深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第二十九話「余熱」

百五十

 

宇宙暦七九六年八月三十日 ハイネセン・市街

 

 夕方の市場は混み合っていた。

 

 ユリアン・ミンツは買い物袋を提げて、肉屋の店先に並んでいた。今夜はシチューにするつもりだった。じゃがいもと玉ねぎは、もう袋の中にある。

 

 列の前方で、男たちが話していた。

 

 「主砲が黙っているうちに、今度はイゼルローンそのものを獲ればいいんだ」

 

 「獲れるさ。魔術師がいるんだから」

 

 「味方を一人も死なせずにな」

 

 男たちは笑った。悪意のない、屈託のない笑いだった。

 

 ユリアンは買い物袋の持ち手を握り直した。

 

 七月にヤンが帰還してから、ひと月半あまりが過ぎていた。大通りを埋めた歓声は、もう聞こえない。それでも、街から熱が消えたわけではなかった。

 

 祝賀は、期待に変わっていた。

 

 「次」という言葉を、この数週間で何度聞いただろう。学校で、市場で、地上車の中で。市民たちは次の勝利を、日程だけが未定の催し物のように語った。

 

 順番が来た。店主がユリアンの顔を見て、にやりとした。

 

 「ヤン提督のところの坊主だろう。いつもの切り落としかい」

 

 「はい。三百グラムください」

 

 店主は肉を量りながら、声を低めた。

 

 「提督に伝えてくれよ。次も頼む、ってな。うちの甥が第十一艦隊にいるんだ。ヤン提督の下なら、死なずに済む」

 

 ユリアンは返す言葉を見つけられず、頭を下げて包みを受け取った。

 

 帰り道、電器店の店頭スクリーンに、イゼルローン要塞の図解が映っていた。音声は聞こえなかったが、字幕は読めた。

 

 ――要塞主砲、復旧には長期間か。

 

 ――専門家「好機を逃すべきではない」。

 

 ユリアンは立ち止まらなかった。

 

 ヤンは、あの日、官舎の玄関で「ただいま」と言った。疲れて、どこか申し訳なさそうで、それでも帰ってきたことに安堵していた。

 

 街が讃える「魔術師」と、玄関に立っていたヤンの姿は、ユリアンの中で、まだ一つにならなかった。

 

---

 

百五十一

 

宇宙暦七九六年九月二日 フェザーン・自治領主府

 

 「例の集成が仕上がりました」

 

 ルパート・ケッセルリンクが、薄い端末を執務机に置いた。

 

 アドリアン・ルビンスキーは画面に目を走らせた。特殊規格部品の調達記録。工廠の工程表の断片。発射口集束装置の再製造に関わる技術者の異動。出どころの異なる十数の情報が、一つの見通しに束ねられていた。

 

 イゼルローン要塞主砲の完全復旧には、少なくとも一年規模を要する。

 

 帝国政府の公式見解ではない。だが、商品として売るには十分な精度があった。

 

 「いつもの経路で、同盟へ」

 

 ルビンスキーは言った。

 

 「価格は通常通り。特別料金は取らない」

 

 ケッセルリンクが、わずかに眉を動かした。

 

 「この品質を、通常価格で。一年という期限は、同盟を落ち着かせるでしょうか。それとも誘うでしょうか」

 

 「どちらにも使うだろう」

 

 ルビンスキーはグラスの赤い酒を一口含んだ。

 

 「だが、期限の分からない客は、店ごと買おうとする。期限を知った客は、まず一度の買い物で済ませようとするものだ」

 

 「なるほど。堅実な商売ですな」

 

 「そういうことにしておけ」

 

 ルビンスキーは、それ以上を語らなかった。

 

 ケッセルリンクが退室すると、壁面の星図に残された小さな光だけが、二つの首都を結ぶ門の位置を示していた。

 

---

 

百五十二

 

宇宙暦七九六年九月二十四日 ハイネセン・ヤンの執務室

 

 ヤン・ウェンリー中将の机に、一通の文書が置かれていた。

 

 「ワームホール不交戦合意・効力延長に関する確認文書」。グリーンヒル中尉が運んできたそれは、事務レベルの調整を終え、署名を待つだけになっていた。十月十一日に期限を迎える合意を、三ヶ月間、暫定的に延長する。本文は短かった。

 

 「帝国側の確認は」

 

 「先方署名者の署名が、直接通信回線で確認されています」

 

 ヤンは文面に目を通した。四月に原本へ署名したとき、向かいの欄にはジークフリート・キルヒアイスの名があった。今回の延長は、双方の事務方が整えた、儀礼に近い手続きだった。

 

 戦争のさなかに、敵と交わす儀礼。

 

 ヤンは署名した。

 

 ヤン・ウェンリー。

 

 五ヶ月あまり、門の側では一発の砲火も交わされていない。合意は守られていた。

 

 守られているのは、双方に、今は破る理由がないからだ。理由が生まれれば、三十日前の通告一つで、この文書は効力を失う。

 

 「これで、門の方は年明けまで静かですね」

 

 グリーンヒル中尉が文書を受け取りながら言った。

 

 「静かであってくれると、助かるんだけどね」

 

 ヤンはベレー帽の上から頭をかいた。

 

 グリーンヒル中尉が退室すると、執務室は静かになった。窓の外では、統合作戦本部の中庭に初秋の光が落ちていた。

 

 机の端には、二日後の戦略検討会議の招集通知が置かれていた。

 

 門の側の静けさに署名した同じ週に、イゼルローンの側では、次の作戦が言葉になろうとしていた。

 

---

 

百五十三

 

宇宙暦七九六年九月二十六日 ハイネセン・統合作戦本部

 

 「結論から申し上げます。好機は今、であります」

 

 アンドリュー・フォーク准将の声は、会議室の隅までよく通った。

 

 長テーブルには、統合作戦本部の幕僚たちが並んでいた。上座にシトレ元帥。ヤンは末席に近い席で、配布された綴りを開いた。

 

 表紙には「対イゼルローン第二段作戦(案)」とあり、立案者の欄にフォークの名があった。

 

 いずれ紙になる――七月の自分は、そう思った。

 

 紙は、二ヶ月で届いた。

 

 「第一に、トゥールハンマーの沈黙であります。わが軍の作戦見積もりに加え、フェザーン経由の複数の情報が、完全復旧には少なくとも一年を要することを裏付けております」

 

 フォークは、立体図のイゼルローン要塞を指示棒で示した。

 

 「第二に、ワームホール不交戦合意の三ヶ月延長が成立した。門方面は当面安定しております。第三に、主砲なき要塞の前に残る最大の障害は、駐留艦隊約一万五千隻です。これを今のうちに殲滅すれば、主砲復旧後も、帝国軍の回廊支配力は大きく削がれる」

 

 指示棒が、要塞の周囲を円くなぞった。

 

 「第一段作戦が開いた窓を、第二段作戦で戦果に変える。これが本案の骨子であります」

 

 フォークは一拍置いた。

 

 「直近の複数の世論調査では、七割前後の市民が早期の追撃作戦を支持しております。政治の追い風も、今このときにある。軍が応えずして、誰が応えるのでありますか」

 

 幕僚たちの間に、低いざわめきが流れた。

 

 ヤンは手を挙げた。

 

 「三点、意見があります」

 

 シトレが頷いた。ヤンは座ったまま話した。

 

 「第一に、合意の延長は、帝国軍の能力を縛るものではありません。双方の判断を、一定期間、同じ方向へ向けるだけです。相手が門内部の長距離把握手段を先に得た可能性は、今も否定できない。門方面の警戒を緩める根拠にはなりません」

 

 フォークの眉が、わずかに動いた。

 

 「第二に、一年という数字は、複数の断片から組み上げた推定です。帝国の公式文書ではない。半年かもしれないし、二年かもしれない。使うべき情報ではありますが、保証として扱うべきではありません」

 

 「では、ヤン提督ご自身の作戦見積もりも疑わしい、と?」

 

 フォークが慇懃な笑みを浮かべた。

 

 ヤンはその問いには答えなかった。

 

 「第三に、駐留艦隊の殲滅という目標です。相手には、こちらの望む艦隊決戦に応じる義務がありません。不利になれば、要塞の防御圏へ退くでしょう。トゥールハンマーが沈黙していても、要塞の装甲と通常防御は健在です。そこへ退かれれば、こちらは追えない。殲滅は、相手が退かないことを前提にした目標です」

 

 会議室が静まった。

 

 フォークが、ゆっくりと首を傾げた。

 

 「異なことを伺うものであります。その窓を開けたのは、ヤン提督、あなたご自身でありましょう。ご自身の戦果が生んだ好機を、ご自身で否定なさるのですか」

 

 幕僚の何人かが、小さく頷いた。

 

 窓を開けた者が、窓を使うことに反対している。論点ではなく、その構図が会議室を流れていくのを、ヤンは見ていた。

 

 「好機があることは、否定しません」

 

 ヤンは言った。

 

 「目標を、好機より大きくしないでほしいだけです」

 

 シトレがフォークへ顔を向けた。

 

 「フォーク准将。駐留艦隊が決戦に応じず、要塞防御圏へ退いた場合の腹案は」

 

 「その場合、回廊の制宙権は事実上、わが方へ移ります。それ自体が十分な戦果であります」

 

 「移らんよ」

 

 シトレの声は平静だった。

 

 「回廊に、わが軍の補給基地はない。駐留艦隊が要塞に籠れば、こちらは長くは留まれん。補給の尽きたわが艦隊が引き上げれば、その日のうちに制宙権は要塞へ戻る。君が言う制宙権は、わが艦隊が回廊に居座っている間だけの、借り物だ。戦果の欄には書けん」

 

 フォークが口を開きかけたが、シトレは続けた。

 

 「殲滅目標が達成できなかった場合、わが軍に残るのは、消耗と、撤退の途上の危険だけだ。代替成果ではない。規定を詰め直したまえ。撤退の条件と、その際の損害見積もりまで含めて、だ」

 

 「……承知しました」

 

 フォークの返答には、わずかに間があった。

 

 短い沈黙の後、シトレが言った。

 

 「本案を、統合作戦本部の正式検討事項とする。目標の規定、投入可能戦力、門方面の警戒維持を含め、詰めの作業に入る」

 

 会議は散会した。

 

 書記幕僚がフォークの綴りを回収し、表紙の右上に朱色の印を押した。

 

 ――正式検討。

 

 乾いた音が一つ、会議室に残った。

 

---

 

百五十四

 

同日夕刻 統合作戦本部・本部長執務室

 

 「座りたまえ」

 

 シトレは執務机ではなく、応接用の椅子を勧めた。給仕が紅茶を置いて下がった。

 

 「君の三点は、すべて正しい」

 

 シトレは前置きなく言った。

 

 「正しいが、作戦は動くだろう」

 

 「……止められませんか」

 

 「止められん」

 

 シトレは紅茶に手をつけなかった。

 

 「第一段作戦の成功で、私の発言力は増した。だが、その分だけ軍全体の声も大きくなった。私が慎重論を述べれば、彼らは言う。本部長の威光と魔術師の腕があれば、次も成功する、と」

 

 「政治の側は」

 

 「止める気がない。トリューニヒト国防委員長は、市民の期待に応えることが政府の義務だと、もう演説の文句を整えている」

 

 シトレは、そこで初めて紅茶を一口飲んだ。

 

 「私にできるのは、目標を現実的な線へ抑えることと、規模を制限することだ。門の警戒は緩められない。出せても、よくて一個艦隊だ」

 

 ヤンは小さく息を吐いた。

 

 門の警戒を緩めるなと言ったのは、自分だった。正しい言葉は、思いがけない場所で請求書になって戻ってくる。

 

 「指揮官の人選は」

 

 ヤンは訊いた。

 

 シトレは答えなかった。

 

 作戦が正式に決まれば、答えは一つしかなかった。

 

---

 

## 百五十五節(ハイネセン・国防委員会)

 

宇宙暦七九六年九月二十八日 ハイネセン・国防委員会

 

 ヨブ・トリューニヒトは、控室で声明原稿に目を通していた。

 

 冒頭には、こう記されている。

 

 ――政府は、軍の専門的判断を尊重し、市民の安全と恒久的な平和のため、必要な支援を惜しまない。

 

 トリューニヒトは、秘書官を呼び止めた。

 

 「この語順は、変えるな」

 

 「語順、でございますか」

 

 「『軍の専門的判断を尊重し』が先だ。その後に、『政府は支援する』と続ける。逆にすれば、台無しになる。分かるか」

 

 「は……申し訳ございません、私には、どちらでも」

 

 「軍が先に立ち、政府が支える。市民にはそう聞こえねばならん。順序が逆では、政府が軍を率いていることになる。うまくいけば誰の手柄か、しくじれば誰の責任か——順序が、それを決めるのだ」

 

 秘書官は慌てて原稿に小さな印を付けた。

 

 「承知いたしました」

 

 トリューニヒトは、もう一度文章を読んだ。

 

 軍が判断し、政府が支援する。

 

 どちらの言葉も、市民には同じ方向を向いて聞こえるだろう。

 

 扉がノックされた。

 

 「お時間です」

 

 トリューニヒトは鏡の中の自分に、よくできた微笑を一つ作ってみせた。それから、原稿を秘書官へ返し、控室を出た。

 

---

 

百五十六

 

宇宙暦七九六年九月三十日 ハイネセン・ヤンの官舎

 

 夜、ヤンは居間のソファで紅茶のカップを手にしていた。

 

 ユリアンが洗い物を終えて、居間に入ってきた。少しためらってから、口を開く。

 

 「提督。市場で、みんなが言っています。次の作戦がある、って」

 

 ヤンはカップを置いた。この少年に、嘘をつく気にはなれなかった。

 

 「たぶん、ね」

 

 「提督が行くんですか」

 

 「まだ、決まってないよ」

 

 正式には、その通りだった。

 

 けれども、ユリアンの目を見ていると、その答えが事実の全部ではないことまで伝わってしまった気がした。

 

 ユリアンはそれ以上問わなかった。

 

 「お茶のお代わり、淹れます」

 

 そう言って、台所へ立った。

 

 ヤンは窓の外を見た。

 

 市街の期待は、フェザーンから届いた数字と結びつき、会議室で綴りになった。綴りの表紙には、もう朱色の印が押されている。

 

 門の側では、三ヶ月の静けさに署名した。イゼルローンの側では、次の戦いが正式な検討に入った。

 

 味方を一人も死なせずに勝った。あの戦果が、街に一つの錯覚を教えた——戦争は、安く済む、と。その錯覚が今、もっと高くつく戦争を注文しようとしている。安い勝利の評判が、高い勝利への期待を呼ぶ。彼が勝てば勝つほど、次の戦いは大きくなる。

 

 あの作戦を、断れるだろうか。

 

 中将に昇進し、「魔術師ヤン」と讃えられ、市民の期待を背負った自分が。七月の朝、窓辺で自分に向けたその問いは、まだ答えのないまま、そこにあった。ただ、問いまでの距離だけが、二ヶ月分、縮まっていた。命令書が届く前から、そのための場所が、机の上に空けられつつある。

 

 台所から湯の沸く音がした。

 

 やがてユリアンが、新しい紅茶を運んできた。細い湯気が、カップの上に立っていた。

 

 ヤンは礼を言い、湯気が消える前に一口飲んだ。

 

 七月のあの朝、窓辺で口にした紅茶は、冷めていた。今、手の中のそれは、まだ温かかった。

 

 窓の外では、街の灯が、まだ眠る気配を見せていなかった。

 

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