九
帝国暦四八七年三月一六日、標準時一四時三〇分。
旗艦《ブリュンヒルト》がオーディンの軌道に入ったとき、ラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将が最初に目にしたのは、帝都の混乱だった。
混乱、というのは比喩ではない。オーディン近傍宙域には、帝都防衛部隊の艦艇が秩序を欠いた配置で展開しており、統一された指揮の下にないことが一目で分かった。哨戒線は穴だらけで、通信は錯綜し、どの艦がどの指揮官の下にあるのかすら判然としない。ワームホール——ラインハルトはこの現象をそう呼ぶことに決めていた——の周囲には艦艇が密集しているが、陣形と呼べるものは存在しなかった。
「統一指揮がなされていない」
ラインハルトは一言でそう断じた。
「帝都防衛部隊は宮廷の直属です。指揮官は——」
キルヒアイスが確認しようとしたが、ラインハルトは既に通信士に命じていた。
「帝都防衛部隊の全指揮官に通達。ラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将が、ワームホール周辺宙域の統一指揮を執る。直ちに現在の配置と戦力を報告せよ」
これは、厳密に言えば権限の逸脱だった。帝都防衛部隊は宮廷直属であり、一上級大将の指揮系統には属さない。平時であれば、この命令は即座に宮廷から抗議を受けるだろう。しかし今は平時ではなかった。首都近傍に未知の空間異常が出現し、敵国の軍艦が首都の目前に現れた。防衛部隊は混乱し、統一指揮を執る者がいない。
この状況で、アスターテの勝者が権限を主張した。帝都防衛部隊の現場指揮官たちは——少なくとも、その大多数は——抵抗しなかった。ただし門閥貴族の子弟が指揮する部隊の一部は、宮廷の命令なしに上級大将の指揮下に入ることを渋った。ラインハルトはこの抵抗を無視した。無視できるだけの実力が、彼にはあった。
この摩擦は、後に大きな火種となる。この日の時点では、まだ誰もそれに気づいていなかった。
帰還後の最初の数時間で、ラインハルトは三つの行動を起こした。
第一に、ワームホール周辺宙域の再編成。同心円状の三重の防衛線を構築した。
第二に、拿捕された同盟軍捕虜の尋問記録を取り寄せた。グリシャム中佐をはじめとする同盟軍将兵は、一様に「ハイネセン近傍で暗黒の構造体に呑み込まれ、気づいたらオーディン近傍にいた」と証言していた。構造体の形状については、ある者は「球体のように見えた」と言い、ある者は「形は判然としなかった」と答えた。観察者の主観によって記述が揺れていた。通過中の内部の様子については、いずれも「暗闇だった」「何も分からなかった」と述べるのみで、具体的な情報は得られていなかった。
ラインハルトは証言を読み終え、キルヒアイスに言った。
「この証言では何も分からない。彼らが内部で何を見たのか、あるいは本当に何も見なかったのかすら判別できない。形状ですら確定していない。確かなのは、同盟側から帝国側へ通過できたという事実だけだ。逆方向——帝国側から同盟側へ——も通れるのかどうかは、自分で確かめるしかない」
第三に、キルヒアイスに偵察を命じた。
「あの構造体の内部を調べてほしい。中に入って、可能であれば向こう側まで通過しろ。通過時間を計測し、内部で何が起きるかを記録してこい。それと——外側から見た形状も、もう一度確認してくれ。出現直後の混乱した観測では球体のように見えたという報告が多いが、本当に球体なのかどうか、私はまだ確信が持てない」
「通過する、ということは——向こう側に出るということですか」
「出たら即座に戻れ。ハイネセンの防衛艦隊に捕まる前に。偵察の目的は情報収集であって、交戦ではない」
キルヒアイスは頷いた。
最後に、ラインハルトはもう一つの用件を片づけた。後宮に住むアンネローゼのもとを、短く訪れたのである。
姉は窓辺に座って、庭園の花を眺めていた。弟が入室したとき、彼女は振り向いて微笑んだ。
「何か大変なことがあったのですね」
「……ワームホールが出現しました。帝国の首都と同盟の首都を直接繋ぐ、空間の穴です」
アンネローゼは静かに聞き終え、こう言った。
「戦争が終わるのなら、それは良いことです」
ラインハルトは答えなかった。姉の言葉は正しい——正しいが、彼の目標は戦争の終結ではなかった。戦争が終わるのは良いことだ。だが、どのように終わるかが問題なのだ——そう思ったが、それを姉に言うことはできなかった。
元帥昇進は宙に浮いたままだった。上級大将のまま帝都防衛を仕切ることの限界を、ラインハルトは初日から痛感していた。
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十
宇宙暦七九六年三月一六日、標準時一六時〇〇分。
ハイネセン、自由惑星同盟軍統合作戦本部。
ヤン・ウェンリー少将は、二日連続の緊急会議に出席していた。紅茶は三杯目だったが、冷めかけていた。
議題は明確だった。ワームホールに対して、同盟軍はどのような方針をとるべきか。
三つの立場が対立した。封鎖・防衛派。攻勢利用派。破壊・閉鎖派。
フォーク准将が、この日もまた雄弁に持論を展開した。
「閣下方、この空間異常は、専制政治を打破せよという歴史の摂理が我々に与えた啓示であります!」
ヤンは内心でため息をついた。
しかしフォークは、前回の演説から一歩進んでいた。
「全軍を挙げての侵攻を主張しているのではありません。限定的な打撃部隊をワームホールに送り込み、帝国首都の至近距離に同盟の存在を示すだけでよいのです。軍事的占領は不要です。政治的主導権を先に握ることが目的です。帝国側が混乱しているこの瞬間に、我々が先手を取れば——講和交渉においても、格段に有利な立場を確保できます」
ヤンのため息は、内心ではなく外に漏れそうになった。前回よりたちが悪い。「歴史の摂理」を叫んでいた時は誰もが荒唐無稽と分かった。しかし今日の提言には、一見した合理性がある。限定的。政治的主導権。講和交渉における有利——どれも、もっともらしく聞こえる言葉だった。
ヤンは紅茶のカップを置き、発言を求めた。
「フォーク准将の計画には、限定的であれ、根本的な前提の問題があります。第一に、ワームホールがこちらから帝国側へ通過できるかどうか、現時点では確認されていません。片道通行かもしれない。第二に、仮に通過できるとして、内部がどのような環境なのか全く分かっていない。限定的な部隊であっても安全に通過できる保証がない。そして第三に——これが最も切実ですが——防衛です。仮にワームホール経由の打撃がうまくいったとしましょう。打撃部隊はオーディンに到達し、政治的主導権を握れるかもしれない。しかし同じ頃、我々がワームホールに戦力を割いている隙を突いて、帝国軍がイゼルローン回廊経由で従来の戦線から攻勢をかけてきたらどうなりますか。薄くなった首都防衛では持ちこたえられない可能性があります。結果として、我々は帝国首都の至近距離に打撃部隊を送り届けることに成功し、帝国は我々の首都を攻略することに成功する。相打ちです。しかもこの相打ちは、我々が先に動かなければ起きなかったものです。ワームホールという新しい変数に気を取られて、一五〇年続いてきた従来の戦線を見落とす——これは最も避けなければならない失敗です」
ビュコック中将が低い声で口を開いた。
「ヤン少将の言う通りだろう。穴を通れるかどうかも分からんのに、通れることを前提にした攻撃計画を立てるのは本末転倒だ。まずは調べることが先だ」
フォークが顔を紅潮させ、何かを言い返そうと唇を震わせたが、シトレ元帥が冷徹に裁定を下した。
「当面の方針は防衛封鎖とする。同時に、ワームホール内部の性質調査を最優先で実施する。偵察隊を編成し、明後日——三月一八日——に進入を試みよ。ヤン少将が偵察計画を策定せよ」
フォークは蒼白な顔でヤンを見た。自らの壮大な歴史的構想が、一介の少将の現実論によって退けられたという屈辱が、彼の自尊心に暗い火を灯していた。しかしフォークという人物の本質的な危険は、この種の屈辱を忘れるのではなく、別の形で回収しようとするところにあった。
ヤンは敬礼した。偵察計画。つまり自分が命令を出し、誰かが暗闇の中に飛び込む。その「誰か」が帰ってこない可能性を計算するのも、自分の仕事だった。フォークの視線を背中に感じていたかどうかは、定かではない。
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十一
帝国暦四八七年三月一八日。
帝国と同盟の偵察隊は、ほぼ同時にワームホールに進入した。これは偶然であった。しかし、ある意味では必然でもあった。双方とも二日間の準備期間を経て、可能な限り早い時期に偵察を実行する合理的な理由があった。相手より先に内部の性質を把握した方が、先に主導権を握る——その計算は、帝国と同盟で全く同じだった。同じ圧力の下にある者は、同じ結論に達する。
帝国側はキルヒアイスが直率する六隻。同盟側も同規模の偵察隊で、ヤンが策定した計画に基づいて運用された。
キルヒアイスが最初に経験したのは、「門の日」に吸い込まれた哨戒部隊の証言通りの暗黒だった。しかし今回は計画的な進入であり、全計器を記録状態にしていた。
内部に入った瞬間から、データが集まり始めた。
長距離センサーが沈黙した。帝都との長距離通信も途絶えた。恒星を捉えるあらゆる機器が、暗黒に呑まれたように反応を失った。
しかし、短距離センサーは生きていた。僚艦の位置は把握できる。近接通信も機能している。六隻の間で声を交わすことは可能だった。
「周囲に構造があります」
オペレーターが報告した。短距離センサーが壁のような境界面を検知していた。管状の空間。直進しかできない。
そして——物理士官の報告がもう一つ、不吉な情報を付け加えた。
「空間の計量テンソルが通常空間と著しく異なります。この環境下では、エネルギー兵器やミサイルの挙動を予測できません。通常火器が正常に機能しない可能性が極めて高い」
武器が使えない空間。キルヒアイスはその意味を即座に理解した。
偵察隊は前進を続けた。時計だけが信頼できる計器だった。進入の瞬間、周囲の光は一瞬で消えた。前も後ろも完全な暗黒になった。恒星の光も、オーディンから届いていた背後の光も、全てが一斉に失われた。艦外に存在するのは、艦自身の航行灯が照らす数十メートルの範囲と、その先の絶対的な闇だけだった。
同じ暗黒の中を、同盟の偵察隊も反対方向から進んでいた。彼らもまた、時計だけが信頼できる計器であることを発見し、管状空間の壁を短距離センサーで検知し、火器が使えないことに背筋を冷やしていた。同じ暗闇の中で、同じ恐怖と同じ発見を、鏡写しのように経験していた。しかし長距離センサーが機能しない以上、双方は互いの存在を感知できなかった。管状空間のどこかですれ違ったはずだが、短距離センサーの探知範囲に入らなければ、相手はいないのと同じだった。
帝国偵察隊の進入から約四〇分後——暗黒が、一瞬で消えた。
前触れはなかった。光が徐々に広がってくる、という種類の出方ではなかった。完全な闇の次の瞬間、艦橋のスクリーンには星々が映っていた。暗黒から通常空間への移行には、過渡的な段階がなかった。そこにあったのは、闇か、星か、そのどちらかだけだった。
キルヒアイスの心臓が跳ねた。出口だ。恒星の配置が前方スクリーンに展開していた。
バーラト星系。ハイネセン。
同盟の首都が、目の前にあった。通過時間、約四〇分。
キルヒアイスは計器の読みを全て記録させた後、即座に命じた。
「反転。全速で帰還する」
ハイネセンの防衛艦隊が反応する前に、六隻はワームホールに再び飛び込んだ。暗黒の管を逆方向に進み、約四〇分後にオーディン側に帰還した。
ほぼ同じ時刻、同盟の偵察隊もオーディン側に出現していた。帝国の防衛艦隊が殺到する前に、彼らもまた即座にワームホールに再突入し、ハイネセンに帰還した。
双方の防衛部隊は、ワームホールから出現して即座に消える敵の偵察隊を目撃した。拿捕はできなかったが、一つの事実は確認された。
ワームホールは双方向だった。
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十二
偵察隊が帰還し、報告が整理された。
オーディンでは、キルヒアイスが報告書をラインハルトの前に広げた。ハイネセンでは、偵察隊の指揮官がヤンの分析室に駆け込んだ。双方がほぼ同時に、ほぼ同じ内容の報告を受けた。
双方向に通行可能。内部は管状の暗黒空間。長距離センサーと長距離通信は機能しない——短距離のみ有効。通常火器は使用不能と推定。通過時間は約四〇分。
そして、もう一つの重大な発見があった。形状は球体ではなかった。
キルヒアイスは報告の中で、その点を特に強調した。
「ラインハルト様、外側からの観測で確認されました。当初は球体のように見えていましたが、これは出現直後の混乱した観測による誤認です。実際には、極めて薄い円盤状の構造体でした。直径は約一万二千キロメートル。厚みはほとんどありません——観測機材の精度では計測限界以下です。出現位置はオーディンから約八〇万キロメートル。首都圏外縁部の哨戒範囲内です」
「円盤、だと」
ラインハルトが眉を寄せた。
「はい。さらに重要なことに——円盤には表と裏があります。我々が偵察隊を進入させたのは円盤の表側でした。試みに円盤の裏側に回り込んでみましたが、裏側からは進入できませんでした。ただし——奇妙なことに——『進入できない』という現象は、我々が予想していたものとは違いました」
キルヒアイスは少し言葉を選んだ。
「物理的な障壁があるわけではないのです。偵察艇が裏側に近づいても、何かに阻まれる感覚はない。船体に何の力もかからない。円盤の裏面のすぐ近くまで——測定上の限界では数十メートル以内まで——接近できました。しかしそれだけです。表側で起きるような『内部へ吸い込まれる』現象が、裏側では一切起きない。何度試しても、ただ円盤の裏面の近くに留まるだけでした」
「触れることもできないのか」
「触れる、という表現が当てはまるかどうかも怪しいのです。円盤の表面そのもの——表側であれ裏側であれ——には、艦艇の船体は直接接触できません。極めて近づくことはできるのですが、最後の数メートルで何かが起きる。物理的に弾かれるのではなく、円盤の表面が艦艇と相互作用しないと言いますか——すり抜けるような、ずれているような感覚です。これは表側からの進入時にも同じで、艦艇は『円盤の表面に触れる』のではなく『円盤の表側のごく近傍で内部空間に転送される』と表現するのが最も近い」
ラインハルトは眉を寄せた。常識的な物理学の語彙では捉えきれない現象だった。
「つまり、円盤の裏側半球は、通常の宇宙空間として航行できる。しかしそこからワームホール内部に進入することはできない。円盤そのものに触れることもできない」
「その通りです。円盤の表側を相手首都方面に向けて固定されている、と表現するのが最も近い。そして、艦艇が内部に入れるのは表側からのみ」
ラインハルトは数秒、沈黙した。
「つまり、こちら側の円盤の表は、ハイネセン方面を向いている。同盟側の円盤の表は、オーディン方面を向いている。そういうことか」
「その通りです。円盤の向きは固定されており、変わりません。そして、艦艇が出入りできるのは表側だけです」
ハイネセンでも、ヤンは偵察隊指揮官から同じ報告を受けていた。
「球体ではなかった、ということだね」
「はい、閣下。直径約一万二千キロメートルの円盤状の構造体です。厚みはほとんどありません。最初の観測で球体に見えたのは、距離があったことと、出現直後の混乱で誰もが落ち着いて観測する余裕がなかったためでしょう。実際には、極めて薄い円盤です。出現位置はハイネセンから約八〇万キロメートル。首都圏外縁の哨戒範囲内です」
「裏側は」
「奇妙な状態でした、閣下。物理的な障壁はありません。偵察艇は裏側に自由に接近でき、円盤の裏面のごく近くまで——数十メートル以内まで——進めます。しかしそれだけです。表側のような『吸い込まれて内部に転送される』現象が、裏側では一切起きない。何度試しても、ただ円盤の裏面の近くに留まるだけでした。さらに——円盤の表面そのものには、艦艇の船体は直接接触できないのです。表側であれ裏側であれ、最後の数メートルで何かが起きる。物理的に弾かれるのではなく、円盤の表面が艦艇とすり抜けるような、ずれているような感覚です」
偵察隊指揮官は、自分でも信じきれない顔で続けた。
「結論として——円盤の裏側半球は、通常の宇宙空間として航行できます。艦艇は自由にそこを動けます。しかし、そこから内部に入ることはできない。円盤そのものに触れることもできない。表側の物理的特性と裏側の物理的特性は、根本的に違うものらしい」
ヤンは紅茶のカップを手の中で回した。冷めかけていた。
「『門』だね。穴ではなく、門だ。一方向にしか開かない門」
偵察隊指揮官は、ヤンの呟きの意味をすぐには理解しなかった。後になって、それが第四話の報告書の冒頭に使われる比喩になることを、彼は知ることになる。
そしてキルヒアイスは、最も重要な結論を付け加えた。
「大規模艦隊の通過は極めて危険です。物理的には、円盤の直径を考えれば数万隻が同時に通過することも可能です。しかし長距離通信が不能である以上、秩序ある通過は不可能です。数百隻規模で既に指揮系統は断絶し、衝突事故だけで壊滅します。現時点で安全に通過できるのは、せいぜい偵察程度の小規模部隊に限られます」
ヤンも、偵察隊指揮官から同じ結論を聞いていた。
「……つまり、あの門は通れるが、大軍では通れない。しかも中では撃てない」
偵察隊指揮官が頷いた。ヤンは紅茶を一口飲み、苦い顔をした。紅茶が苦かったのか、結論が苦かったのかは、本人にも判別がつかなかっただろう。
これらの事実は、各陣営が自軍の偵察で得たものであり、相手側には知られていなかった。相手が何を知ったかは分からない。形状についても、内部の制約についても、相手がどこまで把握しているかを確認する手段がない。この非対称性が、後のあらゆる計算の出発点になる。
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十三
偵察隊の帰還から数時間後——双方向性が確認された瞬間——帝国と同盟の情報部門は、同じことに気づいた。
「うちが拘束している捕虜は、あの中を逆方向から通ってきた人間だ」
センサーログは捕虜自身が消去している。偵察隊の記録は自軍側からの一方向のデータしかない。逆方向の体験について知る唯一の手がかりは、捕虜の証言だった。
ハイネセン——ゼーフェルトへの再尋問。
尋問官は前回と同じ女性の少佐だったが、質問の質は全く異なっていた。
「ゼーフェルト大佐。前回の尋問では、あなたは暗黒に呑み込まれ、次の瞬間ここにいた、と証言されました。今回はもう少し具体的にお聞きしたい。通過にどれくらいの時間がかかりましたか」
ゼーフェルトは数秒の沈黙の後に答えた。
「正確には計測していない。あの暗黒の中では時計以外に時間を測る手段がなく、しかも誰もが計器どころではなかった。主観的には……十分前後、という印象しか残っていない」
ゼーフェルトは慎重に言葉を選んでいた。実のところ、帰還後に部下の何人かが「四〇分前後」と見積もっていたことは、彼自身も把握していた。しかし、それを今この場で渡す理由はない。捕虜としての沈黙は、軍人としての義務だった。
ところが、尋問官の表情が動いた。
「ゼーフェルト大佐。我々は、自軍の偵察隊が通過に要した時間を既に把握しています。約四〇分です。あなたが『十分前後』と感じたのは、おそらく時間感覚の歪みでしょう。あの暗黒の中で時間が長く感じられるのか、短く感じられるのか——それは、人によって違うのかもしれません」
ゼーフェルトは表情を変えなかったが、内心で舌打ちした。「十分」と答えた時点で、尋問官に意図を見抜かれた。同盟が既に四〇分という客観データを持っているなら、ゼーフェルトの「十分」という答えは、過小申告か、あるいは時間感覚の歪みかのどちらかでしかない。尋問官はその両方の可能性を表向きは併記しつつ、本心では前者を疑っているはずだった。
しかし尋問官は、それ以上この点を追及しなかった。追及しないことが、かえって圧力になっていた。「あなたがこの種の小さな過小申告をする人物であることは、記録に残しておきます」——そう言われたのと同じだった。
ゼーフェルトは気を取り直して、次の質問に備えた。時間の問題は失敗だった。次は失敗できない。
「通過中、何が見えましたか。何が聞こえましたか」
ここだった。ゼーフェルトは一瞬だけ、あの暗闇の中でちらついた僚艦《ヴィスマール》の識別灯を思い出した。短距離の視認が可能だったこと。それは、内部の物理的性質に関わる情報だ。
「混乱していた。何も確認する余裕がなかった」
嘘ではなかった。余裕がなかったのは事実だ。しかし全てでもなかった。ゼーフェルトの沈黙は、同盟の分析に空白を残した。自軍の偵察で内部の物理的性質は把握済みのはずだが、帝国側も同じ結論に達しているかどうかは、この沈黙によって確認できないままになった。
オーディン——グリシャムへの再尋問。
帝国側の尋問官は前回より焦りが見えた。ワームホールの双方向性が確認され、事態の深刻さが増していた。質問の間隔が短くなり、目の奥に切迫があった。
「通過中、部隊の統制は維持できていたのか」
グリシャムは尋問官の目を見た。あの目は「できていなかった」という答えを期待している——同盟の部隊も通過中に混乱したはずだ、我々と同じように。そう確認して安心したいのだ。
通信パネルにかすかなノイズが走ったこと。完全な孤立ではなかった可能性。その記憶が一瞬だけ浮かんだ。
「はい。通過中も、我々の部隊は統制を維持できていました」
尋問官の目が変わった。焦りが、別の種類の緊張に置き換わるのが見えた。
事実だった。しかしこの一言が帝国側にどう読まれるか——「同盟軍は通過中も部隊行動が可能だった」、つまり同盟が通過技術において帝国より先行しているのではないか——グリシャムは、その波及効果を見越した上でこのカードを切った。自軍が弱く見られるより、未知の技術的優位を匂わせて強く見られる方が、捕虜としての交渉価値が高まる。冷徹な計算だった。
この一言が、後に帝国の軍事政策そのものを動かすほどの過剰な疑念の種になることを、グリシャム自身はこの時点ではまだ知らなかった。
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十四
偵察結果と捕虜の再尋問を受けて、ラインハルトとヤンは、それぞれの場所で結論に到達した。
オーディン、旗艦《ブリュンヒルト》。
キルヒアイスの報告を聞き終えたラインハルトは、腕を組んだ。
「防衛側が圧倒的に有利だ」
攻撃側は、武器が使えない暗闇の管を四〇分間かけて通過し、出口で防衛側の全火力を浴びる。しかも大規模艦隊の通過は指揮系統の断絶を招く。さらに——円盤の構造によって、敵が出現しうる方向は決まっている。円盤の表側に広がる円柱状の宙域だけを警戒すればよい。三六〇度全周を警戒する必要はない。これは防衛計画を立てる上で、極めて大きな利点だった。
「正面からの突破は自殺行為だ。少なくとも、現状の技術では」
そして、ラインハルトの思考はその先に跳んだ。
「現状の技術では——ということは、技術が進歩すれば話が変わる。同盟軍の捕虜は『通過中も部隊の統制を維持していた』と証言したそうだな。もし奴らが、我々よりも先にワームホール内の通信やセンサーを機能させる技術を手にしていたとしたら——」
キルヒアイスが答えた。「我々の偵察隊も、通過中に短距離通信で統制を維持しています。短距離が生きている以上、小規模部隊が統制を保つのは当然です。捕虜の証言は、我々と同じ経験をしたにすぎない可能性があります」
「それは分かっている。だが問題は、奴らが我々と同じ範囲の通信しか使えていなかったかどうかが、確認できないということだ。もし短距離を超える通信やセンサーを機能させる技術を、我々より先に手にしていたとしたら——」
ラインハルトは窓の外の星空を見た。
「ワームホール内で長距離センサーが使えるようになれば、大規模通過が可能になる。火器が使えるようになれば、内部を戦場にできる。そして——」
ラインハルトは言葉を切った。その先にある可能性——まだ形にならない、しかし直感が捉えている何か——を、彼は言語化しなかった。今はまだ早い。
キルヒアイスは静かに聞いていた。
「技術開発には、数十年、あるいは数世紀かかるかもしれません」
「かもしれない。だが始まりは常に今日だ」
ハイネセン、ヤン・ウェンリーの執務室。
ヤンは偵察隊の報告書を閉じ、椅子の背にもたれた。冷めた紅茶に手を伸ばしかけて、やめた。
防衛側の圧倒的優位。大規模通過の困難。内部での戦闘不能。ラインハルトが到達したのと同じ結論に、ヤンもまた到達していた。
しかしヤンの視線は、ラインハルトとは異なる方角を向いていた。
互いの首都を攻撃できる。しかし攻撃すれば自国首都も攻撃される。攻撃側は常に不利。だから双方とも攻撃できない——。
均衡だ。
地理的な条件が生み出す、自動的な均衡。ヤンはその構造に、歴史のどこかで見た形を感じていた。まだ言葉にはならなかった。輪郭だけが見えている。
しかし——この均衡は、本当に安定なのか。何かが引っかかっていた。均衡に見えるものの裏に、まだ見えていない不安定さがある。それが何なのかを、ヤンはこの夜、言葉にすることができなかった。
報告書を書かなければならない。まずは事実を整理することだ。その先に何が見えてくるかは——まだ分からない。