深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第二十四話「同期の瞬間」

百十二

 

 宇宙暦七九六年六月二十日。午前二時三十分。

 

 イゼルローン要塞、地下三階、技術区画。

 

 カール・シュナイダーは、自分の足音が、自分にしか聞こえないことを確認した。

 

 深夜の技術区画は、人工照明が一段落とされていた。昼モードから夜モードへの切り替えは、要塞時間の午前零時に行われる。それから二時間半。区画全体に動く人間は、夜勤の警備員数名と、不規則な勤務に入っている技術者だけだった。

 

 シュナイダーは、その不規則な勤務の一人として、ここにいた。

 

 手には、技術部門の検査用キットがあった。検査用キットは、彼が三年間、要塞内部で持ち歩いてきた道具だった。中身は、反重力制御系統の点検用の計測器と、配線の修理用の工具と、薄い防護手袋。それと——薄い金属の容器が一つ、底のほうに収められていた。容器の中には、シュナイダーが二週間かけて自分の手で組み上げた爆薬が入っていた。

 

 彼は、エネルギー供給系中継点に向かう保守通路を、いつもの歩調で歩いた。

 

 いつもの歩調——三年間、彼が要塞内部で身につけた歩き方。技術中佐として、業務上当然の場所に、業務上当然の用事で向かう男の歩き方。歩幅、姿勢、手の振り、視線の角度。すべてを、観察される側ではなく、観察する側として過ごしてきた三年間が、この瞬間の歩き方に集約されていた。

 

 保守通路の角を曲がった。

 

 中継点の扉の前に、警備員が一人立っていた。

 

---

 

 警備員は、シュナイダーの顔を見て、敬礼した。

 

 「シュナイダー中佐閣下。深夜にお疲れ様です」

 

 「ご苦労」

 

 シュナイダーは、いつもの調子で答えた。

 

 「中継点の定期点検でね。反重力制御系の出力が、昨日の昼から微妙に揺れている。ログを確認してから、必要なら調整を入れる」

 

 「閣下のご指示は、定期報告書には載っておりませんが」

 

 「載せていない。微妙な揺れは、ログを見るまで判断できない。判断できないことを定期報告に載せると、上が不必要に動く」

 

 警備員は、頷いた。技術部門の中佐の判断について、警備の下士官が口を挟むことはなかった。シュナイダーは、警備員のIDスキャナーの前で自分のIDを通した。スキャナーは、緑色の光を返した。

 

 扉が開いた。

 

 シュナイダーは中継点に入った。扉が閉まった。

 

---

 

 中継点の中は、彼が想定していた通りの状態だった。

 

 大型の配電盤が三基。それらが要塞の各区画にエネルギーを分配している。トゥールハンマーへの直接の供給線は、中央の配電盤から地下二階の集束装置に向けて伸びている。シュナイダーは、その供給線の制御端末の前に立った。

 

 時計を確認した。午前二時三十六分。

 

 あと四分。

 

 彼は、検査用キットの底から、薄い金属の容器を取り出した。容器を開けると、爆薬が現れた。塊ではなく、薄いシート状に成形された爆薬。

 

 彼が破壊するのは、この中継点だけではなかった。

 

 要塞のエネルギー供給系には、十七の主要中継点がある。そのうち、トゥールハンマーへの供給線上で代替の利かない箇所が三つあった。三つのボトルネックは、要塞建造時の設計上の制約から生まれ、百五十年の運用の中で解消されないまま残されてきた。

 

 一つでも機能不全になれば、トゥールハンマーへのエネルギー供給は止まる。三つすべてを破壊すれば、単なる部品交換では済まない。要塞の構造そのものに手を入れなければ、元の出力には戻らない。

 

 今日の彼の任務は、その第一の中継点——ここ——を、シェーンコップ隊の爆破と同時に破壊することだった。その後、第一の警報で警備が分散している隙に、第二、第三の中継点へ移動する。三つすべてが沈黙するまで、約四十分。

 

 その四十分の行動記録は、後で必ず調査の対象になる。三つの中継点を続けて訪れた技術中佐は、誰の目から見ても容疑者として浮上する。

 

 それは、最初から彼の覚悟の中にあった。

 

 彼は、爆薬を貼り付け始めた。

 

 手の動きは正確だった。三年前から、彼はこの瞬間のために手を動かしてきた。技術中佐としての通常業務の中で、配電盤の構造を細部まで把握し、最も効率的な破壊点を選び、必要な爆薬の量を計算してきた。今、その蓄積が、最後の手の動きに集約されていた。

 

 二箇所目の貼り付けを終えた。

 

 時計を確認した。午前二時三十八分。

 

 残り二分。

 

 三箇所目の貼り付けに移った。

 

---

 

 貼り付けながら、彼は、ふと、テレーゼのことを考えた。

 

 オーディン近郊の小さな町で、彼の妻は、まだ眠っているはずだった。帝国時間は、要塞時間と同期していない。オーディンの時刻は、いま深夜よりも少し早い時間帯。眠っているか、あるいは、目を覚ましかけているか。どちらにしても、彼女は、今夜要塞で何が起きるかを知らない。

 

 知らせるべきだったか——彼は、その問いを、自分の中で何度か立てたことがあった。立てるたびに、答えは同じだった。知らせない方が、彼女の身を守る。彼女が何も知らないという事実が、彼女が要塞での出来事に巻き込まれない最も確実な防壁だった。

 

 シュナイダーは、三箇所目の貼り付けを終えた。

 

 起爆装置を取り出した。小さな円筒形の装置で、ボタンを押せば、三箇所の爆薬が同時に起爆する。

 

 時計を確認した。午前二時三十九分五十秒。

 

 あと十秒。

 

 彼は、起爆装置のボタンに指を置いた。指は、震えていなかった。三年間の蓄積が、震えを許さなかった。

 

 午前二時四十分。

 

 彼は、ボタンを押した。

 

---

 

百十三

 

 同時刻に至る数分前。要塞中央部、トゥールハンマー発射口区画の外周通路。

 

 ワルター・フォン・シェーンコップは、隊列の先頭で立ち止まった。

 

 二十四名は、整備作業員の制服のまま、要塞中央部の保守通路をここまで進んできた。シュナイダーが用意した整備作業員のIDと、彼の事前の経路指示で、第三ドックから発射口区画の外周まで、誰にも止められずに到達した。

 

 ここから先が、本番だった。

 

 発射口区画は、要塞の最重要施設の一つで、整備作業員の権限では立ち入れない。区画の入り口には防衛部門の警備兵が四名、区画内部には技術者数名と防衛兵十数名が常駐している。整備作業員のIDではこの先には進めない。

 

 シェーンコップは、振り返って隊員を見た。

 

 二十四名の隊員——亡命者で構成された男たち——は、整備作業員の制服の下に、要塞内部で調達した帝国軍の防衛部門の制服を着込んでいた。シュナイダーが事前に予備倉庫に紛れ込ませておいたものだった。

 

 「着替えろ」

 

 シェーンコップは、低い声で命じた。

 

 「三十秒で終わらせる」

 

---

 

 二十四名は、保守通路の物陰で、整備作業員の制服を脱ぎ捨て、防衛部門の制服に切り替えた。動作は迅速だった。脱いだ整備作業員の制服は、その場で配管の隙間に押し込んだ。後で見つかった時には、すでにこちらは要塞外に出ている計算だった。

 

 着替えと並行して、シェーンコップは隊員たちにゼッフル粒子のカートリッジを確認させた。銃器は一切ない。要塞内部の身体検査は、銃器の隠し持ちを許さない厳しさだった。

 

 その代わりに、各隊員は、白兵戦の精鋭として訓練された身体と、ゼッフル粒子という装備を持っていた。粒子の濃度と散布範囲は、必要最小限に絞る。銃器を撃てない空間を作るためであって、発射口集束装置の主軸まで満たすためではない。

 

 着替えが終わった。

 

 残り二分四十秒。

 

 整備作業員から防衛部門の人員に切り替わった二十四名は、別の制服を着た部隊として、発射口区画の入り口に向かって動き出した。

 

 入り口の警備兵四名が、こちらに気づいた。

 

 シェーンコップは、先頭で帝国式の敬礼を返した。

 

 「定期巡察。シュナイダー中佐閣下のご指示により、発射口集束装置の振動検査だ」

 

 彼の帝国語は、完璧だった。亡命前に身につけた発音と語法が、この瞬間に最も活きた。

 

 「定期巡察、ですか。深夜にお疲れ様です。確認用のIDをお願いします」

 

 警備兵が、IDの提示を求めた。

 

 シェーンコップが、わずかに頷いた。それを合図に、隊列の中の一名が——

 

---

 

 ゼッフル粒子のカートリッジを、警備兵の方に転がした。

 

 カートリッジは警備兵の足元で開封された。微細な粒子が、通路の入り口側だけに薄く広がる。視覚的には、わずかに空気が霞む程度の変化だった。

 

 警備兵が何が起きたかを把握する前に、シェーンコップ隊が動いた。

 

 四歩。

 

 その距離で、ローゼンリッターの隊員が制圧できないことは、訓練上、ありえなかった。

 

 警備兵の一人が自動小銃を構えようとした。しかし、空気中の変化に気づいた瞬間、動作が止まった。発射すれば、自分の銃が爆発する。

 

 発射できないと判断した時には、もうローゼンリッターの隊員が彼の前にいた。

 

 四名の警備兵は、声を上げる前に気絶させられた。隊員たちは、警備兵を通路の隅に引きずり込み、目立たない位置に置いた。通信機への通報は、起きなかった。

 

---

 

 二十四名は、発射口区画の内部に踏み込んだ。

 

 区画の入り口を抜けた瞬間に、隊員の二名が、防衛兵の射線側へゼッフル粒子を散布した。粒子は入り口側と防衛兵の配置線に沿って広がった。中央の発射口集束装置の周辺には流し込まない。爆薬を使う場所を、ゼッフル粒子で満たすわけにはいかなかった。

 

 区画内部は、想定通りの構造だった。

 

 中央に、トゥールハンマーの発射口集束装置——直径十メートルの円筒形の構造物。その周囲を、技術者用の操作端末が円状に取り囲んでいる。端末の前には、深夜勤務の技術者が四名。区画の入り口から見て左右に、防衛兵が十名ずつ、合計二十名が配置についていた。

 

 二十名の防衛兵——シュナイダーの事前情報より多かった。

 

 シェーンコップは、その差を瞬時に処理した。配置が増えている。だが、敵はまだ銃器を撃てない。残るのは、白兵戦のみ。

 

 「制圧」

 

 シェーンコップは、低く命じた。

 

 二十四名は、瞬時に展開した。

 

---

 

 展開と同時に、シェーンコップは声を上げた。

 

 「散布したのはゼッフル粒子だ。撃つと終わりだぞ」

 

 帝国語で、断定的に。

 

 防衛兵たちの動きが、一瞬だけ止まった。警告の内容と、訓練で知っているゼッフル粒子の性質と、目の前の空気の霞みとが、彼らの中で繋がる。その判断の遅れが、ローゼンリッターに二歩分の時間を与えた。

 

 二歩分の時間の間に、隊員たちは距離を詰めた。

 

---

 

 区画内部での白兵戦は、わずか三十秒だった。

 

 三十秒の間に、何が起きたか——シェーンコップ自身も、後で完全には再現できなかった。ローゼンリッターの訓練は、白兵戦の各場面を「型」として身体に染み込ませる訓練であり、本番の戦闘では、思考は介在しない。身体が型に従って動く。

 

 防衛兵二十名は、警告を聞いて発射を止めた後、白兵装備への切り替えを始めた。しかし、切り替えが完了する前に、ローゼンリッターの隊員たちが距離を詰めていた。距離が二歩を切れば、白兵戦の訓練の差が決定的になる。防衛部門の標準的な白兵訓練と、ローゼンリッターの精鋭白兵訓練の差。三十秒の戦闘の終わりに、防衛兵二十名のすべてが、気絶させられた。

 

 技術者四名は、戦闘の途中で操作端末から離され、区画の隅にまとめられて、口をふさがれた。

 

 シェーンコップ隊側の被害——なし。

 

 隊員は全員、立っていた。

 

 シェーンコップは、その事実を一瞬だけ確認した。

 

---

 

 「爆薬を仕掛けろ」

 

 シェーンコップは、声を一段低くして命じた。

 

 「四箇所、四名で同時に。残りは警戒。技術者は端末から離せ。区画の通信を遮断。換気を主軸側へ回すな」

 

 隊員たちは、迷いなく動いた。

 

 爆薬班の四名が、発射口集束装置の主軸付近、四箇所に薄いシート状の爆薬を貼り付け始めた。同時に、別の隊員が区画の通信端末を破壊し、外部への通報を完全に遮断した。さらに二名が、簡易濃度計で主軸付近の空気を確認する。ゼッフル粒子の濃度は、まだ安全域を超えていなかった。

 

 爆薬の設置が完了した。

 

 「全員、退避位置へ」

 

 シェーンコップは命じた。

 

 二十四名は、爆発の衝撃波の影響を受けない壁の陰に展開した。

 

 爆薬の起爆装置は、シェーンコップ自身が握っていた。彼は、起爆ボタンを、シュナイダーの中継点破壊の時刻と同期させて押す。シュナイダーの第一の中継点での爆破と、こちらの発射口集束装置の主軸破壊が、同時に起きる必要があった。

 

 時計を確認した。午前二時三十九分五十五秒。

 

 あと五秒。

 

 シェーンコップは、起爆装置のボタンに指を置いた。

 

 午前二時四十分。

 

 彼は、ボタンを押した。

 

---

 

 爆発の振動を、シェーンコップは自分の足元と、隊員たちの動きの両方で確認した。

 

 発射口集束装置の主軸付近、四箇所に仕掛けた爆薬が同時に起爆した。爆発音は、思ったより短かった——閉鎖空間での爆発音は、開放空間より遥かに鋭く、それゆえに短く感じられる。爆発の衝撃波が、区画全体を一度だけ揺らした。揺らした後、振動は配管を伝って減衰した。

 

 主軸の歪みは、肉眼で確認できた。集束装置の中心軸が、わずかに——しかし致命的に——曲がった。

 

 主軸は、帝国の本国工廠でしか製造されない特殊規格の単結晶部品だった。シュナイダーから渡された資料によれば、製造そのものに約六ヶ月、オーディンからイゼルローン要塞までの輸送に二〜三ヶ月、要塞での再組み立てと精密調整にさらに数ヶ月かかる。歪みが致命的である限り、再構築には最低でも一年が必要だった。

 

 二十四名で四箇所に同時に爆薬を仕掛けたのは、その「致命的」を確実にするためだった。一箇所や二箇所の破壊では、主軸の歪みが部分的なものに留まり、修復期間が短くなる可能性があった。四箇所同時の破壊で、主軸全体に均等に応力が加わり、再利用が完全に不可能になる。

 

 シェーンコップは、二十四名の方を見た。

 

 撤収に移る前に、二十四名は入口脇の配管裏に押し込んでいた整備作業員の上衣を引き戻し、防衛部門の制服の上から羽織った。遠目には、また整備作業員の班に戻った。

 

 「撤収」

 

 彼は、低い声で命じた。

 

 「保守通路を経由して艦に戻る。先頭から順次出発」

 

 「了解」

 

 二十四名は、迷いなく動き出した。一人として欠けていなかった。

 

---

 

 保守通路を逆向きに進みながら、シェーンコップは、自分の腕時計を確認した。

 

 午前二時四十一分。

 

 爆破からの一分間で、要塞の警報系は既に作動しているはずだった。トゥールハンマーが沈黙したことは、要塞司令部に直接届いている。シュトックハウゼン大将の判断の癖により、警戒の重心は内部捜索よりもまず主砲の状態確認に向かう——シュナイダーの予測通りなら、そうなる。

 

 第一の中継点と、発射口集束装置の主軸——二つの爆破は、同じ時刻に起きた。シュナイダーは今、第二の中継点へ向かっているはずだった。シェーンコップ隊が要塞を離れるころには、二箇所目の破壊が終わり、三箇所目へ向かっている計算だった。

 

 三つの中継点がすべて沈黙し、主軸が再利用不能になれば、トゥールハンマーは少なくとも一年は発射不能になる。

 

 シュナイダーが述べた数字だった。「一年」という長さを、シェーンコップは作戦立案の段階で初めて聞いた時、確認した。「断定はできません。ただ、私の計算では、修復は最短でも一年かかる」——そういう答えだった。

 

 その数字が正しいなら、ヤン・ウェンリー少将の戦略目的は達成される。

 

 だが、その数字もまた、観測と推論の上に立つものだった。

 

 シェーンコップは、その推論の上を、隊員たちの先頭に立って歩いた。

 

 通路の角を曲がった。

 

 角を曲がった先で、警備員二名と遭遇した。

 

---

 

 警備員二名は、爆破の警報を受けて、配置についていた。彼らの目の前に、整備作業員の制服を着た男たちが二十四名、隊列を組んで現れた。

 

 警備員の片方が、自動小銃を構えた。

 

 「止まれ。所属と用務を申告しろ」

 

 シェーンコップは、隊列の先頭に立ったまま、声を上げた。

 

 「整備作業員班、シュナイダー中佐の指示により、エネルギー区画の点検中。爆破の警報を受けて、退避中だ」

 

 「ID提示」

 

 シェーンコップは、整備作業員用のIDカードを取り出した。それを警備員に見せた。

 

 警備員は、IDをスキャンしようとした。しかし——警報のため、要塞内部のIDシステムは混乱していた。スキャンが応答しない。

 

 警備員は、迷った。

 

 迷っている間に、シェーンコップの後ろの隊員が、動いた。

 

---

 

 動いたのは、ベッカー軍曹だった。彼は、シェーンコップの後ろから、警備員の足元に飛びかかった。

 

 ローゼンリッターの白兵戦の訓練が、ここで生きた。ベッカーの動きは、警備員が反応する前に終わっていた。警備員の自動小銃は、ベッカーの手によって脇に逸らされた。逸らされた瞬間に、ベッカーは警備員の喉に手刀を入れた。警備員は、声を出す前に倒れた。

 

 もう一人の警備員も、別の隊員によって、ほぼ同時に制圧された。

 

 二人の警備員は、生きていた。シェーンコップが事前に指示していた——「殺すな。気絶させて、通路の隅に引きずり込め」。これは、シュナイダーへの配慮でもあった。要塞内部での殺人は、後の調査の重みを増す。気絶した警備員は、後で覚醒する。覚醒した時には、シェーンコップ隊は要塞外に出ているはずだった。

 

 「進め」

 

 シェーンコップは、再び低い声で命じた。

 

 「時間がない」

 

 二十四名は、再び動き出した。

 

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百十四

 

 同時刻から、わずかに後。午前二時四十三分。

 

 イゼルローン回廊、帝国側中間地帯。旗艦《トリスタン》の艦橋。

 

 オスカー・フォン・ロイエンタールは、ベルクマン少佐の問い合わせの結果が届いてから、艦橋に戻っていた。

 

 夜半過ぎに届いた回答は、短かった。「駐留艦隊第七分艦隊にエッシェンバッハという艦名の駆逐艦は、出撃時の艦艇リストに含まれていなかった」——その一行だけで、十分だった。

 

 ロイエンタールは、観測図を見た。

 

 距離八十光秒。青い印が同盟軍第一三艦隊本隊、赤い印が自艦隊。両軍は動かない。動かないまま、別の場所で何かが進んでいる。

 

 偽名の駆逐艦が要塞に入った。その一行で、夜半から彼の中に残っていた違和感は、ひとつの線になり始めていた。

 

 ヤン。

 

 心の中で、初めて階級を外した。声には出さなかった。まだ、艦橋の言葉にする段階ではない。だが、机上で読んだ名前と、目の前で対峙している指揮官の輪郭は、すでに重なっていた。

 

 ロイエンタールが直接観測できるのは、要塞から外へ出てくる信号だけだった。

 

 その信号が、乱れた。

 

---

 

 通信士官が、声を上げた。

 

 「閣下。要塞司令部から、緊急通信です」

 

 「内容」

 

 「要塞主砲、トゥールハンマー、待機信号消失。現在、発射不能。原因確認中」

 

 艦橋が、一瞬、静かになった。

 

 原因確認中。その一語は、要塞司令部自身がまだ事態を把握しきれていないことを示していた。だが、ロイエンタールには十分だった。

 

 トゥールハンマー。銀河帝国がイゼルローン要塞に据えた、最大の戦略兵器。要塞不敗の根拠だったもの。それが、沈黙した。

 

 ベルクマン少佐は、データパッドから顔を上げた。彼の顔色が、わずかに変わった。

 

 ロイエンタールは、椅子の肘掛けに置いていた手を、ゆっくりと動かした。

 

 動かした手で、観測図の中の青い印を、軽く触れるように示した。

 

 「ヤン」

 

 声に出した。

 

 夜半に心の中で外した階級を、今度は艦橋で外した。心の中の認識と、口に出す言葉が、ようやく一致した瞬間だった。

 

 艦橋にいた誰もが、その一語を聞き取った。誰も、それが誰を指すかを問い返さなかった。同盟軍第一三艦隊司令官の名前を、ロイエンタールが階級を付けずに口にした。その意味は、問い返すまでもなかった。

 

 「やはり、君だったか」

 

 ロイエンタールは、続けた。

 

---

 

 ベルクマンが、静かに尋ねた。

 

 「閣下。これは——」

 

 「敵将の作戦が、我々の観測できない場所で実行された。要塞のどこかでな」

 

 ロイエンタールは、観測図の青い印を、もう一度見た。

 

 内部で何が起きたかは、まだ分からない。だが、同盟軍本隊の静止、偽名の駆逐艦、そして主砲の沈黙——それらは、同じ線の上に並んでいた。

 

 「この男は、これから先、好敵手と呼ぶに足る相手だ」

 

 艦橋の空気が、わずかに変わった。各部署の士官たちは、自分の上官が敵将をどう見たのかを、その一語で理解した。

 

 ベルクマンが、次の判断を仰ぐ声で言った。

 

 「閣下、対応を」

 

 「同盟軍本隊の動きを注視しろ。動くはずだ。もうすぐ」

 

 ロイエンタールの予測は、数分後に、観測図の上で確認された。

 

---

 

百十五

 

 同時刻から、わずかに後。午前二時四十五分。

 

 イゼルローン回廊、同盟側中間地帯。旗艦《ヒューベリオン》の艦橋。

 

 ヤン・ウェンリーは、観測機器の異常を、副官の報告で知った。

 

 「閣下。要塞からの遠距離観測波が、わずかに変化しました」

 

 「変化、というのは」

 

 「トゥールハンマーの待機状態を示す信号が、消えています」

 

 ヤンは、観測図に視線を向けた。

 

 彼自身は、シェーンコップ隊の作戦が何時何分に実行されるかまでは知らない。情報の分配構造により、彼に知らされているのは、この夜から未明にかけて作戦本体が動く、という大枠だけだった。だが、トゥールハンマーの信号が消えた——それが意味するものは、明らかだった。

 

 「成功した、ということだね」

 

 ヤンは、低く言った。

 

 艦橋の士官たちは、まだ事態を完全には理解していなかった。彼らの多くは、シェーンコップ隊の作戦の存在自体を知らない。情報の分配構造により、作戦本体の知識は、艦隊司令部の最上層と、潜入隊と、シトレ本部長の周辺だけに限定されていた。

 

 ヤンは、ムライ参謀長に視線を向けた。

 

 「ムライ参謀長」

 

 「はい」

 

 「全艦隊、要塞攻撃陣形へ。距離を詰める。トゥールハンマーが沈黙している間に、要塞の通信機能を制圧する」

 

 「了解」

 

 ムライは、即座に各部署に指示を出した。艦橋全体が、待機状態から行動状態へと一気に移行した。

 

---

 

 ヤンは、指揮席で、もう一度観測図を見た。

 

 ロイエンタール艦隊の動きが、すでに変わっていた。距離を保ったままだった敵艦隊が、いま、わずかに後退しつつある。

 

 あの指揮官は、要塞の状況を把握した、とヤンは判断した。トゥールハンマーの沈黙を察知し、本隊が要塞攻撃に転じることを予測し、自分の艦隊を要塞防衛に振り向ける——その判断を、五分以内に下した。

 

 その判断の速さを、ヤンは敬意を込めて評価した。

 

 ヤンは、紅茶のカップを、指揮席の肘掛けに置いた。そのカップは、まだ温かかった——艦長室で短く休んでいる間に、グリーンヒル中尉が新しいものを淹れて持ってきていた。

 

 「グリーンヒル中尉」

 

 ヤンは呼びかけた。

 

 「はい」

 

 「シェーンコップ大佐の艦が、要塞から出てくる。出てきた瞬間に、強行離脱になる。被害を受けている可能性が高い。本隊の前進と並行して、別働隊の電子戦艦に、第三ドック方向の通信妨害を強化させてくれ。シェーンコップ大佐の艦の追撃を、要塞側が即座に組織できないように」

 

 「了解しました」

 

 グリーンヒル中尉は、通信卓に向かった。

 

---

 

 ヤンは、観測図を見つめた。

 

 シェーンコップ大佐の艦——エッシェンバッハ、いや、《エクリプス》——が、要塞から出てくる瞬間は、まだ観測されていなかった。出てきた瞬間に、観測機器が捉えるはずだった。捉えた瞬間に、ヤンは合流地点の座標を送る。

 

 ヤンは、自分の手元で動かせる手を、すべて動かしていた。あとは、シェーンコップ大佐の艦が、無事に要塞外に出てくることを待つだけだった。

 

 その「待つ」ことの中に、ヤンは、シェーンコップ大佐とシュナイダー中佐の判断を、信じる以外になかった。

 

 ヤンは、机の引き出しに視線を一度だけ落とした。中には、半分残ったクッキーの紙袋があった。

 

 彼は、その視線をすぐに観測図に戻した。

 

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百十六

 

 同時刻。要塞内部、第三ドック方向の保守通路。

 

 シェーンコップ隊は、エッシェンバッハに帰還しつつあった。

 

 二十四名は、隊列を保ったまま進んでいた。

 

 通路の途中で、もう一度警備員と遭遇した。今度は、爆破の警報を受けて、本格的な警戒態勢に入った警備員六名だった。彼らは保守通路の角を塞ぐ形で配置についていた。自動小銃を構え、すでに発砲態勢に入っていた。

 

 シェーンコップは、隊列の先頭で立ち止まった。

 

 「ゼッフル散布」

 

 彼は、低い声で命じた。

 

 隊員の一人が、前方にゼッフル粒子のカートリッジを転がした。カートリッジは、警備員の足元の通路で開封された。粒子が、即座に通路の空気中に広がった。

 

 「ゼッフル粒子だ。撃つな」

 

 シェーンコップは、再び帝国語で警告を発した。

 

 警備員六名は、自動小銃を構えたまま、その声を聞いた。発射する直前で、動作を止めた。発射すれば、自分の銃が爆発する——警告と、訓練の知識と、空気中の微細な変化の三つが、彼らの中で同時に繋がった。

 

 彼らは、銃を構えたまま、白兵装備への切り替えを始めた。

 

 切り替えの数秒間に、ローゼンリッターの隊員たちが距離を詰めた。

 

---

 

 戦闘は、十秒で終わった。

 

 ローゼンリッターの隊員六名が、警備員六名に対して、ほぼ一対一で当たった。警備員は白兵装備に切り替える途中だった。切り替えが完了する前に、距離が詰まっていた。

 

 白兵戦に持ち込まれた警備員は、訓練の差で押された。シェーンコップ隊の隊員たちは、白兵戦の各場面を「型」として身体に染み込ませる訓練を受けていた。警備員は、防衛部門の標準的な訓練しか受けていない。距離を詰められた瞬間に、勝負はついた。

 

 六名の警備員は、すべて気絶させられた。

 

 二十四名は、再び保守通路を進んだ。

 

---

 

 通路の途中で、シェーンコップは、もう一度時計を確認した。

 

 午前二時五十一分。爆破から十一分。要塞内部の警備態勢は、すでに本格的に動き出している。少なくとも内部警備の再配置は始まっているはずだった。シュナイダーの予測通り、警戒の重心は主砲の状態確認に向かっているはずだが、内部捜索の動きも並行して始まっている。

 

 通路の終わりで、第三ドックに繋がる搬入口が見えた。

 

 搬入口の手前に、警備員が三名いた。彼らは保守通路の方を向き、自動小銃を構えていた。シェーンコップ隊が通路から出てくる瞬間を待っていた。

 

 シェーンコップは、隊員たちに即座に手で合図を送った。停止、低姿勢、ゼッフル散布。

 

 ゼッフル粒子のカートリッジを、通路の角を曲げて、警備員の側に転がした。

 

 数秒後、粒子が警備員の周辺の空気中に広がった。警備員は、自動小銃を構えたまま、発射できなくなった。発射の代わりに、白兵装備への切り替えを始めた。

 

 切り替えの途中で、ローゼンリッターの隊員が三名、通路の角を曲がって警備員に到達した。

 

 白兵戦は、十秒で終わった。警備員三名は、すべて気絶させられた。

 

---

 

 シェーンコップは、二十四名の方を見た。隊員は全員、立っていた。

 

 ゼッフル粒子が銃器を奪い、白兵戦だけを残す。その残された条件の中では、ローゼンリッターの訓練がすべてだった。

 

 彼は、その事実を胸の内に留めた。連隊長として、彼はまだ作戦の途中にいた。艦に戻り、強行離脱を成功させるまで、作戦は終わらない。

 

 「進め」

 

 シェーンコップは、再び低い声で命じた。

 

 二十四名は、搬入口を抜けた。

 

 搬入口から第三ドックの内部に出ると、エッシェンバッハの艦体が、ドックの照明の下で見えた。艦体は、入港時の損傷の跡——爆発の危険があったとされる機関部の偽装損傷——をそのまま残していた。これから始まる強行離脱で、その損傷の跡が、本物の被害に変わるのが——

 

 いや、それは後で考えることだ、とシェーンコップは思った。

 

 今は、艦に戻る。それだけだった。

 

 二十四名は、艦体の側面に取り付けられたタラップを駆け上がった。

 

 艦内に入ったのは、午前二時五十四分だった。シェーンコップは、最後尾でタラップを上り、艦内の扉を閉めた。

 

---

 

 エッシェンバッハの艦内では、艦長代理として艦に残していた副長のブルームハルト中佐が、艦橋で待機していた。シェーンコップが艦内に戻るのを見て、敬礼した。

 

 「大佐、お帰りなさいませ。状況は」

 

 「全員無事。負傷者なし。死者なし」

 

 シェーンコップは、簡潔に報告した。

 

 ブルームハルトは、わずかに——本当にわずかに——目を見開いた。彼は、艦に残っていた間、シェーンコップ隊の作戦の成否を、艦の通信機で受信できる範囲の情報からしか推測できなかった。要塞内部での白兵戦で、二十四名全員が無事に帰還することは、彼の予測の範囲外だった。

 

 「次は、第三ドックからの強行離脱だ」

 

 シェーンコップは、艦長席に向かった。座る前に、操作コードのメモを胸ポケットから取り出した。シュナイダーが、四十五分の対話の最後に渡したメモだった。書かれているのは、十二桁の英数字の並び。第三ドックのハッチを、内部から手動制御モードで開けるためのコード。

 

 彼は、そのメモをブルームハルト中佐に渡した。

 

 「副長。艦のメイン制御端末から、このコードを入力しろ。第三ドックのハッチが開く」

 

 「了解しました」

 

 ブルームハルトは、メモを受け取り、メイン制御端末に向かった。

 

---

 

 数秒後、ブルームハルトが報告した。

 

 「コード入力完了。第三ドックのハッチが、応答しています——開きました」

 

 艦橋全体が、わずかに緊張した。シュナイダーの細工は、機能した。

 

 シェーンコップは、艦長席に座った。

 

 「機関、最大出力。第三ドックを抜けた瞬間に、全速力で離脱する。航法、要塞からの距離を最短で稼げる進路を取れ」

 

 「了解」

 

 各部署が、即座に動いた。エッシェンバッハの機関が、唸り声を上げて加速した。艦の慣性が、隊員たちの身体を椅子の背に押しつけた。

 

 艦は、第三ドックのハッチを通過した。

 

 通過と同時に、要塞の近距離防衛火器が反応を始めた。シュナイダーが予測していた通りだった。

 

---

 

 最初の数発のレーザーは、艦の後方を逸れた。次の数発は、艦の左舷を掠めた。掠めた瞬間に、装甲が削れる音と振動が、艦内に伝わった。

 

 「左舷装甲、軽度損傷。航行に支障なし」

 

 「気にするな。出力を維持しろ」

 

 シェーンコップは、艦長席で、艦の進路を確認した。要塞からの距離は、毎秒急速に増加していた。要塞の近距離防衛火器の射程は、約二千メートル。あと一分、出力を維持できれば、射程外に出る。

 

 その一分の間に、艦は何度かの小さな被害を受けた。後部の通信アンテナが一基、レーザーで切断された。右舷の装甲板の一部が、衝撃で歪んだ。だが、機関には被害がなかった。機関が無事である限り、艦は要塞から離れられる。

 

 午前二時五十八分。艦は、要塞の近距離防衛火器の射程外に出た。

 

 艦橋に、わずかに、空気の質が変わる感触があった。生きて要塞を出た——その事実が、各部署の士官たちの間で、ゆっくりと共有された。

 

 シェーンコップは、無言だった。生きて出たことは、彼の中では、まだ作戦の途中の一段階に過ぎなかった。本隊との合流地点に到達するまで、強行離脱は終わらない。

 

---

 

 彼は、しかし、一度だけ、要塞の方角を振り返った。

 

 観測スクリーン上の要塞は、すでに小さく、遠ざかっていた。要塞の中のどこかに、シュナイダーがいる。彼が三つの中継点を破壊した後、要塞内部の調査が始まる。調査の中で、シュナイダーが容疑者として浮上する可能性は、高い。三箇所の中継点を連続的に訪れた技術中佐は、誰の目から見ても容疑者だった。

 

 ここから先のことを、シェーンコップは知っていた。

 

 知っていながら、彼を一人で残してきた。それが彼の役割だった。連隊長として、自分の隊員を一人として失わずに艦に戻すことが、シェーンコップに与えられた任務であり、それを果たした。シュナイダーに与えられた任務は、別のものだった。二つの任務は、もう交わらない。

 

 二十四名全員の生還は、シュナイダーの細工と覚悟の上に成り立っていた。第三ドックのハッチの操作コード、二重の偽装、内部協力者としての三年間の蓄積。そのすべてが、シェーンコップ隊を要塞外へ出した。

 

 その代償として、シュナイダーは要塞に残る。

 

 だが、シュナイダーは「代償として残された」のではない。彼は、自分の意志で、自分の役割を選んだ。その整え方を、シェーンコップは作戦立案の段階で知らされた。必要があったから知らされ、知った以上、それに同意した。

 

 シェーンコップは、要塞の方角に向かって、声には出さず、敬礼に近いものを返した。それは、ローゼンリッターの正式な敬礼ではなかった。一人の軍人から、もう一人の軍人への、私的な敬意の表明だった。

 

 シュナイダーが望むとすれば、ただ一つ。彼の選んだ役割が、計画通りに完遂されること。それだけだろう、とシェーンコップは思った。

 

 彼は、艦長席に視線を戻した。

 

 「合流地点までの距離、状況は」

 

 「大佐、観測スクリーンに同盟軍本隊の信号を捕捉しました。距離は約二十光秒」

 

 「結構」

 

 エッシェンバッハ——いや、ここから先はもう、《エクリプス》だった——は、本隊との合流に向けて、加速した。

 

---

 

百十七

 

 同日午前八時。

 

 オーディン、ローエングラム元帥府、執務室。

 

 戦況の急報は、深夜にイゼルローン要塞司令部から発信され、超光速通信網を経由して、オーディンに到達した。受信は、午前七時四十分。即座に整理されて、午前八時、ラインハルトの机の上に置かれた。

 

 ラインハルトは、報告書を読んだ。

 

 短い報告だった——「イゼルローン要塞主砲トゥールハンマー、機能停止。発射口集束装置の主軸が物理的に破壊され、再構築には特殊規格部品の本国工廠での新規製造が必要。並行してエネルギー供給系の複数のボトルネック中継点が破壊されており、こちらの修復には要塞の構造的な大改修が必要。完全復旧の見込みは最短でも一年。同盟軍本隊が要塞に対する攻撃陣形を取りつつある。詳細は追って報告」。

 

 ラインハルトは、しばらく報告書を見つめた。

 

 彼の傍らには、副官のキルヒアイスがいた。キルヒアイスは、ラインハルトの表情の変化を、わずかな目の動きから読み取った。

 

 「ラインハルト様。これは——」

 

 「ヤン・ウェンリー、か」

 

 ラインハルトは、低く言った。

 

 「アスターテで撤退戦を指揮した男。少将昇進。第一三艦隊司令官。今、イゼルローン回廊で、ロイエンタールと対峙している」

 

 ラインハルトは、報告書をデスクに置いた。

 

 「一年か」

 

 「ラインハルト様」

 

 「一年の間、回廊の防衛は要塞主砲なしで行うことになる。痛いな」

 

 ラインハルトは、椅子の背にもたれた。

 

 痛い。だが、致命傷ではない。

 

 駐留艦隊は健在だった。要塞そのものも、帝国の手にある。トゥールハンマーを失っても、イゼルローンは依然として回廊上の拠点であり続ける。ワームホール経由とイゼルローン経由の二つの圧力は、なお帝国側に残っていた。

 

 同盟側は違う。彼らは要塞を持っていない。トゥールハンマーを沈黙させたからといって、イゼルローンを拠点に二正面作戦を組めるようになるわけではない。攻めることはできても、居座ることはできない。

 

 戦略的には、まだ帝国側に分がある。ただし、その分は、もはや絶対ではない。

 

 ラインハルトは、そこで初めて、敵将の狙いの輪郭を理解した。

 

 ヤン・ウェンリーは、戦況の逆転を狙わなかった。要塞を奪わず、破壊し尽くしもしない。一年という、帝国が回復可能と判断する長さに留めた。回復できると思わせるから、帝国は要塞を手放さない。だが、その一年の間、帝国の絶対的な優位は削られる。

 

 達成可能な範囲で、最大の効果を取る。

 

 その精度が、ラインハルトの関心を惹いた。

 

 「キルヒアイス。報告書には、敵側の損失についての言及はあるか」

 

 「はい。要塞司令部からの追加報告では、潜入隊の規模は二十四名と推定されますが、戦闘の現場で同盟軍側の戦死者・負傷者の遺体は確認されておりません」

 

 「確認されていない」

 

 ラインハルトは、その一語を、わずかに繰り返した。

 

 「要塞主砲を一年沈黙させ、しかも損失の痕跡を残していない、ということか」

 

 「現時点では、そう推測されます」

 

 ラインハルトは、しばらく沈黙した。

 

 艦隊戦と内部工作を組み合わせ、味方の痕跡すら残さず要塞主砲の長期無力化を達成する。艦隊指揮官としての枠を越えた、戦略家の仕事だった。

 

 しかし、敵将の評価を確定させるには、まだ早い。

 

 ロイエンタールがいる。

 

 同盟軍本隊が撤退に転じたなら、ロイエンタール艦隊との接触は避けられない。トゥールハンマーが沈黙した今、彼は何らかの戦果を残さなければならない。不作為は、彼個人だけでなく、彼を派遣した自分の判断にも返ってくる。

 

 ロイエンタールなら、それを理解している。理解した上で、動くはずだった。

 

 動いた結果がどうなるか——それを見なければ、敵将の戦略の精度は確定しない。要塞主砲の無力化と、潜入隊の損失なし。この二つは高い水準の判断を示している。だが、それだけで敵将の全体を決めるには早い。ロイエンタール艦隊との艦隊戦で、敵将がどう振る舞うか。その結果次第で、敵将の評価は変わる。

 

 「キルヒアイス」

 

 「はい」

 

 「ロイエンタールの判断を待つ。要塞外縁での対応は、彼に任せている。彼が、敵将の作戦に対して、どう動くか——それを見てから、こちらの次の手を決める」

 

 「ラインハルト様、現在の対応は」

 

 「観測に徹する。ロイエンタールが何かを示すまで、こちらから手を出す段階ではない」

 

 ラインハルトは、報告書を、デスクの引き出しに収めた。引き出しを閉じる前に、一度だけ、机の上の星図に視線を向けた。

 

 星図の中の、イゼルローン回廊の位置。その回廊で、今、ロイエンタールとヤン・ウェンリーが対峙している。ロイエンタールは、ラインハルトが数少ない信頼する麾下の一人だった。そのロイエンタールが、今、敵将をどう見るか。ラインハルトには、その答えがまだ確定しない構図として見えていた。

 

 彼は、星図から視線を外した。

 

 「次の報告を待つ。それまでは、こちらから動かない」

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