百三十八
宇宙暦七九六年七月三日 オーディン・ローエングラム元帥府
報告書は、すでに何度も読み返されていた。
ラインハルトは、机の上に広げられた戦況の総括に、もう一度目を落とした。イゼルローン要塞主砲トゥールハンマーの修復期間、最低一年。要塞駐留艦隊の損耗、軽微。叛乱軍の撤退完了。叛乱軍の戦死者、確認されず。
数字は、静かだった。
静かであるがゆえに、意味は重かった。
「一年だ」
ラインハルトは、窓の外を見たまま言った。窓の外には、オーディンの夏の光があった。
「一年間、トゥールハンマーは使えない。要塞の主砲は沈黙する。その間、イゼルローン回廊の帝国側の防衛は、駐留艦隊だけに委ねられる」
キルヒアイスは、机の反対側に立っていた。
「ですが、ラインハルト様。回廊が抜かれたわけではありません」
「そうだ。回廊は、まだこちらの手にある」
ラインハルトは、窓から離れ、机に戻った。
「だが、あの男は、回廊を抜こうとはしなかった。要塞を奪おうとも、回廊を封鎖しようともしなかった。トゥールハンマーを、一年だけ使えなくした。それだけだ」
キルヒアイスは、しばらく黙ってから言った。
「奪取すれば、守備に一個艦隊を割かねばなりません」
「ああ。奪えば、縛られる。あの男は、縛られることを避けた」
ラインハルトは、報告書の数字を指で軽く叩いた。
門のことが、彼の頭の中にあった。オーディンとハイネセンを直結する、あの空間の裂け目。あれが開いた日から、回廊の意味は変わった。要塞を奪っても、門を通れば、互いの首都は直接脅かされる。
だから、あの男は奪わなかった。
一年の無力化。軽い手ではない。だが、占領と保持に比べれば、はるかに軽い。しかも、帝国側にはその一年を埋める責任だけが残る。
「これは、敗北ではない」
ラインハルトは言った。
「だが、勝利でもない。一年の後退だ。駐留艦隊が健在である以上、こちらの戦略的な優位は、まだ崩れていない。だが、かつての絶対的な優位は、もうない」
キルヒアイスは頷いた。
「ヤン・ウェンリー、でしたか」
「そうだ」
ラインハルトは、その名を、もう一度口の中で繰り返した。
アスターテで一度。イゼルローンで、もう一度。
同じ男に、こちらの想定を越えられた。
「戦わずに、戦場を閉じる男だ。装置も持たずに、こちらの判断を縛る男だ。——魔術師、と呼ぶ者が出るだろうな」
彼は、椅子の背に身を預けた。
「だが、魔術ではない。人間の判断と訓練と準備の積み重ねだ。その精度が、こちらの想像を超えているだけだ」
キルヒアイスは、それ以上、何も言わなかった。
窓の外の光が、机の上の報告書を照らしていた。ラインハルトは、その光の中で、まだ見ぬ敵将のことを考えていた。
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百三十九
宇宙暦七九六年七月三日 イゼルローン要塞宙域・駐留艦隊旗艦
ロイエンタールは、報告書の最後の一行を、書き終えようとしていた。
戦況の経過は、すでに記し終えていた。トゥールハンマーの無力化。叛乱軍の撤退。自艦隊の損耗の軽微。残るのは、敵将に関する評価の一行だった。
彼は、端末の前で、指を止めた。
公式の報告書に記す呼称は、決まっている。「叛乱軍の指揮官」。それが、帝国軍の文書における、敵将の標準的な呼び方だった。
ロイエンタールは、その一行を打ち込んだ。
「本作戦における叛乱軍の指揮官の用兵は、極めて高度であった」
打ち込んだ後、彼は、一瞬、画面を見つめた。
その一瞬の間に、別の呼び方が、彼の頭の中をよぎった。攻撃命令を発する寸前で、要塞司令部の通信に遮られた、あの瞬間に呼んだ名。
ヤン。
彼は、その名を、報告書には書かなかった。書く必要のないことだった。公式の文書に、指揮官個人の名を、敵将への私的な認識とともに記すことは、彼の職務ではない。
ロイエンタールは、報告書を保存した。画面の中の「叛乱軍の指揮官」という文字列は、淡々としていた。そこには、彼が心の中で抱いた認識の何も、残っていなかった。
彼は、端末を閉じた。
艦橋の外には、イゼルローン要塞の巨大な球体が見えていた。主砲を一年間失った要塞。だが、その威容は、変わらずそこにあった。
ロイエンタールは、しばらく、その要塞を見ていた。それから、艦橋を出た。彼の表情からは、何も読み取れなかった。
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百四十
宇宙暦七九六年七月四日 オーディン・ブラウンシュヴァイク公爵邸
給仕が、銀の盆に乗せたグラスを運んできた。
フレーゲル男爵は、そのグラスを手に取り、一口飲んでから、口を開いた。
「ローエングラム伯は、辺境の防衛に失敗した」
部屋の中には、数人の貴族がいた。彼らは、ブラウンシュヴァイク公爵を囲むように座っていた。
「金髪の孺子が派遣した艦隊が、要塞の主砲を一年も使えなくした。これは、あの男の戦略の失敗だ。リヒテンラーデ侯と結んで権勢を振るっているが、辺境一つ守れぬのが、あの男の実力よ」
フレーゲルの声には、隠しきれない満足があった。
ブラウンシュヴァイク公爵は、グラスを片手に、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
「フレーゲル。今は、その時期ではない」
フレーゲルは、公爵の方を見た。
「しかし、伯父上——」
「あの男の失態を、声高に唱えたところで、何が変わる。要塞の主砲が戻るわけでもない。叛乱軍が引いた以上、帝国の体面は保たれている。今、ローエングラム伯を攻撃すれば、かえって我々が、帝国の危機に乗じて内輪揉めをしている、と見られる」
ブラウンシュヴァイク公爵は、グラスを置いた。
「機を待て。あの男の足元が、本当に揺らぐ時が来る。その時まで、力を蓄えておくのだ」
フレーゲルは、不満げな表情を浮かべたが、それ以上は言わなかった。
部屋の中の貴族たちは、互いに視線を交わした。そこにあるのは、まだ組織だった決意ではなかった。だが、宮廷の表側とは別の場所で、小さな不満が、同じ方向を向き始めていた。
窓の外には、オーディンの貴族街の、整然とした街並みが広がっていた。その街並みは、長い年月、変わらずそこにあった。貴族たちは、それが、これからも変わらずあり続けると信じていた。
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百四十一
宇宙暦七九六年七月七日 オーディン・国務尚書官邸
リヒテンラーデ侯爵は、机の上の二通の人事案を、並べて見ていた。
シュトックハウゼンとゼークトの更迭は、すでに決定していた。両者は、それぞれ別の報告書を提出し、その中で相手の責任を強調していた。だが、リヒテンラーデにとって、どちらの責任がより重いかは、本質的な問題ではなかった。
要塞主砲を一年失った。
その結果に対して、誰かが責任を取らねばならない。それだけのことだった。
問題は、後任だった。
リヒテンラーデは、一通目の人事案を手に取った。駐留艦隊司令官の後任。
その名には、フォン・ベルガー大将、とあった。
ベルガーのことは、知っていた。名ばかりの貧乏貴族の出だ。家格は低い。先祖が辺境で小さな領地を与えられた、それだけの家柄。本人は、その出自にもかかわらず、実力で大将まで昇進した。艦隊運用の手腕は、軍内部でも高く評価されている。政治的な野心は、ほとんど聞かない。ただ、軍務に忠実な男だった。
要塞主砲を一年失った今、イゼルローン回廊の帝国側の防衛は、駐留艦隊だけが頼りだった。その駐留艦隊を、家格だけの凡庸な貴族に委ねるわけにはいかない。
ベルガーは、その条件を満たす。実力で選ぶなら、彼以外にいない。
だが、リヒテンラーデは、二通目の人事案を手に取った。要塞司令官の後任。
その名には、フォン・ファルケンベルク大将、とあった。
ファルケンベルクは、門閥貴族の名門の出だった。その家柄は、ベルガーとは比べものにならない。本人も、それなりに有能ではある。だが、リヒテンラーデが彼を要塞司令官に推すのは、その有能さのためだけではなかった。
門閥貴族の不満を、宥める必要があった。ローエングラム伯が派遣した艦隊が要塞主砲を失わせた——この一件で、門閥貴族は、リヒテンラーデとローエングラム伯の連携に、攻撃の材料を見出そうとしている。ここで、門閥貴族の名門を要塞司令官に据えれば、貴族たちの顔は立つ。彼らの不満は、いくらか和らぐ。
軍事の要は、実力者に。政治の看板は、名門に。
リヒテンラーデは、二通の人事案を、机の上に並べた。
ふと、一つの懸念が、彼の頭をよぎった。
ベルガーは、貧乏貴族の出だ。ファルケンベルクは、名門の出だ。この二人は、着任して初めて顔を合わせることになる。家格を重んじるファルケンベルクが、ベルガーをどう扱うか。
要塞司令官と駐留艦隊司令官は、同格だ。どちらが上位でもない。要塞防衛と艦隊運用は、緊密に連携してこそ機能する。だが、その連携は、二人の関係が円滑であってこそだ。
リヒテンラーデは、その思考を、途中で止めた。
今は、そこまで気にかけている余裕はなかった。
宮廷の奥には、別の不安があった。公の議題にはまだ上がらないが、玉座の周辺に漂い始めている不安。健康、継承、誰もまだ正面から口にしたがらない空白。
辺境の人事の、二人の将官の相性まで、完璧に見極めている余裕は、今の彼にはなかった。
リヒテンラーデは、二通の人事案に署名した。
フォン・ベルガー大将を、イゼルローン要塞駐留艦隊司令官に。フォン・ファルケンベルク大将を、イゼルローン要塞司令官に。
署名を終えると、彼は、窓の外を見た。オーディンの街は、夏の光の中にあった。その光景は、いつもと変わらなかった。
だが、リヒテンラーデは、その変わらなさの中に、何か、底の見えない不安を感じていた。彼は、その不安の正体を、まだ言葉にしなかった。
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百四十二
宇宙暦七九六年七月八日 ハイネセン・統合作戦本部・本部長執務室
シトレ元帥は、ヤンの提出した戦況報告書を、机の上に置いていた。
「よくやった、と言うべきなんだろうな」
シトレは、報告書に目を落としたまま言った。
ヤンは、机の前に立っていた。
「結果として、トゥールハンマーを一年無力化できました。味方の損失は、ほとんどありませんでした」
「ほとんど、か」
シトレは、顔を上げた。
ヤンは、すぐには答えなかった。報告書の末尾には、「カール・シュナイダー技術中佐は、九十分の経過後、解除コードを入力せずに自決したと推定される」と書かれている。その一行のことを、シトレもヤンも、知っていた。
「一人、死にました」
ヤンは、静かに言った。
「同盟軍の戦死者ではありません。要塞内部で、誰にも知られないまま死んだ協力者です。私は、彼の顔を知りません。名前と、彼が残した言葉と、彼の選択が成立する作戦の組み立て方を、知っているだけです」
シトレは、しばらく黙ってから言った。
「彼のことは、機密扱いで保管されている。彼の家族にも、同盟側からは何も伝えられない。それが、彼自身の意志だった」
「承知しています」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
シトレは、別の書類を手に取った。
「中将昇進の件だ。正式な辞令は、近く届く。トゥールハンマー一年無力化、味方の損失の最小化、艦隊戦を回避しての撤退完遂——この戦功に対して、軍は中将への昇進を決定した」
ヤンは、頷いた。彼の表情には、特に喜びの色はなかった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもない。当然の評価だ」
シトレは、書類を置いた。そして、少し間を置いてから、別の話を始めた。
「もう一つ、伝えておくことがある。トリューニヒト国防委員長が、記者会見を開いた。トゥールハンマー無力化を、同盟の偉大な戦果として喧伝している。市民は沸いているそうだ」
ヤンの表情が、わずかに曇った。
「私の名も、出ているのですか」
「出ている。『魔術師ヤン』という呼び名まで、すでに広まり始めている」
シトレは、ヤンの表情を見て、軽く息を吐いた。
「君を巻き込みたくはないが、巻き込まれるのを完全に防ぐことは、私にもできない。君の戦果が大きすぎる。大きな戦果は、政治に利用される。それが、この国の仕組みだ」
ヤンは、何も言わなかった。
シトレは、立ち上がった。
「それから——これは、まだ正式な話ではない」
彼は、窓の方へ歩きながら言った。
「作戦本部の一部に、強硬論が出始めている。フォーク准将を中心とした連中だ。『トゥールハンマーを無力化できたのだから、次は駐留艦隊を叩けば、軍事バランスは一気に均衡する』——そういう声が、紙になる前の段階で漂い始めている」
ヤンは、シトレの背中を見た。
「私の戦果が、です」
「そうだ。君が要塞主砲を無力化したという事実が、『次もできる』という期待を生んでいる。皮肉なものだな。君は、できるだけ犠牲を少なくしようとした。その結果が、もっと大きな作戦への期待になっている」
シトレは、振り返らずに言った。
「今日のところは、これで終わりだ。下がっていい」
ヤンは、姿勢を正した。
「失礼します」
彼は、執務室を出た。
扉が閉まった後、ヤンは、廊下で、一瞬立ち止まった。それから、自分の執務室の方へ、歩き始めた。
彼の机の上には、飲みかけの紅茶のカップが、置いたままになっていた。執務室に戻り、彼はそのカップに手を伸ばした。紅茶は、すっかり冷めていた。
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百四十三
宇宙暦七九六年七月十二日 ハイネセン・ヤンの執務室
辞令は、四日後に届いた。
ヤンは、その封書を、机の上で開いた。
「ヤン・ウェンリー、中将への昇進を命ずる」
文面は、簡潔だった。昇進の理由として、此度の戦功が、短い字句で記されていた。
ヤンは、その文面を、一度、最後まで読んだ。
中将。アスターテで准将から少将に昇進し、今度は中将になる。彼自身が望んだことではなかった。彼は、軍人としての出世に、ほとんど関心がなかった。歴史を学び、静かに暮らすことが、彼の本来の望みだった。だが、戦争は、彼にそれを許さなかった。
彼は、辞令に記された戦功を、もう一度、目で追った。
トゥールハンマー一年無力化。その背後には、シェーンコップ隊の白兵戦があった。ローゼンリッターの隊員たちは、一人も欠けずに帰還した。軽傷者だけだった。アッテンボロー別働隊も、損失はなかった。「接近しては距離を取り、接近しては距離を取る」戦法で、駐留艦隊主力を引きつけながら、被害を出さなかった。
死者、重傷者なし。軽傷者のみ。
その戦功の評価の中に、一人の男の死は、含まれていなかった。
カール・シュナイダー。三年間、同盟軍の協力者として、要塞の内部で働き続けた男。反重力炉干渉爆薬という、存在しない兵器のハッタリで、九十分の手出し禁止を勝ち取り、その九十分が過ぎた後、解除コードを入力せずに、自決した——と、推定される男。
ヤンは、その男の顔を知らない。
自分は中将になった。だが、シュナイダーは、要塞の内部で、誰にも知られないまま死んだ。彼の名は、機密の中に封じられ、彼の家族にすら、真実は届かない。同盟の市民は、「魔術師ヤン」の戦果に沸いている。だが、その戦果を本当に支えた一人の男のことを、誰も知らない。
ヤンは、辞令を、机の上に置いた。
彼は、窓の外を見た。ハイネセンの空は、晴れていた。
その時、シトレの言葉が、彼の頭の中に戻ってきた。
——次は駐留艦隊を叩けば、軍事バランスは一気に均衡する。
まだ、紙になっていない声だ、とシトレは言った。だが、ヤンには、それが紙にならないまま消えるとは思えなかった。
彼は、戦争の論理を、知っていた。一つの成功は、次の成功への期待を生む。小さな勝利は、より大きな勝利への要求を生む。
トゥールハンマーが沈黙しているうちに、駐留艦隊を叩く。
言葉にすれば、それだけだった。その短さが、かえって恐ろしかった。短い言葉ほど、会議室では扱いやすい。扱いやすい言葉ほど、人を動かしやすい。
その作戦を実行する指揮官として、最も期待されるのは——「魔術師ヤン」だった。
ヤンは、窓の外の空を見ながら、考えた。
自分が犠牲を少なくしようとしたことが、もっと大きな作戦への期待を生んでいる。自分が「魔術師」と呼ばれることが、自分を、次の、もっと重い作戦へと縛りつけようとしている。
駐留艦隊を叩く。それは、要塞機能を一人の死で奪った今回の作戦とは、まったく性質が異なる。今回、彼が守ろうとしたのは、一人でも多くの命だった。シュナイダー一人の死で、艦隊戦を回避し、何千、何万という将兵の死を避けた。だが、次の作戦は、その何千、何万の命を、今度は数として消す作戦になるかもしれない。
ヤンは、その作戦を命じられた時に、断れるだろうか。
中将に昇進した自分が。「魔術師」と呼ばれ始めた自分が。市民の期待を背負い始めた自分が。
彼は、答えを持っていなかった。
窓の外の空は、変わらず晴れていた。だが、ヤンは、その晴れた空の向こうに、まだ形を成していない、しかし確実に近づきつつある、次の戦いの影を見ていた。
彼は、机の上の辞令に、もう一度、目を落とした。「ヤン・ウェンリー、中将への昇進を命ずる」。その一行は、栄誉の証であると同時に、彼にとっては、避けがたい次の戦いへの、招待状でもあった。
ヤンは、辞令を、引き出しの中に、静かにしまった。
誤字脱字報告ありがとうございました。