深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第二十六話「協力者の最期」

百二十八

宇宙暦七九六年六月二十日 午前四時四十分 イゼルローン要塞・司令部執務室

 

 シュナイダーの遺体は、技術部の搬送台に乗せられて、執務室を出ていった。

 

 ヴァイクハルト中佐が、搬送に同行した。彼の右手には、机の上に置かれていた解除コード入力装置が握られていた。装置から伸びるケーブルは、すでに取り外されていた。ヴァイクハルトは、シュナイダーの胸元のシャツのボタンを開け、皮膚下の管との接続を、慎重に切り離していた。

 

 搬送台が扉を通り抜けると、執務室の中は、静かになった。

 

 シュトックハウゼンは、机の前に立ったまま、扉が閉まる音を聞いた。

 

 ゼークトは、観測網の表示画面の前に立っていた。叛乱軍艦隊の青い印は、観測範囲の縁を越えて、すでに見えなくなっている。要塞射程外への離脱は、完了していた。

 

 部屋の中には、二人しかいなかった。

 

 シュトックハウゼンは、机の上を見た。シュナイダーが立っていた位置——彼が両手で持っていた装置を置いた位置——には、何も残っていなかった。机の表面の照明の反射が、装置が置かれていた跡をかすかに示している程度だった。

 

 彼は、急報の草稿を、机の上に広げた。一時間半前に握りつぶした紙が、皺だらけのまま、彼の前に置かれている。彼はその皺を、指で丁寧に伸ばした。動作の途中で、自分が何をしているか分からなくなった。

 

 手を止めた。

 

 ゼークトが、口を開いた。

 

 「シュトックハウゼン」

 

 「……何だ」

 

 「奴の三年間を、どう報告する」

 

 シュトックハウゼンは、答えなかった。

 

 問いの背後にある含意を、シュトックハウゼンは聞き取った。シュナイダーは反重力制御部門の主任として、要塞内部の人事に属していた。

 

 「奴の人事は、要塞司令部の管轄だ。それは事実だ」

 

 彼は、低く言った。

 

 「だが、奴一人の工作で、要塞主砲は失われなかった。トゥールハンマー破壊の決定的な要因は、外部からの侵入——叛乱軍の精鋭白兵戦部隊による潜入だった。あの潜入を成立させたのは、駐留艦隊の防衛の不備だ」

 

 ゼークトの表情が、わずかに動いた。

 

 「私の艦隊主力は、別働隊の誘出に応じざるを得なかった。叛乱軍が誘出戦を仕掛けてきた時点で、要塞外周の防衛は二択になった——艦隊主力で誘出に応じるか、艦隊主力を要塞外周に張り付けたまま、叛乱軍本隊の進路を見送るか。私は、艦隊主力を動かす判断を下した。それは、要塞防衛の戦術論理として、不合理ではなかった」

 

 「結果として、要塞外周の防衛は機能しなかった」

 

 「結果論だ」

 

 ゼークトは、抑えた声で言った。

 

 「結果論で責任を問うなら、貴官の三年間も、結果論で問われる。シュナイダーが三年間、月例の健康診断を含めて、要塞司令部の前で何の違和感も見せなかった——これも、結果論として、要塞司令部の防諜の失敗だ」

 

 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。

 

 シュトックハウゼンは、机の上の急報の草稿を、再び見た。皺を伸ばす動作を、もう一度始めた。動作の途中で、また手を止めた。

 

 彼は、ゼークトの方を見ずに、低く言った。

 

 「ローエングラム伯爵宛ての第二報の草稿を起こす」

 

 「発信は」

 

 「ヴァイクハルト中佐の判定が出てからだ。今は、シュナイダーの自決と、装置がハッタリだった可能性だけを整理する」

 

 「了解した」

 

 ゼークトは、観測網の表示画面の方へ視線を戻した。

 

 二人とも、その先のことは口に出さなかった。第二報の発信が、二人の処分の引き金になることを、二人とも分かっていた。報告書がリヒテンラーデ侯爵の判断の場に到達するまでに、両者がそれぞれ別の文書を書くであろうことも、二人とも分かっていた——それぞれの文書が、相手の責任を強調する内容になることを含めて。

 

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百二十九

 

午前五時十分 イゼルローン要塞・中央医療部・解剖室

 

 ハーゲンドルフ軍医中佐は、解剖台の脇に立っていた。

 

 シュナイダーの遺体は、上半身を露出させた状態で、解剖台に横たわっていた。胸元の皮膚——心臓の脇——には、皮膚下から細い管がわずかに浮き出ている。

 

 ハーゲンドルフは、五十代に入ったばかりの軍医だった。要塞勤務は四年目で、シュナイダー技術中佐の月例の健康診断も、彼自身が担当してきていた。三年間、毎月、彼はシュナイダーの体を診ていた。体内の異常を、一度も発見しなかった。

 

 もっとも、月例の検診では、聴診と血液検査、簡単な触診が中心だった。年に一度の総合検診——体内画像診断を含む全身の精密診断——は、シュナイダーが過去三年間、毎回別の理由で延期していた。「反重力炉の整備で多忙」「他部署との合同会議と日程が重なる」——延期の理由は、技術部門の主任として、いずれも職業的に妥当なものだった。ハーゲンドルフは、それを「忙しいのだろう」と軽く受け止め、検診の予定を翌月以降に振り直してきた。

 

 その振り直しが、三年間、続いた。

 

 結果として、シュナイダーの胸部の体内画像は、三年間、一度も撮られなかった。

 

 しかし今、彼が見下ろしているのは、その同じ男の遺体だった。

 

 彼の脇には、技術部の出向士官であるヴァイクハルト中佐が立っていた。ヴァイクハルトは、解剖には関わらない。彼は、摘出後の装置を技術的に分析するために、立ち会っている。両者の職務は、明確に分離されていた。

 

 ハーゲンドルフは、助手の軍医少尉二名に頷いた。

 

 「始めよう」

 

 助手の一人が、手術用の器具を渡した。

 

 ハーゲンドルフは、シュナイダーの胸の皮膚を、慎重に切開した。皮下脂肪の層を抜けて、その下にあるものを露出させる。動作は、四年間の解剖経験に裏打ちされた、医師の専門的な手つきだった。

 

 心臓の脇——肋骨と肋骨の間——に、小さな金属の塊が見えた。直径約四センチ、厚さ約一センチ。表面には、何の表示もない。ただの金属塊に見える。

 

 その塊から、皮下を通って、皮膚の出口へ伸びる細い管が出ている。管の先端は、すでに切断されている——三時間前、ヴァイクハルト中佐が解除コード入力装置を取り外す際に切断した部分だった。

 

 ハーゲンドルフは、塊の周囲の組織を、慎重に観察した。

 

 「心臓には、直接接触していない」

 

 彼は、低く言った。

 

 「肋骨と心膜の間の隙間に埋め込まれているだけだ。三年前の手術——おそらく闇医者によるもの——は、外科的に丁寧に行われている。心臓に損傷を与えないよう、慎重に位置が選ばれている」

 

 ヴァイクハルト中佐は、何も言わなかった。彼は、ハーゲンドルフの解剖を、職務として見守っていた。

 

 助手たちが、慎重に金属塊を周囲の組織から剥離した。塊は、肋骨と心膜の間の隙間に埋め込まれていただけで、生体の機能に直接関わる部分には接続していなかった。

 

 摘出された金属塊が、ハーゲンドルフの前のトレイに置かれた。

 

 彼は、トレイの金属塊を、しばらく見ていた。

 

 「ヴァイクハルト中佐」

 

 「ああ」

 

 「この装置を、貴官に引き渡す。私の職務は、ここまでだ」

 

 「了解した」

 

 ヴァイクハルトは、トレイを受け取った。

 

 ハーゲンドルフは、解剖台の上のシュナイダーの遺体に、視線を戻した。胸の切開部は、皮膚下から金属塊が摘出されたことで、空洞を露出させていた。彼は、助手に縫合の指示を出した。

 

 助手たちが、縫合の作業に入った。

 

 ハーゲンドルフは、解剖台から一歩離れた。

 

 彼は、ヴァイクハルトに向き直って、低く言った。

 

 「貴官の分析が終わったら、報告書を司令部に送ってくれ。私の解剖所見も、別途送る」

 

 「了解した」

 

 ハーゲンドルフは、もう一度、シュナイダーの遺体を見下ろした。

 

 三年間、彼が毎月診察してきた男。健康診断の度に、シュナイダーは技術部門の主任として、職業的な礼儀を保ちながら診察を受けていた。雑談は少なかったが、無愛想ではなかった。

 

 年に一度の総合検診を、毎回延期していた理由が、今、彼の中で像を結んだ。装置を見つけられないようにするための、計画的な回避——三年間、毎回、医学的な理由ではない理由で、体内画像診断を後回しにしていた。彼の延期の理由は、いずれも職業的に妥当だった。だからこそ、ハーゲンドルフは強制しなかった。

 

 強制していれば、装置は発見できたはずだ。

 

 しかし、その認識は、今となっては、医師としての悔恨にしかならない。

 

 ハーゲンドルフは、何も言わずに、解剖室を出た。

 

 軍医として、彼の職務は終わった。しかし、職務が終わった後の認識は——彼自身の中に、残った。

 

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百三十

 

午前五時二十分 イゼルローン要塞・技術部研究室

 

 ヴァイクハルト中佐は、技術部の研究室で、トレイの金属塊を観察していた。

 

 彼の脇には、技術部の助手二名が立っていた。彼らの職務は、装置の構造解析と、写真・図による記録である。

 

 ヴァイクハルトは、金属塊を、両手で持ち上げた。重みは、約五十グラム。手のひらの上で、軽く転がした。

 

 表面の塗装の下には、開閉できる継ぎ目がある。彼は、精密器具で継ぎ目を開けた。

 

 中身が、現れた。

 

 彼は、長い息を吐いた。

 

 助手の一人が、口を開いた。

 

 「中佐、これは——」

 

 「うむ」

 

 ヴァイクハルトは、頷いた。

 

 中身は、金属の小片と、小さな電子基板だった。基板には、いくつかの配線が走っている。配線の終点は、ケーブルの接続部——皮膚から出ていた管に繋がっていた部分——にあった。

 

 しかし、起爆機構と呼べるものは、どこにもなかった。

 

 化学物質も、起爆装置も、放出機構も、何もない。あるのは、ただの金属の小片と、入力された信号に対して何の反応も返さない電子基板だけだった。

 

 ヴァイクハルトは、金属塊を、トレイの上に静かに戻した。

 

 彼は、長い息を、もう一度吐いた。

 

 助手たちは、彼の言葉を待った。

 

 「この装置の全体の構造を、写真と図で記録しろ。私は司令部に報告する」

 

 「了解しました」

 

 ヴァイクハルトは、研究室を出る前に、トレイの中の装置を、もう一度見た。

 

 彼の脳裏には、三時間前のシュナイダーの言葉が残っていた——「特殊な波長の重力子を放出し、要塞内部の反重力炉にダメージを与える」「運が良ければ反重力炉が停止する。運が悪ければ反重力炉が暴走し、どうなるか分からない」。

 

 あれは、すべて嘘だった。

 

 ただし、嘘の精度は、極めて高かった。技術部の試作研究という、ヴァイクハルト自身が証言した事実と完全に整合する形で、嘘が構築されていた。シュナイダー一人が独立にあれを設計したのか、それとも別の誰かの設計を彼が実行したのか——ヴァイクハルトには判定できなかった。

 

 だが、判定する必要は、もうなかった。

 

 彼は、研究室の扉を出た。

 

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百三十一

 

午前五時三十分 イゼルローン要塞・司令部執務室

 

 扉を叩く音がした。

 

 「入れ」

 

 シュトックハウゼンが、低く言った。

 

 扉が開き、ヴァイクハルト中佐が入ってきた。彼の手には、技術部の報告書が握られていた。

 

 「判定の結果を、ご報告いたします」

 

 ヴァイクハルトは、姿勢を正した。

 

 ゼークトも、観測網の表示画面の前から振り返った。

 

 「シュナイダー技術中佐の体内から摘出した装置は、起爆機構ではありませんでした。化学物質も、起爆装置も、放出機構も、含まれていません。装置は、解除コード入力装置と繋がる電子基板を持つだけで、起爆能力を持たない金属塊でした」

 

 部屋の中で、誰も口を開かなかった。

 

 ヴァイクハルトは、続けた。

 

 「反重力炉干渉爆薬は、最初から存在しませんでした。シュナイダー技術中佐の主張は、すべて偽装でした」

 

 シュトックハウゼンは、机の上に置かれていた急報の草稿——皺を伸ばしかけた紙——を、もう一度見た。

 

 ゼークトは、観測網の表示画面の方へ、わずかに視線を戻した。観測範囲は、依然として静かだった。

 

 「報告書を置いていってくれ」

 

 シュトックハウゼンは、抑えた声で言った。

 

 ヴァイクハルトは、報告書を机の上に置いた。

 

 「ハーゲンドルフ軍医中佐の解剖所見も、別途お届けする予定です」

 

 「了解した」

 

 「閣下」

 

 彼は、退出する前に、一度声をかけた。

 

 「装置の偽装の精度は、極めて高いものでした。シュナイダー技術中佐は、反重力制御部門の主任として、技術部の試作研究と整合する形で、装置を設計しています。私の証言と、彼の主張が照応する構造を、彼が事前に計算していた可能性があります」

 

 シュトックハウゼンは、答えなかった。

 

 ヴァイクハルトは、姿勢を保ったまま、執務室を退出した。

 

 扉が閉まった後、シュトックハウゼンは、机の前に座った。三時間ぶりに、椅子に腰を下ろした。

 

 ゼークトは、机の反対側に立った。

 

 彼は、最初に口を開いた。

 

 「シュトックハウゼン」

 

 「……何だ」

 

 「我々は、ハッタリで九十分稼がれたわけだ」

 

 「そうなる」

 

 ゼークトの声に、抑えた怒気が混じった。

 

 「貴官の判断が、私の艦隊の手出しを禁じた。装置がハッタリだったなら、私の艦隊は艦隊戦を仕掛けることができた」

 

 シュトックハウゼンは、椅子の肘掛けに置いていた手を、わずかに動かした。

 

 「貴官の艦隊主力は、誘出に応じて分散していた」

 

 「分散しても、ロイエンタール艦隊は集中していた。ロイエンタール艦隊は、叛乱軍本隊との艦隊戦の射程に入っていた」

 

 「ロイエンタール艦隊は、私の指揮下ではない。あの艦隊はローエングラム伯爵の派遣による特命艦隊だ。貴官と私が直接命令する権限を、両者とも持っていない」

 

 「では、貴官の手出し禁止の命令は、何のために出された」

 

 ゼークトの口調が、わずかに鋭くなった。

 

 「貴官は、要塞司令官として、要塞内部の脅威への対応を判断した。その判断は、結果として、ロイエンタール艦隊への命令の発信も含めていた。ロイエンタール艦隊への命令は、ローエングラム伯爵の派遣を尊重した上で、要塞司令部の判断として『手出し禁止』を伝えた。それが、艦隊戦の不発を確定させた」

 

 シュトックハウゼンは、机の上の報告書——ヴァイクハルト中佐が置いていったもの——を、指で軽く押した。

 

 「報告書を読め」

 

 彼は、低く言った。

 

 「ヴァイクハルト中佐自身が、装置の偽装の精度は極めて高かったと記している。私が反重力爆弾の脅迫を受け入れた判断は、当時の観測可能な事実から、最も合理的なものだった。貴官も同席していた。貴官もヴァイクハルト中佐の証言を聞いた上で、私の判断に異論を唱えなかった」

 

 「異論を唱える時間がなかった」

 

 「異論を唱える時間は、あった。貴官は黙って同意した。今になって、私の判断のみを問題にするのは、結果論だ」

 

 ゼークトは、何も言わなかった。

 

 彼は、観測網の表示画面の方へ視線を戻した。

 

 二人の間に、長い沈黙が流れた。

 

 部屋の窓の外——要塞外縁の宙域——は、何も動かなかった。

 

 シュトックハウゼンは、机の前で、ヴァイクハルト中佐の報告書を、もう一度読み直した。ゼークトは、観測網の表示画面の前に立ったまま、何も言わなかった。

 

 二人の間で、責任の所在の論争は、結論に至らなかった。両者とも、それぞれの報告書を別途書くことを、暗黙のうちに決めていた。両者の報告書は、相手の責任を強調する内容になる——それも、両者とも分かっていた。

 

 最終的な判断は、リヒテンラーデ侯爵の手に委ねられる。

 

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百三十二

 

午前五時四十五分 ロイエンタール艦隊・旗艦艦橋

 

 通信士官の声が、艦橋に届いた。

 

 「閣下。要塞司令部からの第二報です」

 

 ロイエンタールは、椅子の肘掛けに置いていた手を、ゆっくりと動かした。

 

 「読み上げろ」

 

 「カール・シュナイダー技術中佐の体内装置は、技術部の事後分析により、起爆機構ではないことが確認された。反重力炉干渉爆薬は実在せず、シュナイダー中佐の脅迫はハッタリだった。叛乱軍艦隊への攻撃停止命令の解除は遅きに失したが、本件は要塞司令部の責任において処理する」

 

 艦橋の中で、ベルクマン少佐が、息を呑んだ。

 

 ロイエンタールは、何も言わなかった。

 

 彼は、椅子から立ち上がり、観測スクリーンの前へ歩いた。スクリーンの中には、もう叛乱軍艦隊の艦影はない。観測範囲は、静かな宙域を映していた。

 

 彼の中に、奇妙な感慨が再び浮かんだ。

 

 ヤンは、装置の存在の可能性だけで、艦隊戦を成立させなかった。装置は、最初から存在しなかった。彼が艦隊戦を仕掛けようとした瞬間に止められた要塞司令部の命令——その判断の前提自体が、シュナイダーのハッタリの上に立っていた。その命令が、ロイエンタールの右手を、攻撃命令ボタンから離させたのだった。

 

 もし、コンマ何秒、通信が遅れていたら——彼は艦隊戦を仕掛けていた。シュナイダーが死ぬ前に、戦闘は始まっていた。だが、その仮定には、もう意味がない。装置はハッタリだった。

 

 彼の判断は、結局のところ——合理的だった。要塞司令部の命令も、不合理ではなかった。彼らは、観測可能な事実から、最も合理的な選択をした。その合理性そのものを、ヤンは計算に入れていた。

 

 「ヤン少将は、我々の側から見ても、魔術のような作戦を行いますね」

 

 ベルクマン少佐が、低く言った。

 

 ロイエンタールは、彼の方を振り返らなかった。

 

 「魔術ではない」

 

 彼は、観測スクリーンを見据えたまま、答えた。

 

 「装置を作らずに、装置の存在を信じさせる。それを、合理的な指揮官が拒絶できない構造の中で実行する。これは魔術ではない。人間の判断と訓練と準備の積み重ねが、結果として魔術のように見える——それだけだ」

 

 ベルクマン少佐は、口を閉じた。

 

 ロイエンタールは、観測スクリーンを見続けた。スクリーンの中の青い印は、もう、どこにもない。

 

 彼は、心の中で、その名前をもう一度呼んだ。

 

 ヤン。

 

 しかし、今度はそれ以上、何も付け加えなかった。

 

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百三十三

 

午前五時三十四分 オーディン、ローエングラム元帥府、執務室

 

 ローエングラム元帥府の執務室には、夜明けの薄い光が差し込んでいた。室内の灯りは、前夜から一度も落とされていない。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは、二時間前の第一報を受け取ってから、席を外していなかった。キルヒアイスも同じだった。

 

 第二報が、彼の机の上に置かれた。

 

 彼は、報告書を読んだ。ヴァイクハルト中佐による技術的判定——装置は起爆機構ではない、最初から起爆能力を持たない金属塊だった。シュナイダー技術中佐の主張は、すべて偽装だった。

 

 ラインハルトは、報告書を読み終えた後、しばらく何も言わなかった。

 

 キルヒアイスは、彼の机の脇に立っていた。彼は、ラインハルトの判断を待つ立場にあった。

 

 ラインハルトは、椅子の背に身を預けた。

 

 「ジークフリート」

 

 「はい、ラインハルト様」

 

 「何も持たずに、こちらの判断を縛ったか」

 

 彼は、低く言った。

 

 二時間前の第一報の段階では、装置の真偽は確定していなかった。だが今、第二報で装置が完全に偽装だったことが確定した。シュナイダーは、何も持たずに、ただ自分の身体と言葉だけで、要塞司令部の判断を九十分間縛った。

 

 「シュナイダーという男は、ヴァイクハルト技術中佐の証言を引き出すことまで、計算に入れていたのでしょう」

 

 キルヒアイスは、抑えた声で言った。

 

 「技術部の試作研究と矛盾しない形で嘘を構築すれば、要塞司令部は完全には否定できない。彼は、その判断構造を利用しました」

 

 「装置がなくても、装置の存在を信じさせる。それを支えるのは、装置の有無ではなく、敵の判断構造の把握だ」

 

 ラインハルトは、報告書を、もう一度見た。文面では、ヴァイクハルトの判定が淡々と並んでいた。

 

 彼は、しばらく報告書を見続けた。窓の外の光は、徐々に強くなっていた。

 

 「魔術ではない。人間の判断と訓練と準備の積み重ねだ。装置を持たずに、装置の存在を信じさせる——その積み重ねの精度が、こちらの想像を超えていた」

 

 キルヒアイスは、頷いた。

 

 ラインハルトは、報告書から目を上げた。

 

 彼は、その名を、もう一度声に出した。

 

 「ヤン・ウェンリー」

 

 第一報の時点で口にした名を、第二報の認識を込めて、もう一度。報告書の文字ではなく、一人の敵将の名として。

 

 彼は、姿勢を変えた。次の判断に進む必要があった。

 

 「ジークフリート」

 

 「はい」

 

 「シュトックハウゼンとゼークトの処分は、避けられない。問題は、その重さだ」

 

 キルヒアイスの表情に、わずかな緊張が浮かんだ。

 

 「リヒテンラーデ侯は、ご判断を急ぐかと存じます」

 

 「うむ」

 

 ラインハルトは、椅子の肘掛けを、軽く指で叩いた。

 

 「私は、両者の処分の重さに、口を挟む権限を持たない。両者は私の麾下ではない。要塞司令官と駐留艦隊司令官の人事は、リヒテンラーデ侯の専管事項だ。私ができるのは、ロイエンタール艦隊の戦況報告の中で、関連する事実を記述するまでだ。リヒテンラーデ侯がそれを読んで、両者の責任をどう判断するかは、彼の領分だ」

 

 「もしリヒテンラーデ侯が、ご意見をお求めになった時は」

 

 「求められれば、答える」

 

 ラインハルトは、しばらく黙った。

 

 「過度に厳しい処分は、望まない。両者は、観測可能な事実から、最も合理的な選択をした。要塞司令部の判断は、不合理ではなかった——だが、結果として、要塞主砲を一年間失わせた。組織の論理として、責任は問われる。私の個人的な見解は、それ以上ではない」

 

 ラインハルトは、長い息を吐いた。

 

 「ただし、リヒテンラーデ侯は、門閥貴族の圧力を受ける。門閥貴族は、要塞主砲一年無力化を、私への攻撃材料として用意しているだろう。リヒテンラーデ侯は、その圧力に対応するために、過度に厳しい処分を下さざるを得ないかもしれん」

 

 キルヒアイスは、何も言わなかった。彼は、ラインハルトの認識を、共有していた。

 

 「私の意向が問われる場面があるかどうかも、リヒテンラーデ侯次第だ」

 

 ラインハルトは、低く言った。

 

 「これは、私が政治の中で払う代償の一部だ」

 

 彼は、報告書を、机の上に戻した。

 

 「ロイエンタールへの叱責は、私の権限内だ。彼については、私自身が対応する」

 

 「お言葉を、お伝えになりますか」

 

 「うむ。直接、伝える」

 

 通信回線が開かれるまで、短い間があった。

 

 画面に、ロイエンタールの顔が映った。疲労の色は薄い。だが、徹夜の戦場にいた者の眼をしていた。

 

 『ローエングラム伯爵閣下』

 

 「ロイエンタール。今回は、お前の慎重さが遅れになった」

 

 画面の向こうで、ロイエンタールは一礼した。

 

 『申し開きはございません。叛乱軍本隊への攻撃命令を発する寸前で、要塞司令部の通信に遮られました。あと一秒——いえ、コンマ何秒——遅れていれば、艦隊戦は始まっていました。しかしそれが結果として遅れになったことは、私の判断の責任です』

 

 「貴官が攻撃の意志を最後まで持ち続けていたことは、分かっている。相手はヤン・ウェンリーだった。軽率に動けば、別の敗北を招いたかもしれん。だが、結果として、お前は戦場にいながら戦う機会を失った」

 

 『はい』

 

 「その責任は、お前自身が負え。ただし、次に同じ相手と対峙する時は、慎重さだけで勝てるとは思うな」

 

 ロイエンタールの異色の双眸が、わずかに細くなった。

 

 『肝に銘じます』

 

 通信は切れた。

 

 ラインハルトは、しばらく黒く戻った画面を見ていた。それから、椅子から立ち上がった。

 

 窓の外の光は、徐々に強くなっていた。オーディンの一日が、始まろうとしていた。

 

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百三十四

 

午前六時三十分 同盟軍第一三艦隊本隊・旗艦《ヒューベリオン》艦長室

 

 ヤンは、自分の艦長室で、シトレ元帥への報告書を書いていた。

 

 報告書の文面は、戦況の事実を淡々と並べていた。トゥールハンマー破壊、シェーンコップ隊の死傷者なし、アッテンボロー別働隊の損失なし、九十分以内の全艦隊撤退完了。総合評価——同盟軍参加部隊における人的損害は「死者、重傷者なし。軽傷者のみ」。

 

 文面の末尾に、彼は短い段落を加えた。

 

 「カール・シュナイダー技術中佐は、九十分の経過後、解除コードを入力せずに自決したと推定される。観測可能な事実——爆薬の不起爆と要塞外縁の宙域の静止——は、彼の事前に伝えてきた選択が遂行されたことと整合する。彼の選択により、本作戦の最終的な代償は、彼一人の死をもって終わったと考えられる。彼の協力は、本作戦の成立に不可欠だった」

 

 ヤンは、その段落を、もう一度読み返した。

 

 彼の指は、しばらく止まっていた。

 

 報告書の文面では、「シュナイダー一人の死」と書いた。事実として、そう記載するのが正しい。しかし、その「一人の死」の重みを、彼は文面では伝えきれていなかった。

 

 彼は、報告書を、そのまま送信することにした。

 

 文面に書ききれないことを、文面に書こうとすると、文面が崩れる。それは、シトレ元帥の判断を曇らせる。彼は、シトレが事実から判断できるよう、文面を淡々と保つことを選んだ。

 

 送信ボタンを押した。

 

 艦長室の通信機の表示が、送信完了を示した。

 

 彼は、机の前から離れて、窓——艦体側面の観測窓——の方へ歩いた。窓の外には、星の海が広がっている。第二の集結地点へ向かう航路は、観測スクリーンに映っていた。

 

 ベレー帽を、軽く撫でた。

 

 その要塞は、もう観測範囲の外にある。彼が今、シュナイダーの遺体がどう扱われているかを知る手段はない。マルタン大佐からの最後の通信——午前四時三十分の「九十分は、終わりました」——以後、シュナイダーに関する情報は、彼に入っていなかった。

 

 彼は、シュナイダーの顔を知らない。マルタン大佐が伝えた言葉と、シュナイダー自身の選択と、その選択が成立する作戦の組み立て方を、知っているだけだった。

 

 その「顔を知らない協力者」が、九十分前に、自決したはずだった。

 

 彼は、窓の外の星の海を、しばらく見続けた。

 

 扉を叩く音がした。

 

 「提督、よろしいですか」

 

 グリーンヒル中尉の声だった。

 

 「どうぞ」

 

 彼女が、入ってきた。彼女の手には、新しい報告書の束があった。

 

 「アッテンボロー提督と、シェーンコップ大佐から、戦況報告が届いています。それから、本国からは、シトレ元帥のお返事が——」

 

 「もう来た?」

 

 ヤンは、振り返った。

 

 「はい。送信の二十分後でした。直接、提督にお話しになりたいとのことです」

 

 ヤンは、頷いた。

 

 「繋いでくれ」

 

 グリーンヒル中尉は、艦長室の通信機の前に立った。シトレ元帥との通信が、繋がるのを待った。

 

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百三十五

 

午前六時四十五分 同盟軍第一三艦隊本隊・駆逐艦《エクリプス》艦内

 

 シェーンコップは、エクリプスの艦内にいた。

 

 艦は、本隊との合流後、艦隊の中で第二の集結地点へ向かう航路に組み込まれていた。潜入隊の隊員たちは、エクリプスの艦内で休息を取っていた。最後の白兵戦の疲労が、隊員たちの動きに残っていた。

 

 艦長代理として艦に残っていた副長のブルームハルト中佐が、シェーンコップの所へ来た。

 

 「シェーンコップ大佐」

 

 「うむ」

 

 「マルタン大佐から、通信です」

 

 シェーンコップは、ブルームハルトを見た。マルタン大佐からの通信は、シェーンコップが秘中の秘を知る五人の一人として、予測していたものだった。

 

 「繋いでくれ。それから、席を外してくれ」

 

 「了解しました」

 

 ブルームハルトは、敬礼を返した。彼は、シェーンコップの判断の理由を、聞かなかった。連隊長が、副長の同席を外す指示を出した——それが、組織の論理として、彼が従う命令だった。彼は、艦長席の通信機にシェーンコップを案内した後、艦長席のある区画を退出した。

 

 区画の扉が閉まった後、通信機のスピーカーから、マルタン大佐の声が流れた。

 

 『シェーンコップ大佐、ご苦労だった』

 

 「マルタン大佐」

 

 『シュナイダー技術中佐は、九十分の経過後、解除コードを入力せずに自決したものと思われる。観測上、爆薬は不起爆だった。これは、彼が事前に伝えてきた通りの選択だ』

 

 シェーンコップは、頷いた。

 

 通信機の前で頷く動作は、マルタン大佐には届かない。しかし、彼は頷いた。

 

 「了解した」

 

 彼の声は、平静だった。

 

 『大佐は、変わりはないか』

 

 マルタン大佐の声は、わずかに沈んでいた。仲介者として、彼が背負うものを、シェーンコップは知っていた。

 

 「変わらない」

 

 彼は、答えた。

 

 「彼の選択を、私は知っていた。彼が自決することも、装置がハッタリで、解除コードを入力しないまま終わることも。私は、要塞内部で会った時に、彼自身の口から、彼の決意を確認した。彼の選択を、私は尊重する」

 

 『左様か』

 

 マルタン大佐の声は、少しだけ和らいだ。

 

 『シュナイダー中佐は、ローゼンリッターの貴官に会えて、よかったと言っていた。要塞内部で貴官と別れた後の、短い通信の中でだ』

 

 シェーンコップは、しばらく答えなかった。

 

 マルタン大佐は、続けた。

 

 『「あの方は、おそらくそういう方だ」——シュナイダー中佐がヤン提督について残した評価だ。これは、貴官との対話の中で、彼が言った言葉でもあるはずだ』

 

 「うむ」

 

 シェーンコップは、低く答えた。

 

 通信は、それで終わった。

 

 シェーンコップは、しばらく艦長席に座ったままだった。通信機のスピーカーから、もう何の音も流れない。区画の中には、彼一人だけだった。彼は、通信の内容を、自分の中で整理した。シュナイダー中佐の自決の事実、彼が残した評価、マルタン大佐との対話——これらは、当面、彼が一人で保持するものだった。

 

 彼は、艦長席から立ち上がった。

 

 区画の扉を開けて、廊下に出た。ブルームハルト中佐は、扉の脇で待機していた。

 

 「ブルームハルト中佐」

 

 「はい」

 

 「艦内の隊員たちの様子を、確認してくる。後を頼む」

 

 「了解しました」

 

 ブルームハルトは、シェーンコップが廊下を歩き始めるのを、敬礼で送り出すような姿勢で見送った。彼は、シェーンコップが通信で何を受け取ったかを、聞かなかった。聞くべきことではないことを、彼は組織の論理として把握していた。

 

 シェーンコップは、艦長席のある区画を離れた。

 

 彼は、艦内の通路を、ゆっくりと歩いた。ローゼンリッターの隊員たちが休息する区画を、通り過ぎた。隊員たちは、簡易ベッドに横たわっていたり、軽く話をしていたりしていた。彼は、隊員たちの様子を確認しながら、艦の側面——観測区画——の方へ進んだ。

 

 観測区画の窓の前に、彼は立った。

 

 窓の外には、星の海が広がっている。第二の集結地点へ向かう航路の宙域。要塞は、もう見えない。観測範囲の外にある。

 

 しかし、シェーンコップは、要塞のあった方角を、目で追った。

 

 艦の進行方向と、要塞のあった方角は、ほぼ正反対だった。彼が見ているのは、艦の後方の宙域——もう何も見えない方向だった。

 

 彼は、しばらくそこに立った。

 

 敬礼に近いもの——要塞攻略の最終局面で、彼が要塞を振り返った時の動作——を、最後にもう一度、心の中で行った。

 

 ただし、外見上は、何もしなかった。窓の前に立って、後方の宙域を見ているだけだった。

 

 彼の心の中では、シュナイダーの言葉が、もう一度反芻されていた。

 

 「あの方は、おそらくそういう方だ」

 

 ヤン・ウェンリー少将について、シュナイダーが残した評価。シェーンコップとの対話の中で、彼が言った言葉。シュナイダーが直接ヤンの顔を見ないまま、彼の人物像を把握し、彼を信頼して、彼の作戦の最終局面を担った——その認識の核に、この言葉があった。

 

 シェーンコップは、窓から離れた。

 

 彼は、艦内の通路を戻って、艦長席へ向かった。

 

 彼の連隊長としての職務は、まだ続いていた。

 

---

 

百三十六

 

午前七時 ハイネセン、統合作戦本部・本部長補佐官執務室

 

 マルタン大佐は、執務室の机の前に座っていた。

 

 彼の机の上には、シュナイダーから三年間にわたって受け取った報告書の控えが、整理されたファイルとして並べられていた。要塞の運用状況、トゥールハンマーの整備記録、反重力炉のメンテナンス計画、要塞内部の人員配置——彼が要塞内部で観察した情報の蓄積。

 

 彼は、その中で、最後のファイル——昨夜から今朝にかけてのシュナイダーとの通信記録——を、もう一度確認していた。

 

 最後の通信は、午前二時三十分。シュナイダーが第二・第三のボトルネック中継点を破壊する直前のものだった。「これから出ます。連絡はこれで最後となります。私のことは、お忘れください」——その一行で終わっていた。

 

 マルタン大佐は、その一行を、もう一度読んだ。

 

 彼の指は、ファイルの上で止まっていた。

 

 扉を叩く音がした。

 

 「失礼します。シトレ元帥が、お呼びです」

 

 補佐官の声だった。

 

 マルタン大佐は、ファイルを閉じた。

 

 「了解した。すぐに参る」

 

 彼は、ファイルを机の引き出しに収めた。引き出しに鍵をかけた。三年間の協力期間の記録は、これで彼の管理下から離れることになる。今後は、シトレ元帥の判断により、機密扱いの記録として処理されることになるだろう。

 

 彼は、執務室を出た。

 

 通路を歩きながら、彼の頭の中では、シュナイダーが残した言葉が、いくつか反芻されていた。

 

 「私のことは、お忘れください」

 

 その一行は、シュナイダーの意志を表していた。彼は、自分の選択を、誰にも背負わせたくなかった。

 

 しかし、マルタン大佐は、忘れることができなかった。

 

 物理的にはイゼルローン要塞とハイネセンに分かれていた。だが三年間、彼はシュナイダーが送ってきた言葉と判断を、誰よりも多く受け取り続けてきた。彼が忘れれば、機密記録の中には、官職と階級と作戦の概要だけが残る。

 

 マルタン大佐は、シトレ元帥の執務室の扉の前で、一度立ち止まった。

 

 公式の記録の中では、シュナイダーの人格を語らない。彼の選択を、機密扱いの作戦の中の一行として残す。それが、シュナイダーの意志に忠実な処理である。

 

 ただし、マルタン大佐自身の記憶の中では——

 

 彼は、自分の中で、その先の言葉を完結させなかった。

 

 扉をノックした。

 

 「マルタン大佐です。お呼びにより、参りました」

 

 「入りたまえ」

 

 シトレ元帥の声が、扉の向こうから届いた。

 

 マルタン大佐は、執務室に入った。

 

---

 

百三十七

 

同時刻 ハイネセン、統合作戦本部・本部長執務室

 

 シトレ元帥は、ヤンからの戦況報告書を、机の上に広げていた。

 

 報告書の文面は、淡々としていた。トゥールハンマー一年無力化。シェーンコップ隊の死傷者なし。アッテンボロー別働隊の損失なし。九十分以内の全艦隊撤退完了。「死者、重傷者なし。軽傷者のみ」。そして、文面の末尾——「カール・シュナイダー技術中佐は、九十分の経過後、解除コードを入力せずに自決したと推定される」。

 

 マルタン大佐が、執務室に入った。

 

 「マルタン大佐」

 

 「はい、閣下」

 

 「ヤン少将からの報告書だ。シュナイダーは、九十分の経過後、おそらく自決した」

 

 「左様でございます。私も、ヤン提督からの第一報を、午前四時三十分過ぎに受け取りました」

 

 シトレ元帥は、頷いた。彼の表情は、平静だった。彼は、シュナイダーが九十分の経過後に自決を選ぶことを、作戦立案の段階から把握していた。シュナイダー自身がそれを伝えてきていたからである。

 

 しかし、予測していたことと、実際に起きたことの間には、距離があった。

 

 シトレは、椅子から立ち上がった。執務室の窓の方へ歩いた。窓の外には、ハイネセンの首都の朝の風景が広がっていた。緑の多い街並み、低層の建物、政府機関の建物群。

 

 彼は、しばらく窓の外を見ていた。

 

 「マルタン大佐」

 

 「はい」

 

 「シュナイダー中佐の家族は」

 

 「妻テレーゼ・シュナイダー。オーディン近郊の小さな町に住んでおります。子供はおりません」

 

 「彼女は、知っているか」

 

 「いえ。何も知りません。シュナイダー中佐は、三年間の手術のことも、今回の作戦のことも、彼女には何も告げておりません」

 

 シトレは、頷いた。

 

 「彼女が、シュナイダーの死を知るのは、いつになる」

 

 「帝国軍からの公式の通報は、数日後に彼女に届くと思われます。死因は、おそらく『勤務中の事故』または『自殺』として記録されます」

 

 「彼女は、彼が何をしていたかを、最後まで知らないままだ」

 

 「左様でございます」

 

 シトレは、窓の外を見続けた。

 

 「同盟側から、彼女に何かを伝えることはできない」

 

 「左様でございます。彼の意志でもあります。『私のことは、お忘れください』——これが、彼が最後に残した言葉でした」

 

 シトレは、しばらく答えなかった。

 

 彼は、自分が承認した作戦の代償を、改めて受け止めていた。シュナイダーは、自分一人で代償を払った。彼の妻は、何も知らないまま、夫を失う。彼の選択の意味も、彼が背負ったものも、彼女には届かない。

 

 シトレは、窓から離れた。机の前に戻った。

 

 「マルタン大佐」

 

 「はい」

 

 「シュナイダーに関する記録を、機密扱いで保管しろ。彼の人格に関する詳細——三年間の協力期間の細部、彼の家族への配慮、彼の最後の選択——は、誰の目にも触れない形で保存する」

 

 「了解しました」

 

 「ヤン少将への対応は、私が直接行う。彼への返答は、すでに送った。彼は、戦況報告と並行して、自分が脅迫という手段を選んだ指揮官であることを認識しているはずだ。私は、その認識を共有する立場にある」

 

 マルタン大佐は、頷いた。

 

 「閣下、もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 

 「うむ」

 

 「シュナイダー中佐がその選択を取ることは——避けられなかったとお考えですか」

 

 シトレは、しばらく答えなかった。

 

 彼は、机の上の報告書を見た。報告書の中の「死者、重傷者なし。軽傷者のみ」という文面と、「シュナイダー中佐は、九十分の経過後、解除コードを入力せずに自決したと推定される」という文面が、並んで書かれていた。

 

 「マルタン大佐」

 

 「はい」

 

 「私には、答える資格がない。承認した立場の私が、『避けられなかった』と言うのは、彼の選択の責任を、彼の意志に押しつけることになる。私は、彼の選択を承認した上で、彼の死を受け止める立場にある。『避けられた』とも『避けられなかった』とも、私は言わない」

 

 マルタン大佐は、深く頷いた。

 

 「左様でございます。私も、同じ立場におります」

 

 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。

 

 シトレは、机の上の報告書を、丁寧に閉じた。

 

 「マルタン大佐。下がりたまえ」

 

 「了解しました」

 

 マルタン大佐は、姿勢を正して、退出した。

 

 扉が閉まった後、シトレ元帥は、机の前に立ったまま、しばらく動かなかった。

 

 彼は、シュナイダーの死の重みを、自分の決裁の代償として、受け止めていた。

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