百四十四
宇宙暦七九六年七月十三日 ハイネセン・首都の大通り
地上車の窓の外で、街は沸いていた。
ヤンは後部座席に座り、窓の外を流れていく光景を黙って見ていた。運転は、当番の兵が務めている。統合作戦本部から官舎までの、短い道のりだった。
大通りには、人が出ていた。建物の壁面に設置された大型のスクリーンに、ニュースが流れている。イゼルローン要塞の遠景。トゥールハンマー無力化の図解。帰還した艦隊を讃える言葉。
スクリーンの下に、人々が集まっていた。
信号で車が停まったとき、ヤンの耳に、その声が届いた。
「ヤン・ザ・マジシャン!」
誰かが叫んでいた。若い男の声だった。それに、別の声が続いた。
「魔術師ヤンだ! 要塞の主砲を、味方を一人も死なせずに沈黙させた!」
「アスターテでも、艦隊を救った男だ!」
人々は笑っていた。昼間から酒場の前で乾杯している者たちがいた。子供が、親の肩の上で小さな旗を振っていた。
スクリーンの中で、ニュースキャスターが明るい声で告げていた。トゥールハンマー無力化は、同盟の輝かしい勝利である、と。長く帝国に押され続けてきた戦線で、ついに同盟が、決定的な一手を打った、と。
ヤンは、窓の外のその光景を、表情を変えずに見ていた。
車内には、ヤン・ウェンリーという当人がいた。だが、窓の外の人々は、そのことを知らなかった。彼らは、スクリーンの中の偶像に向かって歓声を上げていた。
信号が変わり、車が動き出した。歓声は、後方へ遠ざかっていった。
ヤンは、座席に背を預けた。
彼の中にあったのは、喜びではなかった。
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百四十五
宇宙暦七九六年七月十三日 ハイネセン・官舎へ向かう車内
車は大通りを抜け、官舎街へ向かう道に入った。歓声は、もう聞こえなかった。
ヤンは、窓の外を見ながら考えていた。
市民が熱狂するのは、自然なことだった。アスターテの敗北以来、同盟は明るい報せに飢えていた。トゥールハンマー無力化という言葉は、長く重かった空気に、はじめて開いた窓のように聞こえたのだろう。
だが、ヤンには、その熱狂が別のものにも見えていた。
市民の歓声は、政治家にとって力になる。力になれば、使われる。トリューニヒトはすでに記者会見で、今回の作戦を政府の成果として語っていた。市民が次の勝利を望めば、政治家はそれに応える。政治家が応えれば、軍に命令が降りてくる。
——次は駐留艦隊を叩けば、軍事バランスは一気に均衡する。
シトレが伝えた、強硬派の声。まだ、紙になっていない声。だが、市民がこれだけ熱狂すれば、その声は、容易に紙になる。
そして、その作戦を実行する指揮官として、最も期待されるのは、車の後部座席に座るこの自分だった。
ヤンは、窓ガラスに映る自分の顔を、見るともなく見ていた。
彼らは善意で「魔術師ヤン」を讃えている。その善意が、別の場所で、別の誰かの命を動かす力になる。彼らは、それを知らない。
車は、官舎街の静かな通りに入った。
大通りの喧騒が嘘のように、そこは午後の光の中で静まり返っていた。街路樹の影が、舗道に落ちていた。
ヤンは、ふと息を吐いた。
熱狂の只中にいるよりも、この静けさの方が、彼には馴染みがあった。歴史の本を開き、紅茶を淹れ、誰にも急かされずに考える時間。彼が本来望んでいたのは、そういう時間だった。
車が、官舎の前で停まった。
「お疲れさまでした、提督」
運転の兵が言った。
「ありがとう。助かったよ」
ヤンは、車を降りた。
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百四十六
宇宙暦七九六年七月十三日 ハイネセン・ヤンの官舎
玄関の扉を開けると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
「ヤン提督」
ユリアンだった。
彼は小走りに近づいてきて、ヤンの前で立ち止まった。十四歳の少年の表情には、はっきりとした安堵があった。
「ただいま」
ヤンは言った。
ユリアンは、ヤンの軍服を見た。それから、顔を見た。彼が確かめていたのは、階級章ではなかった。ヤンが無事に帰ってきたかどうかだった。
「お帰りなさい」
ユリアンは言った。
ヤンは軍帽を脱ぎ、上着のボタンを外した。長い任務だった。準備、出撃、撤退、報告、辞令。その間、彼はずっと艦隊司令官であり、同盟軍の将官であり、いつの間にか街の中では「魔術師ヤン」だった。
だが、この玄関で、彼はただ帰ってきた人だった。
廊下の奥から、鍋の匂いが、かすかに漂ってきた。ヤンの留守の間、ユリアンが官舎の家事を引き受けていたのだろう。
「夕食は」
ヤンが聞いた。
「もうすぐできます。今日は、煮込みです」
ユリアンは、台所の方を指して言った。
ヤンは、上着を玄関脇の椅子の背にかけた。
「街は、すごい騒ぎだったよ」
靴を脱ぎながら、彼はぽつりと言った。
「ニュースで見ました」
ユリアンは答えた。
「『魔術師ヤン』って、みんな言っていました。要塞の主砲を沈黙させた、すごい提督だって」
ヤンは、靴を脱ぐ手を一瞬だけ止めた。
ユリアンの声には、誇らしさがあった。自分が暮らしている家の人が、街中で讃えられている。十四歳の少年にとって、それは素直に嬉しいことなのだろう。
ヤンは顔を上げて、ユリアンを見た。
この少年に、何を言えばいいだろう。トゥールハンマー無力化の裏に、誰にも知られない一人の死があったこと。歓声が次の作戦を呼ぶかもしれないこと。その作戦で、今度はもっと多くの人間が死ぬかもしれないこと。
それらのことを、ヤンは言わなかった。
「すごい、かどうかはね」
ヤンは、少し笑って言った。
「たくさんの人が、それぞれの仕事をきちんとやってくれた。僕は、その人たちの上に座っていただけだよ」
ユリアンは、その答えに少し不満そうな顔をした。
「でも、提督が指揮したから、勝てたんでしょう」
「指揮官は、勝った時は讃えられて、負けた時は責められる。それだけのことさ。今回は、たまたま讃えられる側だった」
ヤンは居間に入り、ソファに腰を下ろした。ユリアンが後をついてきた。
居間の窓からは、官舎街の静かな通りが見えた。大通りの歓声は、ここまでは届かない。
長く張り詰めていたものが、その瞬間、少しだけ緩んだ。
「提督」
ユリアンの声がした。
「紅茶を淹れますか。夕食の前に」
ヤンは、しばらく答えなかった。それから、静かに言った。
「ああ。頼むよ」
ユリアンが台所へ向かった。
ヤンは、ソファに座ったまま、窓の外の静けさを見ていた。やがて、湯を沸かす音が聞こえてきた。その、ありふれた生活の音を、ヤンは聞いていた。
街では、人々が「魔術師ヤン」を讃えている。だが、今この瞬間、彼はその偶像から最も遠い場所にいた。十四歳の少年が淹れる紅茶を待つ、一人の帰宅した人間だった。
ユリアンが戻ってきた。手には、湯気の立つカップがあった。
「どうぞ」
ヤンは、そのカップを受け取った。
「ありがとう」
紅茶は、温かかった。
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百四十七
宇宙暦七九六年七月十四日 ハイネセン・捕虜収容施設
ゼーフェルトは、収容棟の個室の窓辺に立っていた。
窓の外には、ハイネセンの街の一角が見えた。捕虜収容施設は首都の中心から離れていたが、それでも街のざわめきの端は、ここまで届いていた。
帝国軍首都哨戒部隊指揮官、ハンス・ディートリヒ・フォン・ゼーフェルト大佐。五十代半ばの叩き上げの軍人は、オーディン近傍で哨戒任務に就いていたあの日、突然出現した暗黒の構造体に呑まれ、気がつけばハイネセン近傍にいた。同盟首都防衛艦隊に包囲され、彼は降伏した。
それから、四か月近くになる。
窓の外の街は、数日前から様子が違っていた。
遠くの建物の壁面に、大型のスクリーンが見えた。そこに、繰り返し同じ映像が流れている。要塞らしき球体の遠景。艦隊。そして、祝賀の言葉。音声はここまで届かないが、街を行く人々の足取りや、広場に集まる人だかりから、何かの戦勝に沸いていることは分かった。
ゼーフェルトは、その光景を黙って見ていた。
昼の食事を運んできた看守の一人が、簡単な帝国語で教えてくれた。同盟軍が、帝国の要塞の主砲を、味方を一人も死なせずに沈黙させた。指揮したのは、「魔術師ヤン」と呼ばれる提督だ、と。
ゼーフェルトは、何も答えなかった。
以前の彼であれば、街の様子について問い返していたかもしれない。だが、今の彼は問わなかった。
四か月前、捕虜になった最初の夜、彼は看守に向かって一言だけ漏らしたことがあった。「戦争はやりにくくなるかもしれんな」——それだけの、独り言のようなものだった。
だが、その一言は、看守の口から施設の外へ流れ、同盟の報道に変形して、彼のもとへ戻ってきた。「帝国軍の高級将校が、ワームホールによって戦争が困難になったと認めた」。彼が言ったのは、そんなことではなかった。
弾丸は、発射されれば戻ってこない。言葉も、同じだった。
あの一件以来、ゼーフェルトは、言葉を発することに慎重になっていた。問えば、その問いさえ、いつか何かに変形して独り歩きするかもしれない。だから彼は、問わなかった。看守が告げたことを、黙って受け止めるだけだった。
彼は、窓辺に立ったまま、街の熱狂を見ていた。
帝国の要塞の主砲が、一年、沈黙する。それが何を意味するか、軍人である彼にはすぐに分かった。イゼルローン回廊の帝国側の防衛が、一段、薄くなる。同盟にとっては、戦勝と呼ぶに値する成果だった。
だが、ゼーフェルトの心を占めたのは、戦況の分析ではなかった。
窓の外で熱狂する人々。彼らは、敵だった。帝国にとっては討つべき叛徒だった。少なくとも、彼が帝国で受けてきた教育では、そうだった。
だが、この四か月、彼が収容施設の窓から見てきたのは、叛徒の群れではなかった。朝、仕事に向かう人々。夕方、家族のもとへ帰る人々。子供を連れた親。オーディンの街と何も変わらない、人々の生活だった。
その人々が今、戦勝に沸いている。彼らにとって、トゥールハンマー無力化は、長い戦争の中の明るい報せだった。彼らはその報せを、家族と、隣人と、喜び合っている。
オーディンの街も、アスターテの勝報のときは、こうして沸いていた。
勝った側の街は沸く。負けた側の街には、別の報せが届く。そして、その勝ち負けは入れ替わる。今日、ハイネセンが沸いているように、いつかオーディンが沸く日も来る。あるいは、その逆も。
それを帝国に戻って、同僚に説明できるだろうか、とゼーフェルトは思った。
できないだろう。
「敵の街の人々も、我々と同じだった」。そんな言葉は、祖国の同僚には伝わらない。伝えようとすれば、軟弱な、あるいは敵に毒された言葉として受け取られるだけだ。
それに、伝わらないだけではない。語れば、その言葉もまた、独り歩きを始める。あの独り言が同盟の報道に変形して流れたように、彼の言葉は、彼の意図を離れて、誰かに都合よく読み替えられる。
だから、語るまい、とゼーフェルトは思った。
彼が見たもの——敵の街の、ありふれた生活——は、彼の中にだけ留める。言葉にすれば歪む。ならば、沈黙の中に置いておくしかない。
ゼーフェルトは、窓辺から離れた。
簡素な寝台に腰を下ろすと、窓の外の熱狂は壁に遮られて、もう見えなかった。だが、街のかすかなざわめきは、まだ、どこかから聞こえてくるようだった。
彼は、その音を聞きながら目を閉じた。
戦争は続く。今日の勝報も、いつか別の勝報に上書きされる。その繰り返しの中で、自分が見たものは、誰にも語られないまま、彼一人の沈黙の中に留まり続けるのだろう。
ゼーフェルトは、長い間、そのまま動かなかった。
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百四十八
宇宙暦七九六年七月十四日 ハイネセン・ヤンの官舎
午後、官舎の呼び鈴が鳴った。
ユリアンが応対に出て、すぐに戻ってきた。
「提督。グリーンヒル中尉が、いらしています」
ヤンは、居間のソファから腰を上げた。玄関に出ると、グリーンヒル中尉が、書類の入った封筒を手に立っていた。
「失礼します、提督。昇進に伴う事務手続きの書類を、お届けに上がりました。お休みのところ、申し訳ありません」
「いや、助かるよ。わざわざ持ってきてくれたのか」
「近くまで来る用事がありましたので」
ヤンは封筒を受け取った。中身は、署名が必要な書類が数枚だった。官舎の区分変更、職務上の権限更新、事務局への返信。どれも、紙の上では重要なものだった。
「上がっていくかい。ちょうど、ユリアンが紅茶を淹れてくれるところだ」
グリーンヒル中尉は、一瞬だけ迷う様子を見せた。
「では、少しだけ」
彼女は居間に通された。ヤンは書類に目を通し、必要な箇所に署名をしていった。グリーンヒル中尉は、その間、居間の本棚に並んだ歴史書の背表紙を眺めていた。
「提督は、本当に、歴史がお好きなんですね」
「ああ。本当は、軍人より、歴史家になりたかったんだ」
ヤンは、署名しながら少し笑った。
「年金生活で、好きなだけ歴史の本を読んで暮らす。それが僕の夢だったんだけどね。どういうわけか、こうなってしまった」
「お似合いだと思います。歴史家も」
グリーンヒル中尉が言った。
ヤンは署名の手を止め、彼女を見た。それから、また笑った。
「君にそう言われると、本当にそうかもしれない、という気がしてくるよ」
ユリアンが、紅茶を運んできた。三人分のカップが、テーブルに並べられた。ユリアンも、少し離れた椅子に腰を下ろした。
しばらく、三人は紅茶を飲みながら、とりとめのない話をした。
ユリアンが最近読んでいる本のこと。官舎の近くにできた店のこと。グリーンヒル中尉が、士官学校時代に苦労した科目のこと。ヤンが、講義を受けるより図書館に逃げていた学生時代の話。
戦いの話も、作戦の話も、出なかった。
窓の外には、官舎街の午後の光があった。街路樹の葉が、風に揺れていた。
艦橋でも、執務室でも、議会でもない。ここは官舎の居間だった。副官が書類を届けに来て、ユリアンが紅茶を淹れ、とりとめのない話をする。それだけの午後だった。
グリーンヒル中尉が、カップを置いた。
「そろそろ、失礼します。長居してしまいました」
「いや。来てくれて、よかったよ。書類も助かった」
ヤンは、署名を終えた書類を封筒に戻し、彼女に渡した。
グリーンヒル中尉はそれを受け取り、姿勢を正した。
「では、提督。また、明後日に」
「ああ。気をつけて」
彼女は玄関へ向かった。ユリアンが見送りに立った。
扉が閉まる音がして、官舎はまた静かになった。
ヤンは、ソファに座ったまま、まだ温かい紅茶のカップを両手で包んでいた。
グリーンヒル中尉が「また、明後日に」と言った。明後日には、また軍務が始まる。だが、今日の午後は、その外にあった。書類を届けに来た副官と、紅茶を飲みながら、歴史の話をした。ただ、それだけの午後だった。
ヤンは、その何でもない時間を、悪くないものだと思った。
ユリアンが、空いたカップを片付けに来た。
「グリーンヒル中尉、お忙しそうでしたね」
「そうだね」
ヤンは、残りの紅茶を飲み干した。
窓の外では、午後の光が、少しずつ傾き始めていた。
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百四十九
宇宙暦七九六年七月十五日 ハイネセン・ヤンの官舎
翌朝、ヤンは居間の窓辺に立っていた。
手には、冷めかけた紅茶のカップがあった。窓の外には、官舎街の朝の光があった。通りは、まだ静かだった。
ユリアンは台所で、朝食の支度をしていた。包丁の音が、規則正しく聞こえてくる。
ヤンは、その音を聞きながら、昨日の街の光景を思い出していた。「ヤン・ザ・マジシャン」と叫ぶ声。グラスを掲げる人々。肩車された子供の振る旗。あの熱狂は、今朝も、街のどこかで続いているのだろう。
そして、その熱狂の底で、次の戦いの歯車がすでに回り始めている。
市民の望みが、政治家の計算と結びつき、強硬派の声を後押しする。トゥールハンマーが沈黙しているうちに、駐留艦隊を叩く。その短い言葉が、いずれ紙になる。
ヤンは、紅茶を一口飲んだ。冷めていた。
彼は、自分が二つの場所の境界に立っていることを感じていた。一方には、官舎の静けさがある。ユリアンが朝食を作り、紅茶を淹れる、ありふれた生活。もう一方には、街の熱狂がある。「魔術師ヤン」を讃え、次の勝利を望む、市民の声。
その二つの場所の境界に、彼は立っていた。
そして、その境界は長くは保たれない。彼には、それが分かっていた。
彼は、その作戦を断れるだろうか。
中将に昇進し、「魔術師ヤン」と讃えられ、市民の期待を背負った自分が。
ヤンは、その問いの答えを、まだ持っていなかった。
「提督、朝食ができました」
台所から、ユリアンの声がした。
ヤンは、窓の外から目を離した。
「ああ。今、行くよ」
彼は、カップを窓辺に置いた。冷めた紅茶が、わずかに残っていた。
ヤンは台所へ向かった。
窓の外では、ハイネセンの朝が、静かに明けていた。街のどこかでは、人々がまだ「魔術師ヤン」を讃えているのだろう。だが、この官舎では、十四歳の少年が作った朝食が、テーブルの上で湯気を立てていた。
ヤンは、その朝食の席に着いた。
次の戦いが来るまでの、束の間の静けさの中で。