九十七
宇宙暦七九六年六月十八日、朝。
イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》、作戦会議室。
ヤン・ウェンリー少将は、机の上に広げられた航路図を見下ろしていた。
本隊四千五百隻、ロイエンタール主力四千五百隻、距離百光秒。アッテンボロー別働隊千三百隻、ロイエンタール側面対応部隊三千三百隻、接触距離を保ったまま膠着。その外側に、イゼルローン要塞と駐留艦隊の位置——これら全てが、一枚の航路図の上に記されていた。
前日までの対峙は、想定通りの膠着だった。双方が相手の動きに合わせて位置を微調整するだけの状態が、三日続いていた。その膠着を、今日から破る。
机の向こうには、ムライ参謀長とグリーンヒル中尉が座っていた。
「ムライ参謀長」
「はい」
「本隊の進路を、要塞方向へ振ろうと思うんだ」
ムライは、一瞬だけヤンの顔を見た。それから、航路図に視線を落とした。
「進路を振る、とは」
「正面のロイエンタール艦隊との距離は保ちつつ、横方向に移動する。イゼルローン要塞への接近軌道を、徐々に取る」
ムライは、航路図の上で指先を一度だけ動かした。動かした指先の向きが、ヤンの言った機動の概要をなぞっていた。
「ロイエンタール艦隊は、当然追ってきます」
「そうだろうね」
「しかし、要塞に近づけば、駐留艦隊がいます」
「その通り」
ヤンは、ムライの顔を見た。
「駐留艦隊のゼークト大将は、要塞周辺の宙域の担当だ。要塞の外から同盟軍が近づけば、迎撃に出ざるを得ない」
ムライは、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「駐留艦隊の規模は、一万五千と聞いております」
「その通りだ」
「我々の本隊は四千五百。駐留艦隊と衝突すれば、ひとたまりもありません」
「衝突はしないよ」
ヤンは、短く答えた。
「出てきた時点で、こちらは反転する。ロイエンタール艦隊との対峙位置に戻る。駐留艦隊には、空振りしてもらう」
ムライの目が、一度だけ細くなった。
「それは……駐留艦隊を、要塞から引き離すのが目的ですか」
ヤンは、答えなかった。答えの代わりに、ムライの顔を見ていた。
ムライは、それ以上は訊かなかった。線の外に出ない自制を、この男は持っていた。
「承知しました。本隊の進路変更は、何時に実行しますか」
「午前十時にしたい。ロイエンタール艦隊の観測周期の切れ目に合わせるんだ」
「承知しました。艦橋への通達と、艦隊全体への指示は、私の方で準備します」
「頼む」
ムライは敬礼し、会議室を出ていった。
会議室には、ヤンとグリーンヒル中尉が残った。
グリーンヒル中尉は、航路図を見ていた。ヤンの指先が要塞の方向を示したあたりを、彼女の視線が静かに追った。
「別働隊は、どうされますか」
「アッテンボローには、現在の位置を維持するように伝える。ロイエンタールの側面対応部隊を引きつけたまま、動かない」
「承知しました。通信を入れます」
「頼む。ただし、本隊が何をするかは伝えない。『そちらは現在位置を維持、次の指示まで待て』だけだ」
「承知しました」
グリーンヒル中尉は、一拍だけ置いてから、ヤンの顔を見た。
「アッテンボロー准将は、私たちの本隊の動きを遠くから観測することになります」
「そうなる」
「観測すれば、おそらく察します」
「察するだろうね。だが、それをこちらが口にしない限り、共有された情報にはならない」
グリーンヒル中尉は、短く頷いた。
「もう一つ、シェーンコップ大佐への指示は」
「《エクリプス》は、予定通り指定位置で待機。発進の指示は、駐留艦隊が要塞から離れたことを観測艦で確認してから出す。それまで、シェーンコップ大佐は動かない」
「承知しました」
グリーンヒル中尉は、通信指示のために会議室を出ていった。
一人残ったヤンは、航路図をしばらく見ていた。一枚の紙の上では、全ての艦隊が静止している。午前十時以降、この静止は崩れる。駐留艦隊が要塞を離れるまでの数時間、その間に《エクリプス》は分離地点へ向かう。
いま必要なのは、この段取りを狂わせないことだった。
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九十八
同日、午前十時。
イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》、艦橋。
「本隊、進路変更を開始」
操舵長の声が艦橋に響いた。
《ヒューベリオン》を含む本隊四千五百隻は、それまでロイエンタール艦隊と正面で対峙していた隊形から、徐々に横方向へと進路を振り始めた。振られた方向は、イゼルローン要塞の方角だった。ただし、直接要塞に向かうわけではない。ロイエンタール艦隊の射程を意識しながら、要塞への接近軌道を少しずつ取る機動だった。
正面の敵と距離を保ったまま横方向へ集団で流れる——艦隊運動としては複雑な部類に入る。しかし、ムライ参謀長が出撃前の訓練で詰めさせた「分割と再合流」の基本訓練が、ここで効いていた。新兵を含めた艦隊は、隊形を崩さず進路を変えていく。
ヤンは、指揮席で黙って前方スクリーンを見ていた。
「進路変更、第一段階完了。艦隊全体、新たな進路に同期」
ムライの声が艦橋に響いた。
「引き続き、第二段階に移行してくれ」
「承知しました」
「ロイエンタール艦隊、反応を確認」
観測長が報告した。
「反応の内容は」
「こちらの進路変更を追尾する形で、艦隊が横方向に追随を始めました。距離は百光秒を維持」
「追随、か」
「ロイエンタール側面対応部隊の動きは」
「現在位置を維持。アッテンボロー別働隊との接触距離に変化ありません」
「結構」
ヤンは、短く頷いた。
ロイエンタールは、側面対応部隊を動かしていない。アッテンボロー別働隊がまだ側面に張り付いている以上、それが最も無難だった。その結果、ロイエンタール主力と駐留艦隊のあいだには、少しずつ距離が生まれていく。
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同日、午前十時四十五分。
イゼルローン回廊、帝国側中間地帯。旗艦《トリスタン》、艦橋。
オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、前方スクリーンに映し出された同盟軍本隊の動きを見ていた。
「進路変更は、こちらの射程外を保ったまま、要塞方向への接近軌道を取っています」
ベルクマン少佐が、観測報告を読み上げた。
「進路変更の角度は」
「正面への追撃では追いつかない程度です。しかし、要塞方向に対しては、明確な接近角度が出ています」
ロイエンタールは、指先で指揮席の肘掛けを一度だけ叩いた。
机上で読んだヤン・ウェンリー少将という名と、目の前で横方向に艦隊を流している指揮官の像とが、少しずつ重なり始めていた。
「ヤン・ウェンリー少将の狙いは、要塞本体ですかな」
ベルクマンが、遠慮がちに訊いた。
「違う」
ロイエンタールは、短く答えた。
「要塞を四千五百で落とす気なら、もっと露骨に踏み込む。これは、要塞に向かう振りだ」
「駐留艦隊を引き出すための」
「おそらくは」
ロイエンタールは、スクリーンに視線を戻した。
ヤン・ウェンリー少将は、駐留艦隊を要塞から引き出そうとしている。引き出した先で何を置くのかは、この動きだけではまだ読めない。読めないが、狙いが誘出であること自体は、ほぼ間違いなかった。
「側面対応部隊は、どうしますか」
「動かさない。別働隊がまだ側面にいる。動かせば、突かれる」
「承知いたしました」
「こちらは本隊の追随を続ける。要塞方向への接近軌道を、こちらも取る形で」
「駐留艦隊との連携は、いかがいたしますか」
ロイエンタールは、しばらく答えなかった。
「観測情報だけを共有しろ。読み筋は添えるな」
「読み筋を添えなければ、ゼークト大将閣下は出撃判断を急ぎます」
「急ぐだろう。それでいい」
ベルクマンが、わずかに眉を上げた。
「あの方がこちらの文面どおりに動くことはない。むしろ、所見がない方が、ご自身の判断で素直に動かれる」
「承知いたしました」
「観測値だけで十分だ。私の見立ては、私の艦隊の中に留めておけばいい」
ベルクマンは、通信指示のために下がった。
ロイエンタールは、スクリーンを見続けた。
ゼークト大将への配慮ではない。反発を計算に入れた、事務的な調整にすぎなかった。
見えているのは、駐留艦隊の誘出までだった。その先に何が置かれているかは、まだ読めない。読めないものが一つあるだけで、この戦は急に厚みを増す。
ロイエンタールの口元に、かすかな笑みが浮かび、すぐに消えた。
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九十九
同日、午前十一時三十分。
イゼルローン要塞、駐留艦隊司令部。
ハンス・フォン・ゼークト大将は、執務室の机の上に広げられた観測報告を見ていた。
報告は、ロイエンタール艦隊司令部から届いたものだった。同盟軍本隊が進路を変え、要塞方向への接近軌道を取り始めている。ロイエンタール艦隊は追随中。接近軌道がこのまま続けば、数時間以内に、同盟軍本隊は駐留艦隊の哨戒圏に到達する。
報告の本文は、距離、速度、進路変更の角度といった観測数値の羅列だけだった。
所見がないことに、ゼークトはわずかな違和感を覚えた。だが、所見があればあったで、それに反発しただろう。元帥府からの差し回しの中将が、駐留艦隊の判断に口を挟む——そういう文面が一行でも入っていれば、自分はその一行に反発する形で判断を下すことになっただけの話だ。
ロイエンタール中将は、それを承知の上で、所見を抜いてきた。
ないからこそ、自分は自分の判断で動ける。そのことへの苦々しさが、わずかに残った。
「副官」
「はい」
「駐留艦隊、出撃準備」
副官は、一瞬だけゼークトの顔を見てから、敬礼した。
「承知いたしました。規模は」
「主力一万隻。要塞周辺の哨戒は、残り五千隻で維持する」
「承知いたしました」
「出撃は、準備が整い次第。時間はかけるな」
「承知いたしました」
副官は、それ以上は何も訊かなかった。出撃判断の根拠を訊くような副官ではなかった。そこは、ゼークトが副官に求めている数少ない美点の一つだった。
副官が伝達のために下がった後、ゼークトは内部通信端末に手を伸ばした。
「要塞司令部へ」
「こちらシュトックハウゼン大将閣下の副官です」
「ゼークトだ。大将に繋いでくれ」
一拍の間があった。一拍は、ゼークトの感覚では、必要な長さよりも、わずかに長かった。
「シュトックハウゼンだ」
「ゼークトだ。駐留艦隊主力一万隻を、これより出撃させる。同盟軍本隊が要塞方向へ接近軌道を取った。迎撃に出る」
「規模は」
「一万。要塞周辺の哨戒は、五千」
短い沈黙があった。
「……哨戒は、五千に減るということか」
「そうだ」
「貴官の艦隊だ。出撃するなら、出撃すればよい。要塞内部の警戒水準は、こちらで判断する」
「結構だ」
ゼークトは、それだけ言って、通信を切った。受話器を戻した動作には、わずかな乱暴さがあった。
あの男は、関与の権限がないことを確認してきた。確認の必要がないことを確認するというのは、相手への線引きの一種だった。
別に、それで構わなかった。ゼークトは、自分の艦隊だけを動かすことに、二十年以上慣れていた。
ゼークトは、机の上の観測報告を閉じた。執務室を出て、司令部の作戦室に向かった。作戦室では、副官と参謀たちが、出撃準備の指示を艦隊各隊に伝達し始めていた。一万隻の艦隊が動くには、一万隻分の段取りが要る。段取りは、駐留艦隊司令部で数十年間繰り返されてきた手順に沿って進んだ。
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同日、午前十一時四十分。
イゼルローン要塞、司令部執務室。
トーマ・フォン・シュトックハウゼン大将は、受話器を置いた後、しばらく机の前に座っていた。
駐留艦隊が出撃する。要塞周辺に残るのは五千。数字そのものより、通告の仕方の方が気に障った。
ゼークトに作法を期待する自分が、間違っているのだろう。あの男は、駐留艦隊を自分の私物のように動かす。要塞司令官への通告も、儀礼ではなく事務処理の一環として済ませる。それが、あの男の二十年来のやり方だった。
シュトックハウゼンは、副官を呼んだ。
「要塞内部の警戒水準を、さらに一段階引き上げる」
「承知いたしました」
副官は、データパッドに記録を取り始めた。
「現在の警戒水準は、既に引き上げ済みです。さらに一段階上げますと、主要区画の巡回間隔が十五分から十分に短縮されます。それから——」
「それで構わない。次の指示」
副官は、一拍だけ言葉を止めた。シュトックハウゼンが報告事項を最後まで聞かずに次の指示に移るのは、普段にはない動きだった。
「搬入口は、定期便以外の出入りを全面停止しろ。技術区画の外周は、巡回を強化する。以上だ」
「承知いたしました。ただちに伝達いたします」
副官は、それ以上は確認を求めずに退室した。長く仕えた副官は、今日の上官の声がいつもより一段速いことを、すでに感じ取っていた。
副官が下がった後、シュトックハウゼンは内部防衛計画書を取り出した。しばらく目を通してから、それを閉じた。
巡回強化で足りる。全面見直しは、駐留艦隊が戻ってきた後でよい——それが、シュトックハウゼンの判断だった。
「あの男は、いつもああだ」
シュトックハウゼンは、誰にでもない独り言を漏らした。執務室には、自分一人しかいなかった。
窓の外では、要塞内部の中央広場が昼の光に照らされていた。
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百
同日、午後五時三十分。
イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》、艦橋。
ヤン・ウェンリー少将は、前方スクリーンに映し出された帝国側艦隊の展開図を見ていた。
展開図には、ロイエンタール主力、ロイエンタール側面対応部隊、そして新たに表示された駐留艦隊主力の位置が記されていた。駐留艦隊主力は要塞から離れ、こちら本隊の接近軌道に対して、迎撃体勢を取り始めていた。
「ムライ参謀長」
「はい」
「本隊、進路を反転。ロイエンタール艦隊との距離を、百光秒まで戻す」
「承知いたしました」
ムライは、操舵長に指示を伝えた。本隊四千五百隻は、午前から続けてきた要塞方向への接近軌道から、徐々に進路を反転させる機動に入った。
艦隊の反転機動は、進路変更の時と同様、艦隊運動としては複雑だった。しかし、午前中に既に一度やっている。艦隊全体の呼吸は、午前中よりも整っていた。新兵を含む艦隊が、二度目の複雑な機動を、小さな混乱もなく実行していた。
「ロイエンタール艦隊、反応を確認」
「こちらの反転機動を、追随する形で反転を開始しました」
「結構」
ヤンは、観測長に尋ねた。
「駐留艦隊の現在位置、要塞からどれくらい離れている」
「要塞から約五十光秒の位置です。哨戒圏の外縁まで進出しております」
「戻るには」
「こちらが進路を反転したのを駐留艦隊が確認した後、先頭が要塞近傍に戻るだけでも最短六時間はかかります。哨戒線を元の密度に戻すには、さらに時間が要ります」
「六時間、か」
ヤンは、紅茶のカップを手に取った。一口飲んでから、カップを戻した。
《エクリプス》が分離地点でエッシェンバッハに戻るまでに、まだ数時間ある。そこから要塞の管制圏に入るまで約八時間。計算の上では、戦闘で損傷した帝国軍駆逐艦エッシェンバッハが要塞の正門に到達する頃にも、駐留艦隊主力はまだ要塞周辺の哨戒線を埋め戻しきれていない。
問題は、残存五千隻の哨戒だった。観測艦の最新報告では、その大半は要塞本体の数光秒圏内に集中している。外縁にあるのは、散発的な哨戒だけだ。完全な安全はない。しかし、一万五千隻が張り付いていた時よりは、はるかにましだった。
「グリーンヒル中尉」
「はい」
「《エクリプス》へ、発進の指示を出してくれ」
「承知しました」
グリーンヒル中尉は、通信端末へ向かった。通信の内容は事前に取り決めてあった。短い識別句一つだけ。今夜、《エクリプス》が要塞へ向かう。
ヤンは、指揮席で紅茶を飲んだ。冷めていた。冷めていたが、飲んだ。
今日の前半は、予定通りに進んだ。後半は、ここから、自分の手の届かない場所で始まる。
それで、今日のところは十分だった。