百十八
宇宙暦七九六年六月二十一日 午前八時四十分 イゼルローン要塞・反重力制御部門
シュナイダーは、自分の机の上を、一度だけ見渡した。
書類は、すべて整理されていた。手紙は、書き終えていた。リヒター少尉の机の上には、彼への引き継ぎ事項がきちんと並んでいる。三年間、彼が日々続けてきた整え方の最後が、今日の朝の机の上だった。
彼は、机の引き出しから、小さな黒い装置を取り出した。
手のひらに収まる程度の大きさで、表面には数字キーと、確認用の小さな表示画面が付いている。解除コード入力装置——少なくとも、外見上はそう見えるものだった。三年前にオーディンの闇医者が、本物に似せて造った精巧な偽物だった。
装置からは、細いケーブルが伸びていた。
彼は、上着の前を、慎重に開けた。胸元のシャツのボタンを、第二まで外した。皮膚の下に、わずかに浮き出ている管が見えた。心臓のすぐ脇から、上に向かって伸びている。三年前の手術で埋め込まれた管の、外への出口だった。
彼は、ケーブルの先端を、皮膚から出ている管の端に、慎重に接続した。
接続の確認を、二度した。
接続が確実であることが分かった後、彼は装置を上着の内ポケットに収めた。ケーブルは、皮膚から出て、上着の内側を通り、内ポケットに繋がる形になった。装置を取り出せば、ケーブルが外から見える。それが、観測可能な事実として、彼が要塞司令部に提示するものだった。
心臓付近に取り付けられた装置——という主張も、彼の口から告げる必要があった。**心臓が止まれば、強制的に爆発する**——その主張を、要塞司令部は検証できない。彼が死ねば、爆発するかもしれない。爆発しないかもしれない。検証する手段は、彼を生かしておくこと以外にない。
準備の最後だった。
彼は、上着の前を、丁寧に閉じた。襟を整えた。鏡で確認するまでもなく、彼は自分の身なりが整っていることを知っていた。三年間、毎朝、同じ手順で身なりを整えてきた。
部屋の扉に向かって歩き出した。途中で、机の上の写真——妻テレーゼと、若い頃の彼女の故郷の風景——には、視線を向けなかった。向ければ、足が止まる。彼は知っていた。
扉を出る前に、リヒター少尉の机の上に、もう一度視線を落とした。引き継ぎ事項。仕事は、止まらない。誰かが続ける。それでよかった。
シュナイダーは、扉を開けた。
通路の壁の灯りは、いつも通りだった。すれ違う技術部門の士官たちも、いつも通りだった。彼は、自分の足取りも、いつも通りに保った。
要塞司令部までの距離は、約四百メートル。徒歩で、五分。
歩きながら、彼は心の中で、ヤンとマルタン大佐の顔を一度ずつ思い浮かべた。それから、シェーンコップ大佐の顔も。三人の顔は、どれも、彼に「行け」とは言わなかった。彼が選んだことだった。
それから、テレーゼの顔は、思い浮かべなかった。
彼女のことを思えば、足が止まる。妻には、何も告げないまま帰ってきた。三年前の手術のことも、今日のことも、何も。彼女が知らないという事実が、彼女を守る最も確実な防壁だった。
司令部の扉が、目の前に見えてきた。
扉の前で、彼は一度だけ、上着の内ポケットに手を当てた。装置の感触が、布越しにあった。胸の皮膚の下から伸びるケーブルが、装置と繋がっている確信が、その感触の中にあった。
準備は、すべて整っていた。
彼は、扉を叩いた。
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百十九
午前八時四十六分 イゼルローン要塞・司令部執務室
シュトックハウゼン要塞司令官の前に立った男は、いつもの技術部門の制服を着ていた。階級章は、技術中佐のもの。襟元のネームプレートには、「カール・シュナイダー」と記されている。
部屋の中は、緊迫していた。机の上には、トゥールハンマーの破壊状況に関する報告書が、何枚も散らばっている。シュトックハウゼンは、椅子に座らずに立ったまま、その報告書を一枚ずつ読んでいた。彼の左手には、本国軍務省への急報の草稿が握られていた。
ゼークトも、立ったままだった。彼は、観測網の表示画面の前を、何度か往復していた。叛乱軍艦隊の動きを、繰り返し確認していた。彼の表情には、明らかな苛立ちがあった。トゥールハンマーが使用不可になった状況で、駐留艦隊だけで叛乱軍艦隊と対峙する判断を、これから下さなければならない。
扉を開けて入ってきたシュナイダーに、シュトックハウゼンは、最初は気づかなかった。
シュナイダーが扉のすぐ脇で姿勢を正したとき、シュトックハウゼンが顔を上げた。
「シュナイダー中佐? 今は来客の時間ではない。報告書なら、書類で——」
「閣下」
シュナイダーは、彼の言葉を遮った。
遮られたシュトックハウゼンの顔に、明らかな苛立ちが浮かんだ。彼の手の中の急報の草稿が、わずかに皺を作った。ゼークトも、観測画面から振り返り、シュナイダーを見た。技術部門の中佐が、要塞司令官の言葉を遮るのは、通常ではあり得ない。
「私が、第二段階の中継点を破壊しました」
シュナイダーは、言った。
部屋の中の空気が、止まった。
ゼークトが、最初に動いた。彼は、観測画面の前から、シュナイダーの方へ歩み寄った。歩み寄るうちに、彼の右手が、腰の銃に伸びた。
「貴様——」
「お止め下さい、ゼークト閣下」
シュナイダーが、言った。
ゼークトの手が、止まった。
シュナイダーは、ゆっくりと自分の上着の前を、右手で開けた。胸元のシャツのボタンの間から、皮膚の下に伸びる細い管の輪郭が、わずかに浮き出ているのが見えた。彼は、上着の内ポケットから、小さな黒い装置を取り出した。装置からは、細いケーブルが伸びていた。ケーブルは、彼の胸元——シャツのボタンの間——に消えている。
「私の心臓の脇に、反重力炉干渉爆薬が取り付けられています」
シュナイダーは、装置を、両手で示した。
「先ほど、時限付きで作動させました。三時間後、自動的に起爆します」
部屋の空気が、止まった。
「これは、解除コード入力装置です。私の体内の爆薬と、このケーブルで繋がっています。私の心臓が止まっても、爆薬は起爆します」
シュトックハウゼンの目が、わずかに見開かれた。彼の手の中の急報の草稿は、もう完全に皺を作っていた。
「反重力炉干渉爆薬は、特殊な波長の重力子を放出し、反重力炉の制御系に干渉します。運が良ければ、反重力炉は停止するだけです。運が悪ければ、制御不能の暴走が起きる。要塞規模の反重力炉でそれが起きた場合、私は結果を予測できません」
ゼークトは、伸ばした手を、銃の柄に置いたまま、動きを止めた。
シュナイダーは、続けた。
「同盟艦隊の撤退完了まで、九十分。その間、手出しは無用です。私の心臓を止めれば、爆薬は即座に起爆します。何もしなくとも、三時間後には自動的に起爆します。解除コードは、私の頭の中にしかありません」
彼は、両手で持つ装置に、視線を落とした。
「九十分が経過した時点で、私自身の手で、この装置から解除コードを入力します」
部屋の中で、誰も口を開かなかった。
シュナイダーは、解除コード入力装置を、両手で持ったまま、視線をシュトックハウゼンに向けた。
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百二十
午前八時四十九分 同・司令部執務室
ゼークトは、銃の柄に置いていた右手を、ゆっくりと外した。
彼は、シュトックハウゼンの方を見た。シュトックハウゼンは、シュナイダーの両手の中の装置と、そこから伸びるケーブル、そしてケーブルが消える胸元を、目で追っていた。装置から伸びるケーブルが、シャツのボタンの間に消えていることは、観測できる事実だった。それが本当に心臓まで繋がっているのか、外からは分からない。
「シュナイダー」
シュトックハウゼンは、言った。
階級も「中佐」も、つけなかった。
「お前の主張は、立証されていない」
「閣下、立証する時間は、私からは与えられません」
「九十分以内に、お前の主張の真偽を確認することは、不可能だ」
「閣下のお考え通りです」
シュトックハウゼンは、しばらく黙った。
彼の頭の中で、判断の選択肢が並んでいた。シュナイダーを今、撃つか。撃てば、彼の主張通りなら、爆薬が起爆する。撃たずに、九十分待つか。待っても、三時間後には自動起爆する。爆薬の存在そのものが嘘なら、何も起きない。問題は、その確率を、九十分以内に確認できないことだった。
彼の手の中の急報の草稿は、握りつぶされていた。彼自身、それに気づいていなかった。
ゼークトが、口を開いた。
「シュトックハウゼン」
シュトックハウゼンは、視線をゼークトに移した。同格の駐留艦隊司令官は、低い声で言った。
「この男の言うことは、ハッタリだ」
「分かっている」
シュトックハウゼンは、即答した。
「だが、ハッタリでなかった場合は」
ゼークトは、そこで言葉を止めた。彼自身も、その先を口にしたくなかった。要塞内部で反重力炉が暴走した場合の影響を、彼は駐留艦隊司令官として把握している。最悪の場合、要塞そのものの構造が崩れる。数十万人の命が、失われる。駐留艦隊も、要塞の付随施設として、巻き込まれる。
「分かっている」
シュトックハウゼンは、繰り返した。
彼は、視線を、執務室の入り口に立つ副官に向けた。副官は、シュナイダーが入室した直後から、緊張した面持ちで状況を見守っていた。
「ヴァイクハルト中佐を呼べ。技術部から出向している中佐だ。彼ならこの男の主張が本当かどうか、判断できる」
「了解しました、閣下」
副官は、すぐに通信卓に向かった。彼の指が、慌ただしく通信機を操作した。シュトックハウゼンは、振り返ってシュナイダーを見た。シュナイダーは、依然として最初の位置から動かず、両手で装置を持ったままだった。
ゼークトが、低く言った。
「シュトックハウゼン、奴の主張を、専門家に判定させる時間はあるのか」
「彼の研究室は、要塞の中央区画にある。徒歩で五分。急ぎ呼び寄せれば、十分以内には到着する」
「九十分のうち、十分が消える」
「他に選択肢はない」
ゼークトは、頷いた。
部屋の中で、誰も話さなかった。シュナイダーは、視線を壁の時計に向けた。九十分のカウントダウンが、彼の中で進んでいる。同盟艦隊が撤退の準備を進めるのに必要な時間と、要塞司令部が判断を下すのに必要な時間が、同じ時計の上で並行して進んでいた。
ゼークトが、観測網の表示画面の前に戻った。彼は、叛乱軍艦隊の動きを、繰り返し確認した。本隊が、撤退陣形の準備に入っている。要塞の第三ドックの方向から、駆逐艦の艦影が一隻、出てきていた。識別信号は「《エクリプス》」——観測網は、その艦が叛乱軍の駆逐艦であることを示していた。
シュトックハウゼンは、急報の草稿を机に置いた。皺を伸ばす動作を、無意識に始めた。彼自身、その動作に気づいていなかった。
扉が、ノックされた。
「ヴァイクハルト中佐、参上いたしました」
扉の向こうから、声が届いた。
「入れ」
扉が開いた。
階級章は、技術中佐——シュナイダーと同じ階級だが、肩章のデザインがわずかに異なる。帝国軍技術部からの出向士官だった。年齢は四十前後、痩せた長身の男だった。
ヴァイクハルトは、シュトックハウゼンの前で姿勢を正した。彼の視線は、すぐにシュナイダーに向いた。シュナイダーが両手で持つ装置と、そこから伸びるケーブル、ケーブルが消える胸元——それらを、技術者の目で、一度ずつ確認した。
彼の表情に、緊張が走った。
「閣下。状況をご説明ください」
シュトックハウゼンは、簡潔に説明した。シュナイダーがトゥールハンマー破壊の実行者であること。彼の体内に反重力炉干渉爆薬が取り付けられていると主張していること。三時間後に時限起爆する、九十分後にシュナイダー自身が解除すると主張していること。叛乱軍艦隊の撤退完了まで、手出し禁止を要求していること。
ヴァイクハルトは、シュトックハウゼンの説明を、無言で聞いた。
説明が終わった後、彼は、もう一度シュナイダーを見た。今度は、より長く、より詳細に。装置の形状、ケーブルの太さ、ケーブルが胸元に消える位置——それらを順に確認した。
彼は、シュトックハウゼンの方に向き直った。
「閣下。この男の主張は、ほぼ真実と判断せざるを得ません」
部屋の空気が、一段変わった。
「現在、技術部では、白兵戦部隊が艦艇の反重力炉を破壊するための、超小型の反重力爆弾の試作研究を進めております。量産化には程遠い段階ですが、試作品そのものは、実在いたします」
ヴァイクハルトは、そこで一度、言葉を切った。再びシュナイダーの両手の中の装置を見た。
「この男が、技術部の研究と並行して、独自に同等の装置を製作した可能性は、否定できません。彼は反重力制御部門の主任です。理論上、実装上の知識は、技術部の研究員と遜色ない水準にあります」
彼は、シュトックハウゼンの方に向き直った。
「そして、もし彼の主張する装置が、要塞の反重力炉に対して作用した場合——」
ヴァイクハルトは、そこで一度、息を吸った。
「我々の試作品は、艦艇規模の反重力炉を対象として設計されたものです。要塞の反重力炉は、艦艇のものと比較して、数十倍から数百倍の規模を持ちます。同じ原理の装置が、その規模の反重力炉に作用した場合、何が起きるか——理論的にも、実験的にも、予測する手段が、現時点では我々にもありません」
ヴァイクハルトは、それ以上は言わなかった。
言わないことが、答えだった。
シュトックハウゼンは、長い息を吐いた。
彼は、部屋の壁の時計を見た。午前八時五十七分。シュナイダーが告げた九十分は、すでに十一分が経過していた。残り、七十九分。叛乱軍の艦隊が、撤退の準備に入っているのが、観測網に映っていた。
「ゼークト」
彼は、振り向きもせず言った。
「全駐留艦隊と、ロイエンタール艦隊への連絡。叛乱軍艦隊への手出し禁止。叛乱軍の撤退完了まで、攻撃を停止」
ゼークトは、何かを言いかけて、止めた。彼は、シュナイダーの方を一度見て、それから頷いた。
「了解した」
ゼークトは、通信卓に向かった。
シュトックハウゼンは、ローエングラム元帥府への急報も指示した。ラインハルトに、状況を伝える必要があった。ただし、ラインハルトの判断を待つ時間はない。判断は、要塞司令部で、今、下す必要があった。
彼は、シュナイダーの方を見た。
シュナイダーは、最初に立った位置から、一歩も動いていなかった。表情も、変わっていなかった。両手の装置は、依然として持ったままだった。
シュトックハウゼンは、低く言った。
「シュナイダー。貴様の主張を、現時点では受け入れる。九十分間、貴様の身柄は、この部屋に留める。武装した警備兵を配置する」
シュナイダーは、深く頭を下げた。
頭を下げた角度は、技術部門の中佐が要塞司令官に対する、規定通りの角度だった。
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百二十一
午前八時五十二分 同盟軍第一三艦隊本隊・旗艦《ヒューベリオン》艦橋
艦橋の壁の時計が、八時五十二分を指した瞬間、ヤンは椅子から立ち上がった。
「全艦隊、撤退陣形。最大戦速」
ムライ参謀長が、復唱した。
「全艦隊、撤退陣形。最大戦速」
艦橋の各部署から、復唱が連鎖した。
ヤンは、観測スクリーンを見た。要塞からの距離、約八光秒。要塞の外縁の駐留艦隊の艦影が、観測網に映っている。彼らは、動いていない。まだ、シュトックハウゼンからの命令が下達されていないのか、あるいは下達されたばかりなのか。
九十分のカウントダウンは、シュナイダーが要塞司令部に出頭する予定時刻から始まっている。マルタン大佐から事前に渡された短い時刻表では、出頭予定は八時四十六分。確認の通信はない。あるはずもない。それでも、その時刻はすでに過ぎていた。
残り、八十四分。
シュナイダーが予定通りに出頭したかどうか、ヤンには確認する手段がない。彼を信じる以外に、できることはなかった。
その間に——
ヤンは、頭の中で工程を確認した。エクリプスの本隊への合流、別働隊の本隊への合流、これらが最初の三十分で完了する必要がある。それから、続く六十分で、全艦隊が要塞の射程外まで離脱する。
「グリーンヒル中尉」
ヤンは、通信卓のグリーンヒル中尉に、声を投げた。
「はい、提督」
「エクリプスからの通信は」
「まだです、提督。観測網には、識別信号は入っています」
「了解。エクリプスとの距離、報告を続けて」
「はい」
グリーンヒル中尉は、通信卓に視線を戻した。彼女の動作は、いつもと変わらない。ヤンは、それを横目で見た。彼女は、何が起きているかを、すべては知らない。シェーンコップ大佐が要塞内部で何をしたかは、第十三艦隊の将官たちに伝わっている。しかし、シュナイダーの脅迫の真相は、彼女には伝えていない。
彼女の視線は、ヤンの判断を信頼している視線だった。
ヤンは、観測スクリーンに視線を戻した。
彼は、ベレー帽を一度、軽く撫でた。それから、椅子に座り直した。
「ムライ准将。エクリプスの収容予定位置までの所要時間は」
「現在の本隊の位置から、二十二分、提督」
「了解。本隊の前進速度を、最大の九割に維持」
「九割で前進。了解」
ヤンは、心の中で、九十分のうちの三十分という時間枠を、もう一度確認した。エクリプスの収容まで二十二分、別働隊との合流まで二十六分。三十分以内に、すべての合流が完了する。
完了しなければならなかった。
彼は、観測スクリーンの中の青い印——本隊の位置——と、その先にある赤い小さな点——エクリプスの艦影——を、目で追った。
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百二十二
午前八時五十九分 ロイエンタール艦隊・旗艦艦橋
通信士官が、声を上げた。
「閣下。要塞司令部からの緊急通信です」
ロイエンタールは、椅子の肘掛けに置いていた手を、ゆっくりと動かした。彼は、通信内容を読み上げる通信士官の声に、耳を傾けた。
「叛乱軍艦隊への攻撃停止。シュナイダー技術中佐による、反重力爆弾の脅迫。叛乱軍撤退完了まで、全艦隊手出し禁止」
艦橋の中で、ベルクマン少佐が、息を呑んだ。
「閣下、これは——」
「黙れ」
ロイエンタールは、低く言った。彼は、観測スクリーンを見ていた。スクリーンの中で、叛乱軍本隊が撤退陣形を取り始めている。本隊の前方、要塞の第三ドック方向から、一隻の駆逐艦が出てきていた。観測網は、それを「《エクリプス》」と識別していた。
彼は、心の中で言葉を選んだ。
ヤンが、一瞬、彼の中に浮かんだ。心の中の呼び方は、すでに「ヤン・ウェンリー少将」ではなくなっていた。昨日の夜半、心の中で初めて階級を外した時から、彼の中の呼び方は変わっていた。
今、艦橋で、彼は何も言わなかった。命令は受領した。手出し禁止——独立した特命艦隊を率いているとはいえ、要塞そのものを危険に晒す判断を、現場の独断で覆すことはできなかった。
ベルクマン少佐が、再び口を開いた。
「閣下、叛乱軍艦隊が、目の前で撤退します。本当に、何もしないのですか」
「シュナイダーが死ねば、要塞が消える可能性がある」
ロイエンタールは、抑えた声で言った。
「ハッタリかもしれません」
「ハッタリかもしれない」
ロイエンタールは、ベルクマンの言葉を繰り返した。それから、彼は付け加えた。
「だが、ハッタリでなかった場合、要塞の数十万人と、駐留艦隊が消える。我々は、その賭けに勝てるか」
ベルクマン少佐は、口を閉じた。
ロイエンタールは、観測スクリーンの中の青い印を、もう一度見た。叛乱軍本隊が、撤退陣形を完成させていた。本隊の前方、エクリプスとの距離が、徐々に縮まっている。
彼の中に、奇妙な感慨があった。
ヤンの作戦が、目の前で完成しつつある。要塞主砲を一年無力化し、叛乱軍艦隊は損失なしで撤退する。彼が艦隊戦を仕掛けたかった。もし仕掛けていれば、叛乱軍に何らかの損失を与えることはできた。しかし、命令は手出し禁止。彼は、戦場で動かない指揮官として、この一日を終えることになる。
彼は、心の中で、もう一度その名前を呼んだ。
ヤン。
心の中で呼ぶこと以外、彼にできることはなかった。
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百二十三
午前九時十分 同盟軍第一三艦隊本隊・旗艦《ヒューベリオン》艦橋
観測スクリーンの中で、エクリプスと本隊の艦影が、徐々に重なっていった。
「エクリプスから、通信です。提督」
グリーンヒル中尉が、声を上げた。
「繋いで」
ヤンは、言った。
通信卓のスピーカーから、シェーンコップの声が流れた。
『ヤン提督、シェーンコップ大佐です。本隊との合流地点に到達しました。エクリプスの状態は良好。隊員も、全員無事です』
艦橋の中の、複数の士官が、わずかに息を吐いた。
ヤンも、ベレー帽を軽く撫でた。
「お疲れさま、シェーンコップ大佐」
彼は、言った。
『ありがとうございます、提督』
シェーンコップの声は、平静だった。彼の声には、感慨も、安堵も、表に出ていなかった。シェーンコップ自身が知っていることを、ヤンは知っていた。シェーンコップは、シュナイダーの最後の役割を、作戦立案の段階から知っている。彼の平静さは、その認識の上に成り立っていた。
「合流次第、撤退陣形に組み込んで」
「了解しました」
通信が、切れた。
ヤンは、壁の時計を見た。八時四十六分から、二十四分が経過していた。残り、六十六分。
第一段階の半分が完了した。あと、別働隊の合流が残っている。
「ムライ准将。アッテンボロー艦隊の位置は」
「合流地点まで、約六分です、提督」
「了解」
ヤンは、観測スクリーンを見続けた。スクリーンの右上、別働隊の青い印が、徐々に近づいてくる。アッテンボローの艦隊だった。彼らは、駐留艦隊主力を誘出した戦闘から戻ってくる。「接近しては距離を取り、接近しては距離を取る」を繰り返した戦法によって、駐留艦隊主力を要塞から離れた宙域に誘出した艦隊。
戦闘の被害は、軽微なはずだった。事前の作戦設計では、別働隊の損失は最小限に抑えるよう計画されていた。
通信卓のグリーンヒル中尉が、声を上げた。
「アッテンボロー提督から、通信です。提督」
「繋いで」
『先輩、合流地点まで五分。被害状況、軽傷者のみ。死者、重傷者なしです』
アッテンボローの声は、いつも通りの軽妙な調子だった。
ヤンは、わずかに息を吐いた。
「了解。合流次第、撤退陣形に組み込む」
『了解です。それにしても、先輩の作戦は、いつも通り、ぎりぎりですね』
「いつも通り、ぎりぎりだよ」
ヤンは、答えた。
通信が切れた後、ヤンは、もう一度時計を見た。
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百二十四
午前九時十六分 同盟軍第一三艦隊本隊・旗艦《ヒューベリオン》艦橋
第一段階の完了は、八時四十六分から三十分後——つまり、九時十六分だった。エクリプスの収容、別働隊の合流、撤退陣形の完成。すべてが、予定通りの時間で完了した。
ヤンは、艦橋の中の各部署を、一度ずつ見渡した。
誰も、声を上げない。全員が、自分の持ち場で、次の指示を待っている。
彼は、椅子から立ち上がった。
「全艦隊、要塞からの離脱開始。要塞の射程外を目指す。最大戦速」
ムライ准将が、復唱した。
「全艦隊、要塞からの離脱開始。最大戦速」
艦橋の各部署から、復唱が連鎖した。
観測スクリーンの中で、同盟軍艦隊の青い印が、要塞から離れる方向へ、ゆっくりと動き始めた。本隊四千、別働隊二千、エクリプス一隻——合計約六千隻の艦艇が、一斉に離脱を始める。
ヤンは、椅子に座り直した。
残り、六十分。
その時間で、艦隊全体が要塞の射程外まで離脱しなければならない。要塞のトゥールハンマーは使用不可だが、駐留艦隊の砲撃は依然として可能だった。さらに、ロイエンタール艦隊との接触範囲を脱する必要もあった。
彼は、ベレー帽を一度、軽く撫でた。
「ムライ准将」
「はい、提督」
「離脱経路の状況は」
「現時点で、要塞およびロイエンタール艦隊からの攻撃は、確認されていません」
「了解」
ヤンは、観測スクリーンを見続けた。
スクリーンの中で、同盟軍艦隊が、要塞から徐々に距離を取っていく。要塞の艦影が、わずかずつ、観測範囲の中で小さくなっていく。
艦橋の中の空気は、緊張を保っていた。
誰も、まだ安堵しなかった。
六十分間、何も起きないこと——それが、撤退の成功の条件だった。
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百二十五
午前十時十六分 イゼルローン要塞・司令部執務室
壁の時計が、十時十六分を指した。
九十分が、経過した。
シュトックハウゼンは、観測網からの報告を受けていた。「叛乱軍艦隊、要塞射程外への離脱完了」。報告書の文面が、彼の机の上に置かれていた。
彼は、シュナイダーの方を見た。
シュナイダーは、九十分間、最初に立った位置から、ほとんど動かなかった。両手の中の解除コード入力装置は、九十分の間、彼の手から離れなかった。彼は、壁の時計を、定期的に見ていた。それ以外は、ほとんど動きを見せなかった。
今、シュトックハウゼンが彼を見たとき、シュナイダーも視線を返した。
「シュナイダー」
「はい、閣下」
「叛乱軍艦隊は、要塞の射程外へ離脱した。撤退は完了したと、観測網は報告している」
「了解いたしました、閣下」
シュナイダーは、頷いた。
シュトックハウゼンは、シュナイダーの両手の中の装置を見た。九十分前、シュナイダーは「九十分が経過した時点で、私自身の手で、解除コードを入力します」と告げていた。今、その時点に達した。
「シュナイダー、約束だ。解除コードを入力しろ」
シュトックハウゼンは、低く言った。
シュナイダーは、視線をシュトックハウゼンに向けたまま、両手の中の解除コード入力装置を、机の上に、ゆっくりと置いた。装置から伸びるケーブルは、依然として彼の胸元に消えている。装置を机の上に置いても、ケーブルが彼の体に繋がっている事実は、変わらなかった。
彼は、装置に手を伸ばさなかった。解除コードを入力する動作を、しなかった。
「シュナイダー——」
シュトックハウゼンが、半歩、前に出た。
しかし、シュナイダーは、装置からも、シュトックハウゼンからも視線を離して、上着の内ポケットに手を入れた。
薄い小さな容器を、取り出した。
その容器を、彼は口元に運んだ。
「貴様——」
シュトックハウゼンの声が、上がった。
しかし、シュナイダーは、容器の中身を、すでに口に含んでいた。
彼は、両膝を、ゆっくりと床についた。
それから、上半身が、前のめりに崩れた。
床に倒れる音は、思ったよりも、小さかった。
ケーブルが、彼の体の動きに引かれて、机の上の装置を、わずかに引きずった。
シュトックハウゼンは、一歩踏み出した。ゼークトも、ヴァイクハルトも、シュナイダーに駆け寄った。ヴァイクハルトが、シュナイダーの脈を確認した。彼は、首を振った。
「脈はありません、閣下」
部屋の中で、誰も、すぐには動かなかった。
時計の針が、十時十七分を指した。
壁の通信機は、何の信号も発しなかった。
反重力炉の制御装置からの、異常を示す警告も、鳴らなかった。
ゼークトが、最初に口を開いた。
「シュトックハウゼン、爆薬は——」
「動かないか」
シュトックハウゼンは、言った。
彼は、机の上の解除コード入力装置を見た。装置から伸びるケーブルが、シュナイダーの胸元に消えている。彼は、装置を手に取った。
ただの金属とプラスチックの塊だった。
彼は、それを机の上に戻した。
ヴァイクハルトが、シュナイダーの遺体を、もう一度確認していた。胸元のシャツのボタンを、慎重に外した。皮膚から伸びるケーブルが、見えた。彼は、皮膚の下に手を当て、心臓の位置を確認した。
「閣下、皮膚下に何かが埋め込まれているのは、確認できます。心臓の脇です。ただ、これが反重力炉干渉爆薬の本体なのか、それとも別の何かなのか——確証することは、現時点では困難です。摘出して分析する必要があります」
ヴァイクハルトは、慎重に言った。
ゼークトが、低く付け加えた。
「奴は、三時間後に自動起爆すると言った。その三時間も、嘘だったのか」
ヴァイクハルトは、振り返って答えた。
「閣下。装置を摘出してみなければ、確証は得られません。ただし——」
彼は、シュナイダーの遺体の方を、もう一度見た。
「奴が解除コードを入力せずに自決した事実、そして心臓が止まった瞬間に起爆しなかった事実——この二つを合わせて考えると、装置そのものが、最初から起爆機構ではなかった可能性が、高まります」
シュトックハウゼンは、息を吐いた。
彼は、もう一度、壁の時計を見た。十時十七分。叛乱軍は、要塞の射程外へ離脱完了。シュナイダーは、自決した。爆薬は、動かなかった。九十分後に解除すると告げた男は、解除しなかった。三時間後に起爆すると告げた爆薬は、心臓が止まった瞬間にも起爆しなかった。
奴の言葉のすべてが、嘘だった可能性が、急速に高まっていた。
彼は、シュナイダーの遺体を、もう一度見下ろした。
遺体の顔は、安らかとは言えないが、苦悶の表情でもなかった。何か、自分が引き受けた仕事を、最後まで終えた人間の顔だった。
シュトックハウゼンは、低く言った。
「ヴァイクハルト中佐。遺体と、体内の装置を、技術部に運び、徹底的に分析しろ。これがハッタリだったのかどうか、確証する必要がある。一時間半以内に判定を出せ」
「了解しました、閣下」
部屋の中の空気は、依然として、止まっていた。
シュナイダーの自決の意味を、シュトックハウゼンも、ゼークトも、ヴァイクハルトも、まだ完全には把握していなかった。彼らは三時間後の自動起爆に対する備えと、ハッタリだった可能性の調査を、同時に進めなければならなかった。
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百二十六
午前十時十五分 同盟軍第一三艦隊本隊・旗艦《ヒューベリオン》艦橋
観測スクリーンの中で、要塞の艦影が、観測範囲の縁に達した。
「全艦隊、要塞射程外への離脱完了、提督」
ムライ参謀長が、報告した。
ヤンは、壁の時計を見た。十時十五分。八時四十六分から、八十九分が経過していた。九十分の枠の内側で、離脱は完了した。
彼は、椅子から立ち上がった。
「全艦隊、撤退針路維持。第二の集結地点へ向かう」
ムライ准将が、復唱した。艦橋の各部署から、復唱が連鎖した。
「各艦からの被害報告、死者・重傷者なし。軽傷者のみです。おめでとうございます、提督」
グリーンヒル中尉が、通信卓から報告した。
艦橋のあちこちから、「やった」「やったぞ!」という声が上がった。
ヤンは、観測スクリーンの中の要塞の艦影を、もう一度見た。要塞は、観測範囲の縁で、ゆっくりと小さくなっていく。
その要塞の中に、シュナイダーがいる。
ヤンは、彼が今、何をしているかを知っていた。九十分が経過した時点で、彼は自決する。それは、シュナイダーがマルタン大佐を通じて伝えてきた、彼自身の選択だった。ヤンは、当初それに反対した。最終的に受け入れたのも、それ以外に味方の損失なし撤退を成立させる手段がなかったからだった。
彼は、ベレー帽を一度、軽く撫でた。
「グリーンヒル中尉」
「はい、提督」
グリーンヒル中尉が、視線を上げた。
「同盟本国に連絡してくれ。『何とかやった。もう一度やれと言われてもできない』とね」
グリーンヒル中尉は、わずかに目を見開いた。彼女は、ヤンの言葉を、そのまま復唱しなかった。一瞬、何か言いたそうな表情を見せたが、結局、頷いた。
「了解しました、提督」
彼女は、通信卓に向き直った。
ヤンは、また観測スクリーンに視線を戻した。要塞の艦影は、観測範囲の縁で、ほぼ点になっている。
時計が、十時十六分を過ぎた。
しばらくして、グリーンヒル中尉が、もう一度視線を上げた。
「提督、それから——」
「ああ、そうだ」
ヤンは、彼女の言葉を継いだ。
「マルタン大佐への通信を、繋いで欲しいんだ」
「はい」
数秒後、通信卓のスピーカーから、マルタン大佐の声が流れた。
『提督、撤退完了の報告を確認しました』
「マルタン大佐」
「はい、提督」
ヤンは、しばらく言葉を選んだ。
「シュナイダーは——」
「九十分は、終わりました」
マルタンの声は、低かった。
ヤンは、目を、わずかに閉じた。
「了解。報告、ありがとう」
通信は、切れた。
ヤンは、観測スクリーンを見続けた。要塞の艦影は、観測範囲の縁で、ほぼ点になっている。
彼の中に、何かが沈み込んでいた。
しかし、彼はそれを、表に出さなかった。
艦橋にいる将兵たちの大半は、シュナイダーの存在を知らない。シュナイダー一人が要塞内部で何をしたかも、知らない。彼らが知っているのは、トゥールハンマーが破壊され、シェーンコップ隊が無事に帰還し、艦隊全体が損失なしで撤退に成功した、という結果だけだった。
その結果を、ヤン一人が、別の角度から見ていた。
彼は、椅子に座り直した。
彼は、自分の手の中に、ベレー帽を握った。
その手の中で、ベレー帽は、いつもより少しだけ、固く感じられた。
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百二十七
午前十一時二十分 オーディン、ローエングラム元帥府
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、届いた報告書を読み終えた後、しばらく何も言わなかった。
報告は、断片的だった。しかし、必要な事実は揃っていた。
イゼルローン要塞のトゥールハンマーは、少なくとも一年単位で使用不能。発射口集束装置とエネルギー供給系の双方に破壊が確認された。潜入部隊と見られる叛乱軍兵は、遺体も重傷者も確認されていない。鹵獲駆逐艦《エッシェンバッハ》を偽装した艦艇は、叛乱軍本隊に収容された。
そして、ロイエンタール艦隊は、艦隊戦を行わなかった。
理由は、要塞司令部からの攻撃停止命令。カール・シュナイダー技術中佐による反重力炉干渉爆薬の脅迫。九十分間の手出し禁止。その間に、叛乱軍第一三艦隊は、死者・重傷者を出さず、要塞射程外への離脱を完了した。
「……戦わずに、戦場を閉じたか」
ラインハルトは、低く言った。
キルヒアイスは、報告書の写しを手にしたまま、黙っていた。
「トゥールハンマーを沈黙させ、潜入隊を無傷で帰し、こちらの艦隊に戦闘の機会すら与えずに撤退した。魔術、と呼ぶ者が出ても不思議ではないな」
「ラインハルト様」
キルヒアイスが、静かに呼びかけた。
ラインハルトは、わずかに笑った。笑みには、愉快さよりも、冷えた認識が混じっていた。
「もちろん、魔術ではない。人間の判断と訓練と準備の積み重ねだ。だが、それを受ける側には、魔術のように見える」
ラインハルトは、報告書を机の上に置いた。
「アスターテで一度見せた。ここで、二度見せた。三度目を見せたなら、誰も彼を別の名前では呼ばなくなるかもしれん」
キルヒアイスは答えなかった。
ラインハルトは、もう一度、報告書の末尾に目を落とした。要塞主砲一年無力化。叛乱軍死者・重傷者なし。ロイエンタール艦隊、攻撃停止命令により交戦せず。
痛手だった。だが、致命傷ではない。駐留艦隊は健在であり、イゼルローン要塞そのものも帝国の手にある。戦略的には、まだ帝国側に分がある。
ただし、その分は、かつてのような絶対ではなくなった。
「ヤン・ウェンリー」
ラインハルトは、その名を、今度は声に出して言った。
報告書の文字ではなく、一人の敵将の名として。