリプス》、艦内居住区画。

 

 ワルター・フォン・シェーンコップ大佐は、艦内の一室で、選抜隊員たちの最終点検を終えたところだった。

 

 《エクリプス》という名は、同盟軍側で付けた運用名にすぎない。艦体そのものは、数年前にフェザーン方面の辺境宙域で、同盟軍情報部が拿捕した帝国軍駆逐艦だった。拿捕時の艦名は「エッシェンバッハ」。艦首には、今もその名が薄く残されている。拿捕以来、マルタン大佐の部署が秘密裏に保管し、今回のイゼルローン作戦のために呼び出された。認証コードも、艦番号も、帝国軍のデータベースに照合しても矛盾が生じないように、整備班が手を入れている。艦体の外装だけは、あえて傷んだ状態のまま残されていた。整備した跡が見えるよりも、戦場帰りの痕跡が見える方が、今回の任務には都合がよかった。

 

 この艦は、明日の夜、再びエッシェンバッハに戻る。同盟軍の運用名《エクリプス》は、離脱の瞬間まで。要塞の管制圏に入った後は、帝国軍駆逐艦エッシェンバッハとして、要塞の正門をくぐる。

 

 乗員二十四名。本来の駆逐艦の乗員定数は百名を超える。その大半を降ろし、通信要員・戦闘要員の中核のみを乗り込ませていた。多ければ気づかれる。少なすぎれば任務を達せない。内部で動く範囲、必要な工作の手数、そして万一の撤退——それらを逆算した末の、二十四という数字だった。鹵獲艦の整備記録は最新ではなく、最小限の人員で動かす方針も兼ねていた。外壁に取り付いて侵入する特殊作戦ではない。戦場で損傷した味方艦を装って、要塞の正門から入る。作戦の性格は、夜陰に紛れた奇襲ではなく、白昼の偽装だった。

 

 選抜隊員の代表、ブルームハルト大尉が、シェーンコップの前に立った。

 

 「大佐、装備の確認、完了しました」

 

 「結構」

 

 「……一つだけ、よろしいですか」

 

 「どうぞ」

 

 「要塞内部の協力者についてです。大佐は、どこまで知っておられますか」

 

 シェーンコップは、少しだけ考えてから答えた。

 

 「内部に協力者がいる。それだけだ」

 

 「名前も、顔も」

 

 「知らない。知る必要もない」

 

 ブルームハルトは、わずかに息を呑んだ。

 

 「それで、信頼できますか」

 

 「信頼できる人物かどうかを、今ここで議論しても仕方がない」

 

 シェーンコップは、淡々と言った。

 

 「こちらに必要なのは、約束の時刻に、約束の場所へ手が伸びてくることだけだ。少将閣下は、それがあると判断した。なら、私はその前提で動く」

 

 ブルームハルトは、しばらく考えてから頷いた。

 

 「承知しました」

 

 「離脱は明日の夜を予定している。今夜のうちに、隊員たちの気持ちを整えておけ」

 

 「はい」

 

 ブルームハルトが下がった後、シェーンコップは一人で艦内の一室に残った。

 

 《エクリプス》は、これまで第十三艦隊の補給船団の外縁に、ひっそりと随伴してきた。外部からの観測では、同盟軍側の随伴艦の一隻として扱われる位置取りだった。離脱の時が来れば、船団から分離し、単独で要塞方向へ進む。そこから先、艦は同盟軍ではなく、戦場で損傷した帝国軍の駆逐艦に戻る。艦首に薄く残されたエッシェンバッハの名は、その時、再び前面に出る。艦体の傷も、艦番号も、そのために用意されていた。

 

 明日の夜、この静けさは終わる。その先の手順は、離脱の直前まで文書には残されない。

 

 シェーンコップは、胸ポケットから小さな紙片を取り出した。そこに書かれているのは、離脱時刻と短い識別句だけだった。協力者の氏名も階級もない。

 

 彼はそれを一度だけ眺めてから、指先で折り畳み、灰皿の上に置いた。火をつけると、紙片はすぐに灰になった。灰を、艦内の排気口へ流した。

 

 机の上には、紙片があった痕跡は、もう何も残っていなかった。

 

 シェーンコップは、艦内の舷窓から外を見た。回廊内の星は、わずかに歪んで見える。歪みの向こうに、今はまだ見えない要塞がある。その内側で、顔も名も知らない誰かが、同じ夜を過ごしているはずだった。

 

 それで十分だった。

 

---

 

九十六

 

 同日、深夜。

 

 イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》、艦長室。

 

 アッテンボロー別働隊が本隊から分離してから、約六時間が経過していた。

 

 艦長室の机には、回廊内の最新の戦術図が広げられていた。同盟軍の本隊と別働隊の位置が、それぞれ別々の線で記されている。赤い印のロイエンタール艦隊は、観測可能な限りでは、まだ一つに見えていた。しかし、ヤンは知っていた。あちらももう、同じ形のままではいない。

 

 扉が軽くノックされた。

 

 「入ってくれ」

 

 グリーンヒル中尉が、紅茶のカップを二つ持って艦長室に入ってきた。

 

 「お疲れ様です」

 

 「ありがとう」

 

 ヤンは、カップを一つ受け取った。グリーンヒル中尉は、机の反対側の椅子に座った。

 

 「アッテンボロー准将からは、予定通りの位置報告が入っています」

 

 「そうか」

 

 「別働隊の進路も、予定通りです」

 

 ヤンは、紅茶を一口飲んだ。グリーンヒル中尉は、戦術図を見ていた。

 

 「ロイエンタール中将は、どう対応すると思われますか」

 

 ヤンは、戦術図の上で、赤い印を一度だけ指した。

 

 「戦力を割るはずだ。正面を薄くする気はないだろうから、側面にもこちらより厚い数を回してくる」

 

 「それでは、こちらの狙いは読まれていることになります」

 

 「読まれることまで含めて狙いなんだ」

 

 ヤンは、カップを机に置いた。

 

 「アッテンボロー准将の役目は、側面から勝つことじゃない。向こうに、正面と側面の両方を見させることだ。それができれば、まずは十分だよ」

 

 「その次は」

 

 「次が本番だ」

 

 ヤンは、それ以上は言わなかった。グリーンヒル中尉も、それ以上は訊かなかった。

 

 しばらくして、グリーンヒル中尉が立ち上がった。

 

 「閣下、少しお休みください」

 

 「そうするよ」

 

 グリーンヒル中尉が艦長室を出ていった後、ヤンは戦術図の前に一人で残った。

 

 戦術図の片隅には、まだ何も書き込まれていない余白が残っていた。そこへ必要な印を置くのは、まだ早い。書けば、その時点で余計な意味を持ち始める。今夜のうちに必要なのは、ただ、余白のままにしておくことだけだった。

 

 ヤンは、戦術図の上から指先を離した。

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